「私のファーストキス、ホントはシンジとじゃないんだ」
アスカがそう言った瞬間、シンジの表情が氷のように凍りついた。
そう見えたのはほんの一瞬のことで、アスカが瞬きをひとつする間に、シンジはいつものようにやわらかい笑顔を浮かべていた。
「そうなんだ」
冷えるよーと言って、シンジはアスカに毛布をかける。
「今まで黙ってて、ごめんね」
「大丈夫」シンジはベッドサイドから腰を上げて伸びをした。
「怒ってないの? 黙ってたこと」
「そりゃあ、まぁ……人間生きてたら、色々あるよ」
予想よりもかなり薄い反応に、アスカは内心舌打ちをもらしていた。
なんだ、つまらないの。
「朝食作るね。スクランブルエッグとベーコンに、トーストでいい?」
アスカが頷くと、シンジは狭い1Kのキッチンで朝食の準備に取り掛かったが、冷蔵庫を開ける際に頭をドアにぶつけてふらついた後、卵をふたつも落としてダメにした。
おや? とアスカが訝しんでいる間に、火にかけたフライパンに油を大量に注ぎ入れて火柱を立ち昇らせ、四等分したトーストとベーコンをそのフライパンに投入して真っ黒に焦がした時にはさすがにまずいと思った。
「怒ってる、シンジ?」
「なにが?」
シンジが一口含んだだけで全く手をつけなかったマグカップのコーヒーに、アスカは手を伸ばす。味見をすると、中身はコーヒーではなく醤油だった。
「いちおう訊いておくけど。僕はそんなに気にしてるわけじゃないんだけど……アスカのファーストキスの相手って、僕の知ってる人?」
「うん、今も近所に住んでるわよ」
「ふーん……」
シンジは洗い終わった包丁の刃渡りをキッキンの蛍光灯にかざして品定めした後、それを握りしめたままふらふらと玄関の方へ歩き始めた。
「あいつかな。ちょっと出かけてくるね」
「ストーップ!」
アスカはシンジの肩を慌ててつかんで止めた。虚な目をしているシンジの頬に両手を添えて、無理矢理自分の方へ向きを変えさせる。
「ごめんごめん」
「なにが? アスカが僕に謝ることなんてないよ。長い間曖昧な態度をとってた僕が悪いんだから」
だめだこりゃ。重症だ。
「ママだから」
「え……?」
「ファーストキスの相手って、ママだから。ほら、寝る前に絵本読んでくれたお礼に、チュって」
そのキスも口ではなくほっぺたにーだったのだが、シンジの両目の焦点が戻って安堵している間に、アスカは言いそびれてしまった。
「なんだ……。いや、僕は多分そんなことなんじゃないかなって思ってたよ? もう、朝からからかわないでよ、アスカ」
シンジは笑顔でアスカの頬をなでると、キッチンに戻って洗い物を再開した。
しばらくはいつものように手際よく洗い物を片付けていたのに、しばらくするとその手が止まって動かなくなってしまった。
「シンジ?」
シンジの顔を覗き込んで、アスカはギョッとする。手元で泡立ったままのスポンジを一点見つめしながら、シンジがぽろぽろと涙を流していたからだ。
「あれ? 変だな……。ごめん、アスカ。すぐに泣き止むから……」
そう言いながら、シンジの瞳から涙はとめどなく溢れた。
見かねたアスカは、シンジの両手を水で洗い流してベッドまで連れていき、彼を自分の胸元に抱き寄せた。
「ごめん、シンジ。悪ふざけがすぎた」
シンジが顔を上げたので、アスカはお詫びのキスをした。
「ん……」
三度目のキスでシンジが舌を差し込んできたが、アスカはされるがままにした。
丁寧に時間をかけてお互いの舌を絡めた後、シンジはアスカのうなじへ口先を移動させる。
「ここは? 僕が初めて?」
「うん……あ……」
うなじから鎖骨へ、そのままアスカをベッドへ押し倒す。シャツをめくり、ショーツを脱がしながら、シンジはさらに彼女の身体の下部へとキスの対象を移していく。
「ここは?」
「ぜん、ぶ……ん……シンジが、はじ、めて……」
胸から下へのそれは、もはやキスではなかった。アスカは身をよじりながら、シンジの頭をクシャクシャになでる。
「シンジ……あっ……授業、は……?」
休む……という台詞を自身の中心に注ぎ込まれて、アスカは大学の午前の講義を諦めた。
いつもより幾分か激しく、ベッドが軋む。
幼稚な嘘と自尊心は、少し肌寒い初秋の朝を、しっとりあたためるのにちょうどよかった。