(あれ? なんだっけ……)
取りとめもなくボォッと記憶をさ迷わせていたネリは、段々に意識を戻した。
蒼の里へ行ったんだっけ。もう街に戻ってしまったのかな、いや帰りの馬車の記憶がない、まだ帰ってないのか、今何刻? 長様に証明のサインを貰わなきゃ。失礼のないように挨拶をして……ああ、テオ叔父さんにも何かお礼を考えなきゃ……帰ったら両親は遅いって怒るだろうな、遅くなるのは言ってあるけど、聞いていないみたいに怒るだろうな……はあ……
(足が痛い)
感覚がはっきりして来た。
せっかく楽しい気分だったのに、嫌な事に頭を占領させていた。ダメダメ、勿体ない。家の玄関の一歩手前まで楽しい気分でいなくちゃ。
今、霧の中、惰性で足を動かしている。酷く疲れている、だるくて崩れそう。なのに足は止まってくれない。
やがて白い霧の向こう、一棟の小さなパォが現れた。
古くて表面が色褪せているが、ヒトの住んでいる気配がする。
入り口の御簾の前で足は止まった。
(え――と、どうしよう……)
自分がどうしてここへ来たのかも分からない。記憶は……みんなでポカポカした野道を歩いて、凄く心地良かった……までは覚えている。
入り口の布がフサリと揺れて三角に開かれた。
――どうぞ――
声がした? 気がした。
向こう側は暗くて見えない。
「あの、ごめんなさい、道に迷ったみたいで。長様の執務室を目指していた筈なんですが」
――よいよ、疲れたたろう、少しお休み、甘茶を入れてやろう――
今度ははっきりと聞こえた。
男か女なのかも分からない、それ以前に抑揚が変でヒトの声じゃないみたい……そう、キビタキの地鳴きみたいなリズム。
甘茶というのはどんなお茶だろう? 興味がある。それに座って休みたい。
でも
「ありがとう、でも行かなくちゃ。きっと皆に心配させている。長様の所はどちらですか? 書類にサインを貰わねばならないの」
――長…… 今の長はセレス・ペトゥルか あのうつけ者、これを見落とすか――
「……あの?」
――ああ、案ずるな、奴の方からこちらへ来る。とにかくお入り。行かなくちゃと追い立てられるより、たまにはお前さんだってのんびりしていてもいいじゃないか。お喋りでもしよう、そう、聞きたい事はないのかい――
「え……はい……」
自分は確か、歴史の学習の為にここへ来た。話してくれる事があるのなら、聞いておいた方がいいのかも。ヤークトさんも、沢山の口から声を聞けと仰っていた。
何より、疲れた足が休みたがっている。
「では、お言葉に甘えて、少しだけお邪魔します」
入り口の御簾をくぐると、薄暗くてよく見えない。でも天井から透けて明かりは入っている。目が慣れると、壁際に年代物の猫足家具があるのは分かった。
しかしネリはゆっくり見回している暇がなかった。足が勝手にぐんぐん歩いて部屋の中央まで来てしまったのだ。初めてのお宅でこれは失礼過ぎる。
「す、すみません、足が」
――よいよ、よいよ、随分と素直な足じゃ――
小さな猫足椅子がひとりでに動いて、ネリの横へ来た。
お茶の乗った小机も後から付いて来た。西方の皿つきカップから今淹れたばかりな甘い湯気が立ち上っている。
声の主は見当たらない。
――お掛け。このパォの中心は蒼の里の力の流れが交差する場所。たまにそれに反応して引き寄せられる子供がいる――
「あ、ありがとうございます。え――と、力の流れ? パワースポットみたいな物ですか?」
ネリは怖々と、椅子を押さえながら座った。途端、粘土を引き摺っていたようなだるさが抜けて、足がスッと楽になった。
――お前さんたちはそう呼ぶかの――
「私、クリンゲルの街から来たネリという者です。他所の種族でも引っぱられる物なのですか?」
――祖先に蒼の妖精の血が一滴でも入っておるのじゃろう。我らの血は濃い薄いではないので。お前さん、術の力はどうじゃ?――
「えっと、少しありますけれど、本当に少しです。ハルさんが指導してくれているし……」
――ハールート! なんだ奴の管理下か、忌々しい!――
「…………」
ネリは黙った。このヒトに気を許してもいいのだろうか。名乗ってもくれないし、変なリズムの声が頭の中でわんわん響く。
***
――それで、お前さんの聞きたいのはどんな話だい?――
ネリの戸惑いにお構いなしに、声は勝手に話を進める。
「あ、あの、やっぱりいいです。皆心配しているだろうし、帰ります」
――遠慮するな、私の口に枷を掛ける者はいない。どんな事でも話してやるぞ――
「ヤークトさんに沢山話して頂いたので、あのその、十分です」
――ヤークトな、あれは対外向けの飾りじゃ。いかにも何でも知っていそうな外見で、判で押したキレイ事をもっともらしく喋る。
肝腎な所は話さない、セレスがさせない。里全体の方針だからしようがない。だが私は奴らに倣う道理がない。幾らでも語ってやるぞ――
ネリはまた黙った。真実って何だろう。このまま大人しくこのヒトに同調していれば、話して貰えるのだろうか。
蒼の里へ来れる機会なんてそうそうないし、またとないチャンスかもしれない。
けれど…………
「私は長様とヤークトさんに従います。確かに対外的な事しか話してくれないのかもしれませんが、里の決まり事なら仕方がないわ。
でも、何にでもとても丁寧に答えて下さって、一つもはぐらかしたりなさらなかった。自分の言う事を鵜呑みにするなとも仰ったわ。私、あの方々を尊重します」
声は黙っている。目を凝らしたけれど、そこにヒトの形を見出だせない。何か小さなカケラのような物がチラチラと光っている。細鎖にぶら下がった石……翡翠のペンダント?
「お、長様なんて、重そうな衣装を召しているのに駆けて来て、一番に私の身体を心配をして下さった。あの方をうつけだと仰るなら世の中うつけじゃないヒトなんかいないわ」
チラチラの光が早くなった。吊り下がった石が高速でクルクル回っている。怒ってる?
ネリは素早く立って、「では失礼します」と去ろうとした。でも
(立てない!?)
立とうとしても気が付いたら座り直している。
(・・!!)
――最初に言ったろう、その場所に引かれておると――
え、あの、どうすれば抜け出せるの……
しかし偉そうに啖呵をきった手前、ジタバタして見せるのは悔しい。
――まあ落ち着いて、甘茶をお飲み、ほら――
言葉は優しいが声が無表情だ。
カップが勝手に浮かんで顔に近付いて来る。陶器の白い肌に青い手描きの蔦模様がおどろしい、嫌だ、凄く嫌。
――本当は帰りたくないのだろう? 街に待っているのは否定の言葉、沢山の足枷、お前を粗末にしか扱わない愚か者ども。 蒼の里は魅力的だったか? だからここへ引かれたのだ。ほらもう飲むしかない、ほら、ほら・・――
動けない。
顔を背ける事も出来ない。
甘ったるい香りにむせかえる。
嫌だ、やだやだ。絶対変な物だこれ。
悔しい、簡単に足を踏み入れちゃって、バカなネリ、悔しい、悔しい悔しい!
足元にチリっと砂が当たった。違う、足の産毛が逆立っている。
背中から頭のてっぺんへ、何かがザワザワと駆け上がった。
全身に鳥肌が立つ。
目の前でカップが震えて・・
パン!!
砕け散った。
顔に湯が掛かかると思いきや、身体は後ろに引っ張られ、ネリは尻餅を付いた。
胴体に腕が回っている。この腕が引っ張ってくれたんだ。現実的な大きな掌。ハルさん!?
後ろでネリの下敷きになっているのは、長い法衣の長殿だった。
弾みで飛んだ銀の輪冠がカランと落ちて、長い髪がネリの頬を掠める。
一拍置いて、ネリの元いた椅子と小机がガシャリと分解した。
「外から来た子供ですよ! 無茶も大概にして下さい!」
憤慨していても長様の声はやっぱり優しいなぁと、ネリはどうでもいい事を考えていた。
部屋が明るくなって視界がはっきりしている。長殿が入り口全開で飛び込んで来たからだ。
が、すぐに大きな両掌が目と口を被って来た。見ても喋ってもいけないという事だろう。ネリは抵抗せず素直に従った。
「貴方がた、入っちゃいけませんよ!」
パォの外で複数の足音がする。「ネリ!」という声で、一人がルッカだと分かった。
とにかく長様が来てくれたからもう安心。ネリは緊張の糸が切れて脱力した。
「まずこの子を外へ出します。その後で、仰りたい事がおありなら私が伺います」
――うつけ者が――
「そ、そりゃ最初にキオから術の素養のある子だと聞かされてはいましたけれど…… あ、あなたに報告する程でもないかと……」
――ふん、言い訳ばかり達者になりおって ――
「ネリさん、そのまま立って、外へ行きますよ」
――ああ、デルフトのアンティークカップが粉々。気に入りだったのに――
目を閉じたままボォッとしていた所に哀しそうな声音が耳に入って、ネリは思わず
「ごめんなさい」と口に出してしまった。
「ああっ、駄目……
長様の声が途切れて、身体が宙に舞った。