遺言師は死神の仕事だ。
死が近い人間に寿命を告げて遺言を書かせる。
いつか自分も受け継ぐ家業、そう思っていた。

初仕事で親友の女の子に死を宣告するまでは。

最後の夏休みが始まる。


「なぜ日本の平均寿命は世界一か考えたことはあるか?」

1 / 1
遺言師の遺言

 

 祖父は遺言師という仕事をしている。

 その言葉の印象通り、人に遺言を書かせる仕事だ。

 祖父の仕事を知る数少ない人間は『とても尊い仕事だ』と言う。

 避けられない死に対し、備えをさせているのだからと。

 

 俺はあまりそうは思わない。

 何よりもまず、暗い印象の仕事だから人に言えない。

 更に付け加えるなら、個人的に死んだ後のことなんてどうでもいいと思っている。

 遺言を書こうが書くまいが死んだ後のことなんか分からないと考えているからだ。

 

 だがそうは言っても、遺言師は才能が無ければなれない仕事で、自分にはその才能があった。

 近い将来この仕事をすることはほぼ確定しているし、今だって祖父に付いていっては仕事の手伝いをしている。

 

「秤悟。寿命を言ってみろ」

 草木も眠る丑三つ時。秤悟は祖父の天秤と共に、ある男の枕元に立っていた。

 六畳ほどの和室には布団が二枚敷いてあり、男の隣には妻が寝ている。

 どちらも見た目的に五十代、今の社会ならまだまだ働き盛りの年齢だ。

 だが、若かろうが年老いていようが中年だろうが、死ぬときは死ぬ。

 

「……42日」

 この歳にしていびきすらもかいていない、健康的な男の頭上には12桁の数字が浮かんでいる。

 その数字をある法則で組み替えて四則演算すると寿命が見えるのだ。

 明日も7時前後に目覚めて会社に行くであろう男が、なぜ42日で死ぬのか。

 秤悟はあまり興味がなかった。その内心を書くと冷たい印象になってしまうが、今時の高校生など大抵そんなものだろう。

 世界のどこの誰とも知らない人間が、しかもただのオッサンが死ぬと知っても何も思わない。

 

「そうだ。そこを間違えたら仕事にならないからな。そこだけはしっかりしろ」

 天秤の目が常夜灯の明りを受けてぼんやりと光っている。

 185cmのがっちりした体格、黒無地のトレンチコートに山高帽、皮の手袋。

 遺言師なんて死神の仕事だと思うし、実際祖父は秤悟の目には死神にしか見えなかった。

 

「42日後、お前は死ぬ。それまでに身の回りを整理して、遺言を書くといい。言葉を遺したい相手がいるのなら――――」

 夢さえも見ていないであろう程に深く眠る男の顔を覗き込み、天秤がいつも通りの言葉を告げた。

 その言葉に従って、男はこれから死ぬまでの間にそれとなく身の回りを整理し、なぜか遺言を書く。

 残り時間はだいたい40~50日程度が多い。人が綺麗に消えるための準備期間がそれくらいなのか、はたまたそれ以外の基準を祖父が持っているのかは知らないが。

 

「次に行くぞ」

 

「あいよ」

 玄関でも窓でもなく、壁に向かって歩き出した祖父の背中に付いていく。

 本来は突然であるはずの死。それを眠っている間に宣告するという遺言師の仕事に、もう一年近く同行している。

 自分の将来が半ば強制的に決まっていることに対する不満と、この仕事を好きになれるだろうかという不安を半分ずつ抱え、秤悟は祖父と同じく壁の中に消えた。

 

 

 

********

 

 羽鎌田秤悟(はかまだ びんご)は県立香林高校の二年生だ。

 部活は軽音楽部で、趣味はギター。

 成績は上の中であり、香林高校はかなりの進学校なので本来ならば進路は無数にあるはずだった。

 

(うーん……。行きたい大学かぁ……)

 ホームルームで配られた、夏休み前の進路希望調査の紙を見ながら顎を掻く。

 そこは県立の進学校らしく、教師は生徒全員に国立を受けろと言っていたが、将来の仕事的に大学なんてどこでもいい。

 適当に入れる私立を選んで少ない教科を勉強して、それでいいのだろう。

 

(……って思っちゃうのがなんだかなぁ)

 将来は遺言師になる。それ以外の選択肢はないことは分かっている。

 人を見ると寿命が分かるというこの才能は、勉学の才能よりも余程貴重なのだから。

 

(しかもこの才能、日常生活じゃ役に立たないし)

 たとえば担任の数学教師の寿命を表す数字は『6』から始まっている。

 窓に目を向け、校庭の木に張り付いているセミをよく見ると『9』から始まる数字が浮かんでいる。

 セミの方が教師より長生きするはずがないのに。つまり、パッと見ただけでは寿命の長い短いが判別できないのだ。

 12桁の整数を正しく並べ替え、足したり引いたり掛けたり割ったり、はたまた余りの数字が1なら倍にして0なら3分の1にして。

 そうしてようやく正しい残り時間が出てくる。最近ようやくその計算が頭の中だけで出来るようになったが、下手したら1分近くかかってしまう。

 特異といえば特異だが、遺言師以外に活かせる道は思い浮かばない。

 おまけに鏡を見たとしても自分の寿命が分からないのだ。一番知りたいのはそこだろうに。

 

「おい羽鎌田~。どうすんだお前ー」

 後ろの席の同級生が椅子の裏を蹴ってくる。

 周囲を見ると、他の級友も同じような話題で思い思いに話し合っている。

 実際、同級生がどのように悩んでいるか気になるので、秤悟は進路希望調査を手に持って後ろを振り返った。

 

「沖埜はどうなんだー? ……お前もなんも書いてないじゃんよ」

 沖埜奏塗(おきの かなた)は一年生から同じクラスで部活も同じ、更にはパートも秤悟と同じくギターという、女子の中では一番話しやすい存在だった。

 入学したての頃は見た目が怖い奏塗に苦手意識を持っていたが、そんなこともすっかり忘れ今ではほとんど毎日適当なことを話している。

 

「だって今真剣に書いてもさー、この後の模試次第で上げたり下げたりすんじゃん?」

 

「進路って将来やりたい仕事で決めるもんなんじゃないのか~?」

 

「やりたい仕事あんの?」

 

「俺……じいちゃんの仕事継ぐのかなぁ、たぶん」

 

「おじいさん何してんの?」

 

「なんか……遺言書かせるのが仕事……みたいな」

 仕事の内容的に遺言師としか言いようがないし、正式名称なのは間違いないだろう。

 だが、遺言師という言葉は全く一般的ではない。ググっても出てこない。

 祖父の仕事を説明する時はいつもこのようにして、内容を説明している。

  

「なに? 弁護士みたいな? お前法学部行くの? 理系クラスなのに?」

 

「いや……違うけど。まぁ、その仕事して40になる前に引退してよ、田舎でペンキ塗って暮らすんだ」

 

「田舎どこだよお前」

 

「この辺りだけど……」

 

「そういうシブい生活するには身長20cmは足りねえぞ~」

 中身があるような無いような会話。他人が聞いたらそう思うだろうし、実際中身はほとんどない。

 だが二人の会話はほとんどいつも、根底となっているある共通の知識に基づいて行われている。

 40前に引退して田舎でペンキ塗り。身長が20cmは足りない。

 どれもこれも二人に通じる大前提の知識が、その会話を二人の中でだけくすぐったくて面白いものにしていた。

 

 

******

 

 二人が出会ったのは――――というより、お互いに認識を持ったのは軽音楽部の新入生歓迎会だった。

 香林高校軽音楽部には新入生への妙な洗礼が伝統として続けられていた。

 1年生の男女が隣同士に座り、同時に好きなバンドを言うというイベントだ。

 人前で曲を演奏するのだから、これくらいの恥ずかしさは乗り越えろという理屈らしい。

 だが、当然声が被るためよく聞こえず、上級生も聞き返してくる。二重三重で恥ずかしいイベントだ。

 こんなの自分が上級生になったら即廃止しようと思った。

 

(えーっ、ヤンキーいる……。こわ〜っ……なんか睨んでるし……)

 ピカピカの一年坊主だった秤悟の隣にいたのが、同じく新入生の奏塗だった。

 校則違反ではないが、いきなり茶髪だし、ワンサイドヘアでさらけ出した耳にはピアスがドカドカついているし。

 ブレザーのボタン外してネクタイ緩めているし、脚を組んで生意気としか言いようのない態度で上級生にガンを飛ばしているし。

 とにかく怖かった。ここは進学校なのに。一年生の一学期なのに。

 後で知ったことだが、睨んでいるのではなく目付きが悪いだけで、ピアスではなくイヤリングだったらしい。まぁ、同じことだと思う。

 

(こんなんで気圧されないぞ)

 それなりに頑張って入った高校だったので、初っ端から怖い同級生に負けたくないとむしろ気合が入った。

 前の席の二人が三回ほど上級生に聞き返されたのを見て、デカい声出して隣のヤンキーの声をかき消してやろうと思いながら立ち上がった。

 

「「ミッシェル・ガン・エレファントが好きです!」」

 

 なんだこいつ!!

 

 と、奏塗もその時思ったらしい。

 それもそのはず。まさか隣の人と被るなんて思っていなかったからだ。

 今の高校生に人気の有名バンドの名を言う他の同級生でさえ、被っていなかったのだから。

 

 変とは言わない。言いたくない。

 だが、ミッシェル・ガン・エレファントは自分たちが生まれる前に解散したバンドだ。

 言ってしまえば、ほとんどの若者にとっては過去のバンドとなる。

 だから同い年の人間で『ミッシェルが好き』と大勢の前で宣言するヤツがいるなんて、夢にも思わなかった。

 

 変とは言わないが、今時珍しいことは分かっている。

 それでも秤悟は、あるいは奏塗は、幼い頃に偶然ミッシェルを見て雷に打たれたのだ。

 派手に髪を染めている訳でもない。チャラチャラとアクセサリーを付けている訳でもない。

 細身の長身に、フォーマルな黒い服。鬼のようなカッティングに乗る人を殺せるほどのがなり声。

 

 酒とタバコと汗と。

 男が思うカッコいい男のど真ん中に、ミッシェルはいた。

 佇まいも、表情も、歌声も、奏でる音も、全てがカッコいい。

 奇跡みたいな存在だった。

 

 そんなバンドのギタリスト、アベフトシは自分たちが物心つく前に亡くなっていた。

 187cmの長身痩躯の体形に加え、無口で無表情。しかしその演奏の腕前はまさしく鬼。

 アベが30代の頃ミッシェルは解散し、以降アベは田舎でペンキ塗りをしながら生計を立て、そしてある日急性硬膜外血腫で突然逝ってしまった。

 このカッコよさが、潔さが、シブさが、涙が出るほどに理解できる人間がどれだけいるだろうか。

 その死が避けられないものだったのならば、せめてファンになってからでなくてよかったと思いたい。

 きっと泣き狂っていただろうから。

 

 そう思っていたら、一年生も終わる頃にThe Birthdayのボーカルにして、ミッシェルのボーカルだったチバユウスケが亡くなった。

 俺のヒーローがまた一人、いなくなってしまった。人の死でこんなに泣くことがあるのかと思う程に泣き散らかした。

 木枯らし一号が吹いた後の2023年の冬、秤悟は奏塗と二人で三日間くらいふやけたお饅頭みたいになって落ち込んでいた。

 からかってきた同級生に二人で本気の蹴りをくれてやった。

 

 チバが病気の療養に専念すると発表されたのは、自分たちが高校に入学した直後だった。

 身近な人の死を知らない秤悟は快復を祈りつつも『きっと治るはず』と勝手に思っていた。

 チバがこんなところで死ぬはずがないと思っていた。

 

 秤悟も奏塗も互いに口にしたことは無かったが、同じことを思っていたと秤悟は信じている。

 チバが治ったら、あのがなり声を生で聴きに行こうぜって。

 きっとどっちもそう言おうと思っていたのだと。

 

 言おうと思っていたこと。

 お互いに思っているけど言わないこと。

 

 俺たちは一番の友達だって。

 

 

******

 

 クソみたいな家。

 友人に話すとき、秤悟はいつもそう言っている。

 正確にはクソみたいな場所にある家と言うべきか。

 

 まず駅から遠い。この街の駅前付近はそれなりに栄えているが、10分も歩くと途端に畑や古民家が出没する。

 そんなボロボロの地域にぽつんとある山の上、三百段の階段を上った先に秤悟の家はある。

 階段の入り口や途中にはいくつもの鳥居があるため、時々勘違いした人が参拝に来る。

 おみくじなんかないっす、お祓いとかしてないっす、と追い返すイベントが年明けに一回は必ずある。

 

 たしかに見た目はほとんど神社なのだが、賽銭箱がない。ガランガランする鈴もない。

 本殿の奥に飾ってあるのは神具でもなければ像でもなく、バカでかい鎌だ。

 神社は神社なのだが、天秤曰く『俺の神社だが、俺は神主じゃない』とのことだ。

 

 友達に話したら超変な家だと言われた。自分でもそう思う。

 確実に言えるのは、霊能力っぽい何かがある家系なのだろう。だからこんなところに住んでいるのだろう。

 なんせ遺言師は特殊な能力が無ければ出来ない仕事だ。聞けば今は亡き父も遺言師だったらしい。

 

 が、家系がどうあれ、毎日の登下校で三百段もの階段を往復しなければならないのはクソみたいな家としか言いようがない。

 人の寿命なんか見えなくてもいいから、気軽にコンビニに行けるような家が良かったなと秤悟は思っていた。

 こんな家なので客は本当に滅多に来ないが、一方で毎月必ず訪れる人間もいた。

 

「今月の分だ」

 

「どうもありがとうございます」

 玄関先に来て天秤と話をしている男は、秤悟が物心ついた時から毎月必ずこの家に来ている。

 幼い頃に見た顔は、今思い返してみるとまだまだ若者だったような気がするが、すっかりオッサンだ。

 天秤から受け取っているのは死亡予定者のリストだ。つまり、これも遺言師の仕事の一つということになるらしい。

 

「秤悟くん、今は高校生だっけ」

 

「高二っス」

 

「そんなにか……。大きくなったね。もう仕事の手伝いはしているんだよね?」

 

「してますよ」

 

「寿命見る方法とかも天秤さんに教えてもらったのかな?」

 

「いや……気付いたら見えるようになってましたよ。……寿命知りたいんですか? 教えましょうか?」

 

「ああ、いや。僕ね、厚生労働省の勅使河原(てしがわら)っていいます。仕事の内容で何かあったら僕に連絡してね」

 

(……厚生労働省……ってなんだっけ?)

 名前は知っていたが役人だとは知らなかった。

 所属を明かして改めてそう名乗った意味を考えると、裏では着々と跡継ぎの話が進んでいるのだろう。

 それにしても厚生労働省とは何をしている所だっただろうか。

 自分たちの仕事は死にまつわる仕事だから、それと関係している何かが含まれている省庁のはずだ。多分。

 

 考えている内に勅使河原は頭を下げてクソ階段をおりていった。

 もう十年以上見ている光景だ。こんな時代に紙の書類をこんなところまで毎月取りに来るなんてご苦労なことだ。

 うちの爺様はパソコンが使えないから仕方がない。跡を継いだらまずは死亡予定者リストを電子化しよう――――なんて未来の話より前に、まずは晩飯だ。

 

「佳代子の飯はうまかった……」

 クソみたいな家だと思う理由その二だ。

 天秤は料理をしないのに、せっかく秤悟が作った料理にケチを付けてくる。

 会ったこともない母や祖母の名前を挙げては、こうしてため息を吐く毎日だ。

 

「そんなに俺の飯がマズいってのか?」

 

「しょっぱい」

 

「悪かったな! ばあちゃんの飯なんか知らんもんでな!」

 自分が生まれるよりずっと前に亡くなっている佳代子おばあちゃんは、遺影でしか顔を知らない。 

 だが、遺影でピースサインをしているのを見るにファンキーな人だったんだろう。

 父の写真は普通だが、母に至っては遺影でダブルピースしている。

 もっといい写真は無かったのかと天秤に聞いたら『遺影がイエイ』とか言い出して気絶するかと思ったことがある。

 

 祖母の佳代子。母の美菜。父の良秤。みんな秤悟が物心ついた頃には亡くなっていた。

 確かに客観的に見たら悲惨だな、と思うが、生まれた時からそうだったので何とも思わない。

 何も知らない人がいないことに対して感想など抱きようがないのだから。

 

「文句あるなら自分で作れよ!」

 

「俺は飯なんかいらん。だがお前は必要な訳だ。必然的に、料理はお前の仕事になる」

 

「屁理屈ジジィ……」

 そりゃいらないだろう。この老人は常に空腹ではないのだから。

 暇な時は日がな一日、本殿に籠ってだらだらと間食してはタバコを吸い、間食をしてるのだから。

 一体いつ買いに行っているのか、ハニーローストピーナッツやポテトチップスをいつもポリポリと食べて、キツめのタバコをスパスパ吸っている。

 

(でもほんとしょっぺえな)

 なぜたかが野菜炒めすらも自分はまともに作れないのだろう。

 そこはかとなく悲しい気持ちになりながらテレビを見ていたら、遺言書の遺産相続で揉めている一家を特集した番組がやっていた。

 

「なんでさぁ、遺言なんてもん書くんだろうな」

 

「なにが」

 

「だって死んだらどうでもよくねえ? 何がどうなろうが、もうどうしようもないんだから。知らんじゃん、そんなん」

 

「自分が死んだ後のことも気にするのは何故……か。たしかに考えてみるとおかしな話だな。そこで全て終わりなのに」

 

「そうだろ?」

 

「……きっと、人間種の脳が他の動物より大きいからだろうな。動物の目的は子孫繁栄だろう? その確率を少しでも上げるための行為なんじゃないか」

 遺言師を継ぐのにいまいち乗り気でない理由がまた出てきた。

 天秤はおそらくきっちり仕事をこなす職人タイプなのだろうが、長生きしているとは思えないほどに大人気なく、常識がなく感性もズレていて、はっきり言ってしまえば超変人だ。

 自分の祖父にこんな感想を持つのは悲しいが、社会でまともに人と関わらないからだろう。

 毎日毎日人の枕元で余命宣告をしていれば、そりゃこうもなるだろう。

  

「てかさ、俺の親父も遺言師だったんだろ。その割には遺言の一つもねえな」

 

「残す暇がなかったからな」

 

「なんで」

 

「お前の親父は人助けして死んだ」

 

「誰を? 何から?」

 

「…………」

 しょっぱい野菜炒めを食べることを放棄した天秤は、スーパーで売っていたしば漬けを食べてから残りのご飯をかきこんでしまった。

 天秤は息子と息子の嫁の死因を語らない。これは完全に秤悟の想像でしかないが、理由はおそらく――――後悔だ。

 遺言師なんて仕事をしているのに、身内の死に対応できず言葉を遺させることもできなかった。

 同じ立場だったら、確かに孫には言いたくない。

 

「お前、昨日アレだっただろ。アレ……。…………」

 そこまで言いかけて、結局諦めた天秤はタバコを吸い始めた。まだこちらは食べているのに。

 

「誕生日な!?」

 

「そう。晴れて16歳になったわけだ」

 

「17歳だ……ジジィ……!」

 思春期真っ盛りの秤悟は自分から『俺今日誕生日なんだけど』とは恥ずかしくて言えなかった。

 それでも覚えているもんだと思っていたのに、完全スルーでがっかりしたのが昨日の夜。

 覚えていたのに何もしなかったのかよ、と更にがっかりしたのが今。

 年齢も忘れる小ボケ付きで更にマイナス点追加だ。

 

「…………。今日の仕事、お前がやってみろ」

 

「えーっ、いきなり!?」

 

「夕方来た……アレ、あの人……。まぁ、言ってあるから」

 

「勅使河原さんだろ!? なんで名前覚えてねえの!?」

 

「ジジィだからな、俺は」

 そう、ジジィもジジィ、超ジジィなのである。

 なんでもすぐ忘れる。間食とタバコは絶対にやめない。そしてなにより、人の話を聞かない。

 

 天秤がやれと言ったらこちらが何をうだうだ言おうと最終的にはやるしかないのだ。

 そのへんの抵抗する気力は反抗期が終わった時に一緒に消えてしまった。

 

 自分が心の中で17歳の少年らしく葛藤していることなど、全く気にもしていないのだろう。

 さっさと風呂に入った秤悟は、そう思いながら早めにベッドに潜り込んだ。

 

 

******

 

 死の運命にある人間の枕元に立つ。

 その言葉の印象通り、自分たちは仕事の際は肉体から抜け出ている。

 おしゃれな言い方をすればエクトプラズムだ。何も一軒一軒ピッキングして侵入している訳ではないのだ。

 霊体なので物理的影響力を一切持たない代わりに、物理的制約もほとんどない。

 どこへでもすぐに行けるし、壁もすり抜けられる(ただし次の日は死ぬほど眠い)。

 起こすことすらもできないし、その場で火事に気が付いたとして自分たちは焼け死なない代わりに助けることもできない。

 だがそれでも、寝ている間に言われたことを相手は心の奥底で覚えていて、翌日からの行動がそれとなく変わるのだ。

 これもまた、遺言師に必要な特殊な能力の一つだった。

 

「おい。朝まで寝ている気か?」

 

「…………。わかったよ。あれ……?」

 幽体離脱をした天秤が起こしに来たのかと思ったが、それはおかしい。

 霊体では寝ている人間を起こすことすらもできないのだから。

 目を開くとそこは自分の部屋ではなく、既に秤悟は霊体になっていた。

 

「勝手に魂抜くなよ! 怖いから!」

 

「でも仕事先に連れてきてやった分だけ寝れただろ」

 

(……女の子の部屋か?)

 人の魂を抜くのってどうやるんだろう――――と思いながら薄暗い部屋を見回して気が付く。

 これは若い女の子の部屋ではないか。ベッドと勉強机、更に小さな机とクローゼットというスタンダードな家具。 

 だが、クッションのセンスや部屋に置いてある小物のセンスが男のそれではない。

 クローゼットや壁にウォールステッカーが貼ってあるが、こういうことをする男はかなり少ない。

 

(マジかよ……!) 

 最初の仕事はよりによって死にかけの老人ではなく若い女の子だ。

 当然だが、この仕事は相手が若ければ若いほど気分が悪い。

 わざとなのか、偶然か、一番キツい仕事を持ってきやがった。

 あのさぁ、と文句を言うために口を開いた時だった。

 

「ん……」

 ベッドの上で壁に向いていた少女が寝返りをうち――――見慣れた、それこそ今日の昼も見た顔がそこにあった。

 

「沖埜……?」

 そこにいたのはクラスメートで同じ部活で共通の趣味を持っていて、言ってしまえば学校で一番仲の良い友人である沖埜奏塗だった。 

 秤悟は一瞬頭が真っ白になった。本当に目の前が何も見えなくなった。

 なんで沖埜が死ぬんだよ、という当然の言葉。

 いきなりことわりもなく部屋入ったからキレるだろうな、という整合性の取れない考え。

 意外と女の子っぽい部屋している、というのん気な感想。

 全てが同時に頭に浮かんで、完全にショートしてしまった。

 しばらくして再起動した頭に浮かんできたのは『え?』という身も蓋もない感嘆詞だった。

  

「どうした秤悟。寿命を言え」

 

「じ……じいちゃん……。これ、この、こいつ……」

 

「寿命は?」

 祖父の声に促され、ちかちかと未だ白い視界の中、奏塗の頭上に浮かぶ数字をいつものように――――いっそ冷酷に並び替えて計算していく。

 

「46日……。46……!?」

 僅か46日後、夏休みが明けた文化祭の次の日だった。最後の夏休み、最後の文化祭、最後の学校。

 わざわざ言葉にして考えてしまったそれぞれの『最後』の衝撃があまりにも大きく、霊体となっているのに吐いてしまいそうだった。

 2024年9月2日。それが沖埜奏塗の確定した命日だ。その日を境に、奏塗はこの世のどこにも存在しなくなる。 

 後ろから椅子の裏を蹴られることも、中身の無い話をすることも、部活仲間と集まってファミレスに行くこともできない。

 いつかに自分が冷たく吐き捨てたとおり、死ねばそこで全て終わりなのだ。

 

「無理だっ、無理……。……こいつ、こいつ、俺の同級生なんだよ……」

 

「……そうか。この子が……」

 

「ど、どうしよう……じいちゃん」

 

「やるんだ、秤悟。この子がお前にとってどんな人間かは関係ない。あるのは、この子が突然死ぬか、言葉を遺して死ぬか。それだけだ」

 

「……無理だ。できねぇ……」

 確定した死の運命も知らず、当の奏塗はすやすやと眠っている。

 その顔がそのまま棺に入っている姿を想像してしまい、腰が抜けてしまった。

 人一人がようやく入れる狭い棺に押し込まれ、火葬場に運ばれ、銀色の台の上に乗せられて肌も肉も残さず焼かれるのだ。

 残るのは小さな壺に入る程度にまで細かく砕けた骨だけ――――無意識にこの場から離脱しようとした秤悟の肩に、天秤が手を置いた。

 

「わかった。俺がやろう」

 安眠という言葉が人間になったかのような奏塗の寝顔を天秤が覗き込む。いつも通りの言葉をいつものように囁きかけるのだ。

 当たり前だ。天秤にとっては知らない人間なのだから――――なぜ何も知らない人間が、淡々と流れ作業のようにそんなことをするんだ。

 あんたは無関係の人間だろうが。

 

「そいつは俺の友達だ!!」

 

「ならどうする?」

 

「ジジィじゃダメだ……。なら、なら俺……俺がやらなきゃ……」

 天秤をどかし、奏塗のベッドのそばに立つ。

 そこに浮かぶ数字は何度計算しなおしても、どうしても46日だった。

 寿命が見えるようになった時、暇つぶしに教師の寿命を毎日計算していたが、その数字は残酷かつ冷酷に一日ひとつ減っていた。

 決して戻らない。もう残された時間は二か月もない。

 

(こいつ……綺麗な顔してるな……)

 思えば奏塗の顔をじっと見たのはこれが初めてかもしれない。

 常夜灯だけが灯る薄暗い部屋の中、鼻と鼻がくっつきそうな距離まで顔を近づけてそんなことを思う。

 これが初めて――――ここまで一緒にいて、死ぬと分かってようやく初めて。

 明確な死のイメージが心の痛みになり、魂の雫がぽたぽたと奏塗の寝顔にこぼれていく。

 その涙すらも、この世の全てに決して影響を及ぼさない。

 いるのかどうかは分からないが、少なくとも秤悟には幽霊は見えない。

 死とはそういうことなのだ。泣こうが叫ぼうが、もう決して生きている人間に声が届くことはない。

 なら、ならせめて。

 

「……46日後、お前は死ぬ。……それまでに身の回りを整理して、遺言を書くんだ。言葉を遺したい相手がいるのなら――――」

 

「……いま言うんだ。言いたいことは生きているうちに言え! やりたいことがあるなら生きているうちにやれ! 沖埜!! てめぇ、忘れたら明日も枕元に立ってやるからな!!」

 気が付けば秤悟はお決まりの言葉を完全に変えていた。

 遺言師の領分を大きく超えた、本人の主義が大きく混ざった叫び声。あってはならない公私混同。

 天秤に採点されるまでもなく、最初の仕事は0点だった。

 

******

 

 The Birhdayのボーカルにしてミッシェルの元ボーカル、チバユウスケが病気になった時、秤悟はただ快復を祈っていた。

 自分は何百万人といるファンの一人。祈る以外にできることもすることもない。それが正しい在り方だと思っていた。

 

『世界の終わり』

 メジャーデビューした曲の名前だ。

 チバは世界中に終わりを届けるために世に出てきた男だったのだ。

 そんなとがりまくった男の最後の曲は、大人気映画の主題歌だった。

 日本を飛び出し世界中の映画館でチバの言葉が爆音で届けられた。

 

『Future』

 これこそがチバの最後の曲の最後の歌詞だ。

 その言葉が偉大なロックンローラーの〆となり、チバは伝説になった。

 世界の終わりを歌った男が、世界中に未来を語りかけて逝ったのだ。

 頭のてっぺんからつま先まで余すことなくロックスター。他に言葉もないほどに完璧。

 自分はそんなチバの魂を受け取った何百万人のうちの一人だ。

 それ以上でも以下でもない。ファンとスターとの関係なのだから。

 

 だが奏塗は違う。

 奏塗にとって自分は一人で、自分にとっても奏塗は一人しかいない。

 いま自分が何かをしなければ、明日も明日が来ると思い続けて死ぬことになる。

 

(飯が喉を通らない……)

 夏休み前、最後の登校日。

 ホームルームも終わり、生徒も各々解散していく中で、秤悟は焼きそばパンを持ったままぼーっとしていた。

 

(何をどうしていいか分からない……)

 午前中、後ろを向けなかった。奏塗になんて声をかけていいか分からなかった。おはようとすらも言えなかった。

 こんなことは祖父には訊けない――――というより、返ってくる答えは分かりきっている。

 なにもするな、いつも通りでいろ。それだけだ。

 何をしようが死ぬことには変わりなく、死んでしまえばそこで全て終わりなのだから。

 

 自分もそう思っていた。

 どうせ死んだら終わりなのに遺言なんてと。

 ならばなぜ、自分はこんなにショックを受けているのだろう。

 何をすればこの痛みはやわらぐのだろう。

 

「――――い! おい! 羽鎌田!」

 

「あっ……!? なんだ!? 沖埜……」

 

「そんなにマズいの? その焼きそばパン」

 

「いや……。うまい……と思う」

 いつものように椅子の裏を蹴って、いつものトーンで話しかけてくる。

 手に持っているのは母親が作ってくれた弁当だろうか。

 この子の親も、当然何も知らない――――さらに心が痛んだ。

 

「お前さ、遺言ってどう思う?」

 

「なんだよ急に……」

 

「いや、なんとなく……。お前なんか、遺言を書く仕事がどうのって言ってただろ」

 

「遺言を書かせる仕事ね」

 

「なんかよく分かんないけど、いま書くとしたら何書くかなーって思っちゃって」

 感情を表情に出さないように努めながら、自らの遺言師の才能に心底ぞっとする。

 もはや自分でも何を言ったか思い出せないほどに喚き散らしたのに、奏塗の思考・言動はそれとなく操られている。

 考えてみれば、遺言師の言葉を受け取った者がその後どうなるのかを見るのは初めてだった。

 

「そんなもん書いてどうすんだお前」

 

「うーん……」

 

「……あのな、よく聞くじゃんか。俺が死んだらハードディスクぶっ壊してくれとか」

 

「あー、確かに。あたしも死んだらスマホは水に沈めてほしい」

 

「死んだらどうでもいいだろ。死んでるんだから」

 

「…………そうかなぁ」

 やっぱり忘れてる――――怒りと共に自分が何を言ったか思い出してきた。

 どうせ17年しか生きていないのだから、遺産相続の話も一切ないとなれば、大切なのは遺言なんかじゃない。

 言いたいことは生きている間に言うべきだし、やりたいことは生きている間にやるべきなのだ。

 

「もしいま死んだらどうしようじゃないんだ。どうもならないんだから! 今……そうだ! 夏休み明けにはもう死ぬって思って!! 言葉を遺したいあれやこれをやれよ! 死ぬ気で!! 俺たちはアベがいない世界を生きてきたし、チバがいない世界を生きるんだよ!! 分かるか!?」

 頭のほんの一部、約1%ほどの冷静な部分が重大なルール違反をしていると言った。

 だがそれでも口を突いて出る言葉は止まらず、力が入りすぎて焼きそばパンを握りつぶしてしまった。

 

「お前……そんなんだっけ。そんなキャラだっけ」

 

「遺言……俺は分からん。意味分からんもん。死んだら終わりなんだから。そんなん残すくらいなら、生きている間にやればよかったじゃないか」

 

「…………。夏休み明けに死ぬくらいの気持ちで、か……」

 軽い雑談のような口調で訊いてきたのに、弁当に手を付けていない。

 それどころか髪をかきあげて、他の人よりほんのり広い額を晒してうつむいてしまった。

 きらりと光るイヤリングに嫌でも本格的な夏を感じる。

 秤悟にそんなキャラだっけと言った奏塗だが、奏塗も普段はこんなに分かりやすく悩むようなキャラではない。

 

(ルール違反……ジジィ……)

 ほっとけと言うだろうが、何か手伝ってやったと言っても何の反応もしないだろう。

 どうでもよさそうに漬物をぽりぽり食べている姿が目に浮かぶようだ。

 そうだ、俺が何をしようがあんな屁理屈ジジィに指図されたくない。

 

「何かやりたいことがあるのか?」

 

「…………まぁ、ね」

 

「手伝ってやる! 言ってみろ!」

 

「手伝うってどれくらい? 荷物運び程度ならってこと?」

 

「どれだけでもだ! 無制限だ!!」

 

「どんなでも?」

 

「なんでも!!」

 

「……そうか。うん……確かに、お前以外に頼める奴いないわ」

 そして奏塗は願い事を口にした。

 聞いて思った。確かにそんなこと、自分以外が引き受けるはずがないと。

 だが、これから死ぬほど大変だとは思ったものの、後悔はしていなかった。

 

*****

 

 8月になった。

 夏休みに入って2週間が経ったわけだ。

 秤悟はその間何をしていたかというと――――ただひたすらにギターを弾いていた。

 誇張抜きで毎日十時間以上弾いていた。

 

「ちがう! ちがーう! 『合言葉はイケナイよ』だって!」

 マイクを通して部室に大音量で声が響く。

 声の主は奏塗が所属していたバンドのボーカル、藤村海咲だ。

 

「もっかい動画見なよ」

 

「せっかく覚えたのにねぇ」

 口々に好き勝手なことを言うベースもドラムもどちらも女子。

 秤悟はガールズバンドの中でただ一人の男子としてヘルプで入っていた。

 

「あっ、あっ、あっ。そうだった……アイコトバハイケナイヨ……アツイオトカラオクルアイヲ……」

 床に置いたスマホを土下座の姿勢で眺めながら、流れてくるギターの音を必死に覚える。

 そういえばこの曲はライブバージョンでやると説明された。

 せっかくTab譜(ギターの楽譜)を全部覚えたのに、頭の容量が限界に近いため覚えた端から消えていってしまう。

 

「すげー必死。なんか中国のエグイ試験の受験生みたい」

 

「もう頭壊れちゃ^~う」

 

「羽鎌田さ、実際何曲やるの? 文化祭で」

 

「38曲……」

 

「バカじゃん」

 

「あー。カナ、掛け持ちしてたもんね」

 

「頼む方も頼む方だけど、引き受ける方も引き受ける方だわ」

 夏休み直前に受けた奏塗からのお願い。

 それは奏塗が参加しているバンドのギターを代わりにやってくれ、というものだった。

 夏休みといってもそこは進学校の高校生、宿題もあるし半数ほどの生徒は予備校に通っている。

 普通は10曲前後だが、秤悟はバンドを掛け持ちしていて奏塗も掛け持ちしていたため、こんな状況になってしまった。

 

「しょーがねぇだろ……やるって言っちゃったんだから」

 奏塗から渡されたTab譜には丁寧にメモ書きがしてある。

 普通なら読み飛ばして譜面通りに演奏するところだが、今回の奏塗の願いに限り全身全霊でやると決めているため、一言一句漏らさず読み込み、奏塗の演奏の癖までも手に染み込ませていく。

 

「他の人にちょっと回せばいいじゃん」

 

「ダメだ! 俺がやる!!」

 引き受けたはいいが秤悟は困惑していた。

 なぜならばこれが奏塗の最後の文化祭だと知っているからだ。

 そうでなかったにしても、文化部のメインイベントである文化祭をスキップする程の理由が秤悟には分からなかった。

 

「おっ!? 何撮ってんだ!」

 床に置いたスマホを噛り付くように見ていたら、海咲に写真を撮られていた。

 

「カナに送ってやろうかな~って。羽鎌田めっちゃ必死だよって」

 

「……あいつもう完全に不参加ってこと? 何してんの?」

 

「あー……。知ってるけど、カナが羽鎌田だけには言うなって」

 海咲は奏塗と中学校が同じであるため、部活やバンドが同じである以上に奏塗と仲がいい。

 なるほど、と思えたのも数秒。違和感が湧き上がってくる。

 

「…………。逆……。逆じゃねえ? 俺にだけは言えよ!! なんで俺にだけ秘密なんだよ!!」

 

「いや、なんか分かるよ。同じ立場だったら羽鎌田にだけは教えたくないな~」

 

「えっ? なんで? 俺がデリカシーないってこと?」

 

「そういうことじゃないって。気になるならもうカナに訊きなよ」

 

「おーいお前ら、飯食おうぜ飯!」

 意味の分からない押し問答をしていたら隣から同じ部活の男子がやってきた。男女混合で昼を食べる文化など以前の軽音楽部にはなかった。

 だが、女子の中にただ一人の男子という秤悟の状況を羨ましがった連中が押しかけてきて、いつの間にかそういう流れが出来上がっていた。

 

「うわっ、羽鎌田の弁当茶色!」

 

「健康に悪そ~」

 秤悟の手作り弁当を見た連中が口々に悪口を言ってくる。

 夏休みでなければ本当は三食学食でもいいくらいなのに、泣けてくる。

 昨日も天秤に文句を言われた飯をいざ食べようとしたら、から揚げが一斉に持っていかれて全て消えた。

 から揚げ弁当なのに。

 

「おい何してんだよ!!」

 

「死ぬぞお前。ほら、交換してやるよ」

 

「から揚げと漬け物じゃレートが違うだろ!!」

 男子・女子それぞれからお返しを渡されるが、漬け物やひじき、切り干し大根等々、メインがはっきりとしない寂しい弁当になってしまった。

 

「……えっ、マズい……。から揚げってマズく作れるの?」

 

「勝手に持ってって文句言うなよ!」

 

「これアレ? お父さんが作った? ほら、ルネ・マグリットみたいなお父さん」

 海咲の言葉にしばらく考えて思い出す。そういえば彼女は一年生の頃は同じクラスで、三者面談の時に天秤と会っている。

 

「あれ、俺のじいさんだよ」

 

「うっそ! 信じらんない! 超若いじゃん! いくつなの?」

 

「さぁな~……じいちゃんの歳は俺もよく知らん。戦争の話とかたまにするぜ。なんかお国の人が、鍋とか回収しに来てむかついたから追い返した話とかなー」

 

「……それって少なくとも1940年代には大人だったってことだろ? 100歳近いんじゃないか」

 元々秤悟が所属していたバンドのドラムが何やら真剣に考えている。

 実は秤悟も天秤の誕生日を知らない。というより、本人が覚えていないと言うのだ。

 自分の誕生日を覚えていないのならば、孫の誕生日もスルーして当然だと変に納得したものだ。

 

「羽鎌田さぁー、あんまカナに変な事吹き込まないでよ。あの子あんなんでもすぐ人の言葉に影響されちゃうんだから」

 

「最近カナと距離近いよね。ふざけてるなら怒るからね」

 

「ふざけてねぇ!! 俺は! 沖埜に!! 人生で一番真剣だ!!」

 

「分かったよ……。まずい弁当食べながら……なんだこいつ」

 17歳にありがちな浮ついた話の雰囲気になりかけたが、一つも嘘が混じっていない秤悟の叫びを聞いて全員からかいの言葉を飲み込んだ。というよりもドン引きしていた。

 

「てかよぉ、今更だけど女子三人に男一人ってなんか浮くよな~」

 

「じゃあもういっそ女装してやんなよ。羽鎌田って薄い顔してるから案外イケるかもよ」

 

「うおっ、絶対やれ! そのまま俺たちの方にも出ろ!! もうミスコンも出ろ! 香高の絶叫ギターマシーンみたいな感じで!」

 

「絶叫してないけど」

 

「いや、最近よく絶叫してるよ」

 夏休みに入ってからずっとこんな感じだ。

 大変かと聞かれれば滅茶苦茶大変だが、それ以上に充実した日々だと思っていた。

 二度と戻れない高校生という時間を全力で楽しんでいると。

 だが、秤悟が楽しめば楽しむほど、この場に奏塗がいなくていいのだろうかと感じて仕方がなかった。

 

********

 

 一体何をしているのか、奏塗にメールで聞いてもはぐらかすばかり。

 文化祭準備の際に学校で会っても、こちらの進捗は聞くくせに何も答えてはくれなかった。

 

 時間がどんどん過ぎていく。

 夏休みはいつもあっという間だ。

 セミの鳴き声にひぐらしが混ざり始めていた。

 

 奏塗からのお願いは、これ以上ないほどに真剣に取り組んでいる。

 受験勉強よりも、仕事よりも、何よりも。人生でこれほど何かに真剣になったことは、きっとない。

 弾いている時にいつも思う。流れた汗がテレキャスターのボディに染み込むのを見ながら思う。

 本当にこれと同じくらい、これ以上に真剣な日々を奏塗は過ごしているのだろうか。

 

 楽しいよ。大変だけど楽しいよ。

 だけど俺、変なこと言ってお前の分の『楽しい』をぶんどってしまったんじゃないか。

 邪魔をしたくない。だけどこの葛藤を分かってほしい。

 秤悟はそろそろ限界だった。 

 

「おいアホ。ワウペダル貸せよ」

 できる限りいつも通りのテンションで、お化け屋敷という可もなく不可もないクラスの出し物の準備をしている奏塗に声をかけた。

 もう残り二週間もない。ここまで来てしまうと、ジャージ姿で教室の床に座る8月20日で本当にいいのかとさえも思ってしまう。

 

「えー……貸すのはいいけど……その汚い上靴で踏むの?」

 

「汚くねぇよ」

 

「男子ってさぁ、アレなんでしょ。おしっこのときさ、ぶるんぶるんってするんでしょ」

 

「まぁ、するけど」

 

「絶対上靴にかかってんじゃん!! おしっこ上履きじゃん!! もう無理っ、素足で踏め!!」

 

「裸足でステージとか原人じゃねーか!!」

 

「じゃーライブの時だけあたしの上履き履け!!」

 

「お前、裸足で文化祭回んの?」

 ワウペダル――――ギターの音を変えるエフェクターという機材の一種だ。

 秤悟は持っていないが、奏塗から依頼された一曲でどうしても必要な曲があるのだ。

 買ってしまってもよかったが、話しかけるきっかけがほしかった。

 それなのに普通にいつもように会話が進んでしまって頭を抱える。

 こうじゃないだろう。時間がないんだからもっと直に言うべきだろう。

 

「話がしたいんだよ。はぐらかすから、お前」

 

「痛ぇえええ!!」

 極めて真剣なトーンで奏塗に声をかけたが、それをたまたま後ろで聞いていた男子生徒が看板を足に落としていた。

 何か誤解をされたかもしれないが、今はすごくどうでもいい。

 

「…………。そんな顔で見るなよ……。わかったよ。お前が練習終わったくらいに部室にワウ持ってくから。その時ね」 

 座っている奏塗を立って見ているからからだろうか。前髪が少しだけ目にかかっているように見えた。美容院に行くかどうか一番微妙な長さだ。

 最初は尖った雰囲気のある奏塗を怖がっていたが、今は違う。

 彼女の親友も言っていたように、奏塗は人の言葉に影響を受けやすく、流行に敏感なお洒落な女の子だと思っている。

 文化祭でステージに立つなら絶対に髪を整えに行くだろう。だが出ないとなれば分からない。それ以上の女心は自分には想像もつかない。

 もうすぐ死に顔を大勢の人に見せると分かっていれば、奏塗は明日にでも美容院に駆け込むだろう。

 そこまで考えて勝手に泣きそうなほど落ち込んで、何も知らない奏塗は首を傾げていた。

 

 

*******

 

 午後6時になり、バンドメンバーも帰った部室で秤悟は一人残って練習をしていた。

 38曲となると一日一曲ペースで覚えなければならないが、そう単純ではない。

 3時間程度で覚えられる曲もあれば、一週間かけても手に馴染まない曲もある。

 この時期になると全曲通しで練習するため、どっちにしても秤悟は毎日最後まで残っていた。

 

「くっそ……このソロ難しいな。あいつ結構ギターうまいからな、マジで」

 代打を引き受ける際に奏塗から貸してもらったギターを抱えてブツブツと独り言ちる。

 女子が持つには相当ゴツい、年季の入ったホワイトファルコン。かつてチバユウスケが使っていたものと同じモデルだ。

 名前の通り白いボディにはあちこちに傷があり、かなりの歴史を感じられる。

 学生が持つには高価すぎるギターであるためか、奏塗が他の人間には触らせないことは知っていた。

 それをギターケースごと貸してくれてたことそのものが信頼の証として、今日も指先の皮がボロボロになるまで練習している。

 

(もしかして沖埜って、俺より手がデカいのかな。ここのブリッジミュートどうやってんだろ……)

 ギターは弦の振動で音が出る楽器であるため、指先で弦にほんのり触れればピックで弾いてもミュートになる。

 が、楽器全般に言えることかもしれないが、手が小さいとそんな単純な技術すらも難しい。

 女の子の手の大きさなんて気にしたのは初めてだ。感傷的な目で己の手を見つめていると、部室の扉が開いた。 

 

「やってるかー」

 

「お~っ、なんだその格好。学校のジャージじゃないじゃん。不良娘か~?」

 ワウペダルを渡してきた奏塗の恰好が昼間と違う。

 夏休み中なので教師も生徒の恰好にうるさいことは言わないが、黒地に金のストライプの入ったジャージは使い捨て前提の安物のようで、どう見ても深夜のコンビニにいるヤンキーだ。

 

「沖埜、お前……なんかくせーぞ。なんのにおいだ?」

 デリカシーのない言葉を口にしてから『しまった』と思ったが事実だ。

 耐えられない臭いというほどではないが、街中で漂ってきたら周囲を見回すような刺激臭だ。

 

「えっ、うそ! におい移っちゃったかな……」

 

「いやこれなんのにおいだろ。知ってるような知らんよーな……」

 

「くんくんすんな! キショいな!!」

 

「が痛っ!」

 まさかの顔面掌底をくらってその場にうずくまる。

 今ので分かったが、においは主に奏塗の手から来ている。

 だが正体は分からない。思い出せそうで思い出せない、脳が一番痒いような状態だ。

 

「なにが一番キツイ?」

 

「Rusty Nail……」

 

「Xやんの? そうだっけ?」

 

「三年が後夜祭でやるのに入るんだよ」

 

「へー。でもそれって二年で一番ギターが上手いって思われてるってことじゃんね」

 文化祭の終盤、一般客が帰った後に体育館で後夜祭があり、吹奏楽部やダンス部の発表もある。

 当然軽音楽部の三年も参加するが、難易度の高い曲を選んでしまい秤悟にヘルプ依頼が入ったのだ。

 三年から頼まれた時は『認めさせてやったぜ』感に満ち溢れていたが、今は大変だ。

 

「ウン十曲もやって最後にやるのがキツイんだよな……。手が痺れて動かないかも」

 

「大変だな、ギター二本も背負ってのそのそ歩いて……そういうガンダム? なかったっけ」

 パイプ椅子に座って他人事のように笑う奏塗は健康そのものに見える。

 これだけ若いのだから、病気ではなく恐らく何かしらの事件か事故に巻き込まれるのだろう。

 いよいよ本題に入る時が来た。

 

「沖埜……これでいいんだな。夏休み明けに死んじまうとしても、これが最後の夏休みの過ごし方でいいんだな?」

 

「…………。ギターは去年も文化祭で弾いたさ。コピーバンドだから、ギターはあたしじゃなくてもいいし」

 

「藤村たちはお前とやりたかったんじゃないのか!?」

 コピーバンドだしクオリティが低いのは分かっている。誰だって知っている。だが大事なのはそこではないだろう。

 言葉にしてしまうと照れくさいが、秤悟はこの時間と関係を通してバンドメンバーと掛け替えのない時間を過ごしていると感じている。

 きっと大人になっても定期的に飲みに行って、互いの結婚式に出席して、オッサンになってハゲ散らかしてもその時だけは高校生に戻って。そんな宝物を手に入れているのだ。

 奏塗はそれを切り捨ててまで何かをしようとしている。秘密にするのはもういい。だが、それだけの価値があるのか、本当にこれでいいのかが知りたかった。

 

「受験勉強とか……友達との旅行とか、重なってさ。チバの最後のライブに行けなかったこと、すごく後悔している」

 

「――――!」

 高校に入学してすぐにチバが病気療養のため全てのライブをキャンセルすることが発表された。

 秤悟にしても同じだった。中学三年生の15歳の時、行きたい行きたいと思いながらも受験勉強を優先して――――もっと良い言い方をすれば自制した結果、秤悟にとって世界最高のヒーローをこの目で見る機会は永遠に失われた。

 

「分かってる。勉強頑張ったからこの高校にいるし、旅行も楽しかった。でも、一日くらい勉強さぼったって良かったかもしれない。旅行だっていくらでも行けるって、後になって思うんだ。羽鎌田なら分かるだろ。そうだろう?」

 

「……ああ」

 

「二つに一つしか取れないっていうなら……もしこれが最後の夏休みなら、あたしはこれでいい」

 

「…………。そうかよ。……心配すんな。お前の持ってた分、完璧にやってやるから」

 未来は誰にも分からない。その一日の勉強をするかしないかで、奏塗との出会いすらなかったのかもしれない。

 元よりどちらが正解というものでもないのだろう。本人がこれでいいと言うのならば、それが全てなのだ。 

 

「そこは心配してない。だけど、あたしこそ……羽鎌田からの好意に甘えすぎなんじゃないかって」

 

「いい。気にすんな」

 

「頼んどいてなんだけどさ、なんでそこまでしてくれんの?」

 お前もうすぐ死ぬから、なんて言えるわけが無い。

 末期ガンで入院した家族に好物をいくらでも買ってくるのと同じ感情なのだ。

 絶対に明かしてはならない本音だった。

 

「理由は……好きに想像してくれ。それが理由でいいよ」

 そんな回答に対して、捉え方は人それぞれだろう。

 だが奏塗は悪いようには思わなかったようで、色白の肌にほんのり朱が差していた。

 おそらくきっと、何かを誤解させたかもしれない。

 だがもうそれでいい。その想像を奏塗が良いと思っているならそれが一番だ。

 どんな理由を想像しようがもう変わらないのだから。

 

「元々思ってたけどさ、お前良いヤツだな」

 基本的に口の悪い奏塗から発せられた、裏の無い最大限の好感度の言葉。まさか死の宣告をした相手にしているとも知らずに。

 これほどまでに苦しくて狂おしい気持ちは他にあるのだろうか。今すぐに穴を100m掘ってそこに全ての秘密を叫びたい気分だった。

 

「……羽鎌田のギター貸してよ。弾いてみたかったんだ」

 

「羨ましいなら言えば良かったのによ」

 そう思っているだろうな、と思っていた。

 秤悟が使っているギターは黒と赤のテレキャスターであり、知る人が見れば一発で分かる鬼のアベフトシのモデルだった。

 高校入学前、合格祝いにほしいと天秤に冗談で言ったら本当に買ってくれたのだ。新品で40万円もするのに!

 が、その後1年近く遺言師の仕事を手伝っても全くの無給なので、今考えると前払いのようなものだったのかもしれない。

 

「あっ、頬ずりすんなよ!」

 

「これ私のだ……私のギターだった気がする……」

 ミッシェルファン垂涎のギターを手にした奏塗はボディに頬ずりをしながらうわ言を呟いていた。

 秤悟の乱暴なカッティングでできた傷さえも愛おしいと言わんばかりに。

 

「違うけど」

 

「貸して……貸して……10年くらい……」

 

「今だけなら貸してやる」

 にぃーっと。誰が見ても分かるくらいの満面の笑みを浮かべた奏塗は、アンプの電源を入れてポケットからピックを取り出し、おもむろに演奏を始めた。

 

(やっぱりな)

 そのギターを初めて握ったミッシェルファンなら誰だってそうする。俺だってそうした。

 それくらいには分かりやすい『世界の終わり』の始まりだった。

 奏塗の大きな猫目にいざなわれるように秤悟もリズムギターの演奏を開始する。

 

 実は秤悟と奏塗はバンドを組んだことがなかった。

 理由はいくつもあるが、分かりやすく言えば『二人とも面倒なオタク』だからだろう。

 もし演奏するとなれば、当然ミッシェルの曲を選ぶだろう。互いに同じ部活の誰よりもミッシェルを弾きこなす自信がある。

 だからこそ他のメンバーのミスや熱意の無さが、他のバンドの曲を演奏する以上に気になってしまうに違いない。

 こっちはこんなに完璧に演奏しているのに、と。

 

 だけど今だけは、他の全てが関係ない。ずっとこうしたかった。

 奏塗と共にギターを奏でれば、きっとずっと100万倍も気持ちがいいことは分かっていた。

 

 お互いに手が完璧に覚えているから、まるで長年のバンドのリードギターとリズムギターのように視線で合図を送り合う。

 無骨な色をしたテレキャスターを弾きこなす奏塗は腰が痺れるくらいかっこいい。同じことを奏塗も秤悟に思っていると完全に理解できた。

 そして、あまりにも短い5分弱の演奏が終わった。

 

「…………」

 

「…………」

 ボロのアンプから出る小さなノイズだけが部室内に響く。

 奏塗は驚きと感動が入り混じったような表情で、ただ黙って秤悟を見つめていた。

 言葉にならない。今だけは言葉を発したくない。あまりにも完璧だったから、この空気を壊したくないのだ。

 

 何も言わずに始めて一曲通して弾ききってしまった。天国にのぼるほどに気持ちがよかった。

 バンドなんて『こいつもっとこうしろよ』や『なんでここでこうなるかなぁ』の連続だ。

 それも高校生のコピーバンドなんて基本的に各々がやりたい曲を持ち寄るので、理解度や熱意もガタガタで上手い下手以前に噛み合わないのだ。

 

 それなのに、今のたった一曲がこれまでの全てを上回った。

 全てだ。ギター小僧のこれまでではなく、羽鎌田秤悟という少年のこれまでの人生のあらゆる喜びを上回る経験だった。

 こうしてほしいことが、こうあってほしいことが全部完璧で、まるでジグソーパズルのようにリードギターとリズムギターの音が噛み合っていた。

 互いに完全完璧に原曲が頭の中にあるから、ベースもドラムも全く必要ないくらいだった。

 

 曲が終わって一分経っても、まだ二人とも何も言えずにいた。

 頭が晴れ渡りすぎて、まばたきすらも忘れていた。

 やがて言葉の代わりに、奏塗からピックが飛んできた。

 

「……お礼、言ってなかったなーって。ほんと感謝してる。してるから宝物やるよ」

 

「お前……これ……!!」

 白地のそれは俗に言うおにぎりピックだ。だが大事なのはそこではない。

 黒く印された頭蓋骨と交差した大腿骨。知らない人が見れば海賊旗に見えるそれは、秤悟にとっては何よりも価値のあるミッシェルのロゴだった。

 ピックなんて安ければ3枚セットで100円だが、ミッシェルは既に解散しているのでこのピックは買うとしたらオークションで一枚5000円以上はするだろう。

 

「これ……俺の宝物にするわ。うちの壁に飾っておく」

 

「使えよ~! 使え! なんであげたと思ってんだよ! このイカしたテレキャスのためだろ!」

 ピックは消耗品だ。プラスチック製なので少しずつ削れていくし、無くすことだってある。

 この宝物を真っ白な壁に飾っておきたい気持ちと、思い切り使ってみたい気持ちが半々だった。

 しかし奏塗はアベフトシのピックでアベフトシモデルのギターを弾いていたのか。

 そりゃあもう気持ちが良かっただろう。秤悟だってそうだった。

 普段はやらないリズムギターがこんなにも楽しいものだなんて知らなかった。

 

「次は――――」

 次は一緒にやろう。そう言いかけて止まる。

 もうその次は永遠に来ないのだ。ステージの上に二人で立って完璧な演奏を披露する日は来ない。

 

「お前……顔の穴全部から汁出てるぞ。そんなになるほど嬉しかった?」

 悲しいんだよ。悲しくて仕方がないんだ。

 パートが被っているとか、今更誘うのも恥ずかしいとか。

 そんな言い訳に隠れてないで、絶対に楽しいに違いないという気持ちだけを優先させておけばよかった。

 涙と鼻水を袖で乱暴に拭い、汚い物を見る顔でこちらを見ている奏塗に声をかける。

 

「他は? なんでもいいぜ。どっちもなんでも弾けるぜ」

 わずかに入り込む夏の夕陽に奏塗の八重歯が輝いた。

 一切の嘘がない奏塗の心からの笑顔を、一体何人の人間が知っているというのだろう。

 

「ゲット・アップ・ルーシーだ!」

 そのハスキーボイスに撃ち抜かれたように、秤悟は右手でギターのボディを叩いてイントロのドラムのリズムを刻んだ。

 香林高校の歴史がどれだけあるか知ったことではないが、自分たちのギターの音はこれまでこの部室で響いたどんな音よりも完璧だった。

 

 演奏したい曲の全てに合わせられる相手が同じ空間にいる。

 これ以上の喜びはないと、バンドマンなら誰だって理解できる。

 女にモテたいとかカッコよくなりたいとか始める理由は様々で、だからこそみんな様々な理由でフェードアウトしていく。

 別にギターを弾けてもモテないし、カッコいいヤツが弾くからカッコいいのだと気付いて、それでも続ける連中が一番欲しいものが『これ』なんだ。

 秤悟の一番の宝物は高価なテレキャスでも、限定品のピックでもなく、奏塗だった。

 ずっとすぐそばにいたのに。気付くのが遅すぎた。

 

*******

 

 仕事柄、秤悟はどうしても夜行性だし、昼よりも夜の方が好きだった。

 二人でギターを弾くという、ただそれだけが楽しくて、夜よ来ないでくれと思ったのは生まれて初めてだった。

 完全に日が沈み、結局先生に追い出されるまでやってしまった。振り返ってみると奏塗と二人で帰るのは初めてだった。

 

「ハラ減ったなぁ~」

 

「もう八時だよ。あー、お母さんから電話来てるし」

 そう言いながらも奏塗は自転車を押しながら隣を歩いている。

 何がではなく、全体的になんとなく嬉しい。 

 さっさと帰れと普段の自分なら言うところだが、気持ち遅めに歩いているとほぼ毎日お世話になっている総菜屋が見えた。

 

「秤悟! あんたまーだ学校いたの? なんか食べてきな!」

 

「おばちゃーん。コロッケ二つちょうだい」

 香林高校の男子生徒ならばほぼお世話になっている総菜屋のおばちゃんに声をかける。

 コロッケ一個40円という破壊的な価格なのに、物価高のご時世でも商売が成り立っているのは、この名物おばちゃんの存在が大きい。

 生徒の名前と顔を一発で覚えてしまう特殊能力に加え、この異様な馴れ馴れしさと居心地の良さで毎日飛ぶように売れているのだ。

 野球部のじゃがいも軍団なんかが群れで訪れ、道路にはみ出しているのをよくおばちゃんに注意されている。

 

「ほら。一個食えよ」

 

「あたしはいいや。帰ったらすぐご飯だもん」

 

「女の子と帰ってるの初めて見たわぁー。彼女?」

 

「違う違う。部活が同じなの」

 

「あんた部活なにしてんのさ」

 

「軽音楽。楽器演奏すんだ」

 

「サックスとか?」

 

「ギターだよ! 背負ってんだろ!」

 店先に好意で置いてあるソースをたっぷりかけ、紙袋に入ったコロッケを齧る。

 閉店間近だったからか冷めているが、それでもサクサクでうまい。

 あっという間にひとつ平らげてしまい、もう一つにも噛り付く。

 

「うまそうだな……。やっぱ一個ちょうだい」

 

「えーっ。もうかじっちゃってるぜ!」

 

「いいじゃん、くれよ」

 有無を言わさず強奪した奏塗は思春期の女の子には大きすぎるコロッケに大口で噛みついた。

 奏塗の猫目が大きく見開く。部活終わりに揚げ物を食べるのは初めてだったのだろうか。

 

「うまっ……。うまいな……。うまい……」

 

「あーっ! 全部食べちゃった!」

 

「あー、ラーメン食べたい」

 

「えっ……? コロッケ食べて?」

 

「うん。ならない?」

 

「お前……ちょっと独特だな」

 

「ほら、使いな」

 おばちゃんが奏塗にサービスでウェットティッシュを渡す。

 男子には一度もそんなもの出してくれたことがないのに。

 

「ありがとー。このお店知ってたけど初めて来たなぁ」

 

「女の子はよう来んねぇ。名前なにさ」

 

「カナタだよー。沖埜カナタ。あんねー、おばちゃん。こいつめっちゃ成績いいんだよ。知ってた? 見えないでしょ」

 

「へ~。いっつも口ぱっかーんって開けてのそのそ歩いててねぇ」

 

「開けてねえ!」

 

「開けてるよ。学校とかでも廊下でさ、口ぱかーって開けながら歩いてるもん」

 いや開けてねえよ、と言おうとして一瞬考える。

 確かに覚えがある。遺言師の仕事を手伝って、眠くてしょっちゅうあくびをしているからだ。

 

「香高はむかし全然進学校じゃなかったんだからね。先輩方に感謝しなさいよ」

 

「知らんし。じゃーね、おばちゃん」

 空きっ腹にコロッケで元気が出た。なんだかんだあのコロッケを100個は食べているかもしれない。それでも4000円だが。

 二本のギターを背負い直し歩き出すと、おばちゃんがカウンターから乗り出してこちらを見ていた。

 

「秤悟! 遅いんだから、あんたもう夜なんだから! 奏塗ちゃん送ってあげるんだよ!」

 

「あー。あー、わかったよー」

 

「羽鎌田ん家、どっちだよ」

 

「あっち」

 

「あたしこっち。てかいいよ送んなくて。なんならギターお前ん家まで持ってってやろうか?」

 ちょうど良く総菜屋の先のT字路が分かれ道だったようだ。

 そういえばこの方向から自転車で登校する奏塗を何度か見た気がする。

 

「いいよ別に。お母さんもうご飯作ってんだろ? 早く帰れ」

 

「あー。うちさぁ、お父さんがミッシェル大好きだからさ、いつかそのテレキャス持って来てみろよ。大喜びすると思うよ」

 

「お前の親父も頬ずりすんのか?」

 

「かもね。じゃ、また明日なー」

 奏塗のギターは高級品だが、やけに年季が入っていると思ったらそういうことか。

 きっと父から譲り受けたものだったのだろう。

 そんなことも今更知った、と視線を地面に向けているうちに奏塗は自転車に乗って行ってしまった。

 

「沖埜の家……知ってんだよな~」

 なぜかなんて言えるはずがない。

 それどころか一か月ほど前に部屋の中も寝顔も見たと知ったらブチギレるだろう。

 

「コロッケ、食ってたなぁ」

 怒った顔を想像しようとしたのに、頭に浮かんだのは今日初めて見た表情だった。

 真剣な顔、喜んでいる顔、心から楽しんでいる顔、コロッケに夢中になっている顔。

 

「なんだよ、なんでこうなってから色んな顔見せてくるんだよ……」

 自分が変わったから相手もまた変わったと気付くには、秤悟はまだ子供だった。

 変な能力があっても秤悟はまだ17歳の少年で、ギターに夢中な分だけそういった経験も少なかった。

 秤悟の心の変遷に合わせて奏塗の心がどう変わっているのか、察することはできないし知ることもない。

 空を見上げると八月の満月、スタージェンムーンが煌々と輝いていた。

 

「俺、お前ともっと仲良くなりたいよ……」

 月の眩しさに耐えられずに見た若い死神の影に涙がぱたぱたと落ちる。

 もうこれ以上はないんだ。これ以上仲良くなることはないんだ。そんな未来はないんだ。

 訥々と頭に浮かぶ暗い言葉が秤悟の心をどこまでもギザギザにしていく。

 ガンダムXのような影を地面に落とし、まん丸い月を飲み込めるくらい口を開けて、すれ違う人に隠しもせずに泣きながら帰った。

 

 

*******

 

 我ながらよくこんなことを続けたものだと思う。

 毎日毎日寝不足になりながらもうすぐ死ぬ人間の顔を見て、昼間は寝不足になりながら勉強をして。

 いよいよ限界だった。

 

「もうやだ!! 俺やらねー!! やらねーよこんな仕事!!」

 その日の夜、秤悟は生まれて初めて本格的に祖父に反抗した。

 部屋の入り口に立つ天秤に視線を向けることもなく、毛布にくるまって叫ぶ。

 そうだ。たまには何も気にせず朝まで寝たい。昼間はずっと昼寝しているジジィとは訳が違うのだ。

 

「お前……。そうか。……そうか」

 いつも通りのテンションの天秤は、駄々をこねる孫に特に何も言わずに部屋から出ていった。

 天秤からしてみれば秤悟がいようがいまいが仕事の進行に変わりはない。

 むしろ変にパス回しをする分だけ仕事が遅れるのだから、いる方が迷惑なのだ。

 

「……んだよ。やる気出させるような言葉とかねーのかよ……」

 何を言われても今日の仕事はサボるつもりだったが、それにしたって一言もなく去っていくとは思わなかった。

 

「跡継ぎだぞボケ!! クソジジイ!! 大事にしろよ!! あー、もうやんねっ、ぜってーやんねぇこんな仕事!!」

 他所から探そうとしたって、霊能力者はいても同じ能力を持つ人間は絶対に見つからないはずなのに。

 天秤は全く後継者に対する扱いがなっていない。ひとしきり毛布に八つ当たりをした秤悟はギターを持って外に飛び出した。

 

 と、言ってもこの時間から三百段の階段を下ってどこかに行く元気はなかった。

 近所のコンビニに行ったとして、この階段を見上げることを想像するとげんなりする。

 奏塗をさっさと帰したのはこんな家を見られたくなかったという理由も大いにある。

 

 結局やることと言えば、階段に座ってギターを弾くくらいしかなかった。今日もまた朝昼夜とギターを弾いている。

 そろそろ宿題に手を付けなければならないのに、夜の神社は涼しくて月が綺麗で、少しだけ気分が落ち着いた。

 

(来たよ……変人ジジィ)

 背後からの足音に振り向くと見慣れた黒無地のトレンチコートが目に入った。

 いくら夜で涼しいとはいえ、一年中この格好をしているのは変人としか言いようがない。

 だが、へそを曲げた孫の元にせっかく来たのだから話くらいは聞いてやってもいいだろう。 

 

「秤悟。俺もサボる」

 

「えっ……いいのかよ」

 

「いい。死ぬ人間はどうせ死ぬからな」

 

「勅使河原さん困るんじゃないの」

 

「どうでもいい」

 

「……じいちゃん、仕事にあんまりプライドないよな」

 

「俺にも弾かせてみろ」

 秤悟のやることにほとんど興味を持たなかったのに、珍しい。

 隣に座った天秤にギターを渡す。体格がいい老人なので無骨なテレキャスターが不思議と似合っていた。

 

「あー違う違う! もっとグっと押さえないと音出ないから」

 しかし似合っていようが最初から上手く弾ける人間などいない。

 死にかけの猿の屁みたいな音を出した天秤はすぐにギターを返してきた。

 いつだかにスマホを触らせろと言ってきたことがあったが、その時もこんな感じだった。

 

「少し話をするか」

 

「いいよもう……仕事の話は」

 

「良秤にも高校生の時に話したことだ」

 

「俺の親父?」

 

「そうだ。あいつは馬鹿だったが一回で覚えたぞ」

 

「すげえな……自分の息子に……」

 

「お前が勉強得意なのは美菜ちゃんに似たんだろうな」

 

「おふくろに?」

 

「テッケンとかいう難しい資格も持っていたしな」

 

「テッケン? 宅建か? あれって難しいの? 建築士とかじゃなくて?」

 

「…………?」

 

「…………?」

 二人して話の筋が迷子になり口をぱかっと開いて頭上に『?』を浮かべる。

 あまり似ていない祖父と孫だが、やはり行動の要所要所で血の繋がりを感じてしまう。

 

「まぁいい。秤悟、日本固有の宗教は何か知っているか?」

 

「宗教……? なんでいきなり……。仏教か?」

 

「違う。あれは千年以上前に大陸から伝来してきた宗教だ。日本にも仏教徒は多いがな」

 

「えっ、じゃあなんだろ。……あっ、無宗教か? クリスマスも祝うし初詣も行くもんな」

 

「違う。ここは神社だろ」

 

「思い出した! 神道だ」

 たしか日本が大日本帝国だった頃は、神道を国教にしようと神祇省なる省まで設置したが上手くいかなかったと一年生の頃に習った記憶がある。

 家が神社なのに今の今まですっかりそんなことも忘れていた。

 

「なぜ日本人はクリスマスも祝うし寺にも参拝すると思う?」

 

「知らんけど……祝い事が多い方がめでたいからじゃないの?」

 世界史を真剣に学んでいる人間が卒倒しそうな答えを聞いて天秤は首を横に振った。

 

「神道では神の存在をいくらでも認められるからだ。火の神、海の神……米の神にトイレの神だっている」

 

「ああ、八百万の神々ってヤツか」

 

「日本人は遥か昔からあらゆる事象に神を見出してきた民族なんだ。だから他の神の存在も容易に受け入れられる」

 

「アニミズムだろ。中学の時に習ったよ」

 

「お前は勉強が得意でも頭でっかちだ。その理由まで考えない。他の宗教ではこうはいかないんだ。秤悟、なぜだと思う」

 

「さ、あ、ね~」

 E,D,Gとスムーズに手の形を変えて音を奏でる。

 お勉強が得意なだけの馬鹿孫の隣で天秤はタバコを吸い始めた。

 よく考えてみたら神社の境内で喫煙などとんでもないことだが、他でもない天秤の神社なので誰も注意しない。

 

「神道には正典がない。だから教義もないし、創始者もわからない。『中心』がないからだ」

 

「へぇ~」

 

「神道はな、真ん中に何もない。空虚なんだ。周りに竹の棒をおったてて、縄でくくって、奥に祭壇を置いて、神聖な空間の出来上がりだ」

 

「あー、なんかテレビで見たことあるかもな」

 

「どんなこともそうだが、長い時間が経つと形式しか残らない。なぜそれが神聖な空間なのか誰も知らない。片付けたらそれで元通りだ」

 

「とりあえず長いこと続けてみんなが神聖って言ってるってことか?」

 

「なぜだと思う? なぜそんな意味の分からないことが何千年も続いていると思う?」

 

「…………? ちょっと質問の意味が分からない」

 

「言い方を変えるか。本当は祭壇の前に……真ん中に何がいたと思う?」

 

「何が……?」

 

「鳥居も真ん中は空っぽだろう。あれは門だろう? 誰かが通ってきたんだろう? 誰が通ってきたんだと思う? 誰の通り道だと思う?」

 

「誰の通り道でタバコ吸ってんだよ」

 

「話は終わりだ。いつかここもお前のものになるんだ。よく考えて、覚えておけ」

 

「いらね~この家……」

 

「神道にはなにがない?」

 

「正典! 教義! 創始者! 真ん中!」

 

「そうだ。よく考えておけ。……たまにはゆっくり寝ろ」

 

「……ちぇっ」

 適当に演奏を続けながら家に戻っていく天秤を見送る。

 なぜ今そんな話をしたか分からないが、確かに曲がりなりにも神社の子ならば知っておいた方がいいことなのだろう。

 そこまで考えて、結局天秤は秤悟を元気づけるようなことを何一つ言っていないことに気が付いた。

 

 

******

 

 夏休みが終わり、文化祭が始まった。

 去年の部費で買った安いライトがステージの上にいる秤悟を照らす。

 見に来ていた生徒や保護者からどっと笑いの声が上がった。本当にやることになってしまった女装のせいだ。

 朝早くからガールズバンドのメンバーに顔を塗りたくられ、脚に除毛クリームを塗られ、どこで買ったのか分からないフリフリの服を着せられ。

 正直な気持ちを告白すると、ここまでしたならなんとかなっているのではないかと思ったが、現実は甘くなかった。

 鏡に映っていたのはしっかりブスだった。『醜女』『ド級のブス、ドブス』などと散々言われた。

 女装がしたいのではなく、悪目立ちしたくなかっただけなのに、着替える時間がないせいで男子バンドの方でも女装で演奏している。

 

 だが観客の笑い声も、ギターソロが始まるとイルミネーションが点灯するかのように嘘偽りのない歓声に変わった。

 普段からも誰よりも練習して、夏休みの間中弾き狂っていたのだ。自他共に認めるこの学校で一番ギターが上手い少年だった。

 フリフリのスカートのせいで足で操作するエフェクターがよく見えず、何度か踏み間違えたりしたものの、演奏に関してはほぼ完璧と言っていいだろう。

 

(沖埜……)

 最前列で爆笑しながら写真を撮っている奏塗と目が合う。

 やめておけばいいのに、演奏に集中するべきなのに。勝手に12桁の数字を計算してしまい――――残り時間は24時間を切っていた。

 奏塗がこれでいいというのならそれでいい。だが、秤悟自身の本音を言うならば、これが最後ならステージの上で演奏をする奏塗を見ていたかった。

 その小さい身体でえげつないトリルとタッピングをする奏塗が見たかった。

 

 本番に限ってそういうことが起きるものだが、感情の入りすぎたチョーキングとカッティングに耐えられず弦が切れた。

 一番切れたらマズい四弦が切れてしまったのだ。奏塗を含めて何人かが『あっ』と顔に感情を出していた。

 だがギターの弦は一本切れても他の弦で押さえる箇所を変えれば同じ音階の音が出せる。

 完璧にやるって言っただろ――――最も大事な弦が封印され、難易度が爆上がりしたソロを弾きこなし、視聴覚室の観客から思わず拍手が出た。

 

 俺、上手くなっている――――やればやるほど足りていないことを知るため、道の途中で上達を実感することはそうない。

 その瞬間、誰にも話せずに悩み続けてずっと曇っていた頭が一瞬だけクリアになった。

 とんでもないことをやってのけたと知る軽音楽部の仲間たちが歓喜の声をあげていたが、奏塗が満足してくれたならそれでいい。

 

「おいドブス!」

 出番が終わり、こそこそと部室に行こうとしていた秤悟に熱い暴言がぶつけられる。

 鼻から大きく排熱しながら振り返ると満足気な顔をした奏塗がいた。

 

「好きでブスやってんじゃねえ……!」

 

「大変だろ、可愛いって。お前ちょっと来いよ。付き合え」

 

「いや俺もうね、着替える」

 

「いいから来い! なんでも言うこと聞くんだろ!?」

 

「そんなこと言ってないわよ! あっ――――」

 こんな格好で歩き回りたくねぇ。下手くそな女言葉でそう言いかけた秤悟の手が奏塗に掴まれていた。

 何かを決意したかのように手を引くその力に、当然の文句も引っ込んでしまった。

 色んな人にじろじろ見られて恥ずかしい以上に、こんなのを連れまわして恥ずかしくないのか、と思いながらたどり着いたのは美術室だった。

 美術は音楽と選択で選ぶ教科であり、秤悟は音楽を選んでいるため本当に一度も入ったことがない。

 なんなら場所も今初めて知ったくらいだった。

 

「……笑うなよ」

 

「今更俺が笑うと思ってんのか?」

 

「まぁ、羽鎌田は笑わないと思うけど……ふふっ」

 

「なんでお前が笑ってんだよ」

 

「そんな格好で真剣な顔しちゃって……」

 

「で、ここが何よ」

 当然といえば当然だが、美術部の作品を展示しているらしい。

 美術部の知り合いすらいないので、ちっとも興味が無かった。

 だが奏塗は違うらしく、美術部員らしい女子生徒に何やら挨拶をしている。

 

「私さ……結構勉強できるんだけど」

 

「?」

 

「だからこの高校いるんだけど」

 

「??」

 

「実は絵を描くのが好き……だったり」

 

「……あっ、思い出した! お前、臨海学校のしおりの表紙絵とか描いてたな! めちゃくちゃ意外だっ――――」

 ほとんど言ってしまってから口を閉じる。

 奏塗は自分でもそう思っているのだろう。キャラじゃない、似合わないと。

 だからこれまで秤悟に何も言わなかったのだ。沖埜奏塗はミッシェル・ガン・エレファントが好きな今時珍しい女子高生。

 その印象を崩したくなくて。

 

「そうだろ。だからさ、なんか恥ずかしくて」

 

「恥ずかしくない! 恥ずかしいことないぞ!!」

 

「……そっか。見てってよ」

 背中を押されて美術室に押し込まれる。

 決心したはいいが、力が強すぎて転びかけてしまった。

 油絵具のにおい――――いつかに奏塗から漂っていたのはこのにおいだったのだ。

 どれだよ。そういう前に、たくさんの絵の中から見つけてしまった。

 作者の名を見る前に、それが奏塗の絵だと一瞬で分かってしまった。

 

 予定(未定)という妙な題名の絵だった。

 白地に何人かの人間が描かれているそれは、風景画が多い展示作の中で異質の雰囲気を放っていた。

 

 絵の中心にいるのは黒い服を着て椅子に座る二人の男だった。

 白髪に髭を生やした男はタバコを吸い、目付きの鋭い黒髪の男は酒が入ったロックグラスを持っている。

 二人のそばにあるのは見慣れたギター。赤と黒のテレキャスターと真っ白なホワイトファルコンだ。

 

 そんなシブい男に駆け寄る女子高生の後ろ姿が描かれている。

 今となってはお馴染みの茶髪に、着崩したブレザー。後ろ姿でも分かる奏塗本人だった。

 なにを以て『予定』としているのか、それが分かった時にはもう人目も憚らずに秤悟は泣いていた。

 

「チバとアベだろ……。これっ、これ……お前か……」

 

「うん。いつか死んじゃったら、あの世で天国のギター聴かせてもらうんだ」

 絵の中で、駆け寄る奏塗に視線を送る二人は何を思うのか。

 天国のギターは聴かせてくれるだろう。こんなにも若くして亡くなってしまったファンのために――――涙が止まらない。

 

「よ、余白が、多いな?」

 

「あたしが死ぬ頃には……超ババアになって死ぬ頃には、ここにはもっとたくさんの大好きなアーティストとか、小説家とか、漫画家とかがいてさ。会いに行くんだ」

 だからこそ未定なのだろう。奏塗本人にとってはずっと遠い未来の未定の予定だから。

 それはもう明日に来るとも知らずに。

 

「だから、そうだね。いつか老けた自分に描きなおさないとね」

 

「老けた……自分に……」

 

「実はさー、なんか、いつからかわかんないんだけど。美大に行きたいなーって思ってて。でもこの学校から美大に行った人なんていないだろうし。……どうしたもんかなって思ってたけど、まずは描かないことには始まらないよな」

 

「…………。それで、なんでこんな絵を?」

 

「なんで……。なんでだろ。羽鎌田にハッパかけられて……何か描かなきゃって思って……気付いたらこれ描いてた」

 秤悟による死の宣告が魂に染みわたり、無意識の声に従って出来上がった作品。これが奏塗なりの遺言なのだ。

 耐えられなかった。耐えられるわけがなかった。気が付けば秤悟は転がるようにして美術室の外に出て、廊下でうずくまって号泣していた。

 涙と鼻水で化粧をぐちゃぐちゃにしながら、何度も何度も床を叩く。

 

 違うんだよ。その余白はもう埋まらないんだ。

 お前の『好き』はこれ以上増えることはないんだ。

 もう誰も、何も好きにならないし嫌いにもなれないんだ。

 だけど。

 

(天国のギター……聴かせてなるものか!!)

 その決心は、ルール違反どころか遺言師の根幹を破壊するものだった。

 寿命が見える『だけ』で、今までその能力を悪用も善用もしたことはなかった。

 

 しょうがねえだろ、死んじまうもんは。

 それが遺言師の仕事をしている間のスタンスだった。

 毎日毎日何十人もの死亡予定者を見るのだ。

 いちいち感情を荒げていては心が持たない。

 

 だがもうこんな仕事はクソくらえだ。

 死の予定が見えるのならば、変えてしまえばいいのだ。

 遺言師なんて仕事をしていたせいで、そんな当たり前の結論を出すのが遅れてしまった。

 もう一度床を強く叩いた時、見覚えのあるコートの裾が見えた。

 

「秤悟。腹でも痛いのか」

 

「じいちゃん……」

 秤悟の保護者なのだから、文化祭に来ていても何も問題はない。

 だが、よりによって何故いま遭遇してしまうのか。

 この決心を一番知られてはならない相手なのに。

 

「おい羽鎌田、大丈夫――――」

 美術室から出てきた奏塗と天秤の視線がぶつかった。

 厳しい残暑といえる気候の中で、真冬のような厚着をしている変人を前に奏塗の言葉が止まる。

 

「はじめまして。秤悟の祖父です」

 残り24時間もない奏塗の寿命を見て、天秤は薄く笑った。

 仕事にプライドはないし、誰が死のうと何も感じない。たとえ孫の親友だろうと。それが羽鎌田天秤という男だった。

 涙に顔中を濡らしながら、秤悟は凄まじい怒りが湧き上がってくるのを感じていた。

 

 

******

 

 9月2日の放課後。

 いよいよ奏塗が死の運命に連れ去られる日が来た。

 とにかくそばにいなければお話にならない。

 そう思っていたので『作品を賞に送りたいから運ぶのを手伝ってほしい』と奏塗から言われて助かった。

 

 奏塗の作品は美術準備室に置いてあった。

 入り口は一つしかなく、人が出入りするには小さすぎる窓にはカーテンがかかっている。

 何もかもが好都合だ。奏塗が死ぬとしたらほぼ確実に事故か事件だ。

 ここは校舎の奥の方だから、たとえ暴走トラックが突っ込んできたとしても音で分かるし、不審者が来ても自分が入り口に立っていればいい。

 

 分かっている。死の予定はきっと絶対的なんだろう。

 だからこそ国の人間もあてにしているのだろう。 

 それがなんだ。絶対に変えてやる。

 たとえ――――

 

(身代わりになるとしても!!)

 奏塗の頭上に浮かぶ数字は何度計算してもあと8分だ。

 自分の絵の元に歩み寄る奏塗から目を離さずに、ベルトに差していた武器としては心もとないドラムスティックを握る。

 ついでに後ろ手で部屋の鍵をかけると、乾いた音が小さな部屋に響いた。

 

「……なんで鍵かけるの?」

 

「あと8分でいいから! そこに……そうだ、真ん中に立ってろ!」

 

「なんだよ、お前……今じゃなきゃダメか?」

 

「俺は大マジだ!! ここ最近ずっと!! お前にはマジだっただろ!? 頼むから!!」

 

「……分かった」

 まごころが通じたのか、また何か変な誤解をさせたのか。

 目から光線を出さんばかりの秤悟の視線を受けて、奏塗は目を逸らしたりうつむいたり床を蹴ったりしている。

 誤解していてもいい。後でいくらでも弁解すればいい。

 ただ押し黙ったままその時を待つが、その兆候は表れない――――廊下から足音が聞こえて扉の方を向く。

 

(……隣……書道部か……)

 会話の内容から察するに、隣で部活動をしている書道部の生徒が歩いていただけのようだ。

 考えてみればまだ時間はある。

 

「なー、羽鎌田ー。アレさ、マジだよ。この絵を描いてる時に思ったんだ」

 

「なにが?」

 

「骨になっても――――」

 奏塗の方を振り返ったのと同時に、窓ガラスが割れた。

 

「なにィイ――――!?」

 そんな馬鹿な。まだ0になっていないのに。ここまで準備をしたのに。

 限界まで縮んだバネのように跳ねたが、飛んできた『それ』は秤悟の指先を掠めて奏塗の側頭部に直撃していた。

 

「いっ――――……なに……? ボール……? いった……血出てる?」

 それは野球部の使っている硬球だった。呼吸が浅く早くなっていく。

 部活の時間。全国のどこかでは毎年起こっているような事故だった。

 

「出てない……」

 

「いたーい……。ちょっと保健室行ってくる……あっ、でも窓ガラス……」

 

「いいから行け! 俺がなんとかするから! いや、肩貸すか?」

 既に事は起こってしまったのに、奏塗の頭上に浮かぶ数字は0になっていない。

 何が起きたのか分からない。なぜ0になる前にこんなことが起きたのだろう。

 自分のせいだろうか。自分が変なことをしたせいでズレてしまったのだろうか。

 

「大げさなんだよ、血も出てない……、あれ、れれ、あれ……」

 

「沖埜!!」

 秤悟の横を通り過ぎた奏塗はドアノブを押した勢いそのままに、その場で倒れてしまった。

 痛みで立ち上がることもできないようで、こめかみを押さえたまま床に座り込んでいる。

 

「ごめん、やっぱ、保健室、連れてって……」

 

「あ……ああ! ほら、背中……ちゃんと首に腕回せ!」

 細い腕を掴んで立ち上がらせた秤悟は、そのまま奏塗を背に乗せた。

 体温は至って普通で、死の気配は感じられない。 

 そうだ、こんなことで。野球のボールくらい自分だってぶつかったことがある。

 テレビでもデッドボールを何回も見ている。これくらいのことで。

 

「恥ずかしいって、いいって」

 

「いいから! しっかり掴まってろ! どけ!! 見てんじゃねえ!!」

 校内でおんぶをしている男女をなんだなんだと無関係の生徒が見てくる。

 なるべく急いで、しかし揺らさないように保健室に向かうと、野球部の生徒が何人かこちらに走ってきた。

 よりによって人に当たってしまったと気付いたのか、一気に顔を青くした坊主頭たちが駆け寄ってくる。

 

「あ、あ! マジかよ!」

 

「すみません! すみません! 俺、俺が、アノ、ボールを!!」

 

「うるせえ! 邪魔だ!!」

 今はいい。この場面で謝罪されても何にもならない。

 邪魔しないでほしい。道を塞いでしまっていることくらい理解しろ。

 再び『どけ』と怒鳴ろうとした時だった。

 

「骨になっても……」

 耳に唇を付け、秤悟にだけ届けたぞっとするような囁き声。

 焦燥感の脂汗が波が引くように消え、奏塗がずり落ちた。

 

「沖埜!? おい!? おい!!」 

 なんとか落下する前に受け止めるが返事はない。

 腕の中にいる少女の身体はどこにも力が入っておらず、呼吸もしていなかった。

 奏塗の頭上に浮かぶ12桁の数字は全て0になっていた。

 足しても引いても掛けても割っても、0は0。

 

 死んだ。

 

 そのたった三文字が頭に浮かび、視界が歪む。

 秤悟は根本的に勘違いをしていたのだ。これまで何千人もの人間の寿命を見てきたが、それが0になる瞬間は一度だって見たことはなかった。

 人の死が見えるのに、実際に人死にを見たことがない悲しさ。その性質を正確に理解していなかった。

 秤悟が見ていたのは事故に遭うタイミングではなく、まさしく死の瞬間の数字だった。

 一瞬たりとも目を離してはならなかったのだ。

 

「骨になっても!? 骨になっても!? なんだよ、最後まで言えよ!!」

 集まってきた生徒たちをかき分けるように教師が走ってきた。

 秤悟と奏塗の担任で、野球部の顧問である教師が119に電話をかけている。

 狭まる視野に、キーンと鳴り響く音。ただただ、徐々にぬるくなっていく奏塗の体温がリアルだった。

 

「あ……あ――――!! ちくしょう……」

 既に目の前の少女が亡くなっていることを知っているのは秤悟だけで、その時はまだ誰も秤悟の涙の意味を分かっていなかった。

 

 側頭部の強打による急性硬膜外血腫。

 2024年9月2日。沖埜奏塗は17年の生涯を終えた。

 

 

******

 

 その日のうちに、奏塗が亡くなったことが緊急連絡網で回ってきた。

 今日死ぬことをずっと前から分かっていたというのに、一体どんな声で次の人に連絡したか全く覚えていない。

 

 翌日、秤悟は学校に行かなかった。行けるわけがないだろう。

 それでも、夕方からの奏塗の通夜だけは参加しない訳にはいかなかった。

 学校をサボったのに制服に着替え、歩く死者のような足取りで斎場に向かった。

 

「ぜひ顔を見て……お別れしてあげてください」

 

「はい……」

 奏塗の父だろう。不思議な感じだが、顔立ちが似ている。

 物語でよくあるような、真っ赤になった目ではないし、憔悴もしていない。

 あまりにも急すぎて、しかも喪主でやることが多すぎて、現実をまだ受け入れられていないのだ。

 この日に死ぬ、と何十日も前から知っていた秤悟とは訳が違う。

 うつむいたまま棺の前まで歩いていき、なめくじのような速度で顔を上げる。

 

(……綺麗な顔してる)

 いつかの日にそう思ったように。

 いつかの寝顔よりも、むしろ死化粧で今の方が綺麗なくらいに。

 あの時も綺麗な顔をしていると思って、次の日も学校で会った。

 もう二度と起き上がらない。動かない。喋らない。

 一緒にギターを弾くことはない。

 

「沖埜……沖埜ぉ……!」

 奏塗が亡くなってから一日中考えていた。

 なぜ奏塗は死んでしまったのか。ボールが頭に当たったから。誰もがそう言うだろうが、それは違う。

 

 自分が変な事を言って発破をかけなければ、奏塗はあの部屋にいなかった。

 そうでなかったとしても、この部屋にもう少しいろと言わなければこうならなかった。

 あの瞬間、ぎりぎりボールはこの指先を掠めたが、そのほんの少しの違いがよくある事故と死を分けたのかもしれない。

 死の運命を運んできたのは他でもない、秤悟だった。

 

「沖埜……なんでだよ……」

 全部自分が悪い。全部だ。

 俺はお前の死神だ。俺がお前を殺した。

 なのに誰も自分を責めない。

 責めてくれない。

 

「羽鎌田……ほら、行こ? カナ、友達多かったから……まだ沢山いるから……」

 奏塗の親友だった海咲が秤悟の腕を掴む。

 彼女もまた、なぜ奏塗がこんな小さな棺の中に入っているのか理解していない。

 現実を受け入れていない。腕を掴んでいる相手こそが、親友に死を運んできたのだとも知らずに。

 

「嫌だ……嫌だ……沖埜……おい、なんでだよ……沖埜!  なにやってんだよ!!  ギター返してねえだろ? まだ早いだろ!? 沖埜!!」

 頭の中身がほんの少し壊れてしまっただけで、遺体という言葉があまりにも似合わない綺麗な寝顔だった。

 今にも起き上がってきそうな――――起き上がってくると思ってしまって。

 あの日、枕元で喚き散らしたように秤悟は支離滅裂な言葉を叫んでいた。

 秤悟の大粒の涙につられて涙を流すバンドメンバーに優しく連れていかれるまで、ずっと秤悟は叫んでいた。

 もう起きないのなら、せめて。誰かにこの罪を責めてほしかった。

 

 

******

 

 通夜から帰って、秤悟はベッドの上で少しだけ眠り、目が覚めてからも起き上がらずにまた泣いた。

 自分の無能さが身体中に廃油のように染み込んで動けなかった。何も食べていないし、水もほとんど飲んでいない。

 水分を摂取していないのに、棺の中の奏塗の顔を思い出すと無限に目から涙が溢れた。

 

「秤悟」

 

「…………」

 制服のままベッドで寝たふりをしている秤悟に天秤が声をかけてきた。

 以前駄々をこねてから一度も仕事を手伝っていないし、天秤も何も言ってこない。

 親友は死んで、祖父との仲も険悪になって、何もいいことがない。

 

「ちょっと考えたんだが、遺言ってのは幸福な人生の証かもしれないな。財産の話だけじゃなくてな」

 

「……ちょっとじゃなくてしっかり考えてくれよ。じいちゃんの仕事なんだから」

 

「死んだら終わりだ。俺もそう思う。その先はない。だが、死んでも何かを伝えたい相手がいるってことは、それだけの関係をそれだけの相手と生きている間に築けたってことだからな」

 

「……………」

 

「あとお前に客が来てるぞ。玄関で待たせてる」

 

「先に言えよ! ジジィ!!」

 飛び起きて玄関に向かう。しかし、これまでの人生で自分に来客などなかったのに。

 しかも既に現在時刻は22時を回っているのに。

 走ってきたはいいが一体誰が――――玄関を開くと、どこかで見たような中年女性がいた。

 

「羽鎌田……ショウゴくん?」

 

「……ビンゴです。……俺ってば変な名前で……へへ……」

 

「沖埜奏塗の母です」

 

「あっ、あっ、ああ……!」

 どこかで見たどころか今日会ったではないか。

 脳みそがほとんど死んでいたせいで、会っていたはずなのにまともに覚えられなかった。

 これもまた不思議な感じだが、そこらへんにいそうなおばちゃんなのに、確かに顔立ちが奏塗に似ている。

 

「秤悟くん、この神社の子?」

 

「はい」

 

「お父さん神主?」

 

「はい」

 お父さんではないし神主でもないが、それを訂正するだけの元気がなかった。

 そんな細かいことよりも、なぜ奏塗の母がこんなところに来たのか気になる。

 まだまだやることは山積みだろうに、なぜ。

 

「霊感みたいなのってある?」

 

「……はい。どうしてですか?」

 

「奏塗がね……。普段から秤悟くんの話を良くしていたんだけど……。『夏休み明けに死ぬつもりでやれ』って言われたって。ずっと絵を描いていたの。人の死相みたいなのが見えるの?」

 

「…………」

 死相どころか寿命が見えているなんて言えるわけがなかった。

 ここで応対していたのが天秤だったら、『はい。あなたはまだ41年生きますよ』と平然と言い放っていたのだろう。

 

「奏塗と付き合っていたの?」

 

「…………。そんなんじゃないです……でも、友達でした」

 棺の前であれだけ取り乱している同級生の男子がいたら、誰だってそう勘違いするだろう。

 実際一年生の頃からそう言われることは何度かあった。

 

「おきっ……奏塗さんは、部活の友達で、とにかく気が合って、いつもくだらない話とかして……俺のっ……沖埜は俺の一番の、友達でした……」

 そんなんじゃない、以上の言葉をよりによって奏塗の肉親に説明しなければならないのが苦しい。

 しかもそれを、亡くなった後に言葉にするなんて。

 

「そこのクソ長い階段……。生まれた時からそうだから、気にしてなくて……でも今日、初めて学校サボりました。階段降りるのも嫌で……沖埜は俺の後ろの席で、そこにいないなんて俺、耐えらんないから……」

 この会話の流れのどこに階段が関係があるのか。普段の真っ当な優等生の秤悟ならばこんなことは口にしなかっただろう。

 それも分からない程にはいっぱいいっぱいで、既にバケツ一杯分は流した涙がまた出てきた。

 立場が逆なのに、秤悟の肩を優しく撫でた奏塗の母が何かを取り出した。

 

「たぶん、これ……秤悟くんの影響で書いたんだと思うの。あなたの名前が出てくるから」

 手に持っている紙の正体が分からないなんて、世界の誰がそう言っても秤悟だけは言ってはならない。

 他でもない秤悟が書けと言った遺言書だった。

 

「お願い、読んでください」

 

「あ、あ……は、い……」

 震える手で受け取った紙を開く。

 最初にあったのは両親に宛てた言葉で、奏塗の母は何も言わなかったが読み飛ばす。

 知らない名前や、同級生の海咲の名前が出てくる中で、最後に秤悟の名前があった。

 

***

 

 ハカマダ へ

 

 前に話した時に、遺言なんて意味ないって言ってて一理あるなって思ったけど

 自分のためじゃなくて、相手のためなんじゃないかなって思った

 

 いつかは言いたい言葉や、いつも思っていることがあるけれど

 それって言う機会がなきゃ言えないもんね 

 恥ずかしいし、明日も明日があるんだってずっと思っちゃうし

 

 チバが亡くなるなんて誰も思っていなかったし

 アベだってきっとそうだったんだ

 

 だけど私たちはアベがいない世界を生きてきて、チバがいない世界を生きなきゃならない

 

 だから、もしも生きている間にこれを言う勇気が持てなかったらって思って書いてる

 

 背中を押してくれて、ありがとう!

 先に天国のギターを聴いているよ

 

 P.S.

 ギターあげるから使ってね

 

***

 

「俺のせいです……俺が悪いんです……!!」

 もう限界だった。罪の意識に耐えられなかった。

 玉砂利をかきむしりながら、秤悟は一番明かしてはいけない相手に全てをぶちまけようとしていた。

 

「俺が変なこと言わなければ!! 俺が止めていれば!! 止められたのに! 分かっていたのに! 俺のせいだ!!」

 奏塗の母にとってせめて幸いだったのは、秤悟の言葉が支離滅裂すぎて本質が伝わらなかったことだろう。

 娘を殺した相手とも知らず、泣き叫ぶ秤悟の背中をさすってくる。そこまで悲しんでくれる友人がいて幸福だったと言わんばかりに。

 違う。違う。何もかもが違う。今この場で殴られてなじられた方がずっと良かった。

 

「俺は、俺は……役立たず……」

 自分で言うのではなく、誰かに――――奏塗の肉親にそう言ってほしかった。

 地面を掻いた指先は出血し、傷口に土が入っているのに痛みもまともに感じれない。 

 なによりも心が痛くて、体の痛みも苦しみも全て空虚だった。

 

「奏塗はね、秤悟くんのことが大好きだったと思うの」

 

「…………」

 

「……明日ね、三時から香林やすらぎ聖苑で火葬があるの。その前に、奏塗を斎場から運ぶから――――」

 

「無理です……。俺に、沖埜の、骨は……拾えません……」

 親族以外は余程の理由が無ければ火葬には呼ばれない。

 余程の相手だと判断したのだろうし、実際そうだ。そのためにこんな時間に、奏塗の母はあの階段を上って来たのだろう。

 だからこそ、行けるわけがなかった。棺台車の上に乗せて火葬炉に入れるのも、出てきた時に細かい骨になっているのも。

 想像するだけで頭が真っ白になる。遺骨の前で発狂して迷惑をかける自分の姿が目に浮かぶようだった。

 

「…………。明日、もし考えが変わったら来てあげてね……。秤悟くんに奏塗のそばにいてほしいから……」

 そう言って奏塗の母は階段を下っていった。

 こんな時間だしタクシーを呼んであげるべきだとか、せめて見送りくらいはするべきだとか。全て去った後に頭に浮かんだ。

 

 消え入りそうなほどに細い月が浮かんでいる。明日はきっと新月なのだろう。

 まだこの空のどこかを奏塗の魂はさ迷っているのだろうか。

 明日になれば奏塗の魂は帰る場所も完全に失われる。

 あとはただ、天国のギターを聴きに行くだけ。

 

*********

 

 次の日も秤悟は学校をサボっていた。

 奏塗の火葬に行く気はないが、考えてみれば学校を休まなければ行けないのに、よその家の子に『来てほしい』なんて中々だ。

 あの強引さはしっかり奏塗に受け継がれていたのだろう。

 

 並べて置かれたテレキャスターとホワイトファルコンの前に座り、壁に後頭部を静かに打ち付ける。

 アベとチバのギターが並んでいるこの画が完璧すぎて、奏塗に写真を撮って送ったことが思い出される。

 そうして何時間もぼんやりとしていると、どこからか話し声が聞こえた。

 

(…………? 客か? 珍しいことが続くな……)

 わずかにだが本殿の方から声が聞こえる。

 客が来るのは珍しいが、天秤が誰かを家にあげるのは更に珍しい。

 長い廊下をひたひたと歩き、そっと本殿を覗き込む。

 壁に飾られている巨大な鎌を挟むように天秤と見たことのない中年女性が座っている。

 何かおかしな雰囲気だ――――そう感じた理由はすぐに分かった。スーツを着た体格のいい男たちが天秤を囲むように立っているのだ。

 

「石動(いするぎ)燈子と申します」

 

「ふーん」

 天秤が女性から名刺を受け取るのと同時に、秤悟もその名をスマホで検索した。

 珍しい名前だからか、すぐに正解らしきページに辿り着いた。

 

(厚生労働省……事務次官……って、一番偉い人じゃないか?)

 そのページに載っている顔と天秤と話している女性の顔は全く同じだ。

 何がどうなって厚生労働省のトップがわざわざこんなところまで来たのだろう。

 厚生労働省とは一体なにをしているところなのか。改めて調べてみる。

 健康、医療、福祉、介護、雇用、労働、および年金に関する行政。

 なるほど、遺言師と関係があるような無いような、よく分からないような。

 

「事務次官ね。そこまで出張ってくるのは世界大戦以来だな」

 

「どうしてもお受けいただけませんか? このままでは千年後には純粋な日本人は一人もいなくなっているのですよ」

 

「へぇー」

 その返事の仕方は天秤との血の繋がりを否応なく感じさせる。

 どうでもいいことに対するとりあえずの相槌だ。

 

「いま動かなければこの国は滅ぶと……どの国も分かっているのに動けない」

 

「自分たちが民主主義を選んだ結果だろう。甘んじて受け入れろ」

 

「羽鎌田さん。何も未来ある子供たちの命を奪えとは言っていません。年老いて寝たきりでもう動けないのに、それでも生かされている……そんな人たちを救ってほしいだけなんです」

 

「変わらんな、お前たちは。何度言ってもすぐに忘れる」

 

「それは――――」

 

「あの時お前たちに言った言葉をもう一度言ってやる。お前たちがどうなろうと、この国がどうなろうと、俺は興味が無い。勝って繁栄しようと、負けて隷属しようと、どんな道を辿ろうと……俺は終わりで待っているのだから」

 

(何の話してんだ?)

 どうやら天秤は国からの何かしらの依頼を断り続けてきたらしい。

 依頼内容は分からないが、察するに人の命を『奪う』内容のようだ。

 

(なんで??)

 寿命が見えるのは確かに異能だろう。

 だがそれだけだ。殺しに使えるような能力ではないのに――――背中に何かが当たった。

 

「こんにちは、秤悟くん」

 

「……勅使河原さん?」

 

「後ろを向くな。中に入りなさい」

 

「えっ? え……?」

 背中に何かを当てられたまま、本殿の中に入れられる。

 天秤の視線がこちらに向くと同時に、背中に当たっていた何かが頭に突き付けられた。

 今更になって猛烈に嫌な予感がする。学校に行っておけば良かったと後悔しても遅い。

 

「じいちゃん……。これ、なに?」

 

「まったく、それは人質のつもりか?」

 

「人質……!?」

 勅使河原が突き付けているのは銃だった。

 直接見た訳ではないが、本殿内にいる男たちが次々と銃口を天秤に向けたのだからもう認めるしかない。

 

「やめておけ。望ましくない結末になるぞ」

 

「羽鎌田さん。我々はただ――――」

 

「お前たちは根本的に勘違いしている。秤悟、いい機会だからよく聞いておけ」

 

「……? なにを……?」

 

「俺がこの仕事をしているのは、金のためではないし、誇りを持っているからでもない。ただの暇つぶしだ。俺にとっては全てが暇つぶしだ。お前のばあさんと結婚したのも、ここでお前と暮らしているのも、全て」

 

「羽鎌田さん。もう強がりはおやめなさい。お孫さんがどうなっても……」

 

「いいぞ。撃て」

 

「じいちゃ――――」

 ぶつっ、と目の前が見えなくなった。

 わずかに見えたのは、自分の額から飛び散る血と脳漿だけだった。

 

 

*******

 

 いつまでも変わらないな、お前たちは

 

 良秤が死んだから『もしかして』と思ったのか?

 

 俺を解放して自分たちが無事で済むと思ったのか?

 

 せっかく忠告してやったのにな

 

 順番はお前たちから死ぬ

 

*******

 

 タバコの臭いがする。

 また天秤が本殿でタバコ吸っている。

 もう壁もまっ黄色だぞ、罰当たりなジジィだ――――

 

「…………。あ……?」

 

「起きたか、秤悟」

 思った通り、あぐらをかいてタバコを吸っている天秤がまず目に入った。

 文句を言う前にクリアになった頭から疑問が湧き出てくる。

 

「あれ……? 俺、頭撃たれて……? なんで生きてる??」

 後頭部や額に触れるが血の一滴もついていない。

 だが床には秤悟の頭を貫通した弾痕が残っていた。

 間違いない。あれは夢などではなく現実だ。

 

「あれくらいで死ぬか。俺の血を引くお前が――――」

 天秤の周囲に横たわる人間に意識が行く。 

 慌てて後ろを向くと、顔を歪めて目を見開いたまま倒れている勅使河原がいた。

 

「うぉおおおおお!! 死、死ぃ……殺、殺し……じいちゃんが……?」

 完全に死んでいる知り合いに言い知れない恐怖を感じ、慌てて壁際まで逃げる。

 飾られている大鎌の柄に頭をぶつけた孫を、天秤はいつも通りの表情で見ていた。

 

「いや、俺はなにもしてない。触れてすらいない。だがまぁ、これがあると話もできんか」

 ぱんっ、と。蚊を叩き潰すように天秤が手を叩いた。 

 その瞬間、国からやってきた者達の死体が灰になり、同時に本殿の扉が開くほどの強風が吹きこんできて全ての灰を持っていってしまった。

 

「服を穴だらけにされて、ちょっとムカついたからな。強めに殺した」

 

「強めに殺した??」

 孫を殺されたことよりも、撃たれたことよりも、服に穴を空けられたことの方が嫌だったらしい。

 なんて、そんなズレたことを考えている場合ではないのに。

 

「生まれなかったことにした。こいつらがいたところには別の誰かがいるだろう」

 

「は? は……?」

 その時、スマホが震えた。それでもやっぱり一応、とセットしていたアラームだ。

 現在時刻は14:00、表示されているブラウザには厚生労働省事務次官の『男』が映っていた。

 

(あれ??)

 女じゃなかったっけ、と思っているのに既に元の名前も顔も思い出せない。

 数分もすれば『変わった』という事実すら忘れるだろう。

 世界中が。

 

「じいちゃん、あんた一体……?」

 

「ちゃんと考えてみたか? 真ん中には何がいたか。今まで一度でも自分と同じような能力を持っている人間と会ったことがあるか?」

 真ん中。神道における空虚な中心。 

 どんな神すらも認める国。

 

 あれから一応調べてはみた。

 鳥居の中心は神の通り道であり、天秤が言っていたのは降神之儀という立派な神道の儀式だった。

 そう、中心は神のいる場所なのだ。だから何もなくていい。だから何もなくても神聖なのだ。

 火の神も海の神も地の神も、ありとあらゆる神を中心に降ろしてきたのがこの国だ。

 

「まさか……真ん中にいたのは……俺らの先祖――――」

 

「違う。俺だ」

 

「あ、あああ、あんた、一体何歳なんだ!?」

 

「さあなー……。四千はいってないと思うが……数えてないもんでな」

 事も無げにそう言って、天秤は再びタバコを吸い始めた。

 天秤の服の胸部に空いた穴から煙が漏れている。

 気付いた天秤がその部分をさすると、少なくとも肉体の穴は塞がっていた。

 

「じいちゃん、何? 降りてきた神?」

 

「そうだ」

 

「なんの……?」

 もはや祖父の言葉を信じる信じないの段階は遥か前に――――それこそ、自分がこの能力を持って生まれた瞬間に通り過ぎている。

 こうなってくると気になるのは天秤が何を司る神なのか、ということだった。

 間違っても森の神や慈愛を司る神ではないと思うが。

 

「なぜ日本の平均寿命は世界一か考えたことはあるか?」

 

「なぜって……なんだ? 飯がいいからか? 医療が進んでるからか?」

 

「それもあるだろうな。だが前も言ったが、お前は勉強が得意でも頭でっかちだ。その先を深く考えない」

 

「…………? どういうこと?」

 

「飯もそうだ。医療もそう。保険制度だってそうだ。己の体を労わる意識、交通規則を守る意識、他者との諍いを避ける意識、子供を大事にする意識……。死に繋がる全ての意識が、他の国よりも日本は少しだけ高い。だから世界一長生きする。……それは何故か?」

 

「まさか……」

 

「俺はこの国の人間が持つ、死に繋がる全ての意識が少しずつ集まって生まれた。死を司る神だ」

 

「死神……!!」

 薄暗い本殿の中で天秤の目だけがぼんやりと光っている。

 実の祖父に対して何度も死神のようだと思ってきたが、それがそのまま事実だったなんて。

 頭はなんとか理解しようとしているが、心が付いていかなかった。

 

「……俺が死ななかったのも……?」

 

「『死』は死なない」

 世界から戦争が無くなる日は来るかもしれない。

 いつかは誰も餓えない世界になるかもしれない。

 どんな人間も平等な世界だって実現できるかもしれない。

 だが、死だけは免れない。たとえ数千年先に語り継がれる聖人だろうと、死ぬときは死ぬ。

 人類が打ち勝てない最後の厄災、死。もしもこの不安定な世界で唯一絶対があるとしたら、それは死なのだ。

 それを司るのが羽鎌田天秤なのだ。

 

「……そっ、その死神様に国の人間が何の用だよ」

 

「死んでほしい人間ほど長生きして、死なないでほしい人間ほど早死にするらしい。何をいまさら……誰だってそう思っているから平等なのに」

 

「答えになってねーぞ」

 

「老いた人間の死を解放してほしかったそうだ」

 

(……だから厚生労働省か!)

 年金問題くらいは秤悟も聞いたことがある。

 長生きなのはいいとして、日本人は長生きしすぎなのだ。

 もう既にこの国は相当な少子高齢化で、将来的に更に少ない若者で大量の老人を支えなければならなくなる。

 それを根本的に解決するとなると、年金をある程度の年齢で打ち切るか――――あるいは死んでもらうか。

 先進国の人間は誰もが分かっていても、その手段を選べない。 

 

「人間の形に生まれたせいで話が通じると思ったようだな」

 かつてこの国に降ろされた他の神々がどうなったかは知らないが、天秤がまだこの世界にいる理由はなんとなく分かる。自分の中にある人間の部分が教えてくれるのだ。

 制御不可能な厄災だとしても、もしもそうならばせめて話ができる形であってほしい。

 なるほど、この神社が天秤のものだという理由がよく分かった。そして同時に賽銭箱がない理由も理解できた。

 どれだけ金を積まれようと、唾を吐きかけられようと。拝まれようと無視されようと。

 死は平等に訪れる。そんなものは最初から必要なかったのだ。

 

「言うこと聞かないもんだから、殺して元の『死』に戻そうとしたんだろう。たしかにそうすれば日本人の平均寿命は減るし、たしかに老人の方が死ぬ割合は高いだろう。その前に『死』を殺そうとしているという滑稽さに気が付かないのが面白いな」

 

「暇つぶし……って言ってたな」

 

「そうだ。暇つぶしだ、全て」

 十数年来の顔見知りが死んでも表情の一つも変えない。紛うことなき本物の死神。

 仕事をしていたのも暇つぶしだし、国としてもその方が良かったのだろう。

 無秩序に死の力を振るわれるより、暇をつぶしてもらって適当に金を与えておいた方が――――そこまで考えて、目の前の死神にある違和感を覚えた。 

 

「死亡予定者リストだと? あれで金になるだと……?」

 

「なると思うか?」

 

「ジジィ、違うだろ。死んでは困る人間を死の運命から逃がして金を貰っていた!! 違うか!?」

 

「そうだ」

 死の予定にある人間のリストを国が受け取り確認する。

 その後、国にとって今死んでもらっては困る人間を死の運命から逃す代わりに、天秤は金を受け取る。

 審査の時間が必要だから、死の宣告をする相手の寿命はまだ4~50日あったのだ。

 

 無表情の上で曲げた口だけがやたらと浮くアルカイックスマイルは、己の祖父が死神という事実を嫌でも感じさせる。

 死んでほしい人間ほど長生きして、死なないでほしい人間ほど早死にする。だからこそ金になる。

 そしてこの国にとっては、ミッシェルと絵を描くことが好きなだけの平凡な少女の命は――――金を出してまで助けるほどの価値は無かったのだ。

 秤悟は無意識のうちに手に取っていた大鎌を天秤に向けていた。

 

「アンタ人間じゃねえ!!」

 秤悟が親友の死を回避させようと必死だったと気付いていたはず。

 そうでなかったとしても、若くして死んだ秤悟の両親の死を、あるいは祖母の死を天秤は分かっていたはず。

 死を回避する方法を知っているのに、その全てを放置していのだ。

 

「だからそうだって」

 

「このクソジジイ!!」

 怒りに任せて鎌を振り下ろしたが、指先で受け止められてしまった。

 タバコを吸いながら、どうでも良さそうに。

 

「いい勘してるな。それとも血が教えたか? おそらくそれはこの世で唯一俺を傷付けられるものだ。俺が降ろされた時に持っていた……分身みたいなもんだからな。使わないから飾ってるだけだが」

 

(なんだ……これは……)

 少なくとも30kgはあるだろうに、地球の重力を重いと感じないのと同じように、全く重さを感じない。

 長い間演奏してきたギターよりも手に馴染み、己の体に確かに流れる死神の血に呼応して力が流れ込んでくる。 

 

「俺はこんな仕事絶対にやらねえ。国がなんと言おうがやらねえ! どいつもこいつもぶっ殺してやる!!」

 

「そうだな。むしろそれが自然な死神の在り方かもな」

 

「うるせ――――!!」

 ブゥン、と振られた大鎌を天秤は屈んで躱し、巻き起こった強烈な風圧で全ての扉が外に向かって開いた。

 開かれた扉の向こうを見る秤悟に、流れ込む力が教えてくる。

 

「こんなことをしている場合じゃない、だろ」

 

「こんなことしてる場合じゃねえ!! じゃあなジジィ!!」

 自分が憎もうが嫌おうが、殺そうとしようが全てが無駄。なぜなら、死は死なないから。

 孫の反抗すらも長い長い生の暇つぶしの一つでしかない。きっと今日の夜も何事もなかったかのように『飯はまだか』と言うのだろう。

 冗談じゃない。こんなことをしている場合ではない、と秤悟は本殿から飛び出し転げ落ちるように階段を下りていった。

 

 残された天秤は吸い終わったタバコを握りつぶし、ぽつりと呟いた。

 お前にそっくりだ、良秤――――と。

 

**********

 

 巨大な鎌を背負って走る秤悟を街の人々が驚いたように見てくる。

 途中で警察に呼び止められそうになったが、説明している時間もない。

 

「まだ行くな……! 行くんじゃねぇぞ!!」

 今日ほど自転車を買っておけばと後悔した日はない。

 買ったとしても階段下に自転車を駐めるスペースがなく、いちいち上に運ばなければならないので買わなかったのだ。

 香林高校を受けた理由も実は歩いて行けるからというのが一番の理由だった。

 

「あっ、あーっ!! 行くなって!!」

 20分ほど走ってようやく斎場に辿り着いたが、霊柩車が駐車場から出ているのが見えた。

 その後ろを着いていく車に奏塗の両親が見える。ギリギリで間に合わなかったようだ。

 

(まだだ!!)

 通り過ぎて行ってしまった霊柩車に大鎌を向ける。

 天秤が人の形に生まれた死の神なら、これは大鎌の形になった死の神だ。 

 手に持っているだけで秤悟の中に確かにある死神の血に呼応し、自分のできることが全部わかる。

 生まれ持った力が理解できる。大鎌と自分との境界すらも感じられない渾然一体だった。

 

(『アレ』をやる……)

 天秤が先ほど見せた、死神の力の発露。手を叩いだけで死体を灰をにした謎の力。 

 少し間違えば大勢の人間が死ぬが、今だけは間違わない自信があった。

 大鎌を振り上げ、可能な限り息を吸い込む。

 

「止まれ!!」

 ガンッ――――と。あらん限りの力で柄を地面に叩きつけると、霊柩車のタイヤも沖埜家の車のタイヤも一斉に『寿命』を迎えた。

 それどころか、音の届く範囲内でタイヤと同じ高さにあった人工物が一気に破壊された。

 ある家では空気清浄機が、ある家ではルーターが、ある家では炊飯器が。

 怪我人は誰一人出ていないが、たった一撃で被害総額は一千万円を超えていた。

 生まれて初めて明確に『死神の力』を悪用した。

 

(……やるしかない)

 通りの向こうで、奏塗の両親が車から出て霊柩車の運転手に何かを話している。

 新たな霊柩車を手配するしかない、とでも話しているのだろうか。

 奏塗の父が訳の分からない怪奇現象に対応しているかたわら、奏塗の母は霊柩車の後部に声をかけていた。

 ごめんね――――と、読唇術など知るはずのない秤悟にも聞こえるかのようで、覚悟を決めた秤悟は刃の先端を己のこめかみに向けた。

 こんな使い方はそもそも想定していないのだろう。掴めるのは刃の部分しかなく、指から血が流れる。

 一瞬だったが、撃たれた時はしっかり痛かったことを覚えている。

 だが肉体の痛みは一瞬だ。奏塗を失った時の痛みに比べれば、全てがくだらない。

 

「待ってろよ」

 分厚い曇り空を睨んだ秤悟は、その言葉と同時に刃をこめかみに押し込んだ。

 誰もこの神具の手入れをしていなかったのに、刃はまるで豆腐のように頭蓋骨を貫通し脳に到達した。 

 世にも珍しい、一日に二度死んだ少年。

 目覚めると分かっていても、秤悟の大半を占める人間の部分を連れて行こうとする死が怖かった。

 

 

 光が見える。

 ぱらぱらと大きさもまばらな光が不ぞろいながらも確かな列を成している。

 まるで天の川のようだ。光に誘われる虫のように、恍惚とした気分で光の群れに近づいていく。

 

「…………。……あれ……? 俺の家……?」

 気が付くと秤悟は毎日往復している階段の中腹に立っていた。

 周囲には真っ赤な彼岸花が咲いて古い鳥居をより赤く際立たせており、まばらな参拝客がのんびりとした速度で階段を上っている。

 階段を下った先は見慣れた街並みが広がっていて、やたらと大きい西の太陽に優しく照らされていた。

 その対岸で顔を出しているのはバカでかい月だ。

 

「……ハラ減ったな~。帰ろ……」

 クソみたいな階段と言ってはいるものの、秤悟はこの帰り道が好きだった。

 遅くまでギターを練習した帰り、街の光から遠ざかるように階段を上っていく。

 お月さまがついてきて、階段にのっぺりと影がのびる。途中で止まって水を飲んでまた上ると、ようやく静かな家に着く。

 いるのは野鳥と虫くらいなもので、大声出しながらギターを弾こうが、縁台で寝ようが自由。

 誰にも言わない秤悟だけの贅沢な時間だった。

 

「この階段……こんなに長かったっけ……。ん……? あれ……?」

 他の参拝客と同じく上にのぼっていくと、なんだか見覚えのある後ろ姿が視界に入った。

 茶色く染められて夕陽に艶めくロングヘア―。たまにからかってはその度に蹴られていた猫背。実は曜日ごとにローテーションしているイヤリング。

 

「沖埜……? あ……!?」

 頭の中にかかっていた霞が一気に消えた。

 街が夕陽に照らされているなんて、そんなはずはない。

 腹が立つほどの曇り空だったし、まだ15時前だったはずだ。

 ここはどこだ。自分の住んでいる神社へ向かう階段によく似ているが、こんなに階段は長くないし、彼岸花など咲いていなかったはず。

 何よりもこんなに参拝客がいるはずがないのだ。

 

(そうか……。俺の家は……死のイメージだったのか……)

 なぜあんな場所に家があるのかずっと疑問だった。

 それはきっと、彼岸へと向かう人の持つ死のイメージを現世に再現したからだろう。

 考えている間にもまた一歩、奏塗が頂上へ踏み出した。

 

「沖埜! 待て!!」

 参拝客――――おそらくは自分が死んだことにもまだ気づいていない霊魂を押しのけ、奏塗の肩を掴む。

 

「……誰……?」

 果たして、こちらを見た奏塗の顔は濃い霧に覆われているかのように虚ろだった。

 先ほどまでの自分と同じで、夜更かししたあとの土曜の朝のようにぼんやりとして、思考はまともに働いていない。

 己を現世に繋ぎ止める記憶も全て――――それこそ秤悟のことも忘れてしまっている。

 

「おい! なんで上に行く? ボーっとした顔してんなよ! シャキッとせえ!!」

 

「…………? そういや、なんでだっけ。でも、みんな上っているし……せっかくだしこの先なにがあるか見てみたいな」

 

「ダメだダメだ! ク、クソみてぇなとこだぞ! タバコ臭ぇし! がらんとしてるし! クソだぞクソ!」

 

「……ギター。なんか、ずっと聴きたかったギター、この先で聴ける気がするんだ」

 話は終わりだと示すように、肩に置いていた手が払われた。

 他の参拝客も意思の光の消えた目でわずかに上を見ている。

 自分には生まれてからずっと暮らしていた家があるようにしか思えないのに。

 もしかしたら、それぞれの霊魂がこの先に別々のものを見ているのかもしれない。きっとそれは魂の底から欲していたものなのだろう。

 先に亡くなった家族であったり、想いを伝えられなかった初恋の相手であったり、大好きだったアーティストであったり。

 何もかもを忘れてこんなところに放り出され、そう感じてしまったのなら大抵の人間は頂上まで行くだろう。

 逝ってしまった人間が帰ってこない理由が分かった気がする。

  

「行くな! 止まれ沖埜!!」

 

「……どけよ。この先に……ずっと待っていたものがあるんだ」

 行く手に立ち塞がるが、奏塗ときたら魂だけになっても強情だ。

 誰かに助けを借りたいが、階段を上る人はいても下る人はおらず、中腹で言い争いになっているのにこちらを見もしない。

 死とはきっとそういうものなのだろう。変えられないから絶対的だし、変えようとする者もいない。

 

「俺はお前の死神だ。お前はここを上りきったら終わりなんだよ。だから行くな」

 

「死神なら……そのツラで私の前に出てくるな……。不愉快だ。…………? 不愉快……? なんでだっけ……」

 

「…………。もうこれ以上どうしていいか分からん」

 誰にも届かない本音が秤悟の口から漏れた。

 本当に分からなかった。ここで奏塗を引き留められるほどの言葉を持っていないのだ。

 友達は悲しんでいるとか、親より先に死ぬなとか、ありきたりなことばかり。どんな言葉も思いも天国のギターに勝てる気がしない。

 自分が同じ立場だったら、誰が何を言おうが天国のギターを聴きに行く。たとえ親友が引き留めようとも。

 こいつに彼氏とかいれば――――と思ったが、彼氏とやらの頭に奇声をあげながら大鎌をフルスイングしている自分を想像してしまって、そんな場合じゃないのに噴き出してしまい、何も考える気がしなくなった。完全に万策尽きた。

 もう、こうするしかなかった。

 

「…………!」

 秤悟は奏塗を力の限り抱きしめていた。

 頭の中で思い描いている最後の手段のために、つよくつよく、決して離さないように。

 耳元にある奏塗の唇から小さく漏れたのは、命が出ていったあの時とは真逆の、命が宿るような覚醒の声。

 抱きしめた奏塗の身体に熱が入ったような気がした。

 

「お前……羽鎌田か……!? ……ここどこ……!?」

 

「天国のギターはまだ早い」

 

「え?」

 なぜ奏塗が急に自分を取り戻したのか分からない。理由を考える時間もない。

 今なら話せば戻ってきてくれるかもと思っても、もう遅い。

 なぜなら。

 

「しっかり掴まってろ!!」

 奏塗を抱いた秤悟は階段から飛び降りていたからだ。

 まるで陸上大会のポスターのように、あらん限りの力で。

 

「うわぁああああああ!!」

 その絶叫がどちらのものなのか分からない。あるいは二人で叫んでいたかもしれない。

 あの世とはそういうものだと言われれば納得するしかないが、想像していた五倍は高く跳んでいた。やっちまったと思っても後の祭り。

 転げ落ちるよりはマシかもしれない、と考えている間にも参拝客の流れに逆らって落ちていく二人は、やがて現世へと近づき――――

 

 

 まるで空がのしかかってくるかのような曇り空だった。

 ここ数日ずっと天気が悪く、空気がどんよりとしている。

 突然娘を失った沖埜夫妻にとってはまさしく泣き面に蜂のような空模様。

 更に死体蹴りとばかりに車のタイヤは全部パンクした。

 この世の不幸が全て殺到しているかのような夫婦のもとに、光が差した。

 神が気まぐれで曇天に指を刺したような穴が空に空いていたのだ。

 天使の梯子の光が夫妻の周りを照らし、間を置かずに次々と雲に穴が空き、逆回しのビデオのように鈍色の雲が消えていく。

 

 ゴッ、と。何かがぶつかったような音が霊柩車から響いた。

 

 

 それと全く同じ時、街灯すらも無い小さな通りで何かが壊れる音がした。

 秤悟の握っていた大鎌が粉々に砕けたのだ。まるで構成している物質全ての内側に崩壊が仕込まれているかのように、塵も残らなかった。

 

「よかった……」

 這いずりながら曲がり角までたどり着き、通りの向こうで大騒ぎしている沖埜夫妻を見て安堵の息を漏らす。

 言葉にならない言葉を叫んでいるようだが、ほとんど何も聞こえない。視界が霞むし頭がやたらと痛い。

 巨大な蜘蛛が頭蓋の中で這い回り巣を作っているかのようだ。

 

「悪いな……雑な降ろし方で……」

 地面に座ったまま壁に背を付け深呼吸を繰り返すが、何も良くならない。

 白い霧が視界を埋め尽くし、何も聞こえなくなった代わりに耳をつんざくようなノイズが頭の中に響く。

 

(なるほど……。親父もこうやって死んだのか……)

 四分の一死神の自分ですら、頭を撃たれても死ななかった。

 それなのに半分死神の父がどうやって死んだのか疑問だった。皮肉なことに、疑問はすぐに解消されたが。

 そのまま秤悟は小さな音を立てながら地面に倒れたが、その音は歓喜の声にかき消され誰にも届かない。

 ポケットから何かが転がり出て、ゆっくり掴む。

 奏塗の形見として持っていたミッシェルのピックだった。

 

「俺のギター……」

 お前が使えよ。

 そう言いたいのに最後まで言葉が出ない。

 生きている間は自分の物だが、死んだらぜひ使ってほしいのに。

 ああ、こんな時に遺言って必要なのか。そういえば自分もあんな仕事をしていたのに書いていない。

 まったく親子そろって――――悪くない気分だった。

 

 死んだり生き返ったり死んだり生き返ったり忙しい一日だった。

 またあの階段を上らなければならないなんて最悪の気分だ。

 どうせそうなるなら抱きしめて一緒に飛び降りるのではなく突き飛ばすべきだった。

 でもやっぱり、悪くない。

 

 震える手の中で、ミッシェルのロゴであるスカルマークが浮かんでいる。

 白い霧に埋め尽くされた秤悟の視界を真っ黒なロゴが占領して、両目にドクロを浮かべながら秤悟は心の底からニヤリと笑った。

 

「てっ……天国の……ギターは……俺が、先に…………」

 願わくば、あの絵の余白に俺もいますように。

 ミッシェルのピックを固く握った秤悟は、一度だけ大きく震え、二度と動かなくなった。

 

 

 羽鎌田秤悟、享年十七歳

 原因不明の急性硬膜外血腫により死去

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

 

 羽鎌田秤悟

 親友の死を引き受けて死亡

 

 

「良い顔だ。秤悟」

 天秤は12桁の数字が全て0になった孫の遺体に語り掛けた。

 幼い死神はまるであたたかい夢でも見ているかのように微笑みながら眠っている。

 

「この世界、笑って逝ける奴はそう多くない」

 携帯灰皿にタバコを押し付け火を消した天秤は、秤悟の遺体を持ち上げた。

 重くなったな――――誰に聞かせるわけでもなく、そう呟いた天秤は、秤悟の手から滑り落ちたピックを拾って歩き出した。

 孫の親友の元から離れようとしていたのだ。水を差さないように。

 

「少し、散歩をしようか。秤悟」

 明らかな死体を運んでいる男を街の人々は恐怖に怯えた目で見ている。

 だが天秤は気にしない。気にならない。そういったまともな感性がそもそも欠落しているのだ。

 なぜならば人間ではないから。

 

『楽器店か。こんなところにあったとは』

『えー! じいちゃん何年ここに住んでんだよ!』

 

 通りがかった楽器店にかつての孫の幻影を見る。

 秤悟が欲しがる何かを一緒に買いに行ったのは、あれが最初で最後だった。

 

「日本中色んなところに住んだが、ここが一番気に入っている。二百……いや、三百年か? そのくらいここで暮らしたな。なぜか知らんが、ここの人間はみんな暖かい。友人はたくさんできたか? 秤悟」

 商店街をゆっくりと歩くとお気に入りのコーヒーショップが目に入った。

 コーヒーそのものは好まないが、コーヒーと一緒に食べるようなピーナッツやクッキーが天秤の好物だった。

 それを知る秤悟は時折気まぐれに買ってきてくれたものだった。自分が子育て上手だとは全く思わないが、孫との関係は割と良好だったように思う。

 モーセが海を割るように、商店街で買い物をする人々が天秤を避けていく。

 一年半ほど前、秤悟と一緒に入ったステーキハウスの前を通る。

 

『秤悟。これも食え』

『一口も食ってねえじゃんか! なんで頼んだの?』

 

 なぜならば食事は必要ないから。

 自分が頼んだステーキもぺろりと平らげる孫を見ている時、不思議な感覚だった。

 ついこの間まで豆粒みたいだったのに、ずいぶん大きくなったと。

 人間はあっという間に成長して、すぐに死ぬ。

 

「50年前な、俺と結婚したいという女がいてな……。佳代子……お前の婆さんだ。断ろうと思ったが、3年しかない寿命が哀れでな。そして子供ができた。良秤……お前の親父だよ」

 寿命残りわずかの妻が生んだ子を抱いて、最初に思ったのは『この子もか』だった。

 天秤の持つ完全な死神の目は我が子の運命をも見抜いていた。

 羽鎌田良秤――――妻の死を引き受けて30歳で死亡、と。

 神社の階段に辿り着いた。振り返ってみれば、この階段を秤悟と一緒に降りたことは少ない。

 いつも元気いっぱいで、しゃかしゃかと走り回って置いていかれてしまうからだ。

 

『どっちに行くんだ? 右か? 左か?』

『その前にさー、どっか飯でも行こうぜ、じいちゃん』

 

 だから、この日のことは昨日のように思い出せる。

 珍しく祖父と買い物に行けると知って、15歳の秤悟ははしゃいでいた。

 あのくらいの年齢の子供なら、祖父と散歩など嫌がるだろうに。

 口に出したことはないが、いつまでも覚えている。

 

「良秤もあっという間に大人になった。そして美菜ちゃんを連れて帰ってきた。お前の母さんだ」

 初めて美菜を見た時、『ああ、この子か』と思った。

 彼女もまたあまりにも残り少ない寿命で、息子夫婦との暮らしは2年も続かなかった。

 お前はまたどうしてこんな女を選ぶのか、とは言わなかった。それが運命だから。

 死神に惚れるような女なのだ、死に好かれていて当然だと思ったものだ。

 階段の中腹に差し掛かった。ゆっくり散歩をして、気が付けば夕暮れだ。

 振り返ってみると、いつもこの辺りで止まっていた気がする。

 

『やれやれ。長い階段だな』

『クソみたいな階段だよな。でもじいちゃん、長生きしたいなら悪くないんじゃね?』

 

 あの日、秤悟にそう言われた。17歳で死ぬ運命にある孫に。

 事故や事件ならばまた違った感想を持ったかもしれない。

 だが、死ぬべき時に死ねない人間があまりにも多いこの世界だ。

 そんな中で望んで死に進めるのならば、自分にはもう何も言う権利は無いと思った。 

 

「美菜ちゃんはお前がお腹にいるときに死んじゃってな。良秤も馬鹿だから……お前と同じことをしたんだよ」

 腕の中で冷たくなっていく馬鹿な孫に語り続ける。

 夕暮れに染まっていく街を何百年も見てきたが、誰かと一緒に生きてきた時間は天秤の生に比べてあまりにも短かった。

 

『秤悟、お前あれだな。受験勉強……。…………』

『頑張ったな、だろ!? なんでそこまで言って最後まで言わねえの!?』

 

 階段を下りながらそんな会話をした記憶。

 賢い母と馬鹿な父に半分ずつ似た孫の幻影。

 勉強はできるが頭でっかちで――――文化祭でなぜか女の恰好をしていた。

 

「でもな、やっぱりへたっぴでな。良秤も半分人間だったから。美菜ちゃんもすぐ死んじゃってな。お前だけだった、残ったのは。まったく、人間はすぐに死ぬ……」

 家に着いてしまった。野良猫が勝手に寝ている縁台に秤悟を寝かせる。

 秤悟はここにいるのが好きだった。阿呆のように口をぱかーっと開けながら、何をするでもなく夕陽を眺めたり音楽を聴いたりしていた。

 あの日もそうだった。縁台で鼻をほじりながら高校のシラバスを読んでいた秤悟に声をかけたのだ。

 

『秤悟。お前が欲しがってたギター、買いに行くか』

『えーっ! 冗談で言ったのに!?』

 

 あの日から秤悟は『部活どうしようかな』と言わなくなった。

 運動神経が良い子だったから色々と悩んでいた様子だったのに。

 そして秤悟は同じ部活の同じ趣味の女の子に出会った。

 思えばあの日からもう死は始まっていて、孫に死を運んできたのは自分ということになる。

 

「何千年も、変わらねえ生き物だよ。これからもずっと、好きだの嫌いだのくだらないことに短い一生を使うんだろう」

 二度と開かない秤悟のまぶたにそっと触れながら部屋の中を見る。

 自分も秤悟もものぐさだから、一年中出しっぱなしのコタツがある。

 二人で面白くもないテレビを見ていた日々がもう懐かしい。

 

『おい、秤悟。入学祝い……だっけか。何が欲しい?』

『いいのーっ!? 俺さぁ、マジで好きな人がいて……その人が使ってたのと同じギター欲しいんだけど』

 

 ようやく最後の記憶に辿り着いた。

 今日の散歩で振り返ったあの日の――――秤悟の合格祝いを買いに行った日の記憶を順に再生し、指先から秤悟に流し込んでいく。

 繋ぎ合わせたその記憶は、階段を上るのではなく、下りて街に行くイメージだった。

 

「でもな……なぜかな。こう思うんだ」

 良秤や秤悟とは比べ物にならない、世界で唯一の死神による完全にして完璧な御霊降ろし。

 朽ち果てていくばかりだった秤悟の頬に赤みが戻っていく。

 ポケットから取り出したタバコを咥えて火を付ける。

 長い長い生の中で、タバコと甘露だけは気に入っていた。

 

「秤悟。お前は俺の誇りだ」

 目も眩むほどの夕日にひぐらしの鳴き声が寂し気に響いている。

 生命の気配を察した野良猫が起き上がって茂みに逃げて行った。

 永久に西の空を黄色く染める太陽に思い出す。

 

「ああ……」

 そうだった。佳代子が死んだときも、息子夫婦が死んだときも。秤悟ただ一人が残された時も。

 こうしてぼんやりと夕日を眺めていた。

 

「ああ――――」

 死神らしく、この世界に生きるどんな生き物よりも死を見届けてきた。

 それはあまりにも身近すぎて、日常すぎて。身内に訪れた時ですら、ただそばに突っ立ってひぐらしの声を聞いているだけだった。

 いつまでも消えない記憶、どうしていいのか分からない感情。

 これまでも、これからも、ずっとそうだと思っていた。

 

「俺は、ずっと、こうしたかったのか……」

 吸い込んだタバコの先端が灰になっていくのと同時に、天秤の指先から順に灰になっていく。

 死は絶対だ。変えられるものではないが、もしも変える力があったとしても、誰かがその死を引き受けなければならない。

 だが、死そのものである天秤に恐れはなかった。

 

 やれやれ――――結局は国が望んだとおりの形になった。

 むかしむかしの大昔に、どこかの誰かが望んで人の形に生まれた。

 それから数千年、この国が望んだから人の形のままこの世界を生きてきた。

 そして今、この国が元の形に戻ることを望んだというのならば、潮時というやつなのだろう。

 いいさ。元の形に戻るだけだ。還る時が来たのだ。

 

「まったく、秤悟も良秤も……俺も……。自分の死だけは見えないからな」

 灰になっていく己の手を眺める。

 完全な死神の目を以てしても己の死は見えない――――何かが弾けるように、唐突に気が付いた。

 

「はは……。ははは! そうか! 俺の血か! 俺の血だったのか……!」

 息子も孫も同じ死に方をした。生き延びることが生物の最大の目的なのに、人間とは不可解な生き物だと思っていた。

 混ざってしまった人間の部分ばかりに責任を押し付けていたが、どうやらそれは違ったらしい。

 この身に流れる死神の血こそが、その運命を持ち込んでいたのだ。

 人の形に生まれて数千年、ようやく気が付いた真実だった。

 きっと五十年前に気まぐれで人間と結婚した時から、それは始まっていたのだろう。

 

 死神を殺そうとやってきた人間は過去に数えきれないほどにいた。だが全て失敗に終わった。

 飲まず食わずでも死なない。海に放り込まれても焼かれても閉じ込められても死なない。

 撃たれようが刺されようが、頭の上に原子爆弾を落とされようが死なない。

 人の形になったはいいが、自分はいつ死ぬのだろう。そう思っていた。

 

 死神の死因は愛だった。

 ようやく愛と生死の密接な繋がりが理解できた。

 人は死ぬから愛するし、愛するから人は生まれるのだ。

 自分は人間を愛した瞬間から死の準備をしていたのだ。

 

「なんて心地の良い風だ……」

 夏の終わりの涼風が死神の身体をさらっていく。

 恐怖はない。勝手に恨まれたり憎まれたり、これもまた勝手に愛されたりした数千年だが悪くなかった。

 残った手で最期に孫の頭を撫で、羽鎌田天秤は完全に灰になった。

 

「…………ん……?」

 数秒後、まるで昼寝をしていたかのように秤悟は起き上がり、ばきばきの背中を何度か鳴らした。

 大あくびをしながら目を擦り、足元にある灰の山に気が付いた。

 

「…………じいちゃん?」

 灰の山に線香のように立っていたラッキーストライクが燃え尽きた。 

 落ちた火のそばで何かが埋もれている。そっと拾い上げると、それはドクロの浮かぶピックだった。

 なぜ自分がここにいるのかも秤悟には分からない。

 ただ何故か、祖父との永遠の別れだけは理解できて、それなのに涙の一滴も出なかった。

 太陽が沈むのをぼんやりと眺め続け――――携帯に親友からの着信が入って、ようやく秤悟は大泣きした。

 

 

*******

 

 

 本日は特別ゲストに令和科学文化大学の中西教授にお越しいただきました。

 早速なのですが、ここ3か月の番組の独自調査で日本の若年層の死因一位が『自殺』から『不慮の事故』になった件について、ご意見を伺えますか?

 

 えー、よくですね、日本を批判する文脈で自殺が多いと語られるのですが……

 死因数ランキングという時点で何かしらの死因はトップになるわけです

 自殺が一位というのは言い換えれば、病気や事件事故での亡くなる件数が少なかったということになるんですよね

 

 つまり、『不慮の事故』が一位になったというのは、若者の法律を守る意識が低くなったということでしょうか?

 

 事故って別に交通事故だけではないですからね。一概にはいえませんが……こちらのグラフをご覧ください

 去年の同時期の若年層の死因ランキングおよび死者数です。それと番組の調査した数字を比べてみましょうか

 

 ……不慮の事故の伸びが顕著ですが、どの死因も伸びていますね

 

 さらにこちらは全年代での死因ランキングおよび死者数の比較になります

 急激に……とまではいきませんが、ある時期を境に伸びていることが分かります

 

 9月の頭でしょうか?

 

 そうですね。一般的に、夏休み明けは学生の自殺が伸びますが、全ての年代で全ての原因による死亡数が増えています

 

 このデータから理由や原因を推測できるのでしょうか?

 

 今時点ではなんとも言えません。ただ、数字だけを見ているとどうも……

 日本人の持つ、死に繋がるあらゆる意識が少しだけ低くなったような気がします

 

 

*******

 

 11月の初めだというのに結構な寒さだった。

 コンビニの前でぼーっと立ちながらスマホでニュース動画を見ていたが、無理をせずに中に入っておけば良かった。

 そう思っていたら待ち人がコンビニから出てきた。

 

「ほら! 一個やるよ」

 

「お~! 助かる!」

 奏塗が放り投げたカイロをキャッチし、手の中で揉みこむ。

 学ランだけの秤悟に対し、コートを装備した奏塗は秋を飛び越えて完全に冬仕様だ。

 歩き出した奏塗のマフラーに引かれるように秤悟も歩き出す。

 

「なんか日が暮れるの早くなってきたね」

 

「そんなこと言ってる間にあっという間に年末なんだろうなぁ」

 

「羽鎌田は年末どうするの?」

 

「どうって……。どうもしないけど。年越しするよ」

 

「……一人で?」

 隠している訳ではないが特に話してもいないため、秤悟の両親が既に他界していることを知っている友人は少ない。

 その中でも奏塗は、秤悟の祖父が亡くなったことを知っている唯一の友人だった。

 いつどんな話をしている時に話したか忘れたが、『どさくさに紛れて死んじゃった』と伝えたのだ。

 

「そりゃ~……そうだろ~」

 

「親戚とかいないの?」

 

「いるよ。北海道の……長万部におばさんが」

 これが非常に助かったのだが、母の姉であるおばさんは特殊な羽鎌田家のことを大体は知っていた。

 理由は想像でしかないが、母の美菜を取り巻く死の騒動の際に色々と伝えられたのだろう。

 おかげさまで、一人暮らしは免れなかったが普通に学生生活は続けられている。 

 

「サキが言ってたけど、料理へたっぴなんだろ?」 

 

「年末くらい適当になんか買うわ」

 

「うちに来たら?」

 

「えーっ! 急に知らんとこの子供来たら親御さんびっくりしちゃうだろ」

 

「そんなことないって! 多分、羽鎌田が来たらお父さんもお母さんも喜ぶよ。あのイカしたテレキャス持って来いよ」

 

「年末に他人様の家にギターって……ギター流しじゃあるまいし……」

 

「いや……ていうかさ、羽鎌田がひとりぼっちなの話したら、ぜひ連れて来なさいって言ってたし」

 

「…………」

 知らんとこの子供とさっきは言ったが、そういえば奏塗の両親には彼女の通夜の日に会っているのだ。

 そしてどちらの前でも記憶がぐちゃぐちゃになるほど取り乱し、訳の分からない言葉を泣き叫んでいた。

 思い出すとものすごく行きたくなくなった。奏塗がどう思おうが、奏塗の両親がどう思おうが、秤悟は恥ずかしくて仕方がなかった。

 

「考えとけよ」

 

「…………。まぁ、うん。……駅から結構歩いたな。まだ先か?」

 

「もうちょい」

 授業も終わり、二人は香林高校から二駅先にある政令指定都市に来ていた。

 画塾の体験入学に行く奏塗の付き添いで来たのだ。

 

 賞に出した奏塗の絵だが、落選していた。

 実在した人物を描いていることと、余白が多すぎたことがダメだったらしい。

 奏塗は傑作だと思っていたらしく、ショックを受けていたがそれは違う。

 あの余白が埋まり切って、絵の中の女子高生がおばあさんになったとき、初めてあの絵は傑作になるのだ。

 それは素晴らしい人生を送った足跡なのだから。

 

 結果を知れるのも、落ち込んでから前に進むのも、全ては生きてこそ。

 あれで終わりにならなくて心底良かったと思う。

 

 緊張しているのか、千切れそうなほどにカイロを揉む奏塗の頭上には『バックした車に轢かれて死亡』と書いてある。

 同じく浮かぶ12桁の数字を計算すると、あと10秒で事は起こる。

 周囲を注意深く観察すると――――あった。不動産営業の車が駐車場に頭から入って停めてあり、運転席に乗る男は電話をかけて頭を下げながらエンジンをかけた。

 そして男は、全くミラーを確認せずに車を後退させ――――秤悟は奏塗のマフラーを思い切り掴んで引っ張っていた。

 

「う゛ぇえッ」

 自転車で轢いたガマガエルのような声を出した奏塗の鼻先を車が通り過ぎて行く。

 車を運転する男は、たったいま死に繋がる事故を起こすところだったことにも気付かず、法定速度を守っているようには見えない速さでどこかへ消えた。

 せっかく回避したのに、あの調子なら遠からず重大な事故を起こすだろう。別にどうでもいいが。

 

(よし、上手くいったな)

 秤悟の死神の能力はたった一つを除き、全て天秤が持って行ってしまった。

 幽体離脱もできないし、道行く人の寿命も見えない――――奏塗ただ一人を除いて。

 咳き込む奏塗の頭上に浮かぶ数字がカタカタと切り替わっていき、同時に死因も別のモノになった。

 56日後、火事に巻き込まれて焼死となっており――――計算が間違っていなければ、大晦日ではないか。

 

「おい。やっぱ年越しは沖埜の家にいくわ」

 奏塗の家が燃えるのか、買い物に行った先で巻き込まれるのか。

 どちらにせよ、そばにいなければ防げない。

 

 天秤が唯一残した力だった。

 他の全ての生き物の寿命は見えないが、奏塗だけは寿命どころか死因や、それがいつ起こるのかも見える。

 完全な死神の目だ。これがあったから天秤は人の寿命を操作できたのだ。

 

 死から蘇った奏塗は医者からも完全な健康体と太鼓判を押された。

 だが秤悟だけは知っている。一度死んでしまったからなのか、秤悟の御霊降ろしが乱暴すぎたのか。

 奏塗が死の運命に好かれてしまったことを、秤悟だけが知っている。秤悟だけがその運命を変えられる。

 この目はまるで三代そろって言葉も遺せなかったマヌケな遺言師の遺言のようだった。

 

「聞いてんのか? 年末行くってば」

 

「先に謝れよ!!」

 

「キャッ」

 手加減なしのローキックにより、ふくらはぎにローファーが突き刺さった。

 自分だって本当はもっとスマートにやりたいが、まだこれで2回目なのだからご愛敬としてほしいところだ。

 

「大げさなんだよ……。のろのろバックしてただけじゃんか」

 そう言って一回本当に死んだことをもう忘れてしまったらしい。

 何はともあれ、これでしばらくは安心して過ごせる。

 

「そういうこと言うなら帰るぜ~俺」

 

「えっ……。いいでしょ部長〜、最後まで付き合ってくださいよー」

 

「こち亀みたいに……。こういう時だけ部長って言っておもねるなよ」

 元々大体の部員と関係は良かったが、複数のバンドをかけ持ちして回したのが効いたのか、秤悟は投票で軽音楽部の部長に選ばれていた。

 だが、上級生になったら廃止しようと思っていた、新一年生が同時に好きなバンドを言う歓迎会は続けようと思う。

 今年の春に思ったのだが、見ている分には微笑ましくて面白いからだ。

 そんな話をしている内に奏塗が歩みを止めた。

 

「……ついた」

 

「へ~。これが画塾か~。初めて見たなぁ」

 

「うぁああ、怖いっ」

 

「なにが?」

 

「だってここにいる子みんな絵が得意なんだよ!?」

 

「うん」

 

「出てるって! 霊圧みたいなのがもうここまで届いてる!!」

 

「はぇ~。見えないけどねぇ」

 

「なんか、なんか勇気出る言葉言え! ここまでついてきたんだから!」

 

「えっ、何それは……」

 

「なんでもいい! 言葉でもいい! 行動でもいいから! あたしの勇気を!!」

 秤悟が付いてきた理由は奏塗の死を回避するためだが、奏塗が秤悟を連れてきたのはこのためだったようだ。

 一念発起して体験入学に申し込んだはいいが、それでもやはり怖かったらしい。

 どうせ中にまで行けないのだから同じだと思うが、としばらく考え込む。

 が、こんなところで気の利いた言葉を言える性格なら、あの時一緒に飛び降りたりしなかった。

 結局秤悟は常日頃思っていることをそのまま言うことにした。

 

「天国のギターは一緒に聴きに行こうな」

 

「――――。あっ!  そういやお母さんから聞いたけど! お前あたしの葬式でクソ泣いたらしいな」

 

「あー、そうよ。もうどばどば泣いちゃったもんね。次は耐えられねえから。沖埜が死ぬ直前に自爆スイッチ押して灰になるって決めてる」

 奏塗は噴き出したが、これは嘘偽りなく本気中の本気だった。あの時の心の痛みに次はもう耐えられない。

 死の運命を回避させ続けて、それでも奏塗に生物として避けられない死がやってきた時は、天秤のように潔く灰になろうと思っている。

 

「……そんな先の話より、来年のロッキン一緒に行こう?」

 

「8月だろ。受験勉強だろ」

 

「あたしは美大受けるから関係ない」

 

「そうなの?」

 そう言いつつ違うだろう、と思う。

 だが、いつかに奏塗が話したように、その一日を勉強に回すか楽しむかは片方しか選べないし、未来は誰にも分からない。

 奏塗は自分でも滅茶苦茶言っていると分かっているようだが、とりあえず緊張はほぐれたようで良かった。

 

「よし! じゃ、終わるまで……二時間? 三時間かな。待ってて」

 

「えっ!? さっ、三時間!? 待つの!?」

 

「だってこの中って絵がうまい子しかいないんだよ? 絶対落ち込むもん。いいじゃん、この辺いろんな店があるんだから!」

 

「えぇ~……そっかぁ……」

 確かに周辺を見回せば、秤悟が暮らしている街には無いようなデパートがあるし、楽器店や喫茶店もある。

 なんでそういうことを先に言わないかな、と思うが今ぐらいはネガティブな言葉は飲み込んでおいてやろう。

 

「帰るなよ」

 

「帰んない」

 

「待ってろよ」

 

「待ってるよ」

 

「いってくる!」

 秤悟の首に自分のマフラーを巻いた奏塗は、肩をいからせながら大股で画塾に入っていった。

 道場破りみたい、という言葉が体温の残るマフラーに吸い込まれて消えていく。

 

「……わぁ~! 寒っ!」

 鼻水も凍ってしまいそうなほどの寒風が一人になった秤悟に吹き付ける。

 奏塗のマフラーをしっかり巻きなおしながら周囲を見回し、一軒の喫茶店をロックオンした秤悟は早足で歩きだした。

 

「三時間……。うし、勉強すっか!」

 遺言師という将来の選択が消えた今、秤悟は他の生徒と同じく進路についてしっかり考えなければならない。

 やりたいことはまだ見つかっていないが、せっかく勉強が得意なのだからこのまま成績を維持するべきだろう。

 それとも予備校でも入った方がいいのだろうか。そうなると伯母に長万部から来てもらう必要があるかもしれない。

 未来をしっかり見据えた奏塗に知らず知らずのうちに影響を受けた秤悟は、秋の空に将来を思い描きながら喫茶店に向かう。

 

 将来の自分は何をしているのだろう。

 ぼんやりとしか見えない未来だが、ずっとギターを弾いているしずっと奏塗のそばにいるのだろう。

 がらんどうの家でひとりぼっちで暮らしていると時々寂しくなるが、悲しくはない。

 いつか遠い未来に訪れる終わりできっと待っているはずだから、天国のギターを聴きに行く前に伝えるつもりだ。

 

 ありがとう、じいちゃん、と。

 

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。