シンジとアスカの短編集   作:アキみかん

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ファースト・ステップ

「海に行きたい」

 そう言い出したのは、アスカの方からだった。

「え? でも、泳ぐにはまだちょっと早いし、海開きもしてないよ?」

 机の前から詰め寄られて、シンジはたじろぐ。

「泳ぐんじゃなくて、写真撮りたいのっ」

「そんな趣味あったっけ?」

 ボカっ、と頭を叩かれて、シンジは小さく悲鳴を上げる。

「昨日から気になってたんだけど、碇君と惣流さんって、ご近所さん?」

 シンジの隣の席で頬杖をつきながら、昨日転校してきた綾波レイは、アスカへ好奇心とわずかな敵意を乗せた視線を送り、目を細めた。

 

 先に好きになったのはどちらからだっただろう?

「幼なじみ」から「女の子」として意識した瞬間を、シンジは覚えている。

 律儀に貯金していたお年玉を崩して、二つ隣の町まで電車を乗り継いだ。

 駅を出て、防風林を抜けた先は海だった。

 人はまばらで、東西に果てしなく伸びる砂浜を、アスカと二人でのんびり歩いた。

 六月初旬の陽射しはまだ緩やかで、出来かけの入道雲が海の彼方から顔を覗かせていた。

 渚へ足をつけたアスカは髪が濡れるのを嫌がって、ブロンドヘアーをポニーテールに結い上げた。

 アスカを好きなことに気づいたのは、きっとこの時だろう。

 見惚れていた。

 靴を脱ぎ、両手と両足を波打ち際に晒して遊ぶアスカは無邪気だったけど、水飛沫に彩られたうなじは、彼女を十四歳よりももっと大人びて見せた。

「シンジも入らない?」

「うん。でも……カメラどうしよう」

 写真を撮りたいと言っていたアスカの持ち物は小さなショルダーポーチだけで、結局カメラは母のコンパクトカメラを借りて、シンジが持参した。今時、携帯電話のカメラ機能で撮ればよさそうなものだったが、あそこまでアスカが強く希望したのだ。綺麗な写真が撮れた方がいいだろうと、小型の三脚までリュックに入れてきた真面目なシンジだった。

 砂浜に置くと波で濡れてしまうかもしれない。結局、シンジはカメラをセットした三脚の上を浜辺に設置してから、波打ち際へ裸足で入った。

 きめ細やかな砂浜はむずかゆく、思ったよりもひんやりと心地いい。

「なんの写真撮りたかったの、アスカ?」

 アスカが両手ですくい上げた海水が顔から上半身を直撃して、シンジは「うわっぷ!」と情けない声を上げる。

「忘れた」

「えぇ……」

 さらに海水をひっかけられて、前髪がずぶ濡れになる。

「せっかくだし、二人で並んで撮るわよ」

 そう言うアスカの表情は、頭からポタポタと滴る水滴が邪魔をして、よく見えなかった。

「何秒後?」

「うーんと……十秒?」

 アスカが中央に収まるよう画角を整え、シャッターボタンを押してから急いで彼女の横へ戻る。両足にまとわりついた砂利の気持ち悪さは、指先が波にさらわれた瞬間さらりと溶けて、シンジに夏を予感させた。

ーえ……?

 アスカの右手がシンジの左手をつかんで、シンジは写真のことも忘れて彼女の方を振り返った。

 彼女のやわい指先が五指にやさしく絡む。

 なのに、アスカはカメラの方を向いたまま、いつもの不敵な笑顔でピースサインをしていた。

 その頬に、ほんのりと赤みがさしているのがわかった。

 瞬間ー。

 シンジは無意識に彼女の方へ顔を近づけていた。

「? シン……」

 気配を感じたアスカがシンジの方を向き、そこでカメラのタイマーはゼロになった。

 

「その顔は……どないしたんや、センセ?」

 トウジとケンスケは席に着くなり、シンジの腫れ上がった頬を見て「うわぁ……」と悲惨な声を上げた。

「いや、なんていうか……事故というか、自業自得というか……」

「バカあァーッ!」の掛け声と共に放たれたアスカの右ストレートが炸裂して、陽光が煌めく海辺の上を数メートルも吹っ飛んだとは、まさか言えまい。

 当のアスカは自分の机に着席したままこちらを睨みつけていて、シンジはとても目を合わせられなかった。あの時、中空を派手に舞ったシンジが砂浜へ突き刺さる中、アスカはカメラから記録用のカードを抜き取っていたようなので、本当に嫌だったのだろう。嫌われたかもしれない。

「ねぇ、アスカ?」

 登校してきたヒカリが、シンジたちを横目で見ながらアスカに小声で話しかける。

「デート、うまくいかなかったの?」

 言われて、ドキリとした。

 シンジと二人で出かける。小学生の頃から当たり前にしていたことだから特に気にしたことはなかったが、やはり周りからはそう見えるのか。

「別に、そんなんじゃないわよ。いつもみたく、荷物持ちでついてきてもらっただけだから」

「うわ、碇君、なにその顔!?」

 教室に入ってきた綾波レイが、鈴原と相田を押しのけてシンジに駆け寄る。

「あ、いや……綾波さん、大したことないから」

「大したことないって、これ、大怪我じゃない」

 綾波レイが転校してきた日、アスカは初めて、人が恋をする瞬間を見た。

 シンジに校内を案内してもらっている間中、レイがシンジに楽しそうに話しかけているのを目撃して、自分の中の醜く黒い感情を「怖い」と思った。だから手をつないだ。

 でもー。

「アスカ?」

 立ち上がったアスカを、ヒカリが不安そうに見上げる。

「トイレ」

 レイとシンジの脇を抜けて、アスカは廊下に出た。

 シンジがこちらを見ていたかもしれない。確かに頬の腫れが酷い。後でちゃんと謝っておかなければ。

 廊下の角を曲がり、自分以外の生徒がいないのを確認してから、ポケットの写真を取り出す。

 歩きながら、眺めてしまう。今日はずっと、そんなことを繰り返している。

 先に好きになったのはどちらからだろう?

 それはずっと、自分だと思っていた。

「バーカ……」

 唇を指でなぞりながら、アスカは楽しそうにささやく。

 いつか、歳をとった時、まだシンジが隣にいるなら、教えてやろう。

 ファーストキスは、海と、初夏と、確かにシンジのにおいがしたことを。

 

 

   了

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