01: 傍観の罪人と悪夢の続き
先の潰れた鉛筆で、壁に線を足す。
果たしてこれを続けることに意味はあるのだろうか。
雨の音がする。
雨の匂いも。
最後に雨に触れたのはいつだっただろう。
雨の日には、よくアビーとカッパを着て水溜りで遊んだ。
その後は決まってカッパの意味もないくらいびしょ濡れになって、二人してカミラさんに叱られるまでがお決まりだった。
ふっとぬいぐるみを抱えたアビーの姿が浮かぶ。
「…私がやったんじゃない」
壁の文字をなぞる手に力が入った。
大丈夫。
私がやったんじゃない。
窓ガラスを割ったのは私じゃない。
私はアビーを傷つけていない。
…
もう何度この言葉を唱えたんだろう。
この思いだけが、拠り所だ。
いつになったら私は、この部屋から出られるのだろう。
ヒルダは都市から遠く離れた田舎で小さなフラットの管理者をしていた。夫は出稼ぎに出ており、夫の実家の持ち物だったフラットをヒルダが管理している。経営の傍らほとんど一人で育て上げた息子も既に自立し、今は都会で一人暮らしをしている。
蒸し暑い夏のある日、ヒルダは空き部屋の掃除をしていた。今度の秋から新しい入居者が決まったのだ。数年前まで一人の女の子が入っていた部屋で、ここ数年は空き部屋になっていた。
久しぶりに近づいた部屋が、意図的に隅に追いやっていた記憶を呼び起こす。
まだほんの小さな子供だった。大人びた顔の、黒髪の女の子。
痩せた身体と伸びきった黒髪。
普段考えないようにしているだけで、実は、扉の取り出し口越しに見たあの子の姿をまだ鮮明に覚えている。
子供を幽閉しにきた養父と養母は女の子のことを酷く怖がっていたが、一体何が恐ろしいのかわからないくらい静かで大人しい子だった。女の子の周りでも特に変わったことは何一つなかった。
…いや、違う。
一つ気付いたことがある。つい最近気付いてしまったことが。
この部屋の窓の向かいにある倉庫の窓。
前はそこの窓ガラスがしょっちゅう割られた。
石を投げ込むような悪ガキが近所にいるわけでも無いし中の物が盗まれるわけでもない。なのにあまりにも頻繁に割られるので鴉がやったのかぐらいに思うようになっていた。が、白髪の老人に連れられて女の子が出て行った後ぴたりと窓ガラスが割られなくなった。思えば女の子がここに来る前に窓ガラスが割られたことは一度もなかった。
偶然にしては出来過ぎかと思いつつ、偶然であってほしいと願っていた。
今更不気味なことに巻き込まれたくない。
あの子は既にここを出て行ったのだ。私にはもう関係のないこと。
部屋の壁紙は細密なアラベスク模様が所々掠れてしまっているがまだ張り替えなくてもいいくらいには綺麗だった。床も上を歩くとちょっと軋むけどどうってことない。
天井を一通りはたき終わり、今度は壁と床を掃除しようと本棚に手を掛けた。中にはまだ昔の入居者が置いていった本が入っている。これも処分しなきゃね、と自分に話しかけながら本棚の後ろを掃除するのに本棚をずらそうとした。かなり重かった。中の本を出してから動かせば幾分楽なのだが、横着な性格が出る。
「マックが帰ってきてるときに手伝わせればよかったわ。何もわたし一人でやらなくても、、」
愚痴を零したって、休暇の明けた息子はもう都会の自分の家に帰ってしまっている。ぶつぶつ呟きながらヒルダは一人で本棚を引き摺った。
額の汗を拭って顔を上げたところで本棚が元あったところの壁が目に入る。その部分の壁だけ落書きだらけだった。
「やだわこれ」
真ん中に書かれた文字のところなんか壁紙が破れてしまっている。
部屋の中全部張り替えしなくちゃいけないじゃない。この壁紙は気に入っていたのに。
「誰がこんなこと……」
不満を漏らすように言いかけたヒルダは、はた、と壁に伸ばしかけた手を止めた。
地面からさあぁっと悪寒が這い上がってくる。
…”誰が?”
あの子に決まっているじゃない…!
そんな。子供が動かせる重さの棚じゃないわ…
でもあの子よ…あの子しかいないわ!!
真夏だというのに寒気が止まらない。
恐ろしさに思わず身体を引いたのが、却って傷全体をよく見えるようにした。
”私がやったんじゃない”
何度も何度もなぞるうちに壁板まで抉られた文字。
声も聞いたことのないあの子の泣き声が聞こえる気がする。
その文字の周囲に幾重にも重ねられた傷。
五つずつに纏められた傷は下にいくほど小さく小さくなっていく。まるで希望を失っていくかのように。
「…あ、」
ヒルダ・スワンはその場にへたり込んだ。胸の前で強く手を握り締める。
「あああ、かみさま…!!」
私は、私はなんてことを……!!
薄暗い部屋のベッドで飛び起きたレオノールは、パニックになりながら両手を頭にやる。
顎の下で切り揃えられた髪が手に触れ、安堵したように深く息を吐いた。
…大丈夫。夢だ。
義理の妹の残像を拭うようにレオノールは両手で顔を揉んだ。
しばらくそうしてから、のそのそとベッド脇のテーブルからマッチを取り、蝋燭に灯を付ける。
蝋燭の前でまた両手で顔を覆う。
…ガラス窓の前で、アビーが悪意の篭った笑みを浮かべていた。
だたの夢だ。
切り落としたはずの髪がべたついてまとわりついてくるように感じられる。
疲弊したレオノールは、もう一度寝る気力も湧かず、ベッドのヘッドボードにもたれかかりながら窓の外が明るくなるのをぼーっと眺めていた。
地下の秘密の部屋を出た後、レオノールは聖マンゴで散々検査を受けた。結果はすべてクリーンだった。レオノールの身体に異常はない。ただ、時々、悪夢を見るだけだ。
トムに植え付けられた悪夢は、おそらく彼でさえ予想していなかった形でレオノールを蝕んでいた。
鬱蒼と茂った庭の森で鳥が囀り始める。
ベッドから出たレオノールは、床に落ちた郵便物を拾い上げた。
学校からのホグズミードの外出許可のサインについての手紙だ。
スネイプ先生にサインお願いするの忘れちゃったな。次来るのいつだろう? まあ、スネイプ先生のサインなら学校が始まってからでもいっか…
多忙なのがデフォルトなスネイプ先生だけど、この夏は特に忙しいらしい。前に会った時はアズカバンの脱走犯がなんとかだとか零していた。一週間に一回会うか会わないかくらいだけど、簡単な(具材を放り込むだけの)スープならレオノールだって作れるし、飢えずに暮らしている。
ホグズミードといえばハーマイオニーからの手紙でハリーの話が出ていた。
伯父からサインをもらうためにご機嫌取りに奔走しているらしい。
毎年そんな家に帰らなきゃいけないなんて。
「ハリー、大変だな」
去年のハリーを思い出す。
秘密の部屋で、レオノールはハリーに杖を向けた。
その後、レオノールの出生で悩んで、それでも「何も変わらないよ」と言ってくれたハリーの優しい言葉が、レオノールの中の罪悪感を一層重くする。
今年はまだハリーから手紙は来ていなかった。
「何も変わらない」と言ってくれたけど、変わってしまうものもある。
逆にハーマイオニーからは前と同じように手紙が届いたが、彼女のことだから、変わらないように気をつけてくれたんだろうなというのがわかってしまう。
「…みんな、元気かな」
会いたい。けど、どんな顔をして会えばいいんだろう。
その日、ハリーは逆上からマージおばさんをパンパンに膨らませてしまい、自暴自棄になってプリベット通り四番地を飛び出した。