「泣かないで」
マリオットは自分に言い聞かせるようにレオノールの両手を握って笑った。
「私、絶対手紙出すから」
マリオットはヒューズ孤児院の特に職員達に好かれていた。淡い茶色の巻き髪にヘーゼルの瞳の儚い天使のような容姿。そして聞き分けが良く思いやりもあって手が掛からないとなれば常時子供の世話に追われている大人達のハートを鷲掴みにしないわけがなかった。そんなマリオットがレオノールと仲が良かったのは二人とも”ヒューズ”だったからだ。
時に子供は残酷で何にでも優劣を付けたがる。実親が分かっているかいないかもそんな優劣の一つだった。そんな”ヒューズ”の一人だったにも関わらずいじめっ子達もマリオットには一目置いていた。レオノールがあまりいじめられないで済んでいたのもマリオットが側に居てくれたからだ。そしてマリオットはレオノールが不思議な力を使えることを知っていた孤児院で唯一の子だった。マリオットはレオノールの不思議な力を気味悪がらなかった。
マリオットが引き取られる日、レオノールは泣かなかった。目に涙が浮かんだが、泣くまいと堪えていた。
「泣かないで、レオノール」
そう言うマリオットの方が泣いていた。
「これ、ね、クラークさんがくれたの。私の最初の友達よって。タフィーって名前にしたの」
マリオットはうざぎのぬいぐるみを出した。茶色のうさぎだった。
「レオノールに持ってて欲しいの」
「私に?」
レオノールは鼻を啜った。
「うん。私の代わりよ」
レオノールはマリオットからぬいぐるみを受け取った。タオル生地でできた肌触りの良いぬいぐるみだった。
これから新しい生活が待っているマリオットを悲しい気持ちにさせたくなかった。
マリオットの頰の涙を手で拭ってにっこりと笑った。
「手紙、タフィーと待ってるよ」
「あなたが!?」
黒い炎を通り抜けた先にいたのはスネイプでもヴォルデモートでもなく、クィレルだった。
その足元に血塗れになったレオノールがうつ伏せに倒れていた。目は固く閉じられている。
クィレルは冷たい笑みを浮かべた。いつものおどおどした様子からは程遠い笑みだ。
「ポッター、君にはここで会えるだろうと思っていたよ」
「でも、僕は、スネイプだと、、、」
「はっ!奴はダンブルドアの犬だ。奴さえいなければもっと早くに石を手に入れられていたものを。陰気なコウモリのような奴だ。いい隠れ蓑にはなったがな。お陰で、誰も、お、臆病で、か、かわいそうなクィレル先生を、う、疑いやしなかっただろう?」
「でも、スネイプは僕を殺そうとした!」
「殺そうとしていたのは私だ。奴はその邪魔をしてきた。さあポッター、お前も邪魔をするな」
クィレルがパチッと指を鳴らすとどこからともなく縄が現れてハリーの身体に固く巻きついた。
「どうしてレオノールを?」
尚もハリーは食い下がった。
「此奴は我々とは異なる魔法を扱う一族の末裔だ。此奴の力があれば石を手に入れることなど造作ない。だが、蓋を開けてみれば使い物にならない未熟者だった。とんだ手間を食らったものよ。まあいい。此奴の使い道はいずれ御主人様が見つけるだろう」
クィレルは足元のレオノールを一瞥するとハリーに背を向けた。
「私はこの鏡を調べなくてはならない。ヴィヴィエールの小娘が使い物にならないからな」
クィレルの後ろにあったのはクリスマスの夜にハリーの両親を映し出したあのみぞの鏡だった。
「この鏡が石を見つける鍵だと。ダンブルドアめ、手の込んだことをする」
クィレルは鼻がくっつきそうになるほど顔を近づけて鏡の木枠の隅々をつぶさに調べる。そしてそのまま鏡の裏側に回った。
ハリーは縄が解けないか身を捩らせたが、結び目は固かった。バランスを崩したハリーはよろけて倒れた。
倒れたハリーが身体を起こすと気絶していたはずのレオノールとバチッと目が合った。
レオノールは指の先までぴくりとも動かさないまま
ふっとレオノールが自分の手に目線を落とした。身体の周りにできていた血溜まりが手先から少しずつ伸びている。血溜まりが伸びていく先に鏡の脚があった。
レオノールが何かしようとしている。
今ハリーにできること。それは少しでもクィレルの意識を鏡とレオノールから逸らすことだ。
「クィディッチの試合の時、スネイプは僕を殺そうとしていた」
おもむろにハリーが言う。
「ああ」
鏡の裏からおざなりな返事がする。
「殺そうとしていたのは私だ」
「でも、ハーマイオニーがスネイプが呪文を掛けているところを見たって」
「奴が掛けていたのは私が掛けていた魔法の反対呪文だ。君の友人のミス・グレンジャーが奴のローブに火をつけ奴が目を逸らしたとき、もう君を殺せたも同然だったのだが。あと一歩のところで椅子の足が折れ、私は君から目を逸らしてしまった。ご主人様は大層ご立腹された。スネイプが邪魔していなければもっと早くに君を叩き落とせていたものを」
「スネイプが僕を守ろうとしていた?」
「そうだ。次の試合でスネイプが審判役を買って出たのもそのためだ。ダンブルドアがいる前では流石に私も君に手は出せない。奴は憎まれ役を買って出ただけになった」
「でも、スネイプは僕を憎んでいる」
「さよう。お前の父親と奴はホグワーツの同期で互いに毛嫌いしていた。憎い同期の忘れ形見を守らなければいけないのはさぞかし愉快であろうな」
クィレルはせせら笑った。
レオノールの手元から伸びた血が鏡の脚に辿り着いた。
鏡の脚は乾いたティッシュのように血をすうっと吸い上げた。
レオノールが見開いていた
ハリーは次に何が起こるかと待った。
何も起こらない。
「どうなっているんだ」
クィレルがまた前に回ってきて、食い入るように鏡を見つめた。
「石が見える。私が石をご主人様に差し出している、、、だが肝心の石はどこだ!」
裏から回ってくるときのクィレルの足が伸びた血溜まりを踏み、レオノールから鏡に向かって伸びた血の跡は目立たなくなっていた。
クィレルは鏡に夢中で足元の血溜まりには気づいていない。
レオノールは目を閉じたまま動かない。
ハリーは考える。
クィレルが手に入れるより先に石を手に入れたい。
今ハリーの
ハリーはクィレルに気付かれないように鏡の正面ににじり寄る。
ロープが食い込んだところが痛んだ。
鏡に張り付いているクィレルの後ろでハリーはなんとか自分が鏡の端に映るところまでずれた。
鏡にはロープに縛られ、床に座る自分が見える。
ふと鏡の中にどこからともなく女の人が現れた。
ホグワーツの上級生くらいの歳に見える女性は軽い足取りで鏡の中のハリーのすぐ後ろにしゃがみ込んだ。
ハリーはびっくりしてそっと息を呑んだ。
今よりも少し歳を取ったレオノールだった。
クィレルには見えていないようだ。
鏡の中のレオノールは溌剌とした顔で鏡越しにハリーと目を合わせた。
「誰かと話すのは久しぶりだな」
ハリーのすぐ耳元から声がする。
クィレルにはその声すら聞こえていないようだった。鏡を見ながらぶつぶつ独り言を言い続けている。
「君が石を見つけたい子?」
歳に似合わない静かな声だった。
ハリーはそっと頷く。
ハリーは鏡の中にいる女性がレオノールではないことに気づいた。
そっくりだがレオノールではない。
「ならあげるよ」
そう言って鏡の中の女性はどこからともなく血のように真っ赤な石を取り出し、それを鏡の中のハリーのポケットに入れた。
その途端に、ハリーは自分のポケットから圧迫感を感じた。
なんと、ハリーは石を手に入れてしまった!
あまりにも簡単に石が手に入ってしまったことにハリーは逆に狼狽える。
しかもロープできつく縛られたままなので石を手に入れられてもこのままではどうしようもない。
「わからない、どういう仕掛けだ!御主人様!知恵をお貸しください!」
ずっと唸っていたクィレルが声を荒げた。
「ポッターを使え…」
突然低い声が響いた。
身体から飛び出しそうになるほどハリーの心臓がびくりとする。低い声はクィレル自身から聞こえてきた気がした。
クィレルがパチッと指を鳴らすと身体を縛っていたロープが解けた。
「さあ、ここへ立て。何が見えるか言うのだ!」
ハリーがのろのろと鏡の真正面に立つ間、鏡の中の女性はクィレルのターバンを射るように見ていた。
ハリーは鏡越しに自分の青ざめた顔を見つめた。
既に石はハリーの手元にある。
何か、嘘を吐かなくては!
くるっと再びこちらを向いた女性がハリーの斜め後ろに立つ。
興味津々といった顔でハリーの顔を食い入るように見つめてくる。
本当にクィレルには女性の姿が全く見えていないようだ。
「どうだ、何が見える?」
クィレルの声にハリーの意識が女性から引き戻される。ごくりと唾を飲み込み口を開いた。
「ぼ、僕がダンブルドアと握手しているのが見える。グリフィンドールが寮杯をもらったんだ」
「小僧は嘘を吐いている…」
またしても地響きのように低い声がクィレルからした。
「本当のことを言え、ポッター!」
「俺様が、直接話す…」
クィレルが鏡越しにハリーを睨みつけながら頭のターバンを解く。
するするとターバンが床に落ち、クィレルの後頭部であるはずのものが現れた。
蛇のような鼻孔に、ギラギラと血走った瞳。
蝋のように白い肌に恐ろしい形相を浮かべて顔がハリーを睨む。
ヴォルデモートのなれ果てがそこにいた。
ハリーは金縛りにあったように動けなかった。喉がカラカラに乾いて声も出ない。
「ハリー・ポッター…」
ヴォルデモートが囁く。
「見ろ、この有様を。ただの影と霞に過ぎない、誰かの身体を借りてようやく姿を現せる有様だ。だが、滅んではいない。もうすぐ命の水で俺様の身体も取り戻す。さあ、お前のポケットの中にある石を頂こうか」
ヴォルデモートは石の在処に気づいていたのだ。
ふっとハリーの足に感覚が戻る。
よろめきながら後ずさるハリーにヴォルデモートが囁く。
「馬鹿な真似はよせ。小僧が俺様から逃げられると思うか? お前の母親はお前を守ろうとして死んでいった。ここでお前が石も守れず友人も守れず死ねば親子共にとんだ無駄死にになるのだぞ。諦めて俺様の側に付け。石を寄越すんだ」
「嫌だ!」
「捕まえろ!」
低い声が叫ぶ。
扉に向かって駆け出すハリーにクィレルが襲いかかった。
クィレルに引きずり倒され、馬乗りになったクィレルがハリーの首に手を掛ける。
その途端ハリーの額に針で刺されたような痛みが走る。
息が詰まり、無我夢中でクィレルの腕を引っ掻いた。
意外にも簡単にクィレルの手の力が緩む。
「御主人様!此奴を抑えていられません!手が!!」
膝でハリーを地面に押さえつけたままクィレルは火脹れになった自分の両手を見て悲鳴を上げていた。
「馬鹿者!ならば殺せ!杖を使うのだ!」
クィレルが杖を取り出し、死の呪文を唱え始める。
「顔を襲うんだ!」
鏡の中の女性が叫ぶ。
ハリーは咄嗟に手を伸ばし、クィレルの顔を掴んだ。
「ぎゃあああああっ!」
クィレルが転がるようにハリーから離れる。
ハリーの手が触れた形に顔の皮膚が焼け爛れてべろりと皮が捲れる。
「逃がすな!」
女性の声に後押しされてハリーはクィレルに飛びかかる。
暴れるクィレルの顔に必死にしがみつく。
「ああああああああアアっ!」
クィレルは痛みにのたうちまわった。
ハリーは理解する。クィレルは自分に触れることができないのだ。
殺せ!と繰り返すヴォルデオートの声と共に声にならないクィレルの悲鳴がハリーの頭にがんがんと響く。
肉の焼ける臭いが鼻の内側からひりひりと刺さる。
ハリーは渾身の力を振り絞ってクィレルの顔にしがみついていた。
手がぐずっと中にのめり込んだ意味にも気づかず、あまりの額の痛みに遠退く断末魔の中でハリーの意識は闇の中へと落ちていった。
声にならない悲鳴はやがてふっと途絶え、その四肢はだらりと力なく垂れた。
クィレルが顔を骨まで焼かれ痛みで息絶える様子を、鏡の中の女性は手に顎を乗せて眺めていた。
息絶えた屍から霞のようなものが抜け出し、さーっとどこかへ飛んでいく。
その行方を最後まで眺めてから女性は動き出した。
鏡の中の気を失っているハリーに近づき真剣な眼差しでその顔を見下ろす。
「君、
誰に聞かせるでもなく、女性は呟く。
しばらくそのまま顔を眺めていたが、近づいてくる足音に気付くと徐にハリーのズボンに手を伸ばした。
血のように真っ赤な石を手の上で弄びながら、足音の主が部屋に辿り着く前に女性は鏡の中から何処かへと姿を消した。
「さあさあ、ほら中に入って」
マシューさんに促されて大きな家の中の部屋の一つに足を踏み入れた。
床はぴかぴかに磨き上げられ、分厚い絨毯が敷かれている。
その絨毯の上にちっちゃな靴を揃えてあの子は立っていた。
「アビー。レオノールよ。今日からあなたのお姉さんになってくれるのよ」
あの子に頬を擦り寄せながらカミラさんが言った。
「レオノール。私達の娘のアビーよ。これからアビーのこと、よろしくね」
あの子はくしゃっと人好きのする笑顔を浮かべて躊躇なく私に駆け寄ってきた。
この家に来る前に買ってもらったばかりの服にあの子は飛びつく。
「アビーの新しいおねぇちゃん!アビーのおねぇちゃん!」
私に飛びつき、ぴょんぴょん飛び跳ねながらきらきらした目で見上げてくる。
可愛かった。
思わず笑みが溢れてしまうくらいに。
心の奥がじんわりと溶かされるように嬉しかった。とてもとても。
新しい小さな妹は何の躊躇いもなく自分に飛びついてくる。
幼くて舌足らずなアビーはレオノールの名前を上手く言えなかった。
だからアビーは私をノーラと呼んだ。
「ノーラ!ノーラ!」
あの子は私の行くところどこにでも着いてこようとした。
「ノーラ!」
なんでも一緒にやりたがった。
「ノーラ、一緒に寝よ!」
寝るのだって一緒。
「ノーラ、一緒に庭行こ!」
庭で遊ぶのだって一緒。
「ノーラ、おままごとしよ!」
人形で遊ぶのだって一緒。
「ノーラ、ずっと一緒だよ!」
ずっと、ずっと一緒だった。
ふっとレオノールは目を開ける。
レオノールはベッドに仰向けに寝ていた。
ここはどこだろう。
しばらくの間薄汚い天井を眺め、ようやくホグワーツの医務室だと気づいた。
同時にクィレルに襲われ引き摺り回されたことも思い出す。
レオノールはクィレルに裂かれたはずの右腕を見下ろした。
うっすらと傷は残っているが痛みはほとんど感じない。
感触を確かめるように軽く手を握ったり開いたりした。
そのままレオノールはぼうっと物思いに耽る。
ずっと会えていないままの二人とついさっきまで会っていたように感じられる。
マリオットから手紙は一度も届かなかった。
クラーク夫妻に引き取られた年の夏の旅行先で交通事故に巻き込まれたのだと孤児院の噂好きの職員達が話しているのを耳にした。
ずっと一緒だね、と話していたのにアビーとは引き離されてしまった。
アビーを傷付けていないとどれだけ訴えても誰も耳を貸してはくれなかった。
子供のレオノールに、無力なレオノールに、できることはなかった。
だから、レオノールは諦めたのだ。
もうどうでもよかった。
部屋に閉じ込められたままだろうが、食事を忘れられようが、飼われるような生活だろうが、総てがどうでもよかったのだ。
スネイプ先生から危険な目に遭うと忠告されたときも大して気に留めていなかった。
でも、クィレルに殺されると感じたとき、ふと死にたくないと思った。
もうあの二人に会うことはきっとない。
でも。
今のレオノールには、
ハリーがいる。
ハーマイオニーがいる。
ロンがいる。
ドラコがいる。
セオドールも、フレッドとジョージも。
それに、––––
シャッとカーテンが引かれ、そこには一段と不機嫌なスネイプが立っていた。
「この馬鹿者、、、、!」
自分の顔を見上げて涙を溢すレオノールを見て、スネイプは言葉を切った。
––––それに、スネイプ先生もいる。
不器用で何を考えているのかわからないけど、自分の心配をしてくれる大人が。
レオノールは静かに泣いた。
レオノールはようやくあの部屋から出られたのだ。