来た道とは違うところを通ってしばらく進んだが、傷付いたユニコーンも新しい血痕も見かけなかった。
ハグリッドが足を止め、ふとハリーが顔を上げると赤い光が打ち上がったところだった。
「ハグリッド! あれ!」
「ここで待っちょれ。すぐ戻ってくるからな」
そう言ってハグリッドは下草を薙ぎ倒しながら道を進んでいった。
ハグリッドの足音が遠のいて聞こえなくなり、ハリーとレオノールは顔を見合わせた。
なんだか急に暗闇が膨らんだ気がしたのだ。
カサカサ、と葉の擦れ合う音がする。その中に衣摺れのような音も混じっている気がしたが、ハリーは努めてその音を聞かないようにした。
だが、だんだん衣摺れのような音は近づいてくる気がする。
レオノールも気付いているのか、ハリーを見上げる目が恐怖からか見開かれている。
二人とも固まって動けなかった。
もはや葉の擦れる音は入ってこず、衣摺れの音だけを耳が拾う。
ズルズル、ズルズルという音が、だんだん近付いてきて…。
そのときバリバリという物凄く大きな音とともに松明の灯りが現れた。
ハグリッドが他の三人とファングを連れて戻ってきたのだ。
ハリーとレオノールはほっと息を吐く。
ネビルが泣きじゃくっていた。
ハーマイオニー曰く、ネビルとハーマイオニーが並んでいるところにマルフォイが後ろからこっそりネビルに掴みかかるという悪ふざけをしたらしい。一方、マルフォイは躓いて手が滑っただけだと言う。が、そもそもネビルの後ろにこっそり回った理由を尋ねるとしどろもどろになり、どちらにしてもハグリッドはかんかんに怒っていた。
「お前さんたちが騒いでくれたおかげでもう捕まるもんも捕まらんかもしれんわ。よし、組分けを変えるぞ。ネビル、俺と来るんだ。ハーマイオニーもだな。そんで残りの三人がファングと一緒だ」
ハグリッドはハリーとレオノールにこそっと耳打ちする。
「お前さんたちと一緒ならマルフォイも大人しくするはずだ」
ハリーがファングのリードを持ち、その後ろにレオノール、マルフォイが続く。
ハグリッドが予想したようにマルフォイは大人しく黙ってついてきた。
「痛っ」
急にレオノールが声を上げた。
「どうした?」
ハリーは振り返る。
「ううん、なんでもない」
そう言ってレオノールは指を咥える。
枝で指でも引っ掛けたのだろうか。
さっきとは違って地面に落ちた血はまだ銀色に光っていた。
滴った血の量はだんだん増えているようで、それと同時にあの衣摺れのような音にだんだんと近づいている気がしてハリーは身震いした。
唐突に生い茂っていた樫の古木の森がすっとまばらになる。
森が少し開けた場所だった。
樹齢数千年の大木が立つその根元に、三人の目は釘付けになる。
地面に投げ出されたしなやかな四肢とその身体に月明かりが反射して真珠色に輝いていた。
今にも駆け出しそうに輝く身体は脈打つことなく銀色の血の中に横たわり、その双眸はもう何も映していなかった。
今まさに息絶えたユニコーンだった。
その光景は残酷で、それでいて美しかった。
三人はその場に立ち尽くした。
ズルズル、と滑る音とともに平地の闇が揺れる。
三人が見つめる前で暗闇からフードを被ったなにかが現れた。
それはズルズル音を立てて滑るというより這うように進みユニコーンの死骸に覆い被さる。
フードから口が現れ、銀色の血が流れ出す傷口を喰む。
続いてずる、ずる、という身の毛の弥立つ音が平地に響いた。
「ギィヤヤヤヤヤアア!!」
マルフォイが絶叫し逃げ出した。
ファングもリードを持つハリーの手を振り切ってけたたましい鳴き声を上げながら逃げる。
一歩出遅れたハリーとレオノールは黒い影から目が離せなくなった。
生々しい音を立てて血を啜っていたものがゆっくりと頭を上げ、こちらを向く。
フードの中は闇だった。
それがこちらを向いた瞬間、ハリーの頭に激痛が走る。
まるで額の傷跡から頭を割られたようだ。
あまりの痛さにハリーは頭を抱え呻き声をあげて蹲った。
レオノールは隣で蹲るハリーに気付いていながらも動けなかった。
フードの中から目線が離せない。
手の中できつく杖を握りしめたが、それも無意味な気がしていた。
影はゆっくりと、その裾を地面に滑らせてズルズルと音を立てながらレオノールに近づく。
動きが素早い気はしなかったが、気づいた時にはそれはレオノールの目の前にいた。
覆い被さろうと地面から伸び上がったそれがレオノールの顔に手を伸ばす。
ふっとレオノールは自分の身体の力が抜けるのを感じた。
刹那、腕が勝手に上がり杖先から呪文が放たれた。
見えない盾が間に立ちはだかり、影が後へ弾かれる。
尚も襲い掛かろうと影が寄ってくる前に後ろから蹄の音が駆けてきた。
蹄はレオノールとハリーの上をひらりと越え、影に向かって突進していった。
一分、二分経っただろうか。
額の痛みは衣擦れの音が遠ざかるのと共に薄れ、今はもう完全に痛まなくなっていた。
ハリーは顔を上げる。
影はいなくなり、一人のケンタウロスが二人を庇うように立っていた。
「怪我はないですか?」
さっき会ったロナンとは別の、金髪のケンタウロスがハリーの顔を覗き込んだ。
「は、はい。ありがとうございます」
横ではレオノールが地面に膝を着いて呆然と森の奥を見ている。
ケンタウロスの差し出した力強い腕に引っ張られてハリーは立ち上がった。
レオノールはまだ目を見開いて呆然と彼方を見ていた。
「レオノール? 大丈夫だった?」
ハリーの問いかけにレオノールはコクコク頷くが、なんだかぼんやりしていた。
手にはまだしっかり杖を握っている。
同じようにケンタウロスが手を差し出すが何故かレオノールは全然力が入らず、ほとんどケンタウロスの力で持ち上げられた。
「君はポッター家の子だね、そして君は、」
ケンタウロスはそこでようやく森の奥から顔を背けたレオノールの顔を深く見つめた。
「また来たのか」
諦めたような、どこか憐れむような声でケンタウロスはレオノールを見つめる。
「君の名前は?」
「レオノール・ペベンシー」
「それは本当に君の名前か?」
ケンタウロスの言葉にレオノールは少し口を噤んだ。
「…私とあなたは知り合い?」
「それは君ではない」
ハリーにはケンタウロスの言葉の意味はわからなかった。
「早くハグリッドのところへ戻った方がいい。今、森は危険だ。特にポッター、君にはね。私に乗れるかな」
ケンタウロスは身をかがめてハリーとレオノールが乗りやすいようにした。
まだ脱力しているレオノールをハリーが後ろから支える。
駆け出したケンタウロスの動きは多分裸馬に乗った時のそれで、ハリーにはあまり心地の良いものではなかった。
「…あなたの名前は?」
唐突にレオノールがぼうっとした声のまま尋ねた。
「私はフィレンツェだ」
「そう…」
突然森の奥から荒々しい蹄の音が聞こえた。ハリーがそちらを見たのと同時に新たにケンタルロスが二人現れた。一人はロナンで、もう一人は初めて見るケンタウロスだった。二人とも脇腹が激しく波打ち、汗が光っていた。
「フィレンツェ!」
ロナンでない方のケンタウロスが怒鳴った。
「なんということを! 人間を背中に乗せるなど、君はロバにでもなったのですか!」
「ベイン、この子が誰なのかわかっているのですか? ポッター家の子です。もう一人はまだ解けない者です」
「なんだと、、」
ベインと呼ばれたケンタウロスとロナンがハリーとレオノールを嘗めるように凝視する。射竦めるように二人を見てからベインはまたフィレンツェに目線を戻し、力強い口調で捲し立てた。
「だとしても、君は忘れたのか。我々は天に逆らわないと誓った」
「私はフィレンツェが最善だと思うことをしているのだと信じる」
ロナンが落ち着かない様子で蹄で地面を引っ掻きながら低い声で言う。
「最善! それがなんだというのだ。それは我々の領域ではない!」
「あのユニコーンを見なかったのですか? 何故殺されたのか、その秘密を惑星は君には語らなかったのですか?」
今度はフィレンツェがベインに声を荒げる。
「ベイン、僕はこの森の闇に忍び寄るものに立ち向かう。必要とあらば人間とも手を組む」
「とにかく、今は話す時ではない」
ロナンが荒げる二人の間に身体を挟んだ。
「フィレンツェ、早く子供たちをハグリッドのところに連れていきなさい」
フィレンツェは他の二人を置いて駆け出す。
誰も喋らなかった。
しばらくして一際木々が茂ったところでフィレンツェが口を開いた。
「ハリー・ポッター、レオノール、君たちはユニコーンの血が何に使われるか知っていますか?」
ハリーは少し考えたがわからなかった。
レオノールは寝てしまったのか、反応がない。
「わかりません。魔法薬で尾の毛を使ったことはありますけど」
「それは、ユニコーンを傷つけるということが非情極まりないことだからです。ユニコーンの血はたとえ死の淵にいる時でもその命を永らえさせてくれます。ですが、純粋で無垢な生物を殺すのだからその代償は計り知れない。その血が唇に触れた瞬間からその者は呪われるのです」
「呪われるの?」
「永遠に。得られる命は完全な命ではなく、生きながらの死の命なのです。それでも生にしがみつこうとする者がいる」
「誰がいったいそんなことを? 永遠に呪われてしまうのに?」
「心当たりがありませんか?」
ハリーはちょっと考えて、すぐに答えを見つけた。
「でも、どうして今になって?」
「つなぎです。あと少しで完全な力と強さ、そして永遠の命が手に入るとしたら? それまでほんの少し命を延ばしたい。ハリー・ポッター、今この瞬間も、あの学校に隠されているものを知っていますか?」
「そうか、賢者の石! ユニコーンの血はそれを手に入れるまでのつなぎなんだ!」
ハリーの中でピースが繋がる。
もう近くにはいないはずなのにあの衣擦れの音がした気がしてブワッと背中の毛が逆立った。
「さっき、僕達が見たのは、、、」
「ハリー!レオノール!」
ハグリッドの声だった。
「ああ、なんちゅうことだ」
松明を持ったハグリッドとハーマイオニー、ネビル、そしてドラコとファングもいた。
「ハリー、ハリー、大丈夫?」
「僕は大丈夫だよ。けど、」
「レオノール!」
ドラコが声を上げた。
「ハグリッド、ユニコーンが死んでいる。森の奥です。まっすぐ行けばわかるでしょう」
ハグリッドは走って森の奥にユニコーンを確認しに行った。
ハリーは屈んでくれたフィレンツェの背中から滑り降り、レオノールが降りるのを助ける。
レオノールは眠っていなかったがまだぼんやりしていた。
「では、幸運を。ハリー・ポッター、レオノール。ケンタウロスでさえ惑星を読み間違うことがあるはずです」
ハリー達は森の奥へゆっくり戻っていくケンタウロスを見送った。
「レオノール、あなた大丈夫?」
「大丈夫」
覗き込むハーマイオニーにレオノールは目線を合わせないまま頷く。
「何があったの? 何を見たの?」
レオノールの代わりにハリーが説明する。
ユニコーンが死んでいたこと、フードを被った影が血を啜っていたこと、影がこちらを向いた瞬間に傷が痛んだこと、影が襲ってきたこと。
ハーマイオニーがヒュッと息を吸う。
「それでレオノールが杖から何か出して影が後ろに吹き飛ばされて。また襲ってこようとしたんだけどそこにケンタウロスが来て追い払ってくれたんだ」
「レオノールが一度追い払ったの? そんな呪文レオノール知ってたの?」
「知らない。咄嗟に身体が動いただけ…」
怪我はないようだったがレオノールは明らかに様子が変だった。
ここ最近やっと少し普通の子供らしく表情が動くことが増えてきていたのに、今のレオノールは出会った最初の頃の感情の抜け落ちた表情をしている。
そこにハグリッドが戻ってきて夜の罰則はお開きになった。
皆レオノールに医務室に行くことを勧めたが、怪我はないからとレオノールは断った。
玄関でそれぞれの寮に分かれ、ドラコとレオノールは二人で寮に戻る。
森から帰るときからずっと、ドラコはレオノールの手を握っていた。
レオノールの足取りは存外しっかりしていたが、そんなことはないとわかっているのに、今のレオノールは目を離すとふと消えてしまいそうな気がした。
レオノールを置き去りにして逃げたことへの罪悪感からドラコは口を開く。
「あのときは、その、…悪かった」
「ん? んー、うん」
レオノールはなんのことかわかっていないかのような返事をする。
「本当になんともないのか?」
「んー。疲れた」
言葉を探すようにレオノールが首を傾げた。
「自分の身体が自分のものじゃないみたいだった」
「どういうこと?」
「んー、…」
それ以降レオノールがしっかりと返事することはなく、談話室でおやすみを言って二人は別れた。
ドラコは緊張や不安から自分でも思った以上に疲れていたようでベッドに倒れ込むなり意識を手放した。