リィ・グレーネという人物に、チトは会った事がない。
山茶花(さざんか)林の奥に隠遁している、里で一番長生きのお婆ちゃん…… 正直、何でセレスさまがそこまで囚われているのか分からない。
確かにスゴいヒトではあるらしい。何代か前に長を務めていて、珍しい術を一杯使えた、……って言われても、大昔の話でしょ?
古い知識がどんなにあっても、今のボクたちには関係ない。新しい物がどんどん入って来るし、外から来たチーズは美味しいし。
大人だって直接会った訳じゃなく、周囲の大人に言われたままを伝えてるだけ。そもそも歴史って盛られるもんね。
あ、それでもこの里を覆う結界はそのヒトが作ったんだって。これは大事。
外のほとんどの街はこんな風に結界に覆われていないらしい。怖くないのかな。外のヒトが長さまに挨拶も無しにてんで勝手に入って来るんでしょ? 絶対やだあ。
まぁそう考えるとリィ・グレーネ、それなりにありがた味はある。
チトは低学年の時、「度胸試し」と称する悪ガキどもに付き合わされて、嫌々山茶花林に入った事がある。ちょっと行くとすぐに小さなパォがあって行き止まりだった。
数人の悪ガキはパォの中を覗きに行った。彼らの後ろ姿を眺めていて、急に背筋がゾッとなって、林の所まで後ずさりして
次に気付いたら、山茶花林の入り口に一人で立って居た。
悪ガキは、里の反対側の堆肥置き場の藁の中、頭を突っ込んで足をバタバタさせていた。全員何も覚えていなかったらしい。
翌日キッチリ教官にバレていて、散々叱られたあと、厩掃除百回の罰則を喰らった。チトだけ一回少なかった。「キチンと怖がったから」という、よく分からない理由。
チトにとってのリィ・グレーネの思い出ってそれくらい。
セレス長さまは修練所を出てすぐにリィ・グレーネの弟子になった。それは里の全員が知っている。
もう一人の弟子とともに何日も帰らなかったり、ズタボロで帰宅して玄関でぶっ倒れたり。
だけど里内に、リィ・グレーネが弟子を指導する光景を見たヒトはいない。まあ常人には視認出来ない次元でレベルの高い事をやっているんだろう、位に思われていた。
そんな厳しい修行を通り抜けたんだから、セレスさまが長になったのは当たり前だとチトは思っていた。実際、長の血筋にしか使えないという『内なる目』の術は、横で見ていても凄カッコイイ。
間違いなく秀でている筈なのに、このヒトは名前を持っても長に就いても、相変わらず綿毛みたいにフワフワと儚げだった。
「僕は隠れ蓑だからね」
「何のですか」
「ハルのだよ」
「あの黒髪の失礼な奴? 一緒に弟子をやっていたっていうけれど、あのヒト妖精じゃないんでしょ?」
「妖精じゃない者
「…………」
木道の端でこんなやり取りをした夕方、チトはその足で修練所に向かい、募集が掛かっていた執務室の小間遣いに名乗りを上げた。十一じゃ歳が足りないと言われても頑張って押し切った。
あのヒトの傍らに居てやらなくちゃ……
***
セレスさまが長に就任してから、例のハールートという黒髪の男性は、たまに里を訪ねて来るようになった。
リィ・グレーネへの報告だったり、長さまや穴掘りセンセに直接用事だったりしたが、チトはなるべく近付かないようにしていた。
修練所の六年目に上がった頃、所長室の前の廊下で黒髪の男の子を見掛けた。ハールートの息子だ。同い年らしい。
無口だけれど礼儀正しいちゃんとした子。今日もこちらを見ると、先に頭を下げてお辞儀をして来た。あの失礼な奴の息子だとは思えない。
と、扉が開いて穴掘りセンセが顔を出した。
「キオ、所長が面談して下さるそうじゃ」
男の子はもう一度お辞儀をして、翁と入れ替わりに部屋へ入って行った。
残った翁にチトは寄る。
「ヤークトさん、あの子、もしかして修練所の生徒になるの?」
「ああ、まだ本決まりではないがな。本人は街のガッコウよりも、こちらに学びたい講義があるらしい」
「へえ、自由だな」
あの子は別に嫌いじゃない。正直で気の優しい子だ。ハールートの息子じゃなきゃいいのに。
「仲良くしてやってくれるか」
「ボクはいいけどぉ。向こうがどうしたいかによるんじゃない?」
「わしの望みじゃ」
「そうなの、何で?」
「お前たちを通して、セレス長様とハールートに、少しでも昔のように戻って貰いたいと思っておる」
チトは唇を尖らせて横を向いた。
「そんな簡単なモノでもないと思うけど」
「思いは複雑でも、解(ほぐ)れるきっかけは案外簡単だったりするんじゃよ」
「大人って勝手! 自分たちの撒いた種をボクらになすり付けて来んな!」
建物を出て独りゴチながら、チトは近道の土手を駆け登る。
「ほぉ」
独り言に後ろから返事をされて、飛び上がった。
会いたくなかった黒髪の男性が、土手の上に立っていた。
「また会ったな、ヒュアキントス」
「何で着いて来るんですかっ」
「どっちへ歩こうが俺の自由だ」
土手の上をスタスタ歩くチトに、男性は距離を置いて大股で着いて来る。
「息子さんを待っていなくていいんですかっ」
「こんな狭っちぃ里で迷子になんかなるもんか」
言い方がいちいちムカつく。
「ボク、飛んで来たオモチャに頭をぶつけて花になっちゃうようなマヌケじゃないですしっ」
「そうか、それはすまなかったな」
「からかいたいんだったらお門違いですよ。ボク、貴方の罪を捏造するくらい何とも思わない奴ですからねっ」
この脅し文句はセレスさまに教わった。効果は覿面(てきめん)で、虫も殺さぬ可愛い容姿からこの言葉が吐かれると、大概の下衆な口は閉じる。
しかし相手は下を向いて吹き出した。
「そっくりだな」
「は?」
「セレスの塩対応に瓜二つだ。見掛けがお嬢さんなもんで、学生時代は上級生にからかわれて辟易していた。中身は外見と全然違うのにな」
チトは歩きながら振り向いた。
男性は涼しい笑みを浮かべている。
「こ、これ以上着いて来たら、本当に大声を上げますよ」
「構わんよ、里での俺の評判などどうでも」
「何でそんな投げやりなんですか。貴方もそれなりの立場なんでしょ?」
「さあ? 俺は妖精じゃないしな」
「…………」
「なあ、教えてくれるか?」
「知りませんよ」
「まだ何も聞いていないだろが」
「嫌ですよ、どうせセレスさまの弱味とか探り出したいんでしょ」
「言ってしまえばその通りなのだが……俺は知りたいのだ。何故あの引きこもりが、ずっと拒んでいた長にスルリと納まった? お前はどんな魔法を使った?」
「え……ボク、関係ないですよ、たぶん」
「いいや、あいつお前に話し掛ける時だけ声が違う」
「ボ、ボクが子供だからじゃないですか?」
「いやいや違う、俺には分かる。何年あいつと過ごしたと思ってるんだ。卒業以来見せてくれなかった表情に、あいつが戻るんだよ、お前に対する時だけ。ガキの頃から連れ添った俺には特大の壁を作ってやがる癖に」
「…………」
「俺が何をしたってんだよ。里の連中が勝手に騒ぐから、あいつが長に就任しやすいように外へ出てやったのに」
チトは立ち止まった。
男性も離れたまま止まる。
「貴方が……貴方だけが、リィ・グレーネに目を掛けられているから、じゃ、ないですか……」
「は? あんな婆さんが何だってんだ」
「名前を貰ったじゃないですか、貴方だけ」
「はあ!?」
男性は、心底驚きの顔をした。
「あ、あんなモノ・・蒼の妖精の拝名とは全然別だぞ! ここへ来たガキの頃、自分の名どころか言葉も喋れない俺に、不便だからとリィ婆さんが付けてくれただけ。あいつも知っている筈だ、すこぶる適当に、その場にあった書物か何かから付けられたんだ」
「…………」
「そんなくだらないコトを気にしているのか、あいつは」
「それでも貴方がリィ・グレーネに名を貰い、自分は貰えなかったったという事実は変わらないんです。あの方にとって」
男性は小刻みに震えた。
「そんな、そんな、くだらない…… 気に病み過ぎなんだ、あいつ、そんなくだらない……」
「そういう所だと思いますよ!」
チトは駆け出した。
男性はもう追って来なかった。
***
クリンゲルの街の子供から、社会科見学の申し込みがあった。
何とあのキオの同級生……ってか、友達いたのか、あいつ。
「受け入れたんですか」
「断る理由もないですからね」
「ハールートさんも付き添って来るんですか?」
「それは絶対にしないとキオが言っていました」
ハールートが来ると長さまは最低限しか喋らなくなる。外から理想を抱いて見学に来る子供の前で、それはまずかろう。
「キオ、空気の読める奴だなあ、ホントにあのヒトの子供?」
「親を反面教師にしているのかもしれませんね」
彼の事になると辛辣だな、セレスさまも。
「チトはその日、お休みでしたっけ」
「えっ、あっ、蹴球大会の日か。でも折角同い年の子が来るんだし、お出迎えは行きたいな。試合は最終だし、午前勤務だけでもいいですか」
「そりゃ、貴方が居てくれたら子供たちもリラックスできるだろうし、助かります」
「任せて下さい」
「チトがいてくれて良かった」
そんな感じで軽く受け入れた子供たちだったが、特大の地雷が混ざっていた。
強大術力を潜在させている女の子を見落とした事で、リィ・グレーネに『うつけ者』呼ばわりされて、セレスさまのしばらくの落ち込みようったらなかった。
責任とって欲しい。
誰に……?
やっぱり、「ちょっと取材で話を聞きに行く位なら大丈夫だろ」と、長さまに何の根回しもしておかなかったハールートだ。
知っていたら里裏になんか行かせなかったのに。
まったく大人ってどいつもこいつもおかしな意地っ張りで、まったくまったくまったく!
***
放牧地奥の湿地の木道。
チトがダイオウの芽を取り終わる頃、長さまの白い足も乾いて靴を履き終えた。
二人で執務室に向いて歩き始める。
「空が濁っているって?」
「セレスさまはそう思いませんか?」
「私には見えませんが……音や文字や術力に色が付いて見える能力もあるそうです。チトはそれかもしれません」
「へえ! 初めて聞いた」
「リィ・グレーネの術の色か。見えるチトが羨ましい」
「そんなに良いモノじゃないですよ。せっかくの青空なのにザラザラして。外に出ない限りずっとこれなんだもの」
「それは、……気の毒です」
「ヒトの事って羨ましく思えても、本人にとっては全然違ったりするんじゃないですか」
「…………」
「キオだってそうですよ」
「キオ……ですか?」
「周囲は『リィ・グレーネに目を掛けられた子』って特別視しているけれど、本人の目下の悩みは、せっかく編入出来た修練所の講義をろくに受けられない事だもの」
「……本人が言ったのですか?」
「はい」
「いつの間にそんな仲良しに?」
「愚痴ぐらい聞いてやれる奴がいないとダメでしょ。大人は『こうあるべきだ』しか言わないんだから」
しばらく返事がないので振り返ると、長い法衣の長さまは、木道の途中で立ち止まっていた。
「どうしました、どっか痛いんですか?」
チトは慌てて引き返す。
「いえ」
「はい?」
「思い出して。昔そんな台詞を何処かで聞いた気がして」
「そうですか、何処で?」
「何処だったでしょうかねえ」
風が吹いて、鏡のような水面に模様を作った。
「チトがいてくれて本当に良かった」
「何ですか、いきなり」
「言ってみたかっただけです」
水がサラサラと音を立てる。白い木道を並んで歩く二人の言葉に色を付けるように。
~灯の藍 影の黒・了~