それは他愛もない放課後の一幕。
アスカがクラスメイトの男子に話しかけられて、笑顔で返事をしていた。
ただそれだけのことだった。
アスカの人当たりがよくなったのはつい最近のことだ。だから、彼女が他の誰かに愛想よくするのはいいことだとシンジは思う。
「あの二人ってさ、けっこうお似合いじゃない?」
そんな戯れを、クラスの女子の誰かがボソボソと呟いた。
アスカは人気者だ。いつも元気だし、はっきり物を言う代わりに、気遣いもできる。
そういえば、さっきアスカに話しかけていたクラスメイトも人気者だった。はつらつとしていて、人望もあって……。
僕とは違う。
「……っ」
塞がったと思っていた右手の人差し指のひび割れから血が出ていて、シンジはほんの少し顔を歪めた。
ただ、シンジが痛かったのは、指先ではなかった。
洗い物を終え、両手からゴム手袋を外した時、自分が小さなため息をもらしていることに、シンジは気づいた。
ゴム手袋の独特な匂いがシンジは好きではない。だが人差し指のひび割れができたのは、水道の水が冷たくなってきたのを無視して素手で洗い物をしていたのが原因だった。放っておいたら徐々に両手全体が荒れ始めたので、仕方なくつけている。
エプロンを脱いで、冷蔵庫脇のフックに引っ掛ける。
主夫みたいだな……と思ったが、声には出さなかった。聞いてくれる人が誰もいなかったからだ。
両親は今日も残業で帰りが遅くなる。高校生にもなって、夕食を一人で食べるのが嫌だと思っているわけではないが、秋の夜長で寒さが増し、静かなリビングがどこか寂しいと感じることはある。人恋しくて、いたたまれない気持ちになる。
なんでもないことで、泣きそうな気持ちになるのはなぜだろう。
ラップをしておいた肉じゃがと、ご飯と味噌汁用の食器、夫婦箸を食卓に並べて、シンジは自室に移動した。
カーテンの隙間から月が顔を覗かせていた。右半分だけのー今夜は上弦の月だ。
中間試験の勉強をしなければならないが、全く身が入らなかった。
シンジはアスカからもらったハンドクリームを手の甲に押し出すと、それを丁寧に両手に塗り広げた。秋らしい、柚子の香り。これがなかったら、両手の肌荒れは酷いままだっただろう。
放課後に見たアスカとクラスの男子が頭にチラつく。
高身長で、人当たりがいい。陽気な人間は他人のテリトリーに容易く入り込む。
それがうらやましいとは思わないが。
(距離が近いんだよ……)
頬杖をつくと、細かい無精髭が顎に生えていることに気づいた。困ったな、アスカに嫌がられる。いや、アスカは大人の男性に憧れがあるから、意外に喜ばれるのか?
でも、自分には似合わないとシンジは思う。こんなもの生えなきゃいいのに。
無精髭を生やした自分が、ゴム手袋にエプロン姿で洗い物をしている様子を想像する。シンジは立ち上がって押し入れを開いてみたが、アスカが選んでくれたお気に入りのジャケットとパーカーが一着ずつあるだけで、大した種類の洋服は入っていなかった。
机に戻った時、スマートフォンが鳴って、シンジは慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし?」
《あ、もしもし? シンジ?》
勝ち気でやさしいその口調に、シンジはそっと息を吐き出す。
「定時連絡?」
《そ。おばさんに頼まれてるから。ちゃんと晩御飯食べた?》
アスカはシンジの家のスケジュールを把握していて、両親の帰りが遅い日は電話でシンジに家事と宿題の進捗確認をする。アスカが家に一人の時は、この役割が逆になる。
「ちゃんと食べたよ。お風呂はこれからだけど」
《そっちに食べに行けたらいいんだけど。試験前だし、ごめんね、シンジ》
「そうだね、試験前だしね」
短い、妙な沈黙。
《元気そうでよかった》
「なんで?」
《なんか、帰る時落ち込んでるみたいだったから》
さすが、つきあいが長いだけのことはある。
「ちょっと考え事してただけだよ。心配かけてごめん」
《試験終わったらさ》
「うん」
《その……》
「?」
デート、と言ったらしい。シンジは小さく笑って頷いた。
「僕も行きたい」
《声、聞けてよかった》
「うん」
僕も。
おやすみーの言葉を合図に、二人は同時に電話を切った。
寒さがやわらいだように感じるのは、エアコンが効いてきたからではない。
やさしい気持ちは、心をあたためる。
窓の外で鈴虫がリー、リーと鳴いていた。声が聞けただけで、そんなBGMも心地いい。
シンジは大きく伸びをしてから、ノートを開いてペンを手に取った。
昼休み。
アスカがクラスメイトの女子に話しかけられて、笑顔で返事をしていた。
ただそれだけのことだった。
その笑顔は、昨日アスカがクラスで人気者のあの男子に返していたものと同じものだった。
「なんや、えらい嬉しそうな顔して。ほっぺたたるんどるで?」
購買にパックのジュースを買いに行く途中、トウジに冷やかされて、シンジは慌てて顔を引き締めた。
食堂で食べるというトウジと別れて、シンジは教室に引き返す。階段の踊り場で、アスカが待っていた。
「今日はヒカリ、一緒に食べようってさ」
「いいね。昨日の肉じゃが、けっこう余っちゃって、アスカの分もお弁当にして持ってきたから、みんなで食べよう」
並んで歩き出しかけて、同時に足を止める。あらかたの生徒が食堂に移動するか、購買で買ったパンを手に教室へ戻ったので、階段に人の気配がなくなったからである。
それでもやはり、学校でくちづけを交わすのははばかられた。
代わりにシンジは、アスカの頬にそっと右手をやる。
ふにふにとやわらかい彼女のほっぺたを、慈しむように、親指でそっとなでる。
「ん……」
アスカはシンジの手の平へ甘えたように頬をすり寄せると、せつなく目を細めてその頬を紅潮させた。
「ハンドクリーム、ちゃんと塗ってる?」
「うん。おかげで治ってきた」
シンジは人差し指を外してアスカの頬をなでていたが、アスカはシンジの右手を包み込むように自分の左手を添えると、彼の人差し指のひび割れにそっと唇を押し当てた。
最近、アスカは少ししおらしい。些細な変化は怖くもあり、うれしくもあった。
「シンジの手……好き」
「手だけ……?」
「……バカ」
〝シンジに触れられると、安心する〟
二人柔肌を重ねながら、アスカがそうささやいたことを、シンジは思い出す。
頬をなでると、あの時と同じ表情をアスカは見せてくれる。
彼女が自分だけに見せる、その仕草が見たくてー。
ー本当は毎朝、唇にリップクリームまで塗ってるだなんて……。
格好が悪いから、その先の言葉を、シンジは口にしない。
「試験終わったらさ。前にアスカが言ってた、お揃いのマフラー見に行こうよ」
「うん」
「その後、久しぶりにうちで晩ごはん食べない? ちょうど、満月が見える日だから。その、だから……父さんも、母さんも……帰りが遅いから。あったかいシチューでも、作るよ」
「……うん」
うつむくアスカのはにかんだ笑顔は、シンジだけのものだ。
廊下の窓から差し込む秋の風はもう冷たく、階段を昇りきるまでのほんの少しの間だけ、二人はそっと手をつないだ。