禁じられた森は、生徒も教師もあまり立ち入らない。
静かで、誰にも干渉されないこの場所は、私的な畑にするには実に都合の良い場所だった。
陽が射さないのは少々不便だけど、それ以上に、この闇は秘密を隠すのにはちょうどいい。いい実験場だ。
乾いた枝を踏む音と、蹄が土を蹴る鈍い音が、背後から迫ってくる。
彼らだ。
振り返るまでもなく、気配で分かった。 木立の間から現れたケンタウロスは、森の闇に溶け込む影のようだった。月光がその体躯を斜めに照らし、顔はほとんど見えない。
それでも、こちらを見ている。感じる。目が合わなくても、その眼差しの鋭さが肌を刺すようだ。
「ここは人の立ち入る場所ではない」
低く、乾いた声。まるで森そのものが話しているようだ。
「はたして、
言いながら、私は石に腰を下ろす。わざとらしく寛いでみせてやった。
やがて、沈黙があった後––––
「……お前か」
ケンタウロスの身体がわずかに強張った。 馬の腹が引き締まり、前足がぴくりと動いた。逃げ腰ではない。警戒でも、怒りでもない。
それは、拒絶だ。
敵意ではない。だが、言葉にできない種類の、深く染みついた本能的な違和感。
生き物が、生理的に触れてはならないものに対して抱く、理屈を越えた拒否感。
「哀れなことだ。お前はまだ若いのに」
その声に温度はない。
だがその奥に、あるはずのない悼みが存在している。
「ケンタウロスが憐れむなんてね」
思わず口元が緩んだ。 彼らの感情は深い森のように掴みどころがないけれど、ときどき、こうしてふと漏れるのだ。
「お前のような存在を、森は拒まない。ただ、受け入れることもない。お前の在り方は、理ではない」
「貴方達の星が示さずとも、
森の摂理。世界の秩序。
彼らが何よりも大切にしているもの。
そして
カイラは確かにカイラとして産まれた。でも今の私には、背骨の奥に何百年分の記憶が絡みついている。
ケンタウロスは言葉を継がなかった。
おそらく、彼は私を人間として見てはいない。
それのどこも痒くない。私も彼らを遠い存在とは思っていないから。
風が梢を撫で、森がいつもの静けさを取り戻していく。
ケンタウロスは振り返ることもなく、森の奥へと姿を消した。
私は乱れた土をそっと均した。
この場所には、また来る。
ずっと、ずっと、お姉ちゃんを探していた。
おっきくて、優しくて、ずっと一緒に遊んでくれたお姉ちゃん。
ずっと一緒だよって言って、晴れの日も雨の日も、朝起きたときから夜ベッドに入るまで一緒にいたお姉ちゃん。
でもある日急にお姉ちゃんはいなくなっちゃって、それからどんなに探しても、誰に聞いても、お姉ちゃんは見つけられなかった。
ノーラは新しい家族のところに行ったのよ、とママは言ったけれど、アビーはなかなか納得できなかった。ずっと一緒にいるって約束したノーラが、アビーを置いて違う家族のところに行ったなんて信じられなかったのだ。嘘だ、そんなはずない、って泣き喚いても、ママは困った顔をしてアビーを宥めるだけだった。
それからだんだん時間が経って、ママとパパはまるで最初からお姉ちゃんなんていなかったかのように振る舞うから、アビーもノーラを見つけるのをちょっと諦めかけていた。
そんなときに、ホグワーツからの手紙を持ったダンブルドア先生が現れたのだ。
アビーはノーラと同じ魔法使いで、アビーがずっと探していたノーラもホグワーツに通っている、とダンブルドア先生は教えてくれた。
なぜかママとパパはアビーがホグワーツに行くのを嫌がったけど、ダンブルドア先生が二人を説得してくれたみたい。
九と四分の三番線に着いたときには、アビーの胸はノーラに再開できる期待ではち切れんばかりだった。
ノーラは、ホグワーツ特急の中にいた。
ずっとずっと探していたノーラにようやく会えたの。
嬉しくって、見つけた瞬間にノーラに飛びついちゃった。
…でも、ノーラはなんか変だった。
アビーを見てもほんの少ししか嬉しそうな顔をしてくれなかったし、どの寮に入っているかも教えてくれなかった。
結局、列車の中で会ってから、学校の中では一度も会えていない。
魔法学校の授業は知らないことばっかで楽しいけど、ノーラの姿はどこにも見かけなかったし、ノーラは一度もアビーに会いに来てくれていない。
アビーはノーラにまた会えて嬉しいのに、ノーラはアビーに会えたのが嬉しくないのかな………?
そうやって悩んでいたら、ノーラと寮が同じドラコ・マルフォイから、ノーラがいなくなったって聞いた。しかもこれが初めてじゃないみたい。
ノーラ、どうしたの?
どうしてアビーに会いにきてくれないの?
私の知らない間に、何があったの?
ノーラは翌々日に見つかったって聞いた。それからはアビーも何度か廊下で姿を見かけたけど、遠過ぎて聞こえないのか、アビーが声をかけても気づかずに歩いて行ってしまう。
…ようやくノーラを見つけたのに、前よりも遠くにいるみたい。
雨が降る中、校庭を歩いていく黒いローブ姿を見つけた。後ろ姿で、アビーはそれがノーラだとわかる。
アビーは雨の中に駆け出し、その後ろ姿を追いかけた。
「ノーラ!」
返事はない。
雨が、アビーの声を掻き消す。
「ノーラ、待って!」
泣きそうな声をしているのが、自分でもわかった。
立ち止まったノーラがゆっくりと振り返る。
「……ああ、アビー・ペベンシー」
静かな声だった。
「なにか用?」
「ノーラ……」
ノーラは、こんな呼び方をしない。
「ノーラっ……どうしちゃったの?…」
雨がアビーの心まで濡らしていく。
「…どうして、私を避けるの?」
ずぶ濡れのアビーと違って、ノーラは少しも濡れていなかった。ノーラの上だけ透明の傘が差してあるみたいに雨が避けていく。まるでノーラの周りだけ違う空気が流れているみたいだ。ノーラが少し顔を傾けて、肩上で切り揃えてある黒い髪が揺れる。
「レオノールがいなくなった日、何があったか覚えている?」
「覚えてっ、ないわ。ノーラがっ、急にいなくなっちゃって、パパとママに聞いても、何もっ、教えてくれないし」
「そう。覚えていないのね」
その言い方が、まるで石像みたいに淡々としていて、アビーはもっと悲しくなる。
「どうしてっ……どうしてノーラは、スリザリンだって教えてくれなかったの?」
「そうしたら、あなたはスリザリンに入りたがるでしょう?」
「もちろんだよっ!」
泣きじゃくりながらアビーは声をあげた。
「ノーラがいるところがいい! それだけだよ!」
寮がどことか血筋がどうとか、そんなのどうでもいい。
「でも、レオノールとあなたは違う」
レオノールは淡々と言った。
「何が違うのっ!?」
胸の奥が、嫌な音を立てて軋む。
「ノーラは私のお姉ちゃんだよっ!」
叫んだ声が、雨に、森に吸い込まれていく。
レオノールは、アビーの知らない瞳をしていた。
「あなたと
“私達”。
その言葉が、アビーの中で引っかかった。
「あなたは都合よく過去を忘れることができる。忘れるようにできている。でも、
何の話をしているのか、アビーにはわからない。 でも、言葉の一つ一つが、アビーをノーラから遠ざけていく。
「レオノールも、最初から一族の傍にいれば、過去の曖昧な記憶に苦しむこともなかったのに。そこは誤算だったわ」
雨に消されかけて辛うじて聞こえた最後の一言に背筋がゾワついた。ノーラの人生や存在そのものが、誰かの計算の内にあるように聞こえた。
「過去の記憶に苦しむって、」
喉がつかえた。
「そ、れっ、ノーラが、いなくなった日のっ、こと? ドラコ・マルフォイにもっ、同じことを聞かれたの! ノーラ、何がっ、あったのっ!?」
目の前にいるノーラが遠く感じた。
「あなたのママとパパに聞くといいわ。彼らも忘れていなければね」
涙で声が出ないアビーを残して、ノーラは雨の中に歩いて行ってしまった。ノーラがアビーを置き去りにしたことなんてなかったのに。
バケツをひっくり返したみたいな雨が一週間近く続いていたのに、試合の翌日から嘘のように晴天が続いている。
雷が鳴ってたって試合は中止にならない。クィディッチはそういうスポーツだ。
それでいい。それでこそクィディッチなんだ。
ハプニングはつきもの。………そういうものだ。
陽気な天候とは裏腹に、ハリーの心は地の底に沈んでいた。
クィディッチの試合で、ハリー達グリフィンドールはハッフルパフに負けた。
ハリーはセドリック・ディゴリーにスニッチを取られただけでなく、吸魂鬼に襲われかけて箒から落下した。乗り手を失ったニンバス2000は暴れ柳に粉々にされてしまった。
吸魂鬼に襲われて意識を失う前に聞こえた母親の声は、いまだにハリーの頭の中にこびりついている。
そして、試合中にスタンドで見かけた
あれはもしかしたら本当に
クィディッチは、レイブンクローがスリザリンに僅差で負けたことで、優勝杯への道がまだ残されている。
吸魂鬼は、ルーピン先生が守護霊の特訓をしてくれることになって、少しだけ気が楽になった。
新しい箒は、クリスマスにファイアボルトが贈られてきて歓喜したのも束の間、マクゴナガルに没収されてほぼ振り出しに戻ってしまった。
木曜の夜、魔法史の教室からの帰りに、廊下でレオノールを見かけた。また一人でいたみたいだ。今年に入ってから一人でいるところはほとんど見かけなかったのに、最近一人で出歩いているところをまた見かけるようになった。自分のことで手一杯だったハリーは薄情にも、そのことに今ようやく気づいた。太った婦人がシリウス・ブラックに襲われたのはレオノールが失踪していた時だったから、レオノールがシリウス・ブラックと通じている疑惑が少し流れていた。ハリーはそんな噂は馬鹿馬鹿しいと思っていたけど、こんな夜まで一人で出歩いているところを見ると何をしていたんだろう?と思ってしまう。
ふと、顔を上げたレオノールがこちらに気づいた。
「プロング–––」
「レオノール」
何か言いかけていたレオノールは、口を噤んで一瞬何かを考えるような顔をした。
「……ああ、ハリー」
久しぶりに直接話したレオノールは、ここ数ヶ月の様子が嘘だったみたいに、普通だった。
キングズ・クロス駅で見かけた時からずっとしていた思い詰めたような表情はなくなって、むしろすっきりしたような、なにか抜け落ちたような顔をしている。
「補習?」
「ううん、ルーピン先生に吸魂鬼の対処術の特訓をしてもらってるんだ」
「守護霊?」
「うん、レオノールも知ってるんだ。なかなか上手くいかないんだよ。もやっとした銀色の霧は出せるんだけど」
「ハリー、今三年生でしょう? それだけできるなら上出来じゃない」
「呪文得意なんだから、レオノールも守護霊の呪文の練習したらいいんじゃない?」
ホグワーツ特急ではレオノールも吸魂鬼で倒れた。その後夜まで医務室から戻ってこなかったらしいから、ハリーより重症だ。
「
レオノールは変わった言い方をした。
「私達ってレオノールの一族のこと?」
「
レオノールはどこか遠くを見るかのように言った。その話し方がレオノールらしくなくて、ハリーはなんだかちょっと怖かった。
二人は並んで廊下を歩いた。
「
ハリーは、最近ずっと気になっていたことを口にしてみた。二年生の時もそうだったけど、ロンやハーマイオニーに言いにくいことでもレオノールだと相談できる気がする。
「あるよ」
「レオノールは、本当に
「どうかしら。どうして? ああ、黒い犬を見たの?」
「えっと、見たかもって思ってる」
ハリーはちょっと口籠った。
「ああ、あれ見たんだ」
さらっと、なんでもないことかのように言われる。
「えっ、あれって、レオノールも見たの!? って、え?
「
まるで当たり前のことを話すかのように、レオノールは言った。
根拠はわからないけど、
「そっか、あれは
自然と笑みが溢れてくる。
「もしかしたら、って思っちゃったんだよ。最近悪いことが続いてたから……シリウス・ブラックは脱走するし、吸魂鬼に二回も襲われるし、ニンバス2000は粉々になっちゃったし」
「ああ、そうだったね。暴れ柳のところにまだ破片が残ってたよ」
「本当? 今度拾いに行くよ」
「新しい箒はどうするの?」
「クリスマスにファイアボルトが届いたんだけど、それは没収されちゃって」
「ファイアボルト?」
「最新の箒なんだ。すっごく性能がいいんだけど、すっごく高い」
「そんないい箒なら、どうして没収されたの?」
「シリウス・ブラックから送られてきたかもしれないからって、ハーマイオニーがマクゴナガル先生に言ったんだ」
「ああ、だろうね」
「レオノールも、シリウス・ブラックからだと思う?」
「そんな高い箒をハリーに送るなんて、シリウス以外にいないでしょ」
レオノールはなぜかちょっと呆れたようにふふっと笑った。
「でも、どうしてシリウス・ブラックがわざわざ高級箒を僕に送ってくるんだ? もし僕を殺すつもりなら、そんなまわりくどい事しなくてもいいじゃないか」
レオノールは怪訝な顔をしてハリーの顔を見た。
「あれ、知らない?」
「え、なにを?」
何かを思い出そうとしているかのようにレオノールの視線が遠くを泳いだ。
「ああ、知らないのか」
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
レオノールは首を振って、それ以上何も教えてくれなかった。レオノールはシリウス・ブラックについて何か知っている。それが、軽くなっていたハリーの心をまたちょっとだけ重くした。
レオノールは何を知っているんだろう?
レオノールと別れてからそんなことを考えていたら、談話室の前にいたマクゴナガル先生にぶつかってしまった。
「ポッター! どこを見て歩いているのですか? 探しましたよ」
さあ、と言ってマクゴナガル先生は幻の箒をハリーに差し出した。考えうるかぎりすべての呪文を調べたが、問題は見つからなかったらしい。
ハリーはファイアボルトを受け取り、その重みを噛み締めた。
ようやく戻ってきたのだ。
談話室に戻ると、クィディッチのメンバーとロンが歓声を上げた。ファイアボルトはみんなの手から手へ渡り、溜息と歓声が上がる。
ロンがファイアボルトを寝室に置きに行っている間に、ハリーは談話室の隅で課題に埋もれるハーマイオニーに近づいた。
「マクゴナガル先生が、ファイアボルトは大丈夫だって」
「そうみたいね。はっきりしてよかったわ」
「そうだね」
ハーマイオニーの周りには、教科書と書きかけのレポートが山のように積まれている。
「こんなにたくさんの授業、いったいどうやってやってるの?」
「え、ああ–––それは––––」
そのとき、上の寝室から悲鳴が響いた。
どたばた足音がして、シーツを持ったロンが階段を駆け降りてくる。
「見ろよ!!」
ロンがシーツをハーマイオニーに突き出す。
シーツには赤い染みが付いていた。
「スキャバースがいない! それに、これだ!」
ロンが机の上に投げ出したのは、オレンジ色の長い毛だった。