『坂柳有栖』というタイトルの絵がいくつも制作されているという情報を耳にしました。誰かが無断で私を題材にしているなど信じられませんが火のないところに煙は立たないなんてことわざもあるくらいです。私の思い込みで存在しないと断ずることはできません。それと、あまり考えたくは無いのですが、客観的に見て私はお母様に似た恵まれた容姿を持っているので、モデルにしようと考える人も少なくないでしょう。自意識過剰みたいで少々恥ずかしいですね。
「それで、姫様が神室ちゃんじゃなくて俺を選んだ理由を聞きたいところだな。」
「万が一、憶が一、無いとは思いますがもしも犯人がヤバい人で私が襲われそうになった時に神室さんでは心もとないですから。鬼頭君も他人に威圧感を与えるので誰とでもコミュニケーションをとれる橋本君にしました。不服ですか?」
「俺がそいつにびびって護衛を放棄する可能性も十分あると思いません?」
「橋本君が私を裏切るとしたら重大な後遺症が残ったり、命の危機がある場合、もしくは私が敗北するときでしょう?」
まったく生徒がいない廊下を橋本君と二人で歩く。夏休みで人気のない廊下はどことなく私の緊張感を強めるような、そんな錯覚がする。美術室の前、うだるような暑さの中にいるはずの私の首筋を冷や汗が伝った。
恐怖している、この私が?橋本君は弱くはない。本願寺君や綾小路君が相手でもない限りそう一方的にやられることはないはず。ならばこれは、私の想像を超える相手がいるかもしれない、という恐怖。理解できない、知らないものは怖い。それは私にも当てはまることです。なぜ私の絵を作っているのか、それを私は知りません。予想もつかない相手を前にして臆すなど、認められません。
「入りますよ。」
私の緊張が伝播したのか、ごくりと喉を鳴らした橋本君が先生から借りた鍵を使って美術室の鍵を開けます。扉を開けた先には机や椅子が置かれているのみでした。ただ、本命は此処ではありません。プライベートポイントを消費し先生から預かっている作品保管室の鍵を橋本君に渡します。
「ふー。本当に良いんだな。」
「構いません。」
もしかしたら私を題材とした破廉恥な絵が描かれているかもしれない。それを気遣ってくれた橋本君が私に確認を取りますが私は毅然とふるまいました。たとえそこに何があろうと、私がここで退くことは一種の敗北を意味します。橋本君を連れてきた以上その選択は取れません。
ゆっくりと開かれた扉の先、照明をつけて真っ先に目に入ったのは、まるで写真でも撮ったのかと思うほど精巧に描かれた階段を下りる私と真澄さんの絵。
『坂柳』
キャンパススタンドにはタイトルが書かれた紙が貼っていました。そこにはきれいな字で私の苗字がぽつりと書いてあるのみ。その隣には、同じくキャンパススタンドに立てかけられた、船の上でぼんやりと船を眺める私の絵があります。
『坂柳』
Aクラスで自己紹介をしている私。
『坂柳』
廊下を歩く私。
『坂柳』
『坂柳』
『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』『坂柳』
半数以上が私の記憶にある場面を切り取ったものであることからこれら全てが私の日常を切り取った作品であることがわかります。恐ろしかったのは、記憶には正面に人がいなかったはずの場面を正面から描かれているものや、私以外の人がいなかったはずの瞬間すら描かれているということ。
「~~~~~~!?」
何とか悲鳴を噛み殺し、表情が崩れないよう意識します。幸いなことに橋本君はこの作品群に度肝を抜かれているようで私がうろたえている様子を見られませんでした。
「…激やばじゃねえのか、これ、ストーカーとか。」
「…わかっています。犯人がここに来る可能性を考えて扉を閉めておきましょうか。」
いつも冷静な橋本君がまとまらない言葉をたどたどしく伝えてきます。美術部員に聞いても作者がわからないその人物。美術部顧問は知っているようでしたが頑として口を割らなかったところを見ると、その作者と何らかの契約を交わしているか、はたまたその教員が絶対にその人物に絵をかかせたいかの二択だと考えていました。この絵の出来を見るとおそらく後者、教員のお気に入りの生徒であることが伺えます。美術部員が知らないのなら、教員に頼み美術部がない今日のような日に描いていることが推測できます。
この閉鎖空間で作者と正面からぶつかり合うのは得策ではないと考えた私は橋本君にドアの鍵を閉めてもらいました。ここまで絵に傾倒している人物が武術に割けるリソースは限りなく低いはずです。人間の学びが有限である以上、その人物の身体能力が高かったり武術に精通している可能性は極めて低いです。さらにその人物がこちらに襲い掛かってくるなど妄想の産物でしかありません。それらを頭で理解していてなお私がこれほど無駄であろう行動をとっているのは、ひとえに恐怖心のせいでした。
大量の『坂柳』は左右に分かれて配置されており、その中にはちらほら別作品も見えた。しかしある『坂柳』を境に作品が一新される。
今の私よりほんの少し背が高い、母に似た女性が杖を持たずに歩いている絵だ。
『アリス』
私の父親と思われる男性がその女性を抱きかかえお互いの肩に顎を乗せるようにして抱きしめあっている絵。
『アリス』
病衣を着た女性が、ひどく疲労しながらも、寝台に寝ころび何かを愛おしそうに見つめている…おそらく、出産後であろう絵。
『アリス』
『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』『アリス』
『坂柳』よりももっと多くの、おそらく私であろう女性を描いたその作品は私と橋本君を混乱の渦に叩き込みました。悍ましいはずのそのたくさんの絵を見た私は、描かれている女性が心底幸せそうなせいか、心に恐怖や不安とは似ても似つかないものが生まれていました。しかし、これは、まさか。
「坂柳、これはあんたの母親か?」
「…多少の差違はありますが、おそらくそうでしょうね。」
「おいおい、この学校と外部を行き来できる人間か、もしくはあんたの母親を知っている人間が犯人ってことかよ。」
「いったい誰が」
描いているのか、そう言い切る前にドアノブが回される音で私と橋本君はお互い息を潜めます。鍵がかかっているノブは回り切らず扉が開かないようで、しばらくそのノブがガチャガチャ音を立てた後、ノックがされた。私たちは息を潜めその人物がいなくなるのを待ち、何回か続いたノック音が聞こえなくなってしばらくしたのを確認し、私たちは大きく息を吐き出す。そのはずでした。
カチャカチャ
ごくごく小さい音でしたが、その音を私たちは確かに聞きました。ドアノブとロックがぶつかる音よりも小さなそれはしかし確かに
ピッキング、橋本君はその可能性に即座に気づいたようで、ハンドジェスチャーで私に此処にいるよう指示しながら、足音を殺し扉を開けたときに死角になる場所に潜みました。時間にして10数秒、橋本君が潜んだと同時に、その音が止み扉が開きました。幼いころにホラー番組を見てしまった時の何倍もの心音で自身の恐怖心が増大されていきます。ただドアが開きその人物が入ってくる2、3秒がまるで何時間にも感じられました。
「あれ?坂柳じゃん。何してんのこんなところで。橋本も何隠れてんのさ。」
「お前かよ!?」「あなただったんですか!?」
葛城君よりほんの少し小さい背丈、細身ですががっしりとした体躯、まだあどけなさを残す顔立ちに深い黒の髪と瞳、私たちを恐怖のどん底に突き落とした犯人は本願寺君だったのです。あれだけ警戒してた私の気は抜け、その場にへたり込みました。
「坂柳!大丈夫か!?」
「はぁ、安心したら力が入らなくなっただけです。心配しないでください。」
作品は倒さないようにしながらものすごい勢いで駆け付けてきた彼が私を優しく抱きかかえました。内心でマッチポンプだと毒づいた後、すぐさま勝手に恐怖したのはこちらなことを思い出しその考えを振り払います。
「…落ち着いて考えたら今日の心労も何もかも全部あなたのせいですか。…橋本君。今日は付き合ってもらってありがとうございました。もう帰っていいですよ。」
「どっと疲れたぜ。本当に帰ってもいいんだな?」
「ええ、私も今日は疲れたので、この後本願寺君に何か奢ってもらって帰ることにします。」
「なんで僕が!?」
「この大量作品、私に無許可で書きましたよね。許しますから、この後時間を空けてください。」
「許してくれんの!?サンキュー!じゃあ全然オッケーよ!イタリアンでもフレンチでも好きなもん奢ってやらぁ!」
橋本君が帰るのを横目に、本願寺君は脇に抱えたキャンパスをキャンパススタンドに立てかけ、作品名をすらすらと書きます。
『アリス』
髪型を三つ編みに変えたあの女性が、海の浅瀬に足を着け、麦わら帽子とワンピースの裾を抑えながら笑みをこちらに向ける作品でした。
「本願寺君。聞きたいことがあるんです。」
私は橋本君に一つ嘘をつきました。この作品に描かれている女性は、母ではありません。女性は母よりも若く、というよりあどけなく、そして母よりも小さいのです。更に、作品名が『アリス』だというのなら、
「この作品、数年後の私を描いたものですよね?」
「よくわかったね。そうだよ。」
父と私が抱き合っている絵に描かれている父が私の記憶より数段老けていることから、この絵が未来の絵であることが伺えます。ですが、この女性が私だとするのならこれらの作品には疑問点が残ります。
「何故、杖を描かなかったのでしょう。」
橋本君がこれらの作品を私の母親だと誤解したのはこの点が大きいでしょう。先ほどまで写実的な絵を見ていたため、これらの作品も同様だと勘違いをした。そして写実的ならば私が杖を持たずに歩いているのはおかしい。
私が疑問を投げかけると、本願寺君は動きを止めこちらに振り返ります。
「…なんで、そんなこと聞くんだ?」
「そんなことも何も、当然の疑問でしょう?」
彼のように人の心が読めなくとも万感の思いがその言葉に乗っているとわかる。
「…別に特に意味なんてないよ。気分さ、キ・ブ・ン。」
わずかな視線の交差の後、彼は自身の気持ちを隠しいつものように笑顔に戻った。いつも通り、くだらない、子供っぽい、どうしようもない彼に、戻る。
「じゃあ飯食いに行こうぜ!何が食べたい?」
「そうですね、私、今日はお寿司が食べたいです。女性をエスコートするんですから、当然おいしいところに連れて行ってくれますよね?」
「寿司ぃ!?僕昨日も食ったんだけどなぁ。」
杖を突いていないほうの手を優しく握り、私の小さな歩幅に合わせて歩く彼に顔を見られないようにした。彼は瞳の奥を見て、相手の心を読み解くから。彼の真意に気づかないふりをした。
私が容姿が悪くない女性というだけで、私が足を治すのを諦めていることを、彼は嫌った。そんな安っぽい同情なんて、今まで何度も受けてきたはずなのに、今日だけは涙が溢れるかと、思ってしまった。
どれだけ仲良しでも、死んだ人間に対する思いなんて幾千程度でしかない。未来を生きるものに、彼は万の思いを馳せる。