一人になった私は鼻を啜った。
ホームまでついてきてほしいと駄々を捏ねたが、かあさんは困った顔をするだけで最後まで私の希望を叶えてはくれなかった。
代わりに一緒についてきたイオネとは直ぐにわかれ、私は一人で特急列車に乗り込んだ。
鞄に詰め込んだ小瓶が音を立てないか、気になってしょうがなかった。どう見ても他の子より大きいトランクも人目を引いて嫌だった。
どこのコンパートメントも二、三人の子供が座っていた。
何人かは私の容姿を見てひそひそと囁いていた。
一人しかいないコンパートメントを見つけて、扉のガラス越しに中を覗く。
新入生らしい黒髪の男の子が、窓の外を眺めていた。
すっと鼻筋の通った端正な顔で、思わずじっと眺めてしまう。
ふっと男の子がこちらを向き、私は慌ててコンパートメントの前を離れた。
綺麗でかっこいい男の子だった。
あの子と一緒の寮に入れたらいいな、なんて考えた。
空のコンパートメントに入り制服に着替えてから、鞄から小瓶を一つ取り出す。
瓶を開け、窓の外を眺めているうちに列車が動き出した。
再び列車が止まるまで、うたた寝はしたけれど夢は見なかった。
また駄目だった。
落胆しながら他の子供達と一緒に列車から降りる。
組分けのために並ばされていると、直ぐ近くにさっきの男の子がいた。
やっぱり綺麗な顔だった。
「リドル、トム!」
その男の子が前に出る。
こんな偶然ってあるだろうか。
帽子は頭に触れるなりスリザリン!と叫び、従兄弟は端のテーブルの人達に迎えられていった。
私はそんな彼を目で追っていた。
「ヴィヴィエール、ジュディス!」
帽子は
「黄色か青か?」
と尋ねた。
緑が候補に入っていなかったことに私はがっかりする。
レイブンクローでやっていけるほどの自信はなかった。
「ハッフルパフ!」
と叫ばれた私は、従兄弟のいる隣のテーブルに着く。
小さい時からずっと血を飲んでいるのにまだ一度も夢を見たことがない私には、劣等生と揶揄されるような集まりが相応しいということなのかしら。
その日の晩餐はあまり喉を通らなかった。
天蓋の中で目を覚ました。
興奮しながら必死に思い出す。
夢を見たのだ。
組分け帽子に組分けされる夢。
夢だとわかったのは帽子が
「緑か黄色か?」
と聞いたから。
私は
「黄色か青か?」
と聞かれたから。
これは祖母の記憶。
初めて見た祖母の記憶。
やっとだ。
嬉しくてたまらないのと同時にほっと安心する。
これでやっと一人前になれる。
これでやっと自分の場所にいられる。
黒髪のあの端整な男の子の顔がふと浮かんだ。
図書室の隅。
マグルの分厚い本が並ぶ人気のない一角。
その一角に彼がいた。あの彼が。
石像のように整った顔の眉間にちょっと皺を寄せて真剣に机に向かっている。少し伸びた黒髪が一房、はらりと乱れた。机の上に広げた手帳を覗き込む彼のうなじが、青白い。
「面白いものを作っているのね」
赤い瞳がこちらを振り返る。
彼は怪訝な顔をした。
無理もない。劣等生の寮と揶揄されるハッフルパフと進んで関わりを持つスリザリン生は滅多にいない。
「…ヴィヴィエールか」
彼はちらり、とだけこちらを見た。
祖母達の言い付けを守っていた私は普段ほとんど彼と話すことはなかった。
彼が自分の名前を覚えていたこと自体が驚きで、喜びだった。
「今日は調べ物じゃないのね」
「何故知っている?」
「貴方が夢中になって何かを調べてるって、みんな言ってるわ」
私は自分の躍り上る気持ちを悟られないように、ゆっくり話した。
彼が何を探しているのか、私は知っていた。
「ずっと探しているのに、手掛かりもないままだ」
しばらくして彼が言った。
少し落胆したように言う彼は少し眉間に皺を寄せていた。
母の記憶に見た、リトル・ハングルトンのトム・リドルそのままの顔だった。
祖母は彼が危険だと言った。
目の前にいるのは自分の出生に悩む好青年でしかないのに。
彼に教えてあげたかった。彼が何者なのか、私達が何者なのか。
でも祖母の言い付けは絶対だった。
「トム・M・リドル」
日記に書いてある名前を私はゆっくり読んだ。
「MはなんのM?」
「マールヴォロだが」
そんなことは知っていた。
久しぶりに聞く名前だった。微塵も恋しくはないけれど。
「何故お前が気にする?」
「ただ気になったからよ。それにしても本当に変わったものを作っているのね。小さな
彼が夢中になって書き込んでいたのはまっさらな日記だった。
家族というのは皆同じ顔をしているのだと思っていた。
だから幼い頃の私は母だけが
『かあさん』
呼びかけると母親は眺めていた庭から振り返った。
『どうしたの?』
『かあさんは幸せ?』
聞かなくてもわかっていた。
彫りが浅くてぼってりした輪郭に重度の斜視というお世辞にも美人とはいえない容貌の母だったが、その表情はいつも今の生活が彼女にとって最高のものであることを表していた。
『幸せよ。これ以上の幸せは、ないわ』
肘掛椅子にゆったりと座る母はにっこりと笑って私の頬に手を添えた。
『こんなに可愛い娘にも恵まれて』
私と母は似ても似つかなかった。
母の面影は一切なく、唯一受け継いだのは灰色の髪だけだった。
表向きには私の母親は叔母イオネになっており、本当の母が公の場に出ることはない。
それどころかこの邸の敷地から出ることもない。
『好きに出かけることもできなくて、同じ顔に囲まれて血を採られて、血を飲まされる毎日でも?』
『ここは私が生まれて初めてもらった居場所よ。そんなこと苦でもなんでもないわ』
私は同じような質問を何度も母に投げかけた。
そして母の答えは決まっていた。
『学校で従兄弟と話したわ』
『メローピーとあのリドルの館の男の子との子供ね』
『そうよ。彼、自分の出生について調べてるの』
そう言うと初めて母の顔が曇った。
『大丈夫よ。かあさんがここにいるなんて誰も思いやしないわ』
「テレーズ」
母は顔を上げると、自分の名前を呼び肩に手を回す男性にうっとりとした目を向ける。
碧眼に、整っているが特に特徴のない顔立ちの父親は全身全霊で母を気に掛けていた。
それが祖母が、
「体調は?」
「平気」
毎日大量の血を抜かれる母は万年貧血状態だった。
「調子が悪くなったらすぐに言うんだよ」
母は幸せそうに頷く。
私は身を寄せ合う両親を眺めていた。
側から見ると幸せな家庭の体現なのだろうが、私には歪に見えた。
「テレーズ」
私と同じ顔をした叔母イオネが部屋に入ってくる。
母の腕に留置したままの管から手に持っていたマグカップに血を注ぐ。
それを飲みながらイオネは母の向かいに座り、母の青白い手を握った。
「大丈夫よ。貴方のことは
「心配してなんかしてないわ。信じてるもの」
そしてイオネが持ってきたもう一つのマグカップをゆっくり時間をかけて飲んでいく。
母は本当に、全ての苦悩とも無縁の、幸せの中にいた。
でもかあさん。その愛ですら、紛い物なのに。
呆気なく婚約者が決まった。
私の結婚相手探しは祖母と叔母の中で長らく一番の懸念事項だった。
かつての
「オリバンダーのところの息子にする。あれはヘクターの孫だ」
何も言葉にする必要はないのに、祖母はわざわざ一族揃っての席で述べた。
異存は認めないという私への牽制。
相手は杖作りの一族に婿入りした祖母の弟の孫。
学校でたまに見かける再従兄弟は良くも悪くも普通でしかない。
無難。その一言に尽きる。
どうして彼では駄目なのか。
彼ならきっと平凡な再従兄弟よりもっと素晴らしい血をもたらしてくれるだろうに。
どうして私の想いを、彼らは汲んではくれないのだろう。
わかっている。危険過ぎるのだ。
でも、でも。
昼下がりの校庭のベンチ。
彼がこちらに歩いてきた。
「君は物知りだと聞いたんだが」
彼から話しかけてきたのはこれが初めて。
すらっと伸びた背。ほどよく筋肉のついた体躯。
真正面に見上げる彼は、とても端正な顔をしている。
「貴方が何を知りたいのかは知ってるわ」
そう、血を飲まずとも私は知っている。
貴方が何者なのか。
彼はベンチの隣に座り、肩に手を回してきた。
息がかかるほど顔が近い。
「何故今まで何も言わなかった?」
「聞かれなかったからよ。お節介は性に合わないの」
私は開いていた本を閉じて彼の方へ顔を向けた。
彼は少しも躊躇う素振りを見せずに恋人にするように身体を寄せてきた。
この時ばかりは、先祖代々から受け継いだ滅多に赤らむことのない血色のない顔に感謝した。
「それよりも誰に聞いたの?」
物知りだなんて。
「七年生の数人が言っていた」
「彼らはなんて?」
「”対価を払ってでも知りたいことがあるならヴィヴィエールに聞け”」
「そう」
お喋りな人たち。
でも今は感謝したい。
彼と話すきっかけができたのだから。
「それで、対価に何をくれるのかしら?」
「何が欲しいんだ?大したものは持ってない。僕が孤児なことくらいは知ってるだろう」
彼が、欲しいものはなにか、と自分に尋ねている。
私が欲しいもの。
「富や財に興味はないわ」
「なら何ならいいんだ?」
何が欲しいと思う?
私が欲しいのは。
彼の顔を見上げた。
黒い瞳と目が合う。
「貴方の血が欲しいわ」
「僕の血?」
彼は意外そうに言う。
「ええ。小さな小瓶程度でいいわ」
「血なんか、何にするんだ」
彼は
「何にしようかしらね」
彼の血は恐怖だった。
全てに残酷さと支配欲がにじみ出ていた。
祖母が彼を危険だという意味が理解できた。
理解できるからこそ受け入れたくなかった。
でもそれは紛れもない事実として私の記憶の中で反芻された。
夏休み明けの図書室。
彼がやってくる。
やあ、と向かいに座ってきた彼の青白い手には金と黒の指輪がはめられている。
その指輪が誰の物だったか、私は知っている。
彼は気遣わしげに指輪の向きを直す。
「良い夏休みだったか?」
「それほどよ」
幸いにも私の声は震えていなかった。
「また探し物かしら?」
「何故僕が何かを探してるって思うんだ」
「ただ聞いてみただけよ」
彼はにやっと笑った。
「確かに僕は今見つけたいものがある。けれど、今度こそは僕一人で見つけてみせるよ」
「そう。見つけられるといいわね」
メローピー・ゴーントの息子。
スリザリンの末裔。
そんな彼が新たに探しているもの。それが何なのか私は知っている。
そしてその部屋を見つけたとき、彼が何をするかも。
瞳に赤い光をちらつかせた彼は、端整な顔に野性と欲望を剥き出しにしている。
熱っぽく話す彼を見て、私はようやく祖母の言うことを本当に理解し始める。
それでも私は彼に憧れているのだ。
私は目眩し術をかけ、死んだレイブンクロー生の身体が安置されている部屋に忍び込む。
血は、身体が死んだ瞬間から腐り出す。
血が運ぶ記憶はそれと共に崩れ出す。
レイブンクロー生が死んでからそれなりの時間が経っていたが、それでもやる価値はあった。
死体の頚動脈に針を刺し、シリンジいっぱいまで血を抜く。
談話室に戻った私は自分のベッドのカーテンの中でシリンジの中身を仰ぐ。
……じめじめしたトイレ、シューシューという男子の声、ズルズルと引き摺る音、黄色くて大きな二つの目、ふっと身体の力が抜けて……
はっと目を開けるとちゃんと自分はベッドの上にいる。
紛れもない彼の声。
私と母が話すときに使う言葉。
シューシューという彼の声が何度も耳に響く。
私は手で顔を覆う。
怖くて堪らない。
おぞましい。
だらりと力なく垂れたレイブンクロー生の腕。
私が彼のことを黙っていたから。
私が祖母の言い付けをちゃんと守らなかったから。
私は目覚めさせてはいけない蛇をくすぐってしまった。
そしてその蛇が赤い眼を開け、こちらに目を向けようとしている。
まだ誰もいない大広間。
目眩し術をかけた
秘密の部屋を開けた
彼がジュディスのことをこれ以上気にしないように。
彼がジュディスへの関心を失うように。
他の生徒に混ざって朝食を取りながら
彼は今日も気付かずに毒入りの飲み物を飲んでいる。
あれ以来、彼が校内で
赤子は小さな手を目一杯伸ばして母親を求める。
隣にいる虚な目をしたセオドリックは、それでも嬉しそうに赤子を見ていた。
幸せな人。
生まれた赤子を見ても大した感慨はなかった。
我が子という実感さえない。
この赤子もいつか
気の毒な子。
でもそれが
もし、私の中にほんの一握りでも
もう一度、最期にもう一度だけ、貴方に会いたい。
トム。
ああ、どうして
そうすれば貴方だって幸せになれた。
ああ、トム
もう一度だけでいい
貴方に会いたい