隣の建物との距離はせいぜい一メートル。精一杯窓の端に寄ったとしても煉瓦の壁の上下の終わりは見えない。窓枠に顔を引っ付けて斜め端を見たときに明るいところ、つまり壁の横の終わりが見える、三十センチにも満たない幅で。
鳥が見れれば良いほう。人の頭が見えたら超ラッキーだ。
でも窓に張り付いて外を覗くのもすぐやらなくなった。
気持ちを集中させて右の掌をぎゅっと握る。
ガシャンッ
隣の建物の下の方から破壊音が届く。
感触の残る掌を何度も握ったり開いたりする。
アビーはどうしてるだろう。
私は窓ガラスを割ってないんだって伝えれたらいいのに。
コト、コト、コト。
スワンさんの足音。
キィッ
取り出し口が軋む。
ご飯の時間だ。
外が薄暗いからこれは晩ご飯。
本棚にあった本は半分くらい読んだ。でも残りの三分の一は読みかけ。どこのませたガキが相対性理論についての論文なんか読みたいと思う?
最初からタフィーはアビーにあげればよかったんだ。
端の方がちょっと歪んでてそのせいで外の景色も陽炎みたいに歪んで見えた窓ガラス。
右の掌をぎゅっと握る。
窓の外で雨の音に紛れて微かに破壊音がする。
私が割ったんじゃない。
コト、コト、コト。
キィッ
取り出し口が軋む。
ご飯の時間だ。
雨が続いていて外はずっと暗いまま。五回前のご飯が晩ご飯だったからこれは昼ご飯。
シャワーから上がってタオルで髪の毛を乾かす。湿気が多くてなかなか乾かない。雨の日にシャワーを浴びたのは間違い。
髪の毛が伸びた。たぶんかなり。アビーと比べっこしてた時は胸ぐらいまでしかなかったから。
アビーはタフィーをどうしたかな?
徐に右手を突き出して掌を握る。
固い感触の残る掌を握ったり開いたりする。
窓ガラスを割ったのは私じゃない。
コト、コト、コト。
キィッ
取り出し口が軋む。
ご飯の時間だ。
まだ雨が続いている。何回目のご飯か忘れちゃった。
知らない間に寝てたみたい。同じフロアのカップルが喧嘩する声で目が覚めた。たぶんフランス語。声が遠いからすぐ隣の部屋ではないみたい。すごく怒ってる。
ガシャンッ
隣の建物から破壊音がする。
私も怒ってた。
でもあの時は窓ガラスを割ってない。
キィッ
取り出し口が軋む。
ご飯の時間だ。
外が明るいから朝ご飯?昼ご飯?
結局退屈過ぎて相対性理論の論文は最後まで読んだ。これっぽっちも理解できないけど。
あの絨毯はどうやって掃除したんだろう。
右の掌を握ったあと、もう一度手を強く握りしめてみる。
細かい砂のような感触が手に残る。
窓ガラスは私が割ったんじゃない。
キィッ
取り出し口が軋む。
ご飯の時間だ。
外が薄暗いからこれはたぶん晩ご飯。
驚くことにこの部屋には刃物が一つもないって気づいた。鋭利なものは鉛筆が限界。別にそれでどうしようってわけじゃないけど。
窓ガラスってひとりでに割れるものなのかな。
固い感触の残る掌を見つめた。
でも私が割ったんじゃない。
キィッ
取り出し口が軋む。
ご飯の時間だ。
半日くらい経ったらしい。
死に方について考えた。なんとなく。
とりあえずこの部屋で死ぬとしたら溺死か餓死。別に自分がやるわけじゃない。
砂のような感触を落とすように掌を払った。
そう、私が割ったんじゃないから。
キィッ
取り出し口が軋む。
ご飯の時間だ。
ご飯の時間なんだ。
ガシャンッ
私が割ったんじゃない。
私がやったんじゃない。
キィッ
取り出し口が軋む。
ご飯の時間だ。
ご飯…か。
私が割ったんじゃない。
ガラスを割る感触がどんなものか
セブルス・スネイプは中身の減っていない作り置きの鍋を傾けながら溜息を吐いた。まただ。
持ってきた食材を取り出し、パスタを茹でソースを作る。ソースを煮詰めている間に林檎を切る。
自分の後をついてきた少女はその間ずっと台所の入り口の端からこちらを窺っていた。自分がこの屋敷にいる間は必ず距離を取って後についてくる。雛の後追いというより肉食獣の様子を伺う怯えた小動物のようだ。
出来上がった料理を食卓に並べ、椅子に座るよう少女に促す。
「最後に食べたのはいつだ?」
セブルスは自分が引き取った少女レオノールに問いかけた。
「朝は食べました」
「いつの朝だ」
「あー、…」
レオノールは微かに片眉を上げた。最初にここに来た時に比べて明らかに頰がこけている。
スネイプはもう一度深く溜息を吐く。
「前に私がここに来たのは三日前だ。その時三日分の作り置きをしたはずだが、どう見ても三食分ほどしか減っていない。無理して食べろとは言わないが、もう少し食事に関して貪欲になったらどうだ」
レオノールは何も言わず、横に目線を流す。スネイプは溜息を吐いた。
「食べようか」
自分が促して始めて皿に手をつけるレオノールを見て思う。子供の、しかも数年間幽閉されていた女の子の面倒を自分が見るのはやはり無理なのではないか。
「普段は何をしている?」
激務を抱えているとはいえ若干十一歳の少女に何日も一人暮らしをさせていることには責任を感じる。
「読書です。先生が買ってくれたやつ」
「私が買ったわけではない。元々君のお金だ。庭には興味がないのか?」
「庭?」
レオノールが口に運びかけたスプーンからスープの具がボタッと落ちる。
「いいんですか?」
「何がだ」
「外に出ること」
「いいに決まっている。ここの敷地から出ない限り何をしても構わん」
外に出られると聞いてレオノールの顔が少し明るくなったように見えた。
「一緒に外に来てもらえます? 食べ終わったら」
「今から外に出ても何も見えないがいいのか?」
「?」
流しの上の壁の振り子時計がボーンボーンと鳴り出す。
「たった今夜八時になったところだ」
レオノールはセブルスの後ろの壁の時計を見て困ったように顔をしかめた。
この部屋だけでなく屋敷のすべての部屋に一つあるいはそれ以上の時計がある。私達は自分を見失いやすいように時間も見失いやすいから、と彼女は言っていた。
「時計は読めるか?」
「なんとなく?」
どうやら読めていないようだ。時計が読めたとしてもここには時間の経過を感じさせるものがなさすぎる。レオノールがほとんどを過ごしているのは窓のない部屋で昼夜問わず昼光色の照明の光しかない。体内時計が狂うのも仕方ないだろう。他の部屋も勧めたが気付くと元の窓のない部屋に戻っている。
やはり、
「しばらく人気のあるところで暮らそうか」
後見人とはいえ四六時中傍にいてやることはできない。かといって新学期から他の同級生との共同生活が始まった時に周囲についていけないようでは困る。
「はい」
セブルスの提案にレオノールは眉一つ動かさなかった。
「先生の楽なようにしてください」
君のためにそうするのだ、と言おうとしてやめた。これではお粗末な言い訳にしか聞こえない。
「ダンブルドアの許可が下り次第漏れ鍋の一室に移ろう。あそこなら常に人が居るし、外を出歩いても支障はない。普通の生活リズムも身に付くはずだ」
レオノールはシャクシャクと林檎を食べながら話すのを聞いている。
感情の抜け落ちた能面のような顔で見られるとまるで自分の落ち度を責められている気がする。そうやってあたかも相手の為のことように言うが本当は自分の手に負えないから逃げるのだろう? と。そう言われている気がしてしまうのは考え過ぎなのだろうか。
レオノールの母親カイラの魔法のせいで十一歳の誕生日を迎えるまでレオノールは消息不明だった。皮肉なものだ。彼女が魔法を掛けなければレオノールは四年間を狭い部屋の中だけで過ごすことはなかった。だがもし彼女が魔法を掛けていなかったとしたら、それはスネイプが赤子のレオノールを引き取っていたことを意味する。自分が赤子を一人で育てることなどできただろうか。
セブルスは自分の後について食器を流しに出す少女を見た。
考えても無意味だ。これからどうやってこの子を支えてやれるか、考えるべきはそれだ。幾ら惜しんでも過去は変えられない。レオノールが幽閉されていたことも、リリーがもうこの世にいないことも変えようのない事実なのだ。