4月のプール実習からは、特にイベントはなく学校生活は進んでいった。
俺は補習組となり、3回目の補修でようやくまともに泳げるようになった。
先生は感動して泣いていた。
まだ俺は有栖の夕飯を作っている。
そろそろ俺からクラスの女子生徒に頼んだ方がいいのだろうか?
しかし、節約になっているのもまた事実。
旨味を享受してしまっている以上、このぬるま湯から抜け出すのは至難だなと実感する。
4月30日。朝に突然、小テストが実施された。
俺が把握していなかっただけかと思ったが、有栖も知らなかったようで、どうやら人生で初めての抜き打ちテストという奴だったらしい。
俺は時間いっぱいまで鉛筆を動かし、自分なりに満足のいく答案用紙にできた。
学校に入学してから初めてのテストであったが、できれば今後は予告してもらいたいものだ。
5月1日の始業直前。本日はポイントが振り込まれる日だ。
教室内の皆は、口には出さないが、喜びを噛みしめているのが伝わってくる。各々、学校から配布された端末で確認している。
俺はいまだにこの機械に慣れておらず、苦戦しつつも所有ポイントを確認した。
9万4000ポイント。
それが今月俺に振り込まれた額だ。
1か月で6000も減ったとなれば、単純計算で16か月ほどで支給ポイントはゼロになってしまう。
きっとみんなは10万ポイント継続もらえているんだろうなと思いつつ、節約せねばと身を引き締めなおす。
俺は初めての学校に、やはり浮かれていたのかもしれない。
「勝って兜の緒を締めよ、か。至言だなあ」
「朝から辛気臭い顔をされてますね、静希君」
「やあ有栖、おはよう。予想通りなんだけど、支給されたポイントが減ってたんだ。このままだといずれはゼロになってしまうし、どうしようかと考えていたんだ」
「それはそれは可哀想に。幾らに減っていたのです?」
俺は素直に端末の画面を有栖に見せる。
「9万4000ですか。フフフ」
「有栖は優秀だから減額はないんだろうけど、こっちは死活問題なんだ。笑われるのは困る。」
「気に障ったのなら謝ります。しかし、静希君の勘違いを正すならば、私も同額の9万4000ポイントが支給されていました」
「え?」
「さらに言えば、おそらくこのAクラス全員が同額を受け取っていると思いますよ」
始業時間です。と有栖に促され、私語を慎むことにする。
真島は毎日時間ぴったりにやってくる。
が、なぜか今日は大きいポスター紙を持参していた。
「皆、揃っているな。おはよう。皆も確認済だとは思うが、本日ポイントが支給された。もし不備があれば申し出てくれ」
「また、察している者もいるとは思うが、本日支給ポイントについての説明に移る。質問は俺の説明がすべて終わってから受け付ける」
真島の説明は、大方有栖が入学して数日でたどり着いていた予想の通りだった。
曰く、
・クラスポイント(CP)という、クラスの評価点がある
・CPは入学時点では1000
・CP×100の値が、その所属生徒にプライベートポイント(PP)として毎月支給される
・CPは、授業態度や成績、体育祭などのイベントで変動することがある
ざっくり説明すればこうだ。
「今年のAクラスは優秀だ。自発的に真面目に授業を受け、日々勉強していた。まあ、具体的な査定の基準は言うことはできないが、多少の居眠りや提出物の不足などで微々たる減点はあったものの、ここまでCPを残したことは評価に値する」
「そして、今回が変動したCPの一覧だ」
そう言ってポスター紙を黒板に貼る。
A:940
B:650
C:490
D: 0
それに少しざわつく生徒たち。
確かにこれを見たら、Aクラスが優秀なのは自明の理だろう。
「全生徒が、一律の基準で評価されている中で他クラスにこれだけの差をつけたことは誇りに思ってくれて構わない」
「さらに、最も重要なことだが、このポイント順でA~Dクラスは決定される。そして、『高育』における進路の保証制度は、Aクラスのみの特権となる」
これにはさすがにクラスメイトも騒然としたようで、全員が動揺を隠し切れていなかった。
そんな中一人、不敵な笑みを浮かべ続けるのは隣に座る少女。
まるですべてが想定通りのようだ。
「続いて、昨日の小テストの結果を発表する。抜き打ちではあったが、皆優秀だったぞ」
張り出されたもう一枚の紙。有栖が100点満点で1位。次いで葛城の94、山村の92と続いていく。
そんな中、俺は60点。クラスの中の下くらいだろうか。
自分としては納得のいく点数だった。
「この学校では、中間及び期末試験で、赤点者は退学となる規則とになっている。今回テストの場合、39点未満の者となる」
真島がわかりやすく赤点ラインに線を引くが、当然それを下回っている者は誰も居なかった。
質問時間となったが、暫く質問は出ない。
真島の端的でわかりやすい解説が功を奏した、というよりは情報の多さに皆混乱しており、咀嚼に時間がかかっている印象だ。
「先生。いくつか質問をよろしいでしょうか」
となりの少女が手を挙げる。
「坂柳、質問を許可する」
「赤点をとった場合退学、と先生は仰られました。『今回』の試験での赤点ラインは39点だそうですが、これはどのように決定されているのでしょうか?」
「よい質問だ。赤点ラインは、各クラス別に、各テストごとに計算される。赤点は平均点の2分の1だ。小数点第一位で四捨五入をする。つまり、皆は今回のテストで平均が約79点だったということだ。今回のテストには中学の内容も含まれており、一概に高校生の学力を測るものではないにせよ、誇るべきよい数字だ」
俺はさりげなく出た新事実に少し傷つく。中学の内容だったのか…。
「もう一つ。このクラスのCPが60点の減点を受けた理由について、可能な範囲でご説明をお願いいたします」
「いいだろう。査定の詳細は公表できないが、クラス全員の遅刻や欠席、提出物忘れなどが減点の要因だ。参考までにだが、先月での欠席回数は五回と記録されている」
「質問に答えていただきありがとうございます」
有栖は満足のいく回答を得られたようだ。
「では、これにてホームルームを終了し、授業を開始する。まずは前回の復習から―」
放課後。
いつもは何も言わなくても部屋に上がり込んでくる有栖が、わざわざ夕飯を一緒に食べようと誘ってきたので、きっと重要な話でもあるのだろう。
道中に葛城と橋本がいた。
彼らも夕飯に誘おうと話しかけたが、隣に立つ有栖の顔を見ると目を泳がせながら各々用事を思い出し、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
故に、いつも通りの二人の夕食である。
「にしても驚いたよ。ほとんど有栖の予想通りだったね」
「ありがとうございます。今回Aクラスが軽微な減点で済んだのは、私だけの力ではありません」
わからない、と首をかしげる。
「今回私はAクラスの生徒にできる限り、授業や課題を真面目に取り組むように仕向けていました」
「どうやって?」
「葛城君の功績が大きいです。彼は早期からリーダーシップを発揮していました。加えて能力も充分に備わっている。彼を尊敬しているAクラスの面々も多くいるでしょう。彼と私を引き合わせてくれたのは、他でもないあなたですよ、静希君」
「俺かい?俺なんていなくても、きっと二人は仲良くなっていたと思うよ」
二人ともいいやつだしね。
「それはわかりませんよ。もしもの話には、あまり意味がありませんが」
「葛城君には比較的早期にCPの可能性について示唆していました。彼も10万ポイントには引っ掛かりを覚えていたようで、ある程度の納得と協力を得ることができました。彼が中心となり、クラスの人間をしっかり先導したお陰で、減点を最小限に食い止めたのです」
「すごいな有栖も、葛城も。俺にはてんで想像がつかなかったよ」
彼女は満足そうに語りつつ、お茶を一口含む。
こくり、とかわいらしく嚥下し、更に言葉を紡いでいく。
「あともう一つ、実験的な取り組みも行いました」
「実験?」
「仮にCPのようなものが存在すると仮定して。その評定を意図的に下げるということです。これには橋本君を使い…もとい、頼りました。彼は既に他クラスの方とそこそこ面識があったようでしたので。Aクラスの真面目な雰囲気が合わない、他クラスの空気があっているなどと方便を使ってもらい、他クラスの方と一緒に授業をサボタージュしていただきました。お陰で、他クラスに心理的に堕落しやすい雰囲気の形成を試みました。まあ正直に言いますと、橋本君の独力でここまでの結果を導くことは不可能だと思います。何もせずともCPの差は出ていたと予想しています」
「結果として功を奏したんだね。でも、橋本をさぼらせてまでそんな実験をしていたのかい?」
「勿論、橋本君の欠席はポイントを消費して出席扱いにして貰っていました。担任の真島先生の数学の授業を中心に休ませたので、計画の進行は容易でした。橋本君も授業に出ずに出席扱いになり、大層喜んでいましたよ」
「ポイントでそんなことも可能なんだね」
「それが可能かどうかも含めての実験でした。真島先生が言うには、先月の欠席回数は五回。私が橋本君を欠席させたのは四回でした。私のプール授業がどのように査定されているのかは把握しておりませんが、その他にも時折、ちらほらと欠席者はいたと記憶しています。出欠席の購入は認められているようですね。真島先生は入学時に仰いました。学校内でポイントで買えないものはない、と。出欠席は言わずもがな、果てはテストの点数なんかも、購入することができるかもしれませんね」
フフフ、と笑い彼女はいたずらが成功した子供の様に、嬉しそうに語った。
「しかし、ここまであの方と差が開いてしまっては、暫くは退屈しそうです」
それでいて彼女は少し、寂しそうでもある。
俺には彼女の孤独はわからない。
彼女が聡明であればあるほど、優秀であればあるほど、彼女は孤独になっていくのだ。
特異性、それが人を孤独たらしめる。
俺も都会に来て、自分がいかに異質な存在かを知った。
何とか順応しようともがいているがまだまだうまくいかないことばかりだ。
俺のちっぽけなで平凡な孤独なんかより、彼女は今までずっと長い間、それを感じてきたのだろう。
そんな彼女が、いつもより少しだけ、儚い存在に見えた気がした。
時刻は21時を過ぎたあたり。
有栖と話していると、時間が経つのが早い。
「今日は楽しかったです。ではまた明日」
そう言い残し部屋を去ろうとする。
その背中が、消え入りそうな小さな背中を。
見失うのが、ちょっとだけ怖くて。
だからつい声をかけてしまった。
「夜も暖かくなってきたし。ちょっと散歩をしないかい?有栖」
「本当、暖かくなってきましたね」
5月にもなると、春先の寒気は嘘のようだ。星の明るさは、夏の空の高さを彷彿とさせるように輝き、樹木は緑色に着飾り、今か今かと夏の到来と待っている。
つい最近まで桜が咲いていた気もするが、この前の大雨で散ってしまったのか。
今は葉桜が姿を見せ始め、再び桃色の彩りを見せるまでは、しばしの休憩時間といったところか。
「櫻の木の下には、屍体が埋まっている」
「急に物騒だね」
「梶井基次郎です。桜が美しいのは、その直下に腐乱した死体があって、それから栄養を奪っているのだと彼は言いました。退廃的な文学作品です」
彼女は歌うようにそう語る。
彼女が文学作品について語るときはとても楽しそうだ。
俺に学がないせいで、ついていけないのが申し訳ない。
「きっと彼は、そうでもしないと桜の美しさを受け止められなかったのです。圧倒的な存在の全て受け止めるには、人間のちっぽけな命では足りませんから」
俺にはようやく、有栖の言わんとすることがわかった。
「だから、美しいものに、醜いものを混ぜたんだね」
そうです、というように頷く少女。
「圧倒的な存在を、只の人間が受け入れるには。それ自体を汚し、引きずり落とすしかない」
悲しいですけれど。
彼女はそう言った。
彼女はきっと。
これまで圧倒的な、満開の桜のようで。
だからこそ、誰にも受け入れられることはなかったのかもしれない。
「今の私。15歳の小娘の感想でしかありません。もしかしたら、数年後、数十年後には、また別の感想を抱いているかも」
それが、詩や本の美しさ。
「だったら、有栖。来年また、一緒に桜を観よう」
彼女は少し驚いた表情を湛えている。
「来年、どういうことを思うか。感じるか。それは来年しかわからない。だから、これから一緒にたくさん桜を観よう」
ずっとずっと、一緒に。
暫くの静寂。彼女は笑って頷く。
俺と彼女。
ひとりぼっち同士が、世界で二人きりになった。
そんな幻想を抱いた。