「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
ー俵万智『サラダ記念日』
◯
アスカは頬が火照っていることに気づいて、慌てて本から顔を上げた。
シンジのアパートの本棚。シンジの用意ができるまでの間の暇つぶしに、何気なく抜いて読んだ本だった。
随分昔に流行った本だったと思う。アスカの顔が赤いのは、その短歌の横に付箋が貼られていたからだ。
「ごめん、アスカ。準備できたから、買い物行こう」
シンジが洗面所から出てきた時、アスカはもう本を棚に戻した後だった。
「なんか、どれがおいしいのか全然わかんないわね」
リキュールがずらりと並ぶ棚を品定めしながら、アスカはうーんと小さく唸った。
「とりあえず、アルコール度数が高そうなやつは避けて、パッケージと味で選ばない?」
師走のスーパーは混み合っていた。週末の夕方ということもあるだろうが、クリスマスから年末年始を見越して、普段は見かけない高価な食材が通路沿いに並び、そこに物見遊山な人が群がっている。
アスカの二十歳の誕生日にお酒は飲まなかった。代わりにデートをして、予約しておいた少し高価で、でも洒落たレストランで美味しいものをたくさん食べた。
誕生日はシンジの方が半年ほど早いが、二十歳になったからといってお酒を口にすることはなかった。だから今夜が、二人が人生で初めて大人の飲み物を口にする日だった。
「うわ、キンキン」
お風呂を先に済ませて、狭い室内にひとつしかないローテーブルには缶ビールに缶チューハイ、シンジが初めて挑戦した揚げ出し豆腐やお刺身の盛り合わせなどの居酒屋料理が高密度に並べられていた。
アスカが上機嫌な悲鳴を上げたのは、シンジが冷凍庫から出したグラスがいい塩梅で冷えていたからである。
「グラス使うの、ビールでいい?」
「うん」
「チューハイは……まぁ、二人でこのまま一緒に飲もう」
「うんうん」
ネットで調べたやり方を真似て、斜めにしたグラスへゆっくりビールを注ぐ。泡がきめ細かくなるそうだが、このやり方であっているのかどうかがまったくわからない。
「じゃあ、まぁ……」
「かんぱーい」
軽くグラスを合わせてから、三分の一くらいの量を一気に飲んだ。
感じたことのない刺激が喉を通り過ぎていく。ほどよい苦味が独特ではあるけれど、言われてみればおいしいのかもしれない。
「ぷはぁー」
アスカはグラスをテーブルに戻しながら心地良さそうに息を吐き出した。
「私、けっこう好きかも」
「アスカ、なんかミサトさんみたい」
「シンジ、泡がひげになってる」
「え? うそ」
シンジが手の甲で拭うよりも先に、横から身を乗り出したアスカが唇の上の泡を舐めとるように吸いとった。
不意打ちのキスと、接近したアスカの胸元に目がいって、シンジは思わず視線を泳がせた。
ルームウェアの隙間から、胸の谷間が揺れている。
「まだまだガキねぇ」
「いいだろ、別に。お酒の飲み方なんて知らないだもん」
「食べよ、シンジ」
そのままシンジの膝の上に移動し、レンタルしておいた映画をつけて、アスカはシンジの手料理をあれこれと楽しみ始めた。
怖いくらいにアスカの機嫌が良い。
それはとてもうれしいことなのだが、シンジは眉根を寄せて複雑な表情を見せた。
笑い上戸か、あるいは絡み上戸か?
年明けのゼミの新年会に、アスカが呼ばれていることをシンジは知っている。新年会といえば聞こえはいいが、ゼミ生以外も参加するとかしないとか、実際には教授を抜きにした単なるコンパだということも。
アスカはその類の飲み会に参加することが今までなかった。ただ、今回はお世話になっている三回生に頼み込まれて断れなかったらしい。彼氏持ちの美人は男性陣からのウケが良く、女性側からしても人数合わせにちょうどいいかららしいのだが、なにしろ大学生だ、学部には女癖の悪い上級生が多いことも、シンジは理解していた。
お酒が回って気をよくしたアスカと自分の知らない男性が夜の街へ消えていく様子が頭をよぎって、シンジは大きくかぶりを振った。
最低だ。せっかく久しぶりにアスカが泊まりに来てくれたのに、こんなことを考えるなんて。
「ん……シンジ……」
食事を終え、ほろ酔い気分のアスカが甘えたように背中を預けてきて、シンジは彼女を幾分強く抱きすくめた。
柔らかい。
お風呂上がりの、いい匂いがする。
「くすぐったい、シンジ」
「だいぶ、酔ってる、アスカ?」
それとも、まさか。
シンジはベッド脇の本棚を見やった。
最近、詩集や現代短歌を読むのに凝っていて、古本屋で買い漁っていたのだが、もしかしてそれをアスカに見られー。
「んん……!?」
突然振り返ったアスカに深く舌を差し込まれ、リクライニングチェアーを真後ろに倒されて、シンジは背中から倒れ込んだ。
「アスカ……!?」
「映画……終わったわよ、シンジ」
シンジの下腹部に跨ったまま、アスカはシンジとお揃いのパーカーとルームウェアを脱ぎ捨てた。
アスカの肢体がふるんと揺れて、いつものようにシンジの視線がアスカの胸元のふたつの頂点へ釘付けになる。
「アスカ、やっぱり、酔って……あ!」
スウェットパンツを真下に脱がされて、シンジはアスカを止めることを諦めた。
流されてしまうのは、自分も酔いが回っているからかもしれない。
「シンジだけ着てるなんて不公平」
「ま、待って、アスカ。電気、消さなきゃ」
「だーめ」
ーやっぱり、し、しんぱ、い、だ……。
下腹部でうれしそうに上下するアスカの表情を見つめながら、シンジは複雑な吐息を吐き出した。
「あー……頭ガンガンする……」
夕方、講義が終わって学内のカフェテラスで待ち合わせたアスカの第一声がそれだった。
「大丈夫? 飲みすぎ?」
言いながら、シンジは息苦しさを覚えていた。
昨夜の飲み会は大丈夫だったのだろうか?
「けっこう飲まされたみたいで、あんまり記憶ない……」
シンジの心臓が早鐘を打ち始める。
「こんにちは、シンジ君」
大学院生の伊吹マヤが通りかかって、シンジは軽く会釈をした。
「お疲れ様です、マヤさん」
「うー……」
「アスカ、二日酔いなんでしょう? 大丈夫そう?」
なぜマヤがそのことを知っているのか、思わずシンジは言い淀んだ。
「昨日、居酒屋で先輩と飲んでたらたまたま隣の席だったんだけど。アスカ、大暴れしてたわよ?」
「え……?」
マヤによると、お酒を飲まされたアスカは、酔っ払って同席していた男性陣を手当たり次第に殴り倒していたらしい。特に肩に手を回そうとしたゼミの先輩には胸ぐらを掴んで肘打ちを鼻先に数回めり込ませた後、側頭部に回し蹴りを叩き込んで完膚なきまでにノックダウンさせたのだそうだ。
「居酒屋も出禁になっちゃって、男の子たちとしけこもうとしてたゼミの女の子たちもカンカンでね。二度と誘わないって怒ってたわよ」
きょとんとするシンジに、マヤはふふっと笑顔を向けた。
「いかがわしい噂もある男の子もいたから、私はちょっとスッキリしたけど」
じゃあね、とマヤは軽く手を振りながら研究棟の方へ去っていった。
「え……?」
「お水、欲しい、シンジ……」
マヤの話を聞いている余裕はなかったようだ、両手で頭を押さえているアスカへ、シンジはトレーの上のグラスを差し出した。
「帰れそう?」
「うーん、電車は無理かも……」
「まだ週末じゃないけど……。よかったら、泊まっていく?」
「……うん」
頷いたまま顔を上げないアスカの表情は読み取れない。
この二日酔いは、果たしてどっちだろう?
アスカと買い溜めしておいたリキュールはまだ残っているが、いずれにせよ今夜はお酒はなしだ。
「さっぱりした、食べやすいもの作るね」
「……ありがと」
「お酒はまた、週末に二人で飲もう」
シンジは先に立ち上がって、トレーのゴミを店内のダストボックスへ捨てに行った。だからアスカがはにかむように頬を赤らめていたことに、シンジはやっぱり気がつかなかったのである。
了