『かあさんは幸せ?』
聞かなくてもわかっていた。
『幸せよ。これ以上の幸せは、ないわ』
肘掛椅子にゆったりと座る母はにっこりと笑って私の頬に手を添えた。
『こんなに可愛い娘にも恵まれて』
私と母は似ても似つかなかった。
『彼、自分の出生について調べてるの』
そう言うと初めて母の顔が曇った。
「アビー! 返してよ!」
「やっ!!」
ぬいぐるみを取られまいと身体を捻るアビー。
私はぎゅっと手に力を入れる。
ガシャンッ!!と音がして割れた窓ガラスがアビーと自分の上に降り注ぐ––––––
まだ誰もいない大広間。
目眩し術をかけた
彼がジュディスのことをこれ以上気にしないように。
彼がジュディスへの関心を失うように。
他の生徒に混ざって朝食を取りながら
「アビー!」
「やっ!」
私はぎゅっと手に力を入れる。
ガシャンッ!!と音がして割れた窓ガラスがアビーと自分の上に降り注ぐ––––––
「何が欲しいんだ?大したものは持ってない。僕が孤児なことくらいは知ってるだろう」
「富や財に興味はないわ」
「なら何ならいいんだ?」
彼の顔を見上げた。
黒い瞳と目が合う。
「貴方の血が欲しいわ」
「僕の血?」
彼は意外そうに言う。
「アビー! 返して!」
「やっ!」
ぬいぐるみを抱き抱えるアビー。
私はぎゅっと手に力を入れる
ガシャンッ!!と音がする。
大きな破片がアビーと私の上に降ってくる––––––
「っ…!」
目を覚ましたレオノールは呻き声を漏らす。
がんがん痛む頭を両手で抱えた。
何日経っただろう?
ほとんど眠れていなかった。
眠るとアビーの悪夢が襲ってくる。トムの仕業だ。
ジュディスの記憶を見ている間だけはかろうじて眠れた。が、記憶が途切れた瞬間にアビーの夢が流れ込んでくるので細切れにしか眠れていない。
でも一度に沢山の血を飲むわけにもいかない。いつここから出られるかわからないのだから、少しでも後に残しておきたかった。
食料も水もまだ十分あるのに、まさか寝不足で追い詰められるなんて。
汚れてべっとりした髪がまとわりつく。気持ち悪い。
「だいぶしぶといね」
トムがいた。
霞のような姿だ。
どうしてトムがいるんだ?
また夢を見ているのか。
「もう少しだね。暇つぶしに僕に付き合っておくれよ。確かめたいことがあるんだ」
何だかトムは嬉しそうだ。ムカつく。
でも目を瞑ったところでまた悪夢に襲われるだけ。
トムはトンネルの先へと歩いていく。歩くというより滑るようだ。ゴーストのように見える。
「どこにいくの?」
「こっちだよ」
レオノールは壁に両手をついてふらつく身体を支えながらトムの後を追った。
どのくらい歩いただろうか。
トムは壁の前で立ち止まった。愛しむような眼差しで壁を眺めている。
「なに?」
ぼんやりした頭でレオノールは声を掛けた。
「ここさ」
レオノールはトムの隣に立った。
目が慣れてくると、それはそれは豪華な彫刻が見えてきた。鱗の一枚一枚まで丁寧に彫られた蛇が絡み合っている。大粒の目はエメラルド色に光っていた。
「これが?」
「この中に入るのさ」
「それで?」
「確かに君は操りにくい。記憶は読み解けないし、記憶を改竄するのも本当に手がかかる。でも、すごく馴染みがいいんだ」
トムはうっとりしたような表情で彫刻に手を添わせる。
「なんか矛盾してない?」
「でも事実なんだな。実際、君が日記から離れていてもこうして僕は君の中に現れることができる。それで考えたんだ」
「…何を?」
「君の魂と馴染みがいい理由を、さ」
「…で、思い付いたの?」
「ああ。でも確証が欲しいんだ」
「…それでどうするの?」
どうでもいいから横になりたい。
「君に扉を開けて欲しいんだ」
「…どうやって?」
「わかるだろ」
「…何が?」
限界だ。眠い。寝ていなさすぎて頭が痛い。
「開けって言えばいい」
「そんなの、トムが言いなよ」
勘弁してほしい。
『君が言ってみせてくれよ』
トムは尚も畳みかけてくる。
レオノールはため息を吐いて口を開いた。
『開け』
絡み合っていた蛇が分かれ、重厚な扉が軋みながら開く。
赤い光をチラつかせた瞳で何故か嬉しそうにレオノールを見つめるトムを無視して、レオノールはふらふらと扉の中へ進んだ。
広い部屋だった。
見えないほど高いところにある天井に向かって、彫刻の施された太い石柱が何本も立っている。
レオノールはそのうちの一つの柱に背中を預けて座り込んだ。
もう目を開けていられない。
近くでしゃがんだトムが顔を覗き込んでくるのがわかった。
「ほらね、僕の思った通りさ」
「…なんなの?」
「君は今自分が何をしたのか気づいていないのかい?」
「…何が?」
トムは宝探しの宝を見つけた子供のようにうきうきした顔をしている。
…私が今したこと?
トムが開けろって言うから扉を開けただけじゃないか。
「驚いたよ。図らずも親子の対面を果たすなんてさ」
トムの言葉がなかなか頭に入ってこない。
トムは何を言っているんだろう…
睡魔に抗えずレオノールは意識を手放した。
レオノールがいなくなって何日目?
ハーマイオニーはきっと今もちゃんと数え続けているのだろうが、ハリーは途中から耐えきれなくなって数えるのを止めた。だってその数字が一つ増えるたびにレオノールが生きている確率は下がっていくのだから。
何をするにもレオノールのことが思い出される。スリザリン生なのにグリフィンドール寮に入り浸っていたから、寮の談話室にいてもレオノールがいないことが思い出されてしまう。
ハーマイオニーは授業で手を挙げなくなった。代わりに黙々と授業を受け、授業が終わると図書室に詰めかけている。少しでも秘密の部屋に繋がる手掛かりを探しているのだとハリーにはわかった。
ハリーはしとしとと雨が降る窓の外に目をやった。
レオノールは生きているはず。
ハリーはそれを信じていたけれど、日に日に焦りが滲み出るようになってきている先生達の顔を見ていると、どうしようもないやるせなさにかられた。
フィルチの悪態を吐く声がやけに大きく響く。
本当にじめじてして、寒々しい。
室内にも水が染み込んできているようだ。
よく見ると本当に廊下が濡れていた。
ハリーとロンは顔を見合わせて、こっそりと様子を見にいくことにした。ハーマイオニーはまた図書室に籠っている。
三階の廊下が水浸しだった。二人が見ている間にもマートルのトイレの扉の下からまだ水が流れ出てきていた。
フィルチが掃除道具を取りに離れた隙に二人はお互いに目配せしてマートルのトイレに滑り込む。ポリジュースを作るのに一ヶ月詰めかけたトイレが様変わりしたように見えるくらい水浸しになっていた。
奥のトイレから盛大に泣き喚く音がしている。
「どうしたの、マートル?」
ハリーは声をかけた。
「だれなの? また私に何か投げつけにきたの?」
トイレの中からマートルが哀れっぽい声を出す。
「なんで僕らが君に何かを投げつけるんだい?」
ロンが問いかける。
「知らないわよ、そんなこと」
マートルの声に合わせてゴボゴボと水が溢れた。
トイレの前の床の上に落ちた小さな本がハリーの目に留まった。
これを誰かがマートルに投げつけたのか?
ハリーはびしょ濡れのそれを拾い上げた。黒い革表紙の日記だ。五十年前の日付が辛うじて見える。ハリーは最初のページに書かれた名前を読み上げた。
「T・M・リドル」
「T・M・リドルだって?」
得体の知れない日記に数歩離れていたロンがそっと近寄ってきてハリーの肩越しに覗き込んだ。
「僕、その人知ってるよ。五十年前に学校から特別功労賞をもらった人だ」
「なんで知ってるの?」
「記念の盾をナメクジのべとべとを研磨剤にして一晩中磨いたからね、嫌でも覚えるよ」
そういえばナメクジの粘液を研磨剤だと言ったのはレオノールだった。またここでもレオノールを思い出してしまい二人は顔を曇らせた。
「それ、どうするんだい?」
ロンは気味が悪いと言いたげな目線をやる。
「ちょっと気になるんだ」
もしかしたら秘密の部屋絡みのものかも知れない。そう思う根拠は何処にもなかったが、なんでもいいからレオノールに繋がる手掛かりが欲しかった。
ハリーは拾い上げた日記をローブにしまう。
フィルチが戻ってくる前に二人はマートルのトイレを後にした。
授業を終えて談話室でハリーは日記をハーマイオニーに見せる。
「五十年前の日記なのね、もしかしたら秘密の部屋に繋がる何かが書かれているかもしれないわ」
ハーマイオニーもハリーと同じことを考えたようだ。鞄から真っ赤な消しゴムを取り出していた。
「現れゴムよ、ダイアゴン横丁で買ったの」
ハーマイオニーが消しゴムで日記のページをごしごし擦ったが、何も起こらなかった。
変化のない日記を見下ろして三人は押し黙った。
ハーマイオニーがため息を吐く。
「…どうしてなのかしら。レオノールは少なくとも半純血よ。それに連れ去られるなんて…」
「継承者にとって知られたら不味いことを知っちゃったとかじゃないか。去年だって夜中にクィレルに追いかけられてたの黙ってたし」
三人はまた黙り込んだ。このやりとりはもう何度もしていた。
「こうしていても仕方がないわ。私は寮に上がって本を読むわ」
ハーマイオニーは女子寮に上がっていき、二人も男子寮に上がった。
天蓋の中でハリーは真っ白な日記を開く。
トム・リドル。
遠い昔の友達のような気がするは気のせいだ。だって、この学校に来る以前のハリーに友達はいなかったのだから。
ペラペラとページをめくっていたハリーはふと思いつきでまっさらなページにインクを垂らしてみた。
インクは紙の上で一瞬明るく光り、そして消えた。
ハリーは逸る気持ちを抑えてもう一度羽ペンを走らせた。
《僕はハリー・ポッターです》
ハリーが書いた文字は光ってから消える。そして、遂に文字が現れた。
《こんにちは、ハリー・ポッター。僕はトム・リドルです。君はこの日記をどのようにして見つけたのですか?》
ハリーはベッドの上で一人ガッツポーズした。
《誰かがトイレに流そうとしていました》
《そうですか。僕の記憶をインクよりずっと長持ちする方法で記録しておいたのは幸いでしたね》
《あなたはホグワーツの生徒だったのですか?》
《そうです》
ハリーは興奮して文字を書き殴った。
《秘密の部屋について何かご存知ありませんか?》
《もちろん秘密の部屋のことは知っています。僕が五年生の時部屋が開けられました。怪物が数人の生徒を襲い、とうとう一人が殺されました。僕が部屋を開けた人物を捕まえ、その人物は追放されました》
《今またそれが起きているんです。四人が襲われ、僕の友達の一人が連れ去られてしまいました。前の時は一体誰が犯人だったのか教えてもらえませんか?》
丁寧に書いているが、本当は心の中では叫んでいた。
《お望みならお見せしましょう。僕の言うことを信じるか信じないかは君の自由です。僕が犯人を捕まえた夜の思い出の中にあなたをお連れできます》
ハリーは躊躇わなかった。
《お願いします》
日記のページがまるで風に煽られたかのようにバラバラと捲られ、ある日付のページで止まった。日付のところがテレビの画面のように見える。顔を近づけたハリーは、ぐいっと身体が引っ張られ小さな画面の中に落ちていった。
彼がこちらに歩いてきた。
「君は物知りだと聞いたんだが」
彼から話しかけてきたのはこれが初めて。
真正面に見上げる彼は、とても端正な顔をしている。
「貴方が何を知りたいのかは知ってるわ」
彼はベンチの隣に座り、肩に手を回してきた。
息がかかるほど顔が近い。
「何故今まで何も言わなかった?」
「アビー! 返してって!」
「やっ!」
私のぬいぐるみを抱えたアビー。
私はぎゅっと手に力を入れる。
割れる窓ガラス。大きな破片がアビーと私の上に降ってくる––––––
「ハグリッドだったんだ…!」
ハリーは声を顰めながら叫んでいた。
「ハグリッドにこんなことをする理由なんてないんじゃないか?」
ロンは首を傾げた。
ハーマイオニーも顔を顰める。
「でもトムの記憶で見たんだよ。ハグリッドが学校の中で毛むくじゃらの怪物を飼ってたんだ」
ハリーはもう一度トムの日記の中で見た記憶を二人に詳しく説明した。
それでもハーマイオニーはまだ難しい顔をしていた。
「ハグリッドは、違うと思うわ。確かに危険な生物が好きなのは否めないけど、でも進んで誰かを傷付けようとはしないわよ」
「ハグリッドってダンブルドアに結構信用されてるじゃないか。そんなハグリッドがこんなことするかなあ」
それはハリーも思った。それにハリーだってハグリッドが犯人だなんて思いたくない。
「今回の一連の事件ははっきりと悪意を持った人がやってるわ」
「でも、じゃあ僕が見た記憶はなんなんだろう?」
「ハリー、私達そのトム・リドルって人のことほとんど知らないでしょ? そんなに信じない方がいいかも知れないわ」
ハリーは唸った。
秘密の部屋の手掛かりを手に入れたと思ったのに、これじゃ進歩がないのと一緒だ。
「でもトムは五十年前の事件を知っていた。何か他に手掛かりを知ってるかもしれないよ」
「そうだね。僕、もう一度トムに聞いてみるよ」
そう思っていたのに、談話室に帰ったらパニック状態のネビルが待っていた。ハリーのベッド周りの荷物が荒らされていた。トランクの中はめちゃめちゃだし、脇の小棚の引き出しの中身はベッドの上にぶちまけられていた。
誰がこんなことを?
荷物を片付けていて日記がなくなっていることに気づいたハリーはネビルに聞こえないように悪態を吐く。
「くそっ! 秘密の部屋についてわかるかもしれなかったのに…これじゃ手がかりがなくなっちゃったよ」
日記がなくなったことを伝えるとハーマイオニーは唖然としていた。
「だって、グリフィンドール生しか入れないじゃない。きっとハリーにトムの日記と話して欲しくなかったんだわ」
「でもそれって僕が日記を持ってるって知ってたってことだよね。どうして僕が持ってるってわかったんだろう?」
「わからないわ。もしかしたら思ったよりも私達大きな声で喋ってたのかも……そうだ、声よ!」
突然ハーマイオニーがハッとした顔をした。
「どうしたの?」
「私、図書室に行かなきゃ! あなた達もよ!」
走り出したハーマイオニーをハリーとロンは追いかける。
「どうしたんだ?」
息を切らしながらロンが聞く。
「秘密の部屋の怪物がわかったわ!!」
「ほんとに!?」
三人はドタバタと図書室に駆け込む。マダム・ピンスはいなかった。
奥の方の本棚に駆け込んだハーマイオニーが埃を被った分厚い図鑑を持ってくる。
「これよ!」
二人はハーマイオニーが開いたページを覗き込んだ。
「バジリスク?」
「おいおい、目を合わせた人は死ぬって、みんなは石にされてるだろ?」
「順番に説明するから!」
ロンの横槍にハーマイオニーは苛立たしげに言った。
「まず、寿命が何百年もあるバジリスクなら前回部屋が開けられた時から、もっと言えばサラザール・スリザリンがホグワーツを去った時から部屋の中で生きていてもおかしくない。スリザリンのシンボルは蛇だし、ハリーにだけ不気味な声が聞こえたのもハリーがパーセルマウスだからって考えると納得できるわ。それに、一度レオノールが廊下が羽根だらけだったって言ってたことがあるの。フクロウじゃない他の鳥の羽根だったって。きっと雄鶏の羽だったんだわ。
バジリスクの目を見た人は即死だけど、みんな何かを通して目を見たのよ。コリンはカメラ越しに、ジャスティンはニック越しに、ニックはゴーストだから二回は死ねないし、レイブンクローのペネロピーは手鏡を持っていたって小耳に挟んだわ」
「ならミセス・ノリスは?」
「マートルのトイレから溢れた水の反射で」
「でも、僕が声を聞いた時はそれらしき生き物は見かけなかったよ」
見かけていたら今頃生きてはいないだろう。
「配管よ」
ハーマイオニーは即答する。
「ホグワーツは何度も改築されていて、青図は残されていないらしいからこればかりは確認のしようがないけど」
「それだ! 僕には壁の中から声が聞こえてきた!」
それに、とハーマイオニーが付け足す。
「レオノールとマートルの会話、覚えてる?」
「レオノールとマートルの会話?」
「マートルはいつ頃のホグワーツの生徒だったって言ってた?」
「…五十年前! マートルが五十年前の秘密の部屋の犠牲者ってこと!?」
「その確率は高いと思うの。もしかしたらあの女子トイレが秘密の部屋への入り口かも知れない。マートルに話を聞いたら何か分かるかも知れないわ」
「その前に誰か先生に言おうぜ。秘密の部屋の怪物がバジリスクってのはほとんど確定なんだろ?」
珍しくロンが冷静な意見を言う。
「そうね、そうした方がいいわ」
そのまま三階の女子トイレに向かおうとしていたハーマイオニーは私としたことが、というように顔を顰めた。
三人は職員室へと急いだ。
彼がやってくる。
やあ、と向かいに座ってきた彼の青白い手には金と黒の指輪がはめられている。
彼は気遣わしげに指輪の向きを直す。
「良い夏休みだったか?」
「それほどよ」
幸いにも私の声は震えていなかった。
「また探し物かしら?」
「何故僕が何かを探してるって思うんだ」
「ただ聞いてみただけよ」
ぬいぐるみを離さないアビー。
私はぎゅっと手に力を入れる。
ガシャンッ!!と音がして割れた窓ガラスがアビーと自分の上に降り注ぐ––––––
ハリー達はレオノール救出に任命されたロックハートの部屋に向かっていた。
明らかに厄介払いのための配属だが、ロックハートでもいないよりはマシはなず。
職員室のクローゼットに隠れていた三人の前で、ジニーが石にされたこと、継承者が新しいメッセージを残したことがマクゴナガルによって告げられ、それによって学校を閉鎖するということになった。
ロックハート以外の先生達は学校の閉鎖に向けた準備に行っている。
妹が石にされたロンは真っ青な顔をしている。
「ロン、不謹慎なこと言うようだけど、ジニーは石になっただけだ。マンドレイクの回復薬で元に戻るから」
「わかってるよ…でも石になったのは偶然だろ? ジニーは運が良かった。もし直接バジリスクの目を見てたらって考えると…」
ロンはぶるっと身震いした。
ハリーとハーマイオニーも背筋を冷たいものが伝わるのを感じた。
本当に、今までみんな運が良かったのだ。
レオノールは……
「先生?」
ハーマイオニーがロックハートの部屋の扉を叩く。
中から聞こえていたドサッドサッという音や慌てた足音が一瞬止む。
ほんの少しだけ扉が開けられ、ロックハートの目が覗いた。
「ああ、ミス・グレンジャー…それにミスター・ポッターと君も…」
いつもの自信に溢れた表情は何処へやら、額に冷や汗の浮かんだ顔は何故か青白かった。
「私は今取り込み中でね…用件はまた今度にしてもらえると…」
「先生、先生にお伝えしたいことがあるんです! 秘密の部屋のことで!」
「ああ、あー、いや、それは、」
どうも歯切れが悪い。
「何してたんですか、先生」
怪しいと思ったハリーは、ハーマイオニーの「ちょっと! ハリーったら!」と言う声を無視して、ロックハートが押さえていた扉をぐいっと押した。
部屋は荒れていた。
壁中に掛かっていた肖像画は慌てて取り外され、部屋の真ん中に置かれた二つのトランクに、片方には色とりどりのローブ、片方には本がごちゃ混ぜに放り込まれかけている。
「ロックハート先生? これは?」
ハーマイオニーが唖然とする。
「どう見たってトンズラする準備だよな」
ロンがぽつりと言う。
「えー、あー、緊急に呼び出されましてね、」
しどろもどろに言うロックハートに、ハリーは容赦無く畳みかけた。
「闇の魔術に対する防衛術の先生なのに逃げるんですか?」
「こんなことは職務内容に書かれていなかった!」
「今まであんなに華麗な功績を残してきたって本に書いているのに?」
「ミスター・ポッター。本は時に誤解を招く。私は世間が望むような役で世間が望むようなことをしているかように演じたに過ぎない」
「じゃああれは全部でっち上げなんですか?」
「いやいや、そんな簡単なものではない。まずそういった功績を実際に挙げた人達を探し出す。どうやって仕事をやり遂げたのか聞き出す。それから忘却術をかける。私が唯一自慢できる魔術といえば忘却術ですよ。君達にも今から身をもって体験してもらうことになる」
「エクスペリアームス!」
ロックハートの高く掲げられた腕は振り下ろされることなく、杖だけが宙を舞った。
ロンがそれをキャッチする。
「つまり先生はインチキだと」
呪文を放ったハーマイオニーが、杖をロックハートに向けたまま言う。
静かに発せられた声には間違いなく怒りに満ち満ちていて、ハリーには怒ったマクゴナガルよりもいっそ恐ろしく感じられた。
「一緒に来てくださいね。先生には炭鉱のカナリアになっていただきます。呪文が使えなくてもそれくらいはできますよね?」
ハーマイオニーの静かな怒りにロックハートは身を縮こめた。
ロックハートを先に歩かせ、三人は三階の女子トイレに向かう。
まずは全員で秘密の部屋の入り口を探しに行く。本当に入り口があれば先生達に知らせに行く、という算段だ。二人のたっての要望で先生達に知らせに行くのはハーマイオニーにやってもらうことにした。三人の中で一番危険なのはマグル生まれのハーマイオニーだし、ハリーはもし入り口が本当にあるのなら一刻でも早くレオノールを助けに行きたかった。
トイレ前の廊下の石壁には赤い文字がテラテラと鈍く光っていた。元々あった文字の下に新しい言葉が書き足されている。
時は満ちたり 我ら継承者の前に
四人は壁の文字を横目に、故障中の貼り紙がされたトイレに足を踏み入れた。
談話室に戻った私は自分のベッドのカーテンの中でシリンジの中身を仰ぐ。
……じめじめしたトイレ、シューシューという男子の声、ズルズルと引き摺る音、黄色くて大きな二つの目、ふっと身体の力が抜けて……
はっと目を開けるとちゃんと自分はベッドの上にいる。
紛れもない彼の声。
私は手で顔を覆う。
怖くて堪らない。
おぞましい。
「返してよ!」
「やっ!」
「アビー!!」
アビーは一層強くぬいぐるみを抱きしめる。
私はぎゅっと手に力を入れる
音を立てて窓ガラスが割れる。
アビーの目が恐怖で見開かれる。大きな破片がアビーと私の上に降ってくる––––––
「っ……」
もう手を動かすことさえ億劫だ。
頭が割れるように痛い。
「くそっ…」
目を上げなくてもわかった。
そこにトムがいる。
「君が眠ってしまうから話が途中だったね」
誰のせいで眠れていないと思ってるんだ。
「…なんなの?」
「ほら、僕らが父娘って話さ」
「…だから?」
「つれないな」
「…私に父親なんていたことないよ。そんなぽっと出の君が父親だなんて言われてもさ。どうでもいいよ」
「本気で言っているのかい? 君は偉大なサラザール・スリザリンの子孫に連なるのに?」
「…私がスリザリンの子孫?」
「君はパーセルタングで扉を開けたじゃないか」
…私そんなことしたっけ?
レオノールはトムを見上げた。
「…なんか、前より濃くなってない?」
「それが目当てだからね」
優しく笑うトムは、こんな目に遭わされていなかったらうっかり舞い上がってしまいそうなくらい美しい顔をしている。
「最初はヴィヴィエールについて知りたくて君に近づいたんだ。ジニーが君のことを教えてくれてね。過去の記憶を見る一族。興味をそそられないわけがないだろ? 僕の同級生にもヴィヴィエールがいたよ。あの頃はどうして君達に興味を持たなかったのか、自分でも不思議さ。まあそれで、君に近づいたわけだけど、悔しいことに今の僕じゃ君から情報を引き出すことはできなかった。時間もなかったし、何より君自身が一族について知らなさすぎる。君自身の記憶は見れても、過去の記憶にまでは手が出せなかった。
だから、計画を変更することにしたんだ。どうやら君は僕の娘らしい。情報は引き出せなかったけど、魂の馴染みはいいからね。君を弱らせた後、身体を使わせてもらうことにしたのさ。なに、情報は後から引き出せばいいさ」
トムは獲物を見つけた肉食獣みたいな顔にとびきりの笑顔を浮かべてレオノールを見下ろしている。
何かが手に触れた気がしてレオノールは目線を下ろした。
黒い革表紙の手帳のようなもの––––––日記だ。
「どうして日記がここに……」
ジニーが持っているはずの、トムの日記。
レオノールは衝撃で目を見開いた。
ジニー!!
背中に悪寒が走る。
レオノールはトムを睨みつけた。
「ジニーをどうしたの!?」
「殺してはいないよ。彼女は純血だ。純血の血は大切にしないと」
「そう言う君は半純血のくせに」
端正なトムの顔が思い切り歪む。
「…?」
自分で言った言葉に違和感を感じる。
…そうか。
トムが半純血だと
この、喉に小骨が引っかかったような僅かな違和感。前にもあった気がする。
あれは…日記でトムと話していたとき。
あの時も、トムがマグル生まれじゃないと
トムが孤児院出身だってこと以外何も聞いていないはずなのにどうして私はトムが半純血だって知っているんだ?
「君は呑気だね。おチビさんの心配をするより自分の心配をした方がいいんじゃないのかい」
身体が重くて動かない。
その原因が寝不足のせいだけじゃないとようやく気づいた。
「私の身体を乗っ取る気?」
「その通り」
トムは優雅にレオノールを見下ろしている。
その輪郭がさっきよりずっとはっきりして見えた。
ああ。ここで終わるのか。
凍るような寒気が足から登ってくる。
意識を手放す直前、レオノールは最期の抵抗として残った力を振り絞り小瓶の血を仰いだ。