「え? アスカ、手袋は?」
「うん、忘れちゃったみたい」
なぜか機嫌が良さそうなアスカの返答に、ヒカリは思わず顔をしかめた。
秋の気候は移ろいやすく、温かい日が続いていた休日明けの月曜日、気温は一気に冷え込んだ。すっかり油断していた市井の人々は薄手の外出で体を冷やしてしまい、ならばと翌日上着とマフラーを着込んで出かけた判断は正しく、火曜日の気温は師走を思わせるような記録的な寒さだった。
夕暮れ時の下校時刻、下足室を出ると、ヒカリの口から洩れたため息は、一瞬白くぼやけて消えた。
「あーやだやだ。昨日からいきなり寒くなりすぎ」
毛糸の手袋をした両手をパンパンと鳴らしながら、ヒカリは悪態をつく。周りの学生たちを見るに、この寒さで不機嫌なのはヒカリだけではないようだ。
「急に寒くなったり暑くなったりすると、身体が急激な環境の変化に適応できなくて、余計にしんどく感じるんだってさ」
「ご高説ありがたいけどね、手袋忘れたアスカだけどうして機嫌良さそうなの?」
マフラーはしっかりつけているのに。
「そうかな? 私だって、ちゃんと寒いと思ってるけど」
わずかに照れ笑いを浮かべた時のアスカは可愛らしさが増す。親友の微妙な変化に気づかないほど、ヒカリはアスカとのつきあいが短いわけではなかった。
「今日はスーパーで夕ご飯の食材買って帰らなきゃだから、先に行くね」
お姉ちゃんと二人で晩御飯の当番なんだ、と言い残して、ヒカリは走って校門の角を曲がっていった。
さて。
アスカは赤いダッフルコートのポケットに左手だけ突っ込んで、校門脇の銀杏の木に寄りかかった。
確かに今日は冷え込み方がひどい。右手はもちろん、ポケットの中の左手も指先は冷たいままだ。
「ごめん、アスカ」
ほどなくして、シンジは下足室を抜けてやってきた。両手には、これからスキーにでも行くのかと勘違いされそうなほどごわついた防水加工の手袋をしていた。
そのくせ、制服の上にはネイビーカラーのダッフルコートを着込んでいる。
はっきり言って、センスがない。せっかくおばさんにこっそり頼んでシンジにお揃いのダッフルコートを買ってもらったのに。
「待った?」
「ううん、全然」
「寒いよね、ホント」
言いながら、シンジがヒカリと同じことに気づく。
シンジはいそいそと自分の手袋を外して、アスカの前に差し出した。
「これ、あったかいから」
途端に、アスカの顔が不機嫌になった。
「あのね、私にこんなダサい手袋つけろってーの、あんたは?」
「えぇ?」
今朝登校する時は、アスカの方から手袋をよこせと言ってきたのに。
「あ、そっか」それで気づかないほど、シンジはアスカとのつきあいが短いわけではなかった。
「じゃあ、片方だけ」
シンジは左手の手袋を外すと、それをアスカの左手につけた。なぜ片方だけならアスカがうれしそうな顔をするのかは、シンジにしかわからない。
学校を出て、下校中の生徒の数もまばらになった頃、シンジは素知らぬ顔でアスカの右手を左手で取り、そのまま自分のダッフルコートのポケットの中へ導いた。
「すごい、冷えてる。やっぱり、だいぶ待たせたよね。ごめんね、アスカ」
ううん、とアスカは首を横に振る。心なしか、頭をシンジの肩口に寄せながら。
ポケットの中で恋人つなぎの手をほどいて、シンジはアスカの親指以外の指先を手の平全体でやさしく包み込んだ。なでるようにアスカの指を揉みほぐしながら、少し冷気が抜けてくると、シンジは思い出したようにまた恋人つなぎへと切り替えて、アスカもそれに応えてそっと握り返す。
そんなことを、今日も二人は帰宅するまでの時間を使って繰り返した。
「今日はおばさんとおじさん、いるんでしょ?」
自宅の前まで来た時、アスカは言った。
「うん。今日は母さんが晩御飯作るって」
名残惜しそうに、アスカがシンジのコートのポケットから右手を出し、左手の手袋もシンジに返す。
「おやすみ、シンジ」
秋の夕暮れは早く、この時間になると、街にはすでに夜の帳が下りている。
さっきまでの指先の冷え方からは考えられないほど、アスカの唇に熱がこもっているのが、シンジには不思議だった。
「じゃあ、また明日」
天気予報によると、今週いっぱいは真冬のような寒さが続くらしい。自分は明日も、手袋を玄関に置いていくだろうとアスカは思った。
じんわりあたたまったのは、今日も右手の指先だけではなかった。