「ずっと会いたかったのに」
列車の中でレオノールに抱きついたアビーは、ずっと昔もそうしていたようにぷくうっと不満げに頬を膨らませた。
髪は伸びて、そばかすが増えているが、四年前と変わらないアビーだ。我儘で、お茶目で、でも頑張り屋さんで、そしてもう沢山自分のを持っていたのに私のぬいぐるみを欲しがったアビー。
アビーは何も知らないんだ。
ホグワーツ特急にマントを着た黒い影が現れ、レオノールの視界は暗転した。寒気が胸の奥へ、心臓へと容易く滑り込み、冷水が流れ込むようにレオノールは暗闇の中へ溺れていった。
それからまるで潮の引き切らない干潟のように、レオノールの足下は冷水に浸かったままだ。抜け出そうと足掻いても一層泥に埋もれていく。
午後の陽が差すなか、私は父と庭にいた。
土の匂いがする。
ただただ時間が過ぎていく。
常に何かで頭をいっぱいにしていないと否が応でも考えてしまう。
「近頃、体調はいいのかしら?」
「…なんなの?」
その目に、はっきりと恐怖が浮かぶ。
「……どうして、それを…」
窓ガラスを割ったのはだれ?
違う、私じゃない。
「母を、知っているんですか?」
どこか、期待が滲んだ声だった。
「別に。記憶にあるだけ」
毎晩夢を見る。
夢に現れ嘲笑うアビーの残像を拭うように顔を揉む。
大丈夫、これはただの夢だから。本当に? 本当にただの夢なの?
「青か緑か?」
人の顔だけが違う。
窓ガラスを割ったのは?
私はガラスを割っていないはず。
「もうスラグホーンに名前を覚えられたらしいな。スラグ・クラブへの声が掛かるのも時間の問題かな?」
「スラグ・クラブなんて入らないわよ。私、面倒なことは嫌いなの」
本が、教科書が読めない。文字が頭に入ってこない。気付くと活字の上を滑っている。
だれが割ったの?
「それは、馬鹿なことをしたわね。セブルス」
「…僕が馬鹿だと?」
「そう言ったつもりはないわ。でも、彼らがそういう人間だってことは、あなた自身が一番よく知っていたでしょう?」
セブルスは俯いたまま、何も言えない。
私はそんなことしていない。
図書室でハーマイオニーに「大丈夫?」と声を掛けられた。すごく心配そうな顔をされた。傍からみてもそんなに酷い有様なのかな。当たり前か。
一人でいると無意識のうちに考えてしまう。かといっていつ泣き出してしまうかわからないのに他人と一緒の空間にはいられない。何で泣くのかと聞かれたらわからないと言うしかない。そこで話しかけられたら私は崩れてしまいそうだ。
授業は開始ギリギリに滑り込んで一番後ろで受け、終わると同時に教室を飛び出す。
割ったのは私?
違うはず。
「今日は満月だったかしら?」
顔からさっと血の気が引いて、少年は目を見開いた。
「……誰から聞いたんですか?」
「誰からも聞いていないと思うわ」
「じゃあ、どうして、…?」
心配して声を掛けてくれるドラコさえ適当にあしらってまた頭をいっぱいにする用事を見つけに行く。ドラコには申し訳ないけど、今は声を掛けてくれるドラコの言葉や気遣いさえ煩わしい。
一人にして。
ひとりにしないで。
それともアビーが? そんなはずない、そんなわけない。
でもアビーも魔女だった。
馬鹿なこと考えないで。
「それは、お前には関係ない–––」
突き放すように言いかけて、犬のほうの目が細くなる。探るような目線だ。
「……まさか、知っているのか?」
「さあ、何のことかしらね」
眠るのが怖い。
眠ると夢に見る。駆け付けたカミラさんの肩越しにはっきりと悪意の篭った笑みを浮かべるアビー。
違う!
それは夢だ。そうでしょ?
「…なんであなたはなんでも知っているんですか?」
「なんでもってわけじゃないわ」
「でも、知っているんですよね」
「だって随分騒いでいたじゃない。とうとう彼女も堪忍の尾が切れたわね」
ガラスが勝手に割れたとでも? そんな偶然があるものか。
偶然でしょ? 偶然って起こるのよ。
野外の授業は憂鬱だ。授業を受ける場所に行くまでさえも他の寮生と一緒にいなきゃいけないし、流石にこの時までドラコを避けるのは無理だ。
じゃあだれが割ったの? やっぱり––––––––私だったの?
「あら、ルシウス。どうしたの?」
「君を連れ戻しにね」
「ご苦労なことね」
ルシウスと並んで校庭を戻る。
彼は、一度も森の方を見やらなかった。
私、そんなことしたの? していないって、ずっと、信じていたのに。私は、していないでしょ?
違う、違う、違う。
じゃあだれ?
「哀れなことだ。お前はまだ若いのに」
「ケンタウロスが憐れむなんてね」
わからない。自分が、信じられない。
レオノールの様子は、少しも良くならないどころか、むしろ悪化していた。
ドラコは、教科書を抱きしめるようにして歩くレオノールの背を、数歩後ろから見つめていた。険しい表情のまま、周囲には一切目もくれず、ただ足元の地面を睨んで歩く彼女の姿は、初対面の人間から見ても異常だとわかるくらいだ。
あれから、レオノールは何も話してくれない。
ドラコにわかるのは、過去にアビーとレオノールの間に何かがあり、レオノールは今も、それに苦しんでいるということだけだ。
魔法生物学の授業のために校庭の芝生を歩きながら、ドラコは意を決して口を開いた。
「なあ、何があったんだ? いい加減に少しくらい教えてくれよ。今年に入ってからずっとそんな感じじゃないか。こっちの身にもなってくれよ」
「嫌だったら、ほっといてよ」
「そんなことできるか。僕は、君にとって寮で数少ない友達なんだろ? こうも黙られたままじゃ何もわからないよ」
「……言えない」
「なんでだよ」
「言えないから。言いたくないから」
怒ったような早口で、レオノールは言った。その声音に、彼女がどれほど追い詰められているかがにじむ。
だが、ドラコの我慢も限界だった。
なんでもない。言えない。言いたくない。 何度聞いても、返ってくるのはそればかり。
「ああそうかい! そんなに言いたくないなら一人で勝手にやってろ!」
思わず一気に捲し立てていた。
レオノールは何も言い返さなかった。顔をしかめて、嗚咽を飲み込む。瞳に浮かんだ涙にドラコが気づく前に、彼はもう後悔していた。
しまった。
けれどもう遅い。一度口から出た言葉は、取り消せない。
レオノールは小さく「ごめん」と呟き、それきり黙ってしまう。こんなにも縮こまったレオノールを見るのは初めてだった。
二人の周囲には、気まずいなどという生易しいものではない、不穏な空気が流れる。
いくら悔やんでも、もう手遅れだった。
そのままグリフィンドール生と合流して魔法生物飼育学の授業を受けている間、ドラコの気分は最悪だった。レオノールが涙で赤くなった目をしているのを見て、ポッターたちがこちらを睨んでくる。泣かせたのはお前だろう、と言いたげに。
確かにそれは正しい。 でも、正しくもない。
ここしばらくレオノールを苦しめている原因は、結果的にドラコも苦しめている。
なんで僕に相談してくれないんだ。
今までずっと、レオノールが寮で孤立していたときだって、僕は彼女を見捨てたことはなかった。
それなのに、そんな僕にさえ言えないようなことなのか?
ドラコは、さっきまでポッターが乗っていたヒッポグリフに手を伸ばした。
むしゃくしゃする。まさにこの言葉がぴったりだった。
ポッターがまだ睨んでくる。
お前はどうなんだよ。 悩んでるレオノールを、お前だって助けられてないじゃないか。
ハグリッドが注意するわりには、ヒッポグリフは易々と触れた。羽毛は思いのほか柔らかい。
今のレオノールの方が、よほど扱いづらい。
「それに比べたら、こんなこと造作もない。……そうだろ、醜いデカブツの野獣君」
刹那、銀の鉤爪が振り上げられた。
次の瞬間、何かに強く弾かれたように身体が横へ吹き飛んだ。
同時に、右腕に鋭い痛みが走る。
女子生徒たちの悲鳴が上がる。
土の上に投げ出されたドラコは、右腕を抑えながら顔を上げた。駆け寄ってきたパンジーの肩越しに、レオノールとばっちり目が合う。
レオノールは、なぜか唖然としていた。
青と緑の瞳が、驚愕で見開かれている。
ドラコがハグリッドに抱えられ、医務室へと運ばれていく間、レオノールはまるで何かに怯えるように、ただ硬直して立ち尽くしていた。
どうして、
どうして、レオノールがあんな顔をするんだ?
たった今、レオノールにとってとても良くないことが起こった。
そのことだけは、ドラコにもはっきりとわかった。
気付いたらドラコを吹き飛ばしてた。
あれをやったのは私だ。
だって誰も杖を構えている人なんていなかった。
それに、なにより私が覚えている。
気付いたら吹き飛ばしてた。
気付かずに。
ガラスを割ったのはだれ?
割ってないという私の記憶がやっぱり間違ってるの?
ドラコの時みたいに気付かないうちにガラスを割ったの?
アビーの頭上にガラスを降らせたのは私なの?
アビーに自分のぬいぐるみを取られそうになったから?
だから私があのガラスを割ったの?
わからない。覚えていない。覚えていても信じられない。
––––––だれがガラスを割ったの?
ルーピン先生が生徒を一人ずつ呼んでいく。
キャビネットが開かれた。
目の前には、あの大きな窓ガラス。マシューさんがカミラさんにプレゼントした。
その前にあの日のアビーが立っている。
タオル生地でできたうさぎのぬいぐるみを抱えて。
ガシャンッ!と音を立てて窓ガラスが割れた。
アビーが顔を上げる。
アビーがこっちを見る–––悪意の篭った笑みを浮かべて––––––
–––やめて!
違う! 違う違う違う違う違う違う違うっ!
わからない! わからないの!
もう信じられないの!