重い瞼を上げる。
白い天井を見て、ここは地下ではないのだと改めて確認する。
消毒液の匂いがした。
ここは…聖マンゴか。
秘密の部屋から出るなりレオノールは聖マンゴに運び込まれた。途切れ途切れに目を覚ましては栄養剤と魔法睡眠薬を胃に流し込み再び眠りに就いていたここ一週間を朧げに思い返す。
もう割れるような頭の痛みはない。だが死ぬほど疲れていることに変わりはなかった。
レオノールは真っ白なシーツに身を沈めたままもう一度目を閉じた。
地下に落とされてから起きたことがついさっきのことのように次々と頭の中を駆け巡る。ジュディスの記憶、トムとの会話、母親の記憶、そしてハリー。
顔にかかる長い髪が、いまだにべたついてまとわりついてくるように感じられる。
すべてを投げ出してもう一度眠りに就きたかった。
でもレオノールにはやらなくてはいけないことがある。
レオノールが目を覚ましたと癒者から連絡を受けたスネイプ先生が幾分もしないうちに病室に現れた。
枕に背中を預けて身体を起こしたレオノールは、椅子に座ったスネイプ先生と向き合う。スネイプ先生は心配そうな顔をしてレオノールを見ていた。
「学校はどうですか?」
「平常に戻っている。君も知っていると思うが、秘密の部屋を開けた犯人––––日記は、破壊された。秘密の部屋は閉められた。秘密の部屋に連れ去られた君は石になっていたところをポッターに発見されたことになっている」
枕に背を預けたレオノールにスネイプ先生が説明する。レオノールはスネイプ先生が話し終わってもその顔を見つめていた。
しばらくしてレオノールは単刀直入に質問を投げかけた。
「先生は知っていたんですか?」
「何をだ」
「私の母親とトムとの関係を」
「そ、れは…」
スネイプ先生はレオノールの言葉に明らかに目を泳がせて動揺した。
やっぱりか。
レオノールはその様子を黙って見ていた。
しばらく逡巡してようやくスネイプ先生は目線を落としたまま重い口を開いた。懺悔するように手を組み、ぽつぽつと話し始める。
「…君の母親と闇の帝王の間でどんなやり取りがあったかは知らない。私はその頃闇の帝王の配下にいた……ある日突然君の母親の監視役を仰せつかって屋敷に行くと…妊娠した君の母親がいた………君の母親、カイラは子供の父親について何も明言しなかった。だから私も何も聞かなかった……」
聞かなかったのではなく、聞けなかったのだろう。聞いてしまったら限りなく黒に近い灰色が黒になってしまうかもしれないから。レオノールはさながらシュレーディンガーの猫だったのだ。
「ダンブルドア校長も知っているんですね」
「…」
レオノールはスネイプ先生の沈黙を肯定と理解した。
十一歳の誕生日に居場所が判明したレオノールの元にダンブルドアが駆けつけてきたのは、レオノールの身を案じたからではなく、トムの娘を目の届くところに置いておきたかったからかもしれない。本当の理由を推し測れるほどレオノールはダンブルドアのことを知らない。
「先生は私をどうするつもりですか?」
「……私はカイラに君のことを頼まれた。彼女との約束は守る」
愚直な答えに思わず少し微笑んでしまった。
「そんなの放棄できるのに」
でもスネイプ先生はきっとそんなことはしない。それも見込んで母親はスネイプ先生を選んだのだろう。
「それで?」
スネイプ先生は何か言いたそうにしていた。
「…君とジニー・ウィーズリーについて起きた事実を確認する必要がある」
レオノールは素直に順を追って話した。
体調の悪いジニーを介抱したこと。ジニーに日記をプレゼントされたこと。日記と話し、夢の中でトムとあったこと。トムに操られてジニーに日記を返し、地下に落とされたこと。言われるままにパーセルタングで扉を開き、トムに娘だと言われたこと。ハリーが現れたこと。トムの本体である日記を壊して倒したこと。
ただしレオノールの祖母がトムと従兄弟だったことは伏せた。
「地下にいるあいだ君が夢を見せられていたとポッターが報告していたが、何を見せられたのだ?」
「…ただの悪夢ですよ」
癒者に処方してもらった魔法睡眠薬のお陰で秘密の部屋を出て以来アビーの夢は見ていない。
不自然にスネイプ先生と目が合ってしまったが、先生はそれ以上何も言わなかった。
「日記は何故君に近づいた? 最初から…娘だと気付いていたのではないのだろう?」
「ジニーがトムに教えたんです。私が夢で記憶を見るって」
他の人には黙っていたのに、レオノールはよりによってトムに操られていたジニーに教えてしまった。
「…飲んだのか?」
スネイプ先生は衝撃を受けたように息を呑み、苦しそうに言葉を絞り出す。
「祖母のです」
「…いつからだ? いつから血を飲んでいた?」
スネイプ先生は母親とトムの関係について尋ねた時よりも狼狽えていた。
「夏休みから少しずつ。慣れていなかったのであまりきれいに見れていませんけどね」
レオノールはスネイプ先生の反応に内心首を傾げた。
レオノールの一族は血を飲む。そんなこと、母親と親しかったスネイプ先生なら知っているだろうと思っていたのに。
「お陰で助けられましたよ。私の祖母はトムと同級生だった。それで日記を壊せばいいと気付けました。本当はもっと早くに気付きたかったですけどね」
祖母とトムの関係について簡潔すぎるくらい簡潔にまとめた。何か突っ込まれたらどう説明しようかと思っていたが、スネイプ先生はそれどころではないようだった。先生は頭を抱えてしばらく悩んでいた。
「…記憶に、飲まれないでくれ」
スネイプ先生がぽつりと溢した。
急にスネイプ先生が幼く見えた。
レオノールは少し笑って答えた。
「私はちゃんとここにいますよ」
そのまま聖マンゴで療養を続けたレオノールは、石にされた人達が復活するのに合わせてホグワーツに戻ることになった。レオノールも石にされているという設定に沿うためと、復活したジニーから改めて話を聞くのにレオノールも立ち会うことになったからだ。
一か月ぶりにホグワーツに戻ったその日、指定された時間にレオノールは校長室へと足を運んだ。
お菓子の名前を言うと息を吹き込まれたガーゴイルがぴょんっと脇に避けて螺旋階段が現れる。
回りながら動くエレベーターのような階段に乗って昇っていくと中から話し声が聞こえた。もう集まっているようだ。
レオノールがノックするか躊躇う暇もなく扉が勝手に開いた。
ジニーは赤毛の壮年の男の人に背中を摩られながらさめざめと泣いており、ハリーは恰幅の良い女の人に抱き締められ、それを微笑ましそうにダンブルドアが見守っていた。その隣のマクゴナガル先生はちょっと目尻を拭っている。
扉の開く音で、部屋の中にいた彼らが一斉に振り返った。
あ、逃げたい。
今すぐ回れ右をして、この場から逃げ出したい。
「入っておいで、レオノール」
でもその前にダンブルドアに声をかけられてしまい、レオノールは内臓が締め付けられる思いでのろのろとハリー達がいる方へ向かった。
「あなたがレオノールね! 本当に、なんて言ったらいいか––––!」
さっきまでハリーを抱きしめていた恰幅の良い夫人が目に涙を浮かべて駆け寄ってくる。
レオノールは恐怖から後ずさった。
その肩に後ろから優しく手が添えられる。
「モリー、配慮してくれたまえ」
上から声がしてスネイプ先生もいることに初めて気づく。
「ああ! ごめんなさい、私ったら!」
夫人は目線を合わせるのに身をかがめたままレオノールに向けて伸ばした手を引っ込めた。
「こちらはウィーズリー夫妻、ロンとジニーのご両親です」
マクゴナガル先生に説明されなくてもわかる。
今にもレオノールを取って食いそうな勢いで見つめてくる目の前の夫人と奥の男性。
ジニーの両親だ。
今度はちゃんと説明しなくては!
今度こそジニーに悪いことは何もしてないって信じてもらわなきゃ!
なんて言えば……!
「わ、私は、––––」
「本当にごめんなさい!!」
「っ!?」
「日記に操られていたとはいえ私達の娘があなたにしたこと! あなたはジニーのことを気遣ってくれていたのに! あなたが気づいてくれなければジニーは他にどんな恐ろしいことをしていたか!」
「え、あ、え…?」
低くしゃがんだままのウィーズリー夫人はゆっくり近づいてきていつの間にかレオノールは夫人に抱きしめられていた。
訳が分からなかった。
「…あの、お、怒っていないんですか?」
「怒るだなんて! 私達があなたに怒ることなんて一つもないわ! ああ、本当に! ごめんなさいね、そしてありがとう! 本当にありがとう!」
散々ウィーズリー夫人とウィーズリー氏からも謝られお礼を言われたが、放心したレオノールは何を感謝され謝罪されているのか最後までわからなかった。ただウィーズリー夫妻はレオノールに怒っていないということだけは理解した。
それだけで充分だった。
校長室を出たハリーはレオノールと並んで廊下を歩いた。
久しぶりに見るレオノールはだいぶふっくらとしていて、一見健康そのものに見えた。
でもハリーの想像は甘かった。
久しぶりに会ったらレオノールは前みたいにヘラッと笑って話しかけてきてくれるんじゃないかと思っていた。「心配かけてごめん」って笑って、秘密の部屋で何があったのか、あの時トムと何を話していたのか、ハリーに教えてくれるんじゃないかと思っていた。
レオノールは、二人きりになっても何も言わなかった。
まるで半分去年のレオノールに戻ってしまったみたいだ。
トムはレオノールに悪夢を見せたと言っていた。
ハリーはついさっきウィーズリーおばさんが近づいた時にレオノールが見せたあの恐怖に満ちた顔が忘れられない。
ウィーズリーおばさんもウィーズリーおじさんも、ハリーが今まで出会った中で一番良い人達であることは絶対間違いないのに、そんなおばさん達を前にしてあんなに怯えるなんて。
レオノールは一体どんな目に遭わされたんだろうか。
「その、調子はどう?」
「ん、元気だよ」
なんて声を掛けようか色々考えたのに、レオノールからは拍子抜けするくらいに普通の返事が返ってきた。
「ハリーはどう?」
「随分快適になったよ」
もう廊下を歩くたびに指を差されて秘密の部屋の継承者だなんて囁かれることはない。
「私がいない間になんかあったりした?」
ハリーは校長に復帰してきたダンブルドアに文句を付けにきたドラコの父親ルシウス・マルフォイと対面したことを話した。マルフォイ氏がしもべ妖精のドビーを連れていたこと。ドビーのジェスチャーでマルフォイ氏がジニーに日記を渡したと気づいたこと。ハリーの咄嗟の機転でドビーを自由にしたこと。その後マルフォイ氏は理事を辞めさせられたらしいこと。他にもロックハートが自分の忘却術にかかってしまったことで闇の魔術に対する防衛術は休講が続いていることなんかも話した。
レオノールは時々相槌を打ちながらハリーの話を聞いていた。
ハリーは話しながらレオノールの様子を伺っていた。
ハリーにはどうしても聞きたいことがあった。
あの日からずっと気になっていること。ロンにもハーマイオニーにも相談できない、直接レオノールにしか聞けないこと。
二人はどちらからともなく立ち止まっていた。
「あのさ、秘密の部屋でトムと何を言い合ってたの?
「ああ、」
レオノールはハリーから顔を背けて窓の外を見た。黒くて長い髪がレオノールの後ろ姿をすっかり覆いハリーから顔を隠していた。
「もし私の親が君の両親を殺していたとしたら、私達はもう友達ではいられない?」
「…なんでそんなこと、」
「ハリーはもうわかっているんでしょう?」
向き直ったレオノールは真っ直ぐにハリーの顔を見つめた。
秘密の部屋でレオノールはトムと蛇語で話していた。
その時にハリーが
トムはレオノールとは魂の馴染みが良いと言っていた。
レオノールの言うとおり、ハリーにはもうわかってしまっている。
ただ自分が見聞きしたことから辿り着くしかなかったその事実を受け入れたくなかった。
緑と青の混じった二つの瞳。妙に大人びた顔立ち。
そこにトム・リドルを髣髴とさせる面影は少しもないのに。
「本当なの?」
「そうすると色々辻褄が合うんだ」
レオノールはもう受け入れていた。
急に吹き込んできた風がレオノールの長い髪を揺らす。レオノールは目を伏せて黙った。
ハリーはずっと考えていたことを言葉にした。
「たとえ君がヴォルデモートの娘でも、君と友達なのは変わらないよ」
ハリーは何度も悩んだ。
レオノールがヴォルデモートの娘だったら。
一度そう考え出したら考えるのを止められなかったし、受け入れ難くてもそうとしか思えなかった。それはレオノールから直接聞いた今でも受け入れがたいままだ。
けど、父親がヴォルデモートだからレオノールが憎いかって言われたらそれは違う。
ハリーの両親を殺したのはヴォルデモートであって、そこにレオノールの責任はない。
「ヴォルデモートは次も私を狙いにくると思う」
レオノールは目線を落としたまま言った。
「僕のこともだろうね」
「それは言えてる」
ハリーの自虐にレオノールは思わずといったように少し笑った。
「今までと何も変わらないよ」
「うん」
その日の夕方は石にされた生徒達の復活を祝ってのパーティが開かれた。
午後の授業は休講になり、大広間ではいつもの寮ごとに縦に並んだテーブルが取り払われ、代わりに横向きに並べられたテーブルに所狭しと料理が並べられている。
今日だけは寮対抗を意識せず、それぞれが思い思いの人と喋りつるんでいた。ほんの一ヶ月前まで秘密の部屋の怪物に怯えていた皆は、心配事など何一つないかのように笑って食べて騒いだ。
石から復活したハッフルパフのジャスティンがハリーのところに来て疑ったことを何度も何度も謝っていたり、レオノールの知らないうちに秘密の部屋を開けた容疑者として連行されていたらしいハグリッドがアズカバンから戻ってきて勢い余ってハリー達をテーブルの料理の中に突っ込んでしまったり。
レオノールはといえば元気になったジニーとお喋りして双子の話で盛り上がったりしていたが、しばらくすると自分からスリザリン生達が固まっているところへ戻ってきた。
「どうしたんだ?」
そんなレオノールを珍しく思ったドラコは声を掛ける。
「なんでも。疲れただけ」
確かに戻ってきてからのレオノールは一見前と何も変わらないように見えてずっとどこか疲れているようだった。無理もない。たった一人で一週間以上も地下に囚われていたのだ。
いつもなら宴会では欠食孤児のように皿山盛りの料理を黙々と食べているレオノールだが、今は壁際に並べられた椅子に腰掛けてゴブレットからちびちびとジュースを飲んでいる。
そんなレオノールは相変わらず距離のあるスリザリン生達から自分に向けられる目線が今までとは違った含みを持っていることには少しも気づいていなかった。
「レオノール、渡すものがあるの」
宴もお開きになり大広間に残った人もまばらになってきた頃、ハーマイオニーに呼びかけられた。
レオノールが宴の半ばくらいからスリザリン生の中に引っ込んでしまったのでハーマイオニーとは話す機会がなかった。
ハーマイオニーはメモを渡してきた。
レオノールはそのメモに目を通す。
「これは?」
「レオノールが連れ去られた後に壁に書かれた、二つ目のメッセージよ」
そう言うハーマイオニーは神経質そうに身体の前で手を揉んでいる。
レオノールはもう一度メモに目を落とし、ハーマイオニーの綺麗な文字で書かれた言葉を見た。
時は満ちたり 我ら継承者の前に
ああ、もしかしたら。
「あなたのことなんでしょう、継承者って」
そう言うハーマイオニーはほとんど確信しているようだった。
レオノールは何も答えなかった。
「”
ハーマイオニーは早口で説明した。
二人の間に沈黙が流れた。
流石、学年一の秀才だ。ハーマイオニーは壁に書かれたたった一言から導き出されうる答えに辿り着こうとしている。
確かに、レオノールがサラザール・スリザリンの血を引く秘密の部屋の継承者であることは事実だ。そしてその事実にたどり着いた時、必然的にもう一つの疑念も浮かび上がってくるはずだ。
だから、レオノールはほんの少しその背中を押すだけでいい。
今ここでレオノールがするべきなのは、否定しないこと、ただそれだけ。気まずい雰囲気を壊さずに、あとはハーマイオニーにそのまま疑念を事実だと思い込んでもらえばいい。
「ハーマイオニー、私、––––」
「いいの」
ハーマイオニーが遮ったことでレオノールはそれしか言わないで済んだ。
レオノールの手を握ったハーマイオニーはまっすぐレオノールの目を見つめていた。そこに嫌悪や恐怖の色はなかった。
「無理に言わないで。もしそうだとしても、私達の仲は何も変わらないわ」
ハーマイオニーもハリーと同じことを言った。
レオノールは寮に帰っていくハーマイオニーの背中を見つめた。
ほとんど人のいなくなった大広間の天井は、急に出てきた雲が満天の星空を覆い隠そうとしている。
レオノールはハーマイオニーの思い込みを訂正しなかった。
「…これで良いんでしょう、母さん?」
レオノールはぽつり、と溢す。
初めて自分の母親の思いを知ったのに、今までにないほど孤独だった。真っ暗な屋敷の中に一人取り残された気分だ。
「これで良かったんでしょう、母さん?」
貴女は皆を騙すつもりなんだ。
トムだけでない。世界全てを。
…そうでしょう、母さん?
これで合っているんでしょう?
問いかけに答えが欲しかった。
初めて母親を恋しいと思った。
お待たせしました。これにて『秘密の部屋』完結です。