「大丈夫、アスカ?」
自宅の廊下で、シンジはスマートフォンを耳に当てながら声のトーンを落とした。
《別に、大丈夫よ。試合に負けたくらいで》
テニスは個人競技だが、遠征初日の今日は団体戦の決勝だったはずだ。シンジは学校で用事が入っていて、観に行けなかったのである。
「明日の個人戦は、応援に行くから」
《無理して来なくていいから》
「でも、予定空けてあるし、おばさんが車に乗せていってくれるって……」
《ホントに、いいから》
それっきり、通話は切られてしまった。
「電話、よかったの?」
リビングに戻って手を洗っていると、隣で薄くスライスした蓮根にトレーの小麦粉をまぶしていたユイが心配そうに顔を覗き込んできた。珍しく両親が土曜に仕事がなかったので、シンジはユイと二人で夕食に天ぷらを作っている最中だった。
「うん、大丈夫……」
気のない返事になった。
元々口数が少ない父に加えて、今夜はシンジもどこかそわそわした様子で上の空だったので、夕食はユイが一方的に喋り続けることになった。
片付けた食器を台所で洗っている時も、シンジはチラチラと壁掛け時計に視線をやっていた。
「ねぇ、母さん?」
「どうしたの?」
「スポーツで大事な試合に負けた時に……。って、やっぱりいいや、ごめん」
「アスカちゃんのこと?」
「ううん、大丈夫」
洗い物が終わり、時計の針は七時を指していた。ユイは書斎へ仕事の残りを片付けに行ったので、リビングにシンジと父の二人だけになる。
「シンジ」
テレビの前のソファーで新聞を読んでいたゲンドウが、こちらを振り返らないまま言った。
「ご近所さんか?」
「うん。まぁ……」
「母さんには私から言っておくから、行ってきなさい。風呂は温めておく」
その一言で、踏ん切りがついた。
「ありがと、父さん」
ダッフルコートにマフラーを巻き、手袋をして外へ飛び出す。
しんと冷えた空気が頬に刺さる。シンジは車庫から出した自転車に飛び乗ると、勢いよく漕ぎ始めた。
県大会の決勝戦は様々な部員たちの試合が入り乱れる。早朝からの過密スケジュールということで、強豪校であるアスカが所属する部活のチームは、会場近くの宿舎に宿泊することになっていた。
車で行くのもそこそこの距離だが、自転車で行けない距離ではない。
駅ふたつ分の県道は緩やかなカーブとアップダウンを繰り返し、シンジは行き交う車の波を横目に見ながら、休むことなくペダルを漕ぎ続けた。
冬の夜空は薄曇りで星を見つけることが出来ない。シンジは焦ってイヤーウォーマーをつけてこなかったことを後悔した。体を動かしていれば温まるかと思ったが、一駅を超えたあたりから雪がちらつき始め、いよいよ真っ白になった息が風に流されて後方の闇へと消えいく。
雪が降っていてよかった。情けない顔を、誰かに見られなくて済む。
片道八十分の道程は旅に近い。やがて目的の場所が見えてきた時、シンジはさてどうしたものかと判断に迷った。
スマートフォンで連絡するか。そもそも訪ねてきたのが見当違いだったのではないか……。
「シンジ……?」
後ろからアスカの声が聞こえて、シンジはビクリと震えて思わず背筋を伸ばした。自転車から降りていなければ転倒していただろう。
「なんで……」
「いや、なんていうか……。明日迷わないように、下見しておこうかなと思って」
こんな夜中に、もう少しマシな嘘はなかったのか。シンジは自分自身に呆れてそれ以上言葉を紡げなかった。
「来なくていい」と電話越しに伝えてきたアスカだったが、怒ったりいつものようにバカにしたりはしなかった。
ただ、ほんの少し目尻を下げて「バカ……」とだけ呟いた。
「明日も試合だろ? ダメだよアスカ、こんな時間に出歩いてちゃ」
アスカは返事をしないで、宿舎の前にあるバス停のベンチに腰掛け、隣をパンパンと叩いた。
シンジがそこに腰をおろしても、アスカは何も言わなかった。
部活のジャージにダウンジャケットを羽織っただけのアスカの首に、シンジは自分がしていたマフラーをぐるぐる巻きにし、自宅から水筒に入れて持ってきたホットのレモネードをフタに注いでアスカに手渡した。これくらいなら、外で飲んでも怒られないだろう。
「ありがと……」
ゆっくり、アスカが飲み干すのを待ってから、シンジは手袋を外して、彼女がベンチの上に投げ出した左手に右手を添えた。
アスカの指先が冷え込んでいることがわかって、シンジはその場で彼女を抱きしめたかったが、何度も自分にダメだと言い聞かせて、自分の指で包み込むだけに留めた。
本来は、こんなことで会いにきちゃいけないんだ。
それはシンジもわかっていた。
だからーこれは自分のわがままだから、彼女を思いきり甘やかすのは、県大会が終わってからにしなきゃいけない。
「なんとなく……来てくれるかもと思った」
「うん」
アスカは、シンジがやって来た道の先に視線をやりながら言った。
「私のミスのせいで、負けちゃったんだ」
今日は団体戦で、だからチームが負けたのはアスカ一人の責任ではないだろうと思えたが、シンジは否定も肯定もしなかった。
「ちくしょう。悔しいなぁ……」
アスカが俯きすすり泣いている間、シンジは何も言わなかった。ただ、アスカの指先をなでるように温め続けた。
雪がひらひらと、夜空に儚く舞っている。
「明日さ」
ひとしきり泣いたアスカの涙が乾くのを待ってから、シンジは言った。
「試合、見に来てもいい?」
「ん……来て」
二人で一杯だけ、ホットのレモネードを分けて飲んだ。
アスカが宿舎に戻るのを見送り、シンジは自宅の方向へ自転車をUターンさせて跨がる。
別れ際に見せてくれたアスカの笑顔を、シンジは思い浮かべた。
帰り道が暗くてよかった。泣き笑いみたいな滑稽な顔を、誰かに見られなくて済む。
小雪は過ぎ去り、遠く夜空に顔を覗かせた星々を眺めながら、シンジはペダルを漕ぎ始めた。