[完結]拝啓パパ上マエストロ様。トリニティでも私は元気です。 作:がくらん
3年生の遊園アオさんって先輩がいてね。
私はその先輩を眺めるのが好きだったんだ。
それがどうしてかって言うと……
「ひまー。ひーまー! ……うーん。木彫りのツルギちゃんでも作ろっと」
ごらんの通り、あの先輩っていつも委員会室でぐでーってしてるから。
ああ、あんな感じでもいいんだなぁって、あんまり自分に自信のない私を安心させてくれる。
高等部からのクラスでたまたま近くの席になった友達がいてね。
その子が言ったの。「一緒に正義を実現させましょう」って。
それでなんとなく、「まぁそれも悪くないよね」って正義実現委員会に所属して、今日までそこそこな時間が経って。
ちょっと最近、気がついた。 ……私、正実にあんまり向いてない。
誘ってくれた友達、マシロちゃんは早々に狙撃の腕を見込まれて、今は同期の出世頭。悲しいけど最近はちょっと話しにくい。
それから他には、所属後に仲良くなって、鈍くさい同士でこっそりシンパシーを感じてたコハルちゃんも、なんだかんだで押収品の管理っていうきちんとした役割をもらってね。
コハルちゃん本人は実働部隊でないことをちょっと気にしているようだったけど、ちゃんと個人の責任でお仕事を任せてもらえてるのが、ちょっとだけうらやましい。
それで私は、所属当初から戦闘班の一人としてがんばってるわけだけど……正直に言うと、その……私は、現場が怖い。
正実で相手取る人たちって、普段の学校では見たこともないほどの、その……「ワル」ってやつで。
戦闘が始まったときに聞こえるあの声はほら、あれだよ。威嚇。
ネコが「シャーッ!」ってするじゃない? あれを100倍も1000倍も怖くした感じで、大きな声を出すの。
それを聞くと、どうしても身がすくんじゃって、構えた銃の引き金もろくに動かせなくなっちゃって……
今から走って逃げるなら、どこをどうやって進めば一番出口に早く着くの? ってそればっかり考えちゃう。
例えば……近くに転がってるあのガレキは飛び越えられて、その次の床の穴は右側から回ったほうが次の角までのカーブがスムーズで、あんまり最短距離を攻めると敵さんの射線に引っかかるから、ほどほどの角度で走って……
そんな感じの後ろ向きな思考が、戦闘中はいつも頭の中でぐるぐるぐる。
でも、どれだけ逃げる為のルート作りが完璧でも、向かわなきゃいけないのは鎮圧対象の暴徒の方だから……突撃の号令に、一拍おくれちゃうんだ。
それで部隊の連携に透き間が空いて、後詰めの人たちに迷惑をかけちゃって……なんてことが何回あったかな……
幸い、先輩も同期のみんなも「最初のころはそんなもんだって!」って言って励ましてくれているけど……そうやって許してもらえるのは今だけかもって、毎晩、お風呂に入りながら考えちゃう。
正実、やめた方がいいのかな……でも、やめるのはかっこわるいな……笑われたら、やだな……なんて、なけなしのプライドがジャマをして、踏ん切りがつかなくって。
そのままお布団の中まで引きずって、夜あんまり寝られなくって、次の朝、寝不足の目をゴシゴシしながら委員会室についたとき……
「できた! ……次はハスミちゃんかなー? せっかくだからかっこよくしたいなぁ!」
あんまりにも自由で、なんのお仕事もしてないアオ先輩を見るとね……?
失礼だけど、本当に失礼なのはわかってるんだけど…… ちょっとだけ、「ああ、なにも出来なくても3年生にはなれるんだな」って思っちゃう。
……そのあとすぐに、自然とそう考えちゃう私自身に自己嫌悪。
なにからなにまで、本当によくない。
「あ、アオちゃん先輩おはようございますっす」
「あ! イチカちゃん! 私ヒマなんだよぅ! お仕事ちょうだいよぅ!」
「やっ、アオちゃん先輩は座っててもらって大丈夫っす。とりあえずは私がやるんで」
「えー!? 最近そればっかりじゃないですかー!」
「先輩は最強で最高の最終兵器っすから! 私じゃ無理なときの最後の頼みの綱っすから。それまではここでおとなしくしててほしいっす」
「……えー? 最強ー? 最終ー? ほんとにー?」
ほら、今もこんな感じでイチカ先輩におだてられてる。
「……アオちゃん先輩が出ると、各所でちょっと話すだけで本当に全部まるっと解決しちゃいますから。それじゃ私ら下が育たないんっすよ……申し訳ないっすけど、その辺自覚してほしいっす」
「……ふむー。まぁ、そうまで言うなら待機しててあげましょうか! でも、いつでも呼んでくれていいんですよ! 待ってるからね!」
「ありがとうございます! よっ! アオちゃん先輩かっこいいっす!」
「ふっふっふー!」
にへにへと笑うアオ先輩が痛々しい。
イチカ先輩、呼び方まで“アオちゃん先輩”って……他に聞いたことないほどナメてる感じなのに、いいのかな……?
昔から正実に憧れてたらしいコハルちゃんは「アオさんはホントはすごいんだから! ……たぶん」って言ってたけど、正直ちょっと信じにくい。
「あ、そうだこれ見て見てイチカちゃん!」
「わ、これツルギ先輩っすか? デフォルメ効いてるのにわかるもんっすねぇ」
「そうそう! で、こっちがハスミちゃん! 今日は他のみんなもいなくて寂しいから、どんどん作って並べていくよ!」
「上級生の主要メンバー、今日は遠征でいないっすもんね」
「そうなんだよー……それで私は、もしもの何かに備えて待機でーす。……あ! イチカちゃんも今ここにいるって事は、居残り組のヒマちん仲間なわけだ!」
「やっ、私はちゃんとお仕事あるんで、遠征は免除っす。来週のヴァルキューレとの会議資料つくらなきゃっす。あー忙しいっすー」
「う、裏切り者ー! ヒマなんですー! 助けてほしいんですー!」
「へっへっへ」
「そうやってすぐ笑ってごまかすー!」
人のまばらな委員会室にアオ先輩の悲しい鳴き声が響いてる。
アオ先輩って、仕事に関してはヒマそうにしてるけど、通る人通る人を捕まえながらいつも楽しそうにおしゃべりしてるんだよね。
だから私も、いつも最初はやましい気持ちで眺めいても、そのうちだんだん「ああ、楽しそうなのはいいねぇ」って、なんだか年下の子が遊んでいるのを見ているような気分になってくる。
いろんな理由の自己嫌悪でいっぱいだったはずが、頭の中が“ぽけぇ”ってしてきて、縁側で孫をながめてるような幸せな気持ちになってくる。
……いや、本当は縁側も孫も、私は知らないけどね。
「まったく、アオちゃん先輩そんなにヒマなら……ほら! さっきからこっち見てた君、1年生の! ちょっとこっち来るっすよー」
「……え、え? 私ですか!?」
「そっすそっす! ほらほら!」
露骨に見過ぎた! どう考えても手招きされたのはこの私で……
イチカ先輩の声が縄になって無理やりふん縛られて引っ張られる。そんな心持ちで、恐縮しながらテーブルへ近づいていく。
「え、あ、はい……し、失礼します」
「わぁ! ようこそー!」
「ど、どうも……」
テーブルの上に散っていた木くずが素早く払われて、アオさんの対面に席を用意されてしまえば、そりゃあもう座るしかない。
うう、アオ先輩には普段失礼なことばっかり思ってるから、後ろめたい……
「こんにちは! あなたはハーブティだよね! はいどうぞ!」
「あ、ありがとうございますアオ先輩……」
「ひゃあ! アオ先輩だって! イチカちゃん聞いた? あなたも昔はこうだったのになぁ」
「私はアオちゃん先輩でいいんすよ。先輩って真面目に呼んで真剣に対応してたら、アオちゃん先輩のこと、ちょっと好きになりすぎちゃうっすから。それは困るっす」
「えー? 別にもっと好きになってくれていいのにー」
ああ、やっぱりアオ先輩、その名前の呼ばれ方は気にしてたんだ。
イチカ先輩もイチカ先輩で、なんだか独特な感性の言い訳をしてるなって、感じた。
なにはともあれ、いつもたしなむハーブティの香りを口に含ませて、どうにか緊張を落ち着ける。
こ、これで何とか噛まずにお話しできるはず……!
「この子、前からアオちゃん先輩のことチラチラ見てて、お話がしたそうだったっすから。そんなにヒマならこの子とおしゃべりしててくださいっす」
「え! そうなの? なんだもう、それなら早く言ってくれればよかったのに!」
「え、いえ、そんな別に……」
「……え? おしゃべりしてくれないの……?」
「……し、します! たくさんします! させてください!」
「やったぁ!」
そのすっごくあざとい上目遣いは、意図してやっているのかな。
仮にわざとだとしても、こんな吸い込まれそうな青い瞳を裏切れる人なんてまずいないんだろうな……
でもおしゃべりって言ったって、私そんなにおもしろい話はできないけど……
と、考えていたその間に、アオ先輩の表情が変わる。
「……待って。なんか外、騒がしくない?」
「ああ……これはなんかトラブルっすかねぇ」
「え、え……?」
急な雰囲気の変化に戸惑いを隠せない。
二人の一息前までのおちゃらけた顔の、その残像がまだ見えるほどの短い時間の内に。
「ほ、報告します!! 学食の価格に不満を持った暴徒が旧校舎の一部に立てこもりを! 至急の鎮圧要請です!」
「ほらきた」
部屋の入り口が大きく開かれて、飛び込むのは、凶報。
「イチカちゃんは残ってる1年生かき集めて! 私が単騎で敵中に飛び込んで現場を混ぜっ返すから、その隙に全員で突入! 混乱してるところを取り押さえて!」
「ラジャっす!」
「あ、ちょっと訂正……単騎じゃなくって、この子だけ私が一緒につれてくね!」
「……へ?」
「へぇ……おっけーっす! さぁ! みんな出撃用意っすよー!」
え、今、私にどうしろと?
アオ先輩と一緒に? 先行して突入……!?
「さぁみんな! 今日はツルギちゃん達がいなくてちょっと大変だけど、がんばるよ!」
「おー!」
「……え、え、ええー!??」
ど、どうして私だけ!?
いつもだったら、後ろの方で震えながら突撃してるはずなのに、急な展開に頭が追い付かない。
呆然とアオ先輩を見つめると、長いまつげを見せつけるように、完璧なウインクがパチンとひとつ。
「さ、ついておいで」
「……ひゃ、ひゃいぃ」
あとから思えばこのときが、逃げる最後のチャンスだったんだ。
この戦闘からも、……この人そのものからも。
ーーー
アオ先輩のこと事務方って言ってたのだれー!?
すっごく強いんだけどこの先輩!
「そーれ、ごーごーごー! あははははー!」
「ま、待って……! アオ先輩待って……!」
「待ちませーん! あ、でも置いてかれたら袋叩きにされちゃうから気をつけてね!」
「ひぃ! ……なんで、こんななんで……!」
「だいじょぶ、だいじょぶ! あなたならできるよ! ついておいで!」
「う、ううう……!」
手の平になじんでいるはずのショットガンを今ばかりは胸に抱きしめて、必死の思いでアオ先輩を追いかける。
自失から立ち直る時間もない間に、なすがまま現場前まで連れてこられたつい先ほど、訳も分からず突入する直前に先輩は言った。
「あなたはひとまず撃つことは考えなくていいから、とにかく必ず、私についてくること!」
なら私はなんのために同行するの? と言う疑問は、襟首をつかまれて渦中の建物への門をくぐった瞬間、もうどこかへ飛んでいった。
飛び込んだ私達を……いえ、先頭のアオ先輩を驚いて見やる、不良のみなさまの目と、目と、目……
それをボール型の爆弾とサブマシンガンで軽くいなしたアオ先輩は、迷うことなく走り出した。
「目指すはおやまのてっぺん! 高いところで偉ぶるのが大好きなボス気取りのおサルさんです! 頭をつぶせば、その後はちょっと待ってればイチカちゃんが下からどうにかしてくれるからね!」
「て、てっぺんってことは最奥……? 最上階……? そ、そんなアオ先輩ひとりで? そんなの無茶ですって!」
「ん? 確かに一人じゃしんどいけど、あなたもいるから二人だよ?」
「なんで私も戦力に入ってるんですかー!」
「ははは! いいねそのツッコミ! その意気だ!」
本当に今の状況が信じられない。
あまりに極限状態に、いつもは考えるはずのお外へ逃げたいという気持ちがわいてこない。
……というよりも、アオ先輩の背中がここでは一番の安全地帯だから、そこへ縋ってひたすら走る。
この打ち捨てられて久しい廃墟の中を、アオ先輩は信じられないほどのスピードで奥へ奥へと突き進んでいく。
行き先に目をやりながら障害の少ない道を探り、時々小さなコンクリ片ひとつに足を一瞬取られるだけで、あっというまに離されそうになるけれど、どうにかこうにか、だましだましでついて行く。
道中で待ちかまえていたり、不意に出くわしたりする敵さん達は、アオ先輩の放る爆弾と的確な弾幕に軽くいなされて、大抵は無視されて、あっという間に私たちの背後の彼方へ見えなくなっていく。
……敵さんからすれば乱入者の私たちが早すぎて、せっかく築いた陣営を、バカにされながら通り抜けられるような感覚なんだろな。
それすなわち、無視された敵さんは背後の向こうでカンカンに怒って追いかけてきているはずで……
置いてかれたら、命が危ない……! その恐怖心だけが私を突き動かしてた。
「いいね、いいね! ふふ、やっぱりやればできるじゃないですか! 私が見込んだだけはあります!」
「ぜぇ、ぜぇ……! や、やればできるって、見込んだって、どういう……?」
「うーん、もうネタばらししてもいいかな?」
「ね、ネタばらし……?」
「そうそう! あなた、こうやって障害物を避けて走るの得意そうだなって。きっとちょっとなら本気の私にも付いてこられるだろうなって。前々から現場での動きを見てて思ってたんですよね!」
「な、なんでそんな、私のことを……? 今日まで全然、一緒に仕事したり、話したこともなかったのに……」
「え? そりゃあだって大事な後輩なんだからーー」
ーーあなたのこと、こっそりちゃんと、見てたんですよ?
「にししっ」といたずらがバレた子供のように笑うアオ先輩に、目をとられる。
当然、目をとられたまま走っていれば、何かに足下をひっかけて転びそうになる。
だけど一瞬の遅れもなく、私の手は握って取って支えられる。
……顔を上げれば、今日この現場で初めて足を止めたアオ先輩が、優しい両目で私を見つめていた。
「……それで、さ。怖いのはもう大丈夫? ……いつもみたいに、まだ逃げたいって考えてる?」
「そ、そんなことまで、わかってたんですか……?」
「ふふふ、私にはそれくらいお見通しなのです。このアオちゃんの目をなめちゃいけません」
「…………」
「……でもやっぱり、無理やりつれて来ちゃったのはちょっと強引だったかな……今ならそこの窓から、隣の屋上に飛び移れるかもしれないけど……」
「っ……!」
意識の隅にも入っていなかった窓の外へ目を向ければ、確かにちょうど渡れそうなあたりに、平らで無機質なコンクリートの屋上が広がっている。
アオ先輩の言う通り、今なら逃げることが、出来る……
……でも……でもっ!
「…………アオ先輩は」
「うん?」
「アオ先輩は、今、私がいなくなったらどうなんですか……? さっき、一人ではしんどいって言ってたのは、本当なんですか?」
「……うん! 正直、今ここで抜けられちゃうと、とっても困る!」
「……なら……なら、もう付いてくしかないじゃないですか!」
その罠のような優しさが、落ちこぼれるための誘惑が、逆に私の覚悟を決めさせた。
「……へへへ、わぁい! あっりがとー!」
「のっ、のんきなんだから、もう……!」
とびっきりの笑顔が目に刺さる。
さらに聞こえる「やったぁ!」だなんて言う、アオ先輩の緩い歓声。
いつもの委員会室でならあまりの緩さに、ただただ怠惰に聞こえていたはずのそれが、どうしてか耳から直接に脳へ届いて、頭の芯まで染み渡る。
……はっきりと思考すればまだ、「私はこの場が怖いんです!」と結論がでる。
逃げられるのならば、逃げてしまいたいという気持ちがさっぱりなくなった訳ではない。
今アオ先輩を置いて一人だけ委員会室に戻れば、まったくためらわずに辞表を提出できるような気さえする。
……でもそれ以上に、この人のために私も何かをしてあげたいと、そう思った。
いえ、思わされてしまった……が、正しいのかもな……
きっとこういう人を、「人たらし」っていうんだ。私は今日、ひとつ賢くなった。
「じゃあさ……あなた、ちょっとここからあの扉に向かって銃を構えてくれる?」
「はい……?」
「なんっか気配というか、雰囲気というか……そういうのでわかるんだ。もうすぐそこから、じれて飛び出てきた不良のボスさんがやってくる」
「……え!?」
「私のサブマシンガンじゃ瞬間火力が足りない。爆弾じゃタイミングが合わせにくい。……出てきたその瞬間、一拍も遅れずにあなたがそのショットガンでしとめれば、最適。お願いできる?」
「……私がっ!!」
言われるがままにショットガンを構えて、背中を包むようにアオ先輩に支えてもらって。
たった今、私が人生の分かれ道の前に立っていることを自覚する。
会話の後に、失敗の可能性だとか、悪あがきのようなああだこうだを思考する“いとま”はなかった。
無慈悲にやってきたその瞬間を、栄光へのチャンスをーー
「っやります! 今っ!!」
「ーーーーがっ!!??」
ーー私はつかみ取った!
ズドンと。私の愛銃が、私も聞いたことのないほどの咆哮をあげて火を噴く。
部屋に一歩踏み込んだはずの親玉さんの威圧的な巨体は、扉の向こうへはじき返されてもう動く気配はない。
これを、私が成したんだ……!
今、経験したばかりのどこか現実離れした光景が、頭のなかで繰り返される。
「ひゅー! すっごーい!」
「す、すごかった、ですね……」
「あはっ! 余韻に浸るのはまた後で! あとはイチカちゃんが上ってくるまで壁を作って籠城戦だよ!」
「は、はい……!」
「二人いればリロードの隙が埋められるから楽勝だけどね! ……ね、こっち向いて?」
「はい?」
アオ先輩が、握りこぶしで私の胸を軽く叩いた。
「やったね! かっこよかったよ!」
「……はい!」
過度の集中から復帰したばかりの頭が、褒められた嬉しさでまた機能を停止した。
……そこから後のことは、ちょっとあんまり覚えてない。
気がついたらもうその日は終わりかけていて。
すでに夜も遅くなりつつあるなか、ベッドへ向かう私の中に昨日までの重たい気持ちはどこにもない。
代わりに勝ち得た自信を胸に宿して、私はふかふかの枕をめいっぱいに抱きしめた。
ーーー
「……組んだのか。……私以外のだれかと、バディを」
「で、でもだってツルギちゃん、昨日は本当に事情があって……」
「きぃええぇっ!!!」
「ひえぇ! ご、ごめんなさいー! 許してツルギちゃーん!」
「きひっ……冗談だ」
翌日、委員会室に入ってすぐに聞こえたのは、昨日の威厳がきれいさっぱり霧散したアオ先輩の悲鳴だった。
ええ……? あのかっこよさはどこにいったの……? どうにも釈然としない私です……
「って、悲鳴を聞いてる場合じゃない。まずはちゃんと昨日のお礼を言いに行かなきゃ……!」
「……ちょっと待つっす」
「っとと……イチカ先輩?」
「うーむむ……」
アオ先輩に挨拶に走り寄ろうとしたところを、イチカ先輩に袖を引かれて立ち止まった。
そのまま難しい顔したイチカ先輩が、じいっと私を見つめて数秒間。
「やっぱりっす」とつぶやいてから手を離してくれて、困惑のさなかにある私に一言。
「私と一緒になっちゃったかもしれないっすね」
「え? 一緒ですか……? な、なにが……?」
「きっとすぐわかるっすよ……。 まぁあえて先達からアドバイスするなら……君もあの人のことは“アオちゃん先輩”って呼ぶのをオススメするっす」
「は、はい……?」
「それだけっす。おジャマしたっすねー」
「え、あっ……行っちゃった」
何とも意味深な言葉だけ残して去っていくイチカ先輩の背中を、私は呆然と見送る。
……って、今はそれどころじゃないんだった!
「アオ先輩! おはようございます!」
「……ん? あ! あなたはーー」
ーーおはよう! "______"ちゃん!
「あっ……それ、私の、名前……?」
「え? そりゃあ、名前くらい、ふつうに呼ぶけど……」
「…………」
「……うーん? おーい、どうしたのー? 戻ってこーい」
そりゃあ、そうだ。
名前くらい、呼ばれることはある。
今までたまたま呼ばれる機会がなかっただけ。そんなのはわかってる。
……でも、どうしてだろう。
弾んだ声で私の名前を呼んでもらっただけで、顔が熱くなる。
今だけは私だけに向けてくれる笑顔を真正面から見るだけで、息が詰まってどうしようもなく言葉を発し難くなる。
……ああ、なるほど。さっきイチカ先輩の言ってたことって、きっとこういうこと。
「……アオちゃん先輩! おはようございます!」
「……え!? どうしてわざわざ言い直したの!? さっきまでアオ先輩だったのに!」
「アオちゃん先輩の方がいい気がしまして! ……昨日はありがとうございました! とっても良い経験になりました!」
「え、まぁ、それなら良かったけど……昨日はよく寝られた? 怖いの思い出して、夜にうなされたりしてない?」
「ぐっすりすっきり寝られました! ……私、これからもがんばります! 良ければ見守ってください!」
「それはもちろん! 私からも、これからもいっぱい仲良くしてね!」
「はい!」
それだけ伝えると早々に話を切り上げて、私はいつもの席に戻った。
アオちゃん先輩がよく見える定位置で、お気に入りのハーブティを入れることにする。
……イチカ先輩がつい昨日に言っていたことを思い出す。
“先輩って真面目に呼んで、これ以上好きになったら困るっす”みたいな、そんなニュアンスのこと。
その心を、ついさっき理解した。
昨日の経験で、アオちゃん先輩は「人たらし」だって気がついていたはずなのに。
いざきちんと落とされてから接触してみると、これが想像をはるかに超えていて……
「アオ先輩……」
小さく口の中で発した名前に、心臓が砕かれそうになった。
……これは確かに、まずい。
「アオちゃん先輩……そう、アオちゃん先輩……!」
このくらいおちゃらけて呼ぶくらいが私には、私やイチカ先輩みたいな人には、ちょうどいいんだ。
でないと……
「……好きになりすぎちゃうもんね」
アオちゃん先輩が、私へ向けるのとはまったく違った楽しげな顔を、ツルギ先輩や遅れてやってきたハスミ先輩へ投げかけている。
それを私は、ちょっとだけ遠くの席からぼーっと眺める。
……今度時間ができたらイチカ先輩を食事に誘おう。なにか甘いものでも一緒にどうですか、って。
食べ放題のスイーツビュッフェとかが、きっと良い。
山盛りのスイーツでもかき消せないほどの甘くて苦いお話で、きっと盛り上がれるだろうから。
……もう2年、早く生まれてたら、何か違っていたのかな。
そう考えながら私は、今日は自分でいれたハーブティを、ゆっくりと口に含んだ。