ハンマー少女はバズらない! 固有スキル【隠遁】で自由に探索してたら伝説になってました   作:chikuwabu

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ひとしずくの想い

 ニライカナイ第二層『黄昏の平原』。

 怒濤のように押し寄せていた瘴気の魔物たちの波がようやく消滅していき、ここはいつもの静かな平原の姿に戻りつつあった。

 その入り口で屈み込み、身体を休めているのは一匹の巨大な黒い長毛犬――否、ジェヴォーダンの獣、ルシオンだ。彼にしてみれば大したダメージではないのだが、しかし見た目には身体中が傷だらけで、地面には紅い血の跡が広がっている。

 

 そんな彼が、ふと。顔をあげる。

 未だ時折思い出したかのように魔物たちが襲いかかってくる平原に、一つの小さな光が弱々しく漂っているのが見えた。

 

「ふむ、小さな魂だな。そなた、迷いこんだか? ……いや、その様子ではもう言葉も話せんか」

 

 ルシオンは小さな光に話しかける。残念ながら返事らしい返事はない。

 もとよりこの消え入りそうな光に、大した返答など期待していなかったルシオンだが、しかし彼とて目の前に今にも消えそうな魂が漂っているとなれば、それを無視するほどに冷酷でもない。

 

「……仕方がないであるな。吾輩が力をくれてやろう。そなたの負担にならぬ程度だがな」

 

 ルシオンは立ち上がると、犬の鼻先をその小さな光に近づける。そして、その光がルシオンと触れ合った瞬間に、魔力を光へと送り込む。

 これは、力の譲渡だ。

 第一層ではエレーヌとローラの二人が、いくつもの紅珠を砕き割ることで生まれる多大な魔力を、数多の魂たちに貸し与えた。それと同じことをしただけだ。

 さすがのルシオンも、大量の紅珠から生み出される魔力量は真似できるものではなかったが、目の前の消えかけた魂ひとりにひとしずく程度の力を貸すくらいは、容易い話だ。

 

「もう、迷うでないぞ」

 

 ルシオンから、少しだけ、本当にほんの少しだけの力を受けとった小さな光は。

 そこから、空へ、空へと舞い上がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これ以上、妖精たちを! いじめるなぁぁぁああああ!!」

 

 瘴気に覆われ、どろりとした闇が充満する妖精の国の空から、大地を侵食するジャバウォックの本体へと向けて。

 桃子と妖精たちが光の軌跡を空へと描き、真っ直ぐに突入していく。もしそれを離れた場所から見るものがいれば、それはひと筋の流星のように映ったことだろう。

 一方、大地を覆う瘴気の塊からは、桃子たちの突撃を防がんといくつもの瘴気の爆撃や触腕が迫るけれど、それらの攻撃が桃子に当たることはない。桃子の勢いを弱めることはない。

 

『モモちゃん、負けないでね! 負けないでね!』

 

 過去。その命を賭して、最後の瞬間まで多くの人間たちを守り戦ってくれたエレクが、今回もまた最初に身を挺して桃子を守り通してくれている。

 エレクの脇には、彼女の親友たる薬草の妖精ルイ、そして桃の妖精クルラの姿もあった。

 桃子の進む道を切り開くために。彼女らは最後に残されたありったけの魔力を絞りだし、桃子目掛け飛び交う瘴気の爆撃を防ぎ、迫り来る触腕を弾き飛ばしていく。

 

「桃子! このまま熱く! 真っ直ぐ行け!!」

 

「はははは! 桃子くん、キミは真っ直ぐ、その『答え』を貫きたまえ!」

 

 エレクたちだけではない。

 他の妖精たちもまた、瘴気渦巻くジャバウォックの本体へと突入する桃子を守るため、それぞれの全力を絞り出し、壁を作り、結界を作り、敵を燃やし。彼女らの持つ、あらゆる力で道を拓いてくれる。

 

「カレーの力、忘れない……でっ!!」

 

「うぅ……! 桃子さんの【創造】なら、勝てますからぁっ……!!」

 

 瘴気の渦巻くなかで、仲間の妖精の数は減っていく。桃子の道をつくるため、彼女らの残された全ての力を総動員し、そして桃子から離れていく。

 けれど、もう振り返ることはできない。仲間を失ったとしても、桃子はもう、この瘴気の闇を真っ直ぐ貫いていかねばならない。

 両手で構えている桃子のハンマーは、桃子の魔力を――そして【創造】の力を得て煌々と輝いていた。桃子の魔力も、仲間の力も、人間の祈りや願いも、全てがここにある。

 

「桃子っ! ヘノが一緒だからな! いけるぞっ!」

 

 闇の中で、瘴気の中で、いま自分がどうなっているのかすらよくわからないけれど、すぐ近くで一番大切な声が聞こえる。

 桃子はその声を、唯一の心の道しるべにして。真っ直ぐに、ジャバウォックの瘴気を貫くように、核へと到達し――。

 

 

「うやぁぁぁあああああ!!!」

 

 

 光輝くハンマーを、振り抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 覚悟していた激しい爆発もなく、それどころか音も衝撃もやってこない。

 

「あれ? え、あれ? どういうこと?」

 

 ハンマーをジャバウォックの核となる心臓へと叩きつけたはずの桃子は、しかし気付けば、見知らぬ暗闇の中に立っていた。

 

「嘘……ここ、どこ? みんな? ヘノちゃん!? エレクちゃん!?」

 

「桃子。ヘノはここだぞ。もみくちゃになって。変なところに来ちゃったみたいだな」

 

「ヘノちゃん! 良かった、また一人きりになったかと思っちゃった!!」

 

 慌てて仲間の名を呼ぶと、いつのまに桃子の服の中に隠れていたヘノが、ひょっこりとジャケットの内側から飛び出してきた。

 その手には神槍ツヨマージが握られており、しきりに周囲に視線を向けている。

 暗闇の中を、ヘノと桃子は歩いていく。目印があるわけではないけれど、真っ直ぐに、迷いなく。

 

「気をつけろ。なんだかここ。変だぞ」

 

「うん。ここはきっと、ジャバウォックの核っていうか、心の世界なんじゃないかな……」

 

「よくわからないけど。ここに。敵の本体がいるんだな」

 

「うん。多分、そうだと思う」

 

 ここは真っ暗な闇しかない、寂しい場所だった。

 けれど、それだけではない。桃子は言葉に出来ないほどの悲しさと、憎しみを。この闇の世界の中に薄らと感じとっていた。

 

 

 とす、とす、と桃子の足音が響く。

 どれくらい歩いたのだろうか。数分も歩いていないように思えるし、長い間歩き続けてきたようにも思える。

 時間の感覚も曖昧になる闇の世界では、桃子とヘノにとって、互いの姿しか世界を映しだすものがない。

 

 だが、そんな暗闇にも終わりが訪れる。

 

「あ……」

 

 桃子はつい、声を上げてしまう。

 視線の先に、誰かがいたのだ。暗闇の中でもわかるその背中は、大人の男性に見えた。

 黒に近い茶色の毛皮か、あるいは元々はもっとしっかりとした素材の布地だったのか。

 ボロボロになった異国の衣装を身に纏い、男は地面にしゃがみ込んで俯いている。佇まいは若くも見えるし、老人にも思えた。

 

 恐らく、この男性が――世界を憎む【創造】の所有者だった人間なのだろう。

 桃子はその背中に向けてどう接すればいいのかわからず、その場に立ち竦み、ゴクリと喉を鳴らす。

 が、桃子がそんな風にしている間にも、懐から飛び出た風の妖精は、少し先の男へと無造作に近づいていく。

 

「お前。誰だ。ここで何をしてるんだ」

 

「ちょ、ヘノちゃん?!」

 

『この世界を……滅ぼす……滅ぼす、絶対に……許してなるものかよ……』

 

「なんだこいつ。会話になってないな」

 

 ヘノが声をかけるも、男は相変わらずこちらに背中を向けたまま、淡々と呟き続けるだけだった。

 桃子の知らない言語のはずだけれど、その呪詛のような言葉の意味がすんなりと桃子の頭にも伝わってくる。それはただひたすらに、世界への憎しみを並べた言葉だった。

 けれど、正直に言えば。桃子は内心で、拍子抜けのような気持ちを覚えていた。

 目の前にいる男は確かに、ぶつぶつと呟いていてあきらかに挙動不審ではある。けれど、外で暴れていたジャバウォックのように暴力に身を委ねるような、目につく全てを破壊するような、そのような燃えさかる憎しみの印象とはかけ離れていたのだ。

 

 だが――。

 

 男がゆっくりと、こちらへ顔を向けた。

 

「ひっ……」

 

「気をつけろ。桃子。こいつは――まともじゃなさそうだぞ」

 

 桃子はその男の顔を見て、その表情を見て、ひゅ、と音を鳴らし息をとめる。無意識に、足が後ずさる。

 男の顔は、げっそりと痩せ細っていた。その双眸からは、赤黒い血が止めどなく流れており、そこに在るはずの眼球はすでに漆黒の闇と化していた。

『怪異』としての感覚が告げる。この男の中身はもう、グツグツと煮えたぎっている。妖精の国で暴れていたジャバウォックの熾烈さなど、あくまで表層的な怒りでしかなかったのだ。

 血涙を流し続ける男はもう、憎しみのあまり、人ではなくなっている。

 

『はは、はははは、邪魔をしていたのは、貴様か……そこで世界が滅ぶ様を、見ているといい……』

 

「待って! 待ってください!!」

 

 桃子は強く叫んで、一歩、その男に向けて踏み出した。気圧されないよう、気を張り、男をまっすぐに見る。

 そこにあるのは、狂おしいほどの憎しみを溢れさせた、地獄を映したような瞳だった。

 桃子の中に、怖気づく気持ちがないと言えば、嘘になる。

 けれど、桃子はこの男を止めにきたのだ。

 彼が憎しみに満ちた【創造】で動いているならば、同じ桃子の【創造】で、それを打ち消すべきなのだ。

 

「あ、あなたは、どうしてそんなに……世界を、恨んでいるんですか?」

 

『……どうして? ははは、どうして、だと? そんなもの! そんなもの! そんなもの! そんなもの!』

 

 男が叫ぶ。

 それと同時に、瘴気とも魔力とも言えない、もっと根源的な何かが、男の周囲で渦を巻く。

 

「桃子。気をつけろ!」

 

「ヘノちゃん、手を離さないで……!!」

 

 ここが男の心の中の世界だとしたら、この荒れ狂うものは、彼の感情だ。

 桃子はヘノを抱きしめて、まっすぐにその感情の波に立ち向かう。彼の荒れ狂う感情に、立ち向かう。

 

 すると――桃子の記憶に、見知らぬ国、見知らぬ人々の姿が見えた。

 それは、この男の記憶そのものだった。

 

 

 それは、見知らぬ異国の村の記憶であった。

 

 

 その村の近くには、異界に続く洞穴があった。

 普通でないところは、たったそれだけ。これはそれだけの村で育った、とある男の人生の記憶だった。

 

 男は若くして商人のもとで働き、そして時には洞穴に入り珍しい植物を集め、それを売っていた。

 そんな彼が、商人の娘と恋仲になった。

 

 苦労もあったが、それでも幸せな人生だった。

 商人の娘は妻となり、男との間に娘をもうけた。

 男は商人の店を継ぎ、妻と娘、三人で幸せに暮らしていた。

 とても、とても幸せな記憶だった。

 

 本当に、本当に、彼らは幸せだったのだ。

 

 

 だからこそ。

 

 

「桃子。これは……」

 

「うん……」

 

 そこから先の記憶を覗く間。

 桃子はヘノを抱きしめた。ヘノも、桃子に強くしがみついた。

 

 結論から言えば――男の妻と娘は、凄惨な最期を迎えることとなる。

 

 桃子とヘノの記憶にも、男の見たその光景が流れ込んでくる。

 無惨な赤。無惨な黒。

 

 どうして、妻と娘だったのか。

 どうして、誰も助けてくれなかったのか。

 どうして、自分だけが苦しまずに生きているのか。

 どうして、どうして、どうして。どうして。あいつらは、お前らは、この世界は、あの子たちを――踏みにじった。

 

 男は嘆き、そして憎んだ。

 それはきっと、世界ではありふれた悲しみであり、珍しくもない悲劇だったのかもしれない。その男だけが特別に不幸だったわけではないのかもしれない。

 けれど、男には。

 その憎しみを、憎しみだけで終わらせない力があった。

 

 正気を失った男は、洞穴の深くへと潜り。異界へと潜り。

 そして、男が人間として地上へ戻る日はもう、永遠に訪れなかった。

 

 

 

『許せるものか!! 俺の家族を、妻を、娘を……あんな、あんな――!!』

 

 男の叫びに、桃子たちは現実へ――男のいる闇の世界に引き戻される。

 ヘノは顔面を蒼白にして、桃子にしがみついている。ヘノにとって、人間の人生の記憶は、この男の感情の記憶は、重すぎた。

 

『俺は、この世界を滅ぼす……こんな世界、滅んでしまえ……!!』

 

「ま、待って! 待ってくださいっ!」

 

 桃子もまた、男の記憶の影響を受けている。

 世界への憎しみが理解できてしまった。理不尽への憎しみに共感してしまった。

 けれど、桃子の胸でヘノが震えているのだ。

 皮肉にも、男の記憶で震えているヘノが、桃子に思い出させてくれる。桃子が守るべきは、桃子が救うべきは、桃子が愛する妖精たちの住む国なのだと。

 ヘノたちが幸せに過ごす世界なのだと。

 

 桃子の【創造】が小さな歯車となり、世界の在り方を動かそうと廻り始める。

 奇跡を起こそうとする。

 

「あなたの奥さんも、娘さんも、そんなことを望んでるわけ……ないと、思います!」

 

『……』

 

 桃子は、震える声で。言葉を絞り出す。

 男の【創造】は憎しみで世界を滅亡させる、とても悲しい力だ。

 だからこそ。それに抵抗すべく、桃子は必死に記憶をたどる。

 男の妻と娘が、幸せに笑いあった時間があった。家族三人で、世界を愛していた時間があった。

 そんな世界を壊してしまうのは――違う。

 

「一緒に暮らしていた時は……あんなに楽しそうに笑ってました! みんな、この世界が大好きだった筈です……!」

 

『それが……どうした』

 

「だから! 世界を呪うんじゃなくて、失った娘さんと、奥さんの幸せを……ソウゾウしたらいいじゃないですか!」

 

 桃子の脳裏には、先ほど覗き見た、男が家族で笑いあっていた日の風景が蘇る。

 もう、彼がこの家族に会える日はこない。だけど、だけど、奇跡を願うことは決して、罪ではないのだ。

 

「生まれ変わってでも! また、家族と会える日を信じたらいいじゃないですか! 私も、私も、一緒にソウゾウしますからっ! そうすれば、奥さんも、あの子も……!!」

 

 世界を恨むのではなく、家族を願ってほしかった。幸せを願ってほしかった。

 妻と娘を残して生き残ってしまった自分を、どうか赦してあげてほしかった。

 だから桃子は、声の限り叫ぶ。男の心に届くように、自分の『想い』が、男の力に負けぬように。

 

 桃子は、己の【創造】に想いを込める。

 ギリリ、と、世界を動かす歯車に呼びかける。

 

 

 けれど、けれども。

 桃子は知らなかったのだ。

 自分の言葉はもう、彼には届かないということを。

 

 

『はは、あははは……知ったような、ことを言うじゃあ……ないか……』

 

「そんな、こと……」

 

 沈黙。

 動き始めた歯車が、ギシリと止まり。

 男の空虚な漆黒の瞳が、いま明確な憎しみを持ち、桃子を睨みつけた。

 

『……貴様に! 何がわかるっ!! 妻の、娘の苦しみをっ!! どうして貴様が語れるっ!!』

 

 暗闇が桃子に巻き付く。

 漆黒の沼に、桃子の小さな身体がゆっくりと、沈み始める。

 

『俺は、永遠に……永遠に忘れるものか!! あの最期の姿を、この憎しみを……!!』

 

 男は桃子を睨んでいる。けれど、男の目にはもう、何も映っていない。

 桃子は彼の体にまとわりつく【創造】の形を見てしまった。そして、気づいてしまった。

 彼はもう、彼自身を救う気はないのだと。

 彼は、家族を失った父親は、最初に誓ってしまっていたのだと。

 

 

 ――永遠に、家族を忘れない。

 ――それが結果として、永遠に苦しみ、世界を憎み続けることになったとしても。

 

 

 それこそが、彼がはじめに【創造】した、自分自身の姿だった。

 

 

 

 

『この世界を……!! 俺は……俺は……』

 

 男は再び、桃子に背を向けて、闇の空を見上げた。

 桃子の瞳にも見える。彼は、今なお溢れ出る憎しみの力で、ジャバウォックを動かしつづけている。

 途方もない憎しみが、彼の人間の器に入りきらず、どろりと濁った【創造】となって、外の世界へと無尽蔵に溢れている。

 

 彼の憎しみの【創造】が巨大な歯車となり、桃子の小さな歯車をねじ伏せる。

 じわり、じわりと、世界を闇に変えていく。

 

「やっ……やめ、やめて! みんなを……妖精の国を、いじめないで!!」

 

『ははは! すぐに、すべてを滅ぼしてやるさ……!! 全て、妻を、娘を苦しめたものを全てな……!!』

 

 すでに桃子の心は負けていた。

 先ほどの記憶で、彼の憎しみに少しでも共感してしまった時点で、桃子にはもう、勝ち目などなかったのだ。

 男に共感してしまった桃子の【創造】では、男の憎しみを、悲しみを止められない。

 

 自分が男を止めなくてはならないのに。

 自分だけが男の憎しみを止める力を持っているはずなのに。

 桃子の心に、諦念が影をかけていく。

 

「桃子……桃子……」

 

「う……ヘノちゃん、ヘノちゃん……」

 

「大丈夫だ。桃子……なら。大丈夫……だぞ」

 

 桃子の心に、小さな雫が波紋を広げる。

 

 止めたかった男は今もなお、ジャバウォックを【創造】し続けている。

 自分はもう、負けを認めてしまった。

 

 でも。

 

 ヘノが「大丈夫だ」と言ってくれる。

 ヘノは、こんな状況でも桃子を信じてくれている。

 ならば、ならば。

 ヘノの応援があるならば、桃子は何度でも立ち上がれる。

 

「そうだよ……私、絶対に、ヘノちゃんたちのためにも! あの子のためにも……!」

 

 もう、何をソウゾウすればいいのかもわからない。

 何があれば、永遠に続く憎しみに対抗できるのかもわからない。

 だから桃子は、必死で、せめて絶対に忘れてはいけない記憶として。

 彼が愛した家族の笑顔を、娘の声を、想起し続けた。想像し続けた。

 先ほど流れ込んできた記憶に取り残されてしまった、三人で笑顔だった日々を。

 あの家族で過ごしていた日常の日々を。

 

 決して、無惨な最期などではない。

 彼らが本当に幸せだった頃の。

 

 父に笑いかけていた娘の笑顔を――ソウゾウした。

 

 

 そのとき、ふと。

 

 反発しあっていたはずの"二つの歯車"が。

 カチリと、噛み合った気がした。

 

 

 予感に誘われるがままに、ヘノを抱きしめたまま、桃子は顔をあげる。

 すると、桃子を飲み込みつつあった暗闇の中に、小さな、小さな光があった。

 

 その光はとても儚くて。今にも消えてしまいそうで。

 けれど、ゆっくりと動き始めた【創造】の歯車が、その小さな光を優しく、桃子のもとへ、導いた。

 

 

 ――ありがとう。

 

 

 それは、桃子の心が呟いた言葉なのか。

 小さな光が呟いた言葉なのか。

 それとも――。

 

 桃子には、わからなかったけれど。

 桃子の中で、小さな女の子が、泣いていた。

 

 

 

『……お父さん、もう、やめてよぉ……』

 

 

 

 暗闇の中に響いたそれは、桃子が発した声だった。

 否。言葉を紡いでいる体は桃子の肉体だけれど、その声は、違っていた。

 それは、それは――。

 

 

『あ……あぁ……そ、その声は……』

 

 

 憎しみで煮えたぎっていた男の時間が、止まる。

 濁流のように溢れていた憎しみの力が、まるで魔法のように、止まる。

 世界の音が、消える。

 

 

『お母さんのところに……いっしょに、いこうよぉ。お父さん……』

 

 

 桃子の口から、桃子ではない少女が語りかける。

 たった、それだけ。

 

 たったそれだけで。

 たったそれだけのことで。

 

 

『……ああ、そう……だ。一緒に、行こうか……』

 

 

 この黒い世界は、音もなく崩壊を始めた。

 まるで、今までの全ての出来事が、全ての悲劇が嘘だったのではないかと。そう、思わせるほどに。

 

 

 世界を呪った男は。世界を滅ぼすため生み出された邪竜は。

 この闇の中で、永遠に世界を憎み続けていた歯車は。

 

 

『待たせて、すまなかったな……』

 

 

 その言葉を最期に、あっさりと。あっけなく。

 

 永遠の、煮えたぎる地獄のような憎しみの中で、本当に願っていたものとともに。

 たった一人の、愛する娘とともに。

 

 錆色の光の粒となり――消えていった。

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