お母さん。見て、これ。
あら、さっきの屋台でもらったのね?
これ、アスカちゃんにあげるんだ。
いいの、シンジ? せっかく取れたのに。
うん。アスカちゃんの方がにあうと思うから。
◯
「ちょっと、鈴原! アンタもうちょっとそっち詰めなさいよ!」
「アホやな、場所取りからすでに勝負は始まっとんねん! 真ん中譲るわけあらへんやろ」
「碇君へのお土産は私がゲットする……!」
「あのさ、三人とも。他のお客さんに迷惑だから……」
祭囃子の向こう側、アスカやトウジたちが射的の屋台に興じている。シンジとヒカリは、その様子を少し離れた歩道の端から見ていた。
花火大会を控えた真夏の夜の縁日は人混みで賑わっていた。トウジを脇へ追いやって、射的はアスカとレイの一騎打ちだ。それをケンスケが外野から囃し立て、盛り上げている。
「碇君は、やらなくてよかったの?」
荷物番を請け負ったシンジの顔を、紫陽花柄の浴衣に身を包んだヒカリが隣から申し訳なさそうに覗き込んだ。
「いいんだ。ああいうの、あんまりうまくないから」
シンジは目を細めてアスカたちが群がっている射的の屋台を眺めていた。
時々、あの輪の中に自分がいてはいけない気がするのはなぜだろう。そんな資格はないような、胸の奥が締めつけられるような気持ちになるのはなぜだろう。
「ねぇねぇ、見て見て、碇君」
射的が終わったらしい、レイが駆けてきて、頭につけたきつねのお面を小首を傾げながらシンジに見せる。
「戦利品?」
「そう。いる?」
言ってから、レイははにかんだ表情でシンジを見上げた。気に入ったのだろう、牡丹柄のレトロな浴衣に、そのお面はよく似合っていた。
「せっかくだけど、遠慮しとく。綾波、よく似合ってるから」
「そっか。残念」
レイは一瞬寂しそうな表情を浮かべてから、すぐに引き下がってアスカとヒカリの輪の中へ入っていった。そのアスカが、ヒカリと立ち話をしながらチラチラとシンジの方に視線を送ってくる。
赤い椿柄の浴衣が、アスカの存在感を際立たせていた。提灯や屋台の明かりで色めく祭りの夜も、彼女の勝ち気で鮮やかな笑顔の前では霞んで見えた。
「射的は誰が勝ったの?」
シンジがいつものやわらかな笑顔でアスカに訊いた。
「当然、私に決まってるでしょ」
「綾波とええ勝負やったくせに、よう言うわ」
アスカに脛へ蹴りをお見舞いされて、トウジはその場でもんどりうった。
アスカは「ふん」と腕を組む。結い上げた頭には、レイと同じくお面が斜めにかかっていた。赤い複眼のロボットのお面のようだ。珍しいお面を選ぶなと、シンジは少し微笑ましかった。
「大丈夫、鈴原?」
「お、ぅ……平気や、こんくらい」
助け起こそうとするヒカリの手の平に、トウジは手にしていたウサギの人形をそっと握らせた。
「え……?」
「射的の残念賞や。わいはいらんから、委員長にやるわ」
ヒカリの頬に、ほんのりと提灯のような明かりが灯る。
「……ありがと」
「あ〜ぁ、やだやだ。カッコつけずに、最初から委員長のためにその人形狙ってたって言えばいいのに」
「!? お前ぇ!」
舌を出しながら逃げていくケンスケを、トウジが手を振りながら追いかける。
「花火大会、もうすぐだってさ。私たちも行くわよ」
「うん」
河川敷に近づくにつれ、人の波が激しくなっていく。雑踏に阻まれて、シンジたちはすぐにケンスケとトウジに追いついた。
「こないな人で、見れるんかいな?」
「河川敷は無理でも、土手の上でなら場所取りできるんじゃないかな」
「あ……」
雑談を交わしながらゆっくりと列が進む中、シンジは沿道の屋台に目を止め、立ち止まる。
「どうしたの、碇君?」
人並みの流れに呑まれたレイの声が、やけに遠くに聞こえた。
「あの、みんなの飲み物買っていくから!」
トウジの右手が高く伸びるのが見えて、シンジはほっと息を吐き出した。
「飲み物ねぇ。ただのおもちゃのくじ引きじゃない」
耳元でアスカの声が響いて、シンジは「うわっ!」と体を震えさせた。
「なによ、その驚き方。一人の方がよかったっての?」
「ごめん。アスカもみんなと一緒に先に行ったのかと思って……」
その言いように、アスカはほんの少し頬を膨らませてシンジを睨みつけた。
「……で? この屋台がしたかったわけ?」
「外れなし!」と大きく書かれた張り紙が後ろに掲げられた屋台だった。軒先に無数の紐が垂れ下がり、その先が店主の後ろの景品に繋がっているというくじ引きの屋台だ。紐の先は布で隠されているが、ほとんどが地面の籠へ大量に用意された安価な玩具に繋がっているのだろう。
「覚えてない、アスカ?」
「なにを?」
それはまだ小学生低学年の頃の話だ。お互いの親に連れられて、シンジとアスカは毎年近所の夏祭りに来ていた。
小首を傾げるアスカは、多分覚えていないのだろう。今と同じように、なけなしのお小遣いを店主に渡して、くじを引いた。
「はは……」
シンジは店主に渡された〝残念賞〟を見て、思わず苦笑した。景品まであの時と同じようなものが当たるとは思わなかった。
「ゲームかなんかでも当たると思ったの?」
屋台を離れて、二人河川敷に向かって歩き始める。
「ホント、バカね。ああいうのって、どうせ高価な景品には繋がってなかったりするんだから」
シンジの代わりに怒るアスカは愛らしく、夏の夜風は人波にあてられて、シンジの顔を火照らせた。
「アスカ」
「?」
シンジはアスカの手を引いて、沿道を少しだけ外れた。砂利道の上で少しよろめく彼女の左手を取り、くじ引きの景品を中指へ通す。
可愛らしいお猿の顔が付いた、おもちゃの指輪だった。
「これ、プレゼント」
シンジとしては、少年時代の自分の行動をなぞっただけだった。むしろ子供用の指輪が難なく通るアスカの指の細さに、シンジは驚いていた。
「……なんちゃって」
もらっといてあげるわ!
と、あの時と同じ反応が返ってくるものだと、シンジは錯覚していた。
「え……?」
薄暗がりの中、眉を八の字にしたアスカは、大きく両目を見開いたまま口元をわななかせていた。
顔が、赤い。
「ふ……ぇ……?」
シンジが声を出すよりも先に、アスカは頭のお面で顔を覆い隠した。
「ご、ごめん! アスカ」
何がごめんなのか、シンジ自身にもわからない。
だから同じように、なぜ自分が咄嗟に彼女のお面を半分だけ上げたのかも、シンジにはわからなかった。
「うわぁ」
「きれー」
夜空に大輪の花が咲く。幾重の花弁はパラパラと闇夜を彩り、誰もがその一瞬を眼に収めようと、一斉に煌めく星空を見上げた。
面が視界を遮って、アスカの耳に花火が寂しく散りゆく音だけが響く。
その時ー。
ずれた面の下から、唇にそっと、何かが触れた。
臆病なほどやわらかなそれは、けれど少しかさついて、射的の前に二人で分けた焼きそばとラムネの味がした。
はかなく、儚く、名残惜しく。
鼻先をくすぐるシンジのにおいが、離れていく。
「シン、ジ……?」
アスカがお面を取った時、シンジはすでに背中を向けていて、彼がどんな顔をしているのか、アスカにはわからなかった。
「行こう、アスカ。花火、始まっちゃったし、飲み物買って戻らなきゃ」
シンジは振り向かずに右手だけ差し出して、アスカはおずおずと左手の指先を絡めた。
おもちゃの指輪はつけたままだ。外すつもりはなかった。きっとさっきと同じように、今夜は誰もが花火に夢中で、そんな些細なことには気がつかないだろう。
それは夢か現か、幻か。
その感触は、淡く、切なく、残らず溶けて。
大きな花火がまたひとつ、手を引くシンジの背中を照らす。
真夏の夜にほだされて、アスカはシンジの背中にそっと額を押し当てた。
了