女性の逞しい腕に、小柄な子供は一気に砂利の地面まで引き上げられた。
「あのヒトがまだ下に……」
言っている間に男性の方は、襟首掴まれてナマズのようにベシャリと引きずり出される。
「馬鹿野郎! ガイドの言う事を聞けと言ったろ!」
「……うん、ごめん」
「とにかく濡れた物をすぐ脱げ」
怒鳴って女性は、男性が脱ぎ捨てたらしい衣服を拾いに行った。
残った二人、男性は背中を向けて張り付いた肌着を脱ぎ始めた。
「君も早く脱いだ方がいい。低体温に陥るとヤバい」
「…………」
「足が痛い? 手伝うか?」
「……いい」
子供は足を庇いながら頑張って張り付いたズボンを脱いだ。足は血まみれでまだジンジンしている。ハッキリ見るのが怖かった。
「落ちたのはあんたじゃない、後でちゃんと言う」
「言わなくても彼女は分かっている、あっちの下り口に僕の衣服が脱ぎ捨てててある時点で」
「でも……」
「客が落ちてガイドが助けに来て怪我をした……って筋書きの方が、誰の為にも良いいんだ」
「…………」
子供は脱いだ物を絞りながら男性をチラと見た。
鶴みたいに白い貧相な身体。よくあれで自分を押し上げてくれた物だ。
(そういうのを申し合わせているような間は無かったのに? このヒトたちにとっては普段から当たり前なのか? 言わなくてもお互い分かっているのか?)
女性が戻って来て、拾って来た衣服を男性に投げ付け、子供には自分の大きな上着を被せた。
「とっとと火のある所へ戻るぞ。私はこの子を背負って行くから、お前は濡れた物をまとめて運んでくれ」
「うん」
「先に行くぞ。足跡は外れるなよ」
「うん、了解」
女性は岩場を羚羊(カモシカ)のように走った。背中の子供は黙ってしがみ付いているしかなかった。このヒトだけならガイドは必要無かったのだと知った。
***
夜営地。
火が大きく焚かれ、周囲に枝を組んで二人の衣服が壁のように囲って干されている。
女性はあの後すぐまた引き返し、フラフラの男性を連れて戻って来た。
二人が湯で手足を温めている間、薪を追加して焚き火を大きくし、さっさと物干し場を設えた。今は子供を後ろから抱きかかえて自分の体温で温めている。
辺りはもうすっかり暗く、男性はランプを灯して子供の足の怪我を診ている。
「ガッツリ挟まっていたからなあ。でも動く石で助かった。下を掘ったら傾いてくれたし。……ここは痛い?」
「イタイ! 触らないで!」
「足の指を伸ばすように動かしてみて」
「痛い、痛い、やめてってば」
「今頑張るのと、大人になってからちゃんと歩けないのと、どっちがいい?」
男性に真顔で諭され、子供は助けを求めるように女性を見た。
「心配しなくてもこのおじさんは医者だ」
「医者・・!?」
「そう、性格は悪いけれど、他所の部族の者が頼って訪ねて来るほどの名医だよ」
「性格が悪いは余計だ」
男性は傍らに置いた湯鉢で手を温めながら、子供の足を丁寧に診た。
「折れてはいないが周辺の組織はかなり損傷している。念の為固定だな。何ヵ所か縫わなきゃならない」
後ろを向いて、自分の荷物をまさぐり始める。
「縫うって、針と糸で? や、嫌だ、やらなくていい」
「ちょっとの辛抱だよ」
「嫌だ、医者って凄いお金が掛かるんだろ、何もしなくていい、放って置けば治る」
男性は、子供を後ろから抱えている女性と顔を見合わせた。
「……ツェルト、この子はまだ凍えている。暖かい飲み物が必要だ」
「……うん、そうだな」
男性は手早く鍋に色々入れてかき混ぜ、甘い湯気の立つカップを差し出した。嗅いだ事のない匂いに、子供は鼻をスンスンする。
「熱い」
「ゆっくり飲め」
「こんな甘いの初めてだ」
「そうか、良かったな」
「私が雪渓に落ちたとか、家の者に言わないでくれ」
「……怪我の原因を聞かれると思うのだが」
「怪我の事も言わないで……一人でなおせ……る…………」
あとはパチパチという焚き火の音だけで、子供はカクンと項垂れた。
子供が意識を戻すと、まだ女性の懐だった。
足の痛みは和らいで、白い清潔な布が分厚く巻かれている。
二人は食事をしていた。
「こんなにされたら靴が履けない」
「今日はもう歩かなくていいよ。働き者のおじさんが皆やってくれる」
「そんな訳には行かない、仕事をやれなくては私に価値は無い」
しかし子供が働こうとしても、女性がガッチリロックして阻止している。
「今動かれたら僕の芸術的な縫合が駄目になる」
言いながら男性は、温めたスープとハムを乗せたパンを渡して来た。
「喰って血を作る。身体の治す力を働かせるのが今の君のお仕事」
「…………」
「もう何も盛っていないから。と言ってもさっきのは、痛みを麻痺させる薬のシロップ割り。でもそれで眠ってしまうんだから、君は本当に疲れていて休まなきゃいけなかったんだ」
子供は口をパクパクさせたが、観念して食べ物を受け取った。
食べている間二人は無言だったが、子供がお腹を満たして表情から緊張が放れると、女性の方が切り出した。
「客に、嫌な事をされた事があるのか?」
「…………」
「あるのか?」
「…………うん」
「家族か族長に言ったか?」
「言っても、お前が悪いって言われる」
「何でお前が悪いになる?」
「何でも。客の機嫌を損ねたらお前が悪いになる。あのヒトたちの言う『ちょっとふざけたぐらいで』は、私にとっては死ぬほど嫌だ。でもそれは我が儘だと。そんな事をいちいち嫌がる私がおかしいと」
「族長がか?」
「家族も、みんな。楽器作りになれなかったらガイドをして媚を売って稼ぐ位しか価値が無いのにって」
「…………」
「だから家の者には怪我の事は言わないでくれ、お願……」
「分かったから!」
黙っていた男性の方が遮った。
声は大きかったが怒っている感じではなかった。
女性に頭をポンポンと撫でられて、子供は寝支度をさせられて寝袋に押し込まれた。
「私は……」と言う暇もなく、有無を言わさずテントに寝かされた。後で湯たんぽが追加された。
少ししてとろとろ目を覚ますと、二人はまだ焚き火を挟んで、何か真剣な声で話し合っていた。
すぐまた眠りに落ちて次に目を覚ますと、外は薄ら明るくなっていて、女性が背中にくっ付いて熟睡していた。毛布を被っていたが寝袋には入っていなかった。
テントの布越しに焚き火の火が見えて、外を覗くと、夜露避けの天幕の下で男性が寝袋にくるまっていた。
子供はそろそろと起き上がって、寝袋をはぐって女性に被せた。
外に這って出ると、男性がすぐに起き上がった。
「今、背負いに行くから待ってて」
「怪我の足は地面に着けないで四つ這いで動く。ならいいだろ?」
「ああ、うん」
子供は手と膝でゆっくり移動して、男性の斜め向かいに座った。
「痛みは?」
「大分引いた」
「それは良かった」
「私は焚き火に当たっていたい。あんた、テントに入って寝ろ」
「僕も焚き火番が好きなんだ」
男性は並べて乾かしていた薪を焚き火にくべた。三角に組まれた頂点から炎が真っ直ぐ上がる。女性がやった時は雑で山火事みたいだったのに、この男性の作る火はきれいだなと思った。
「僕は本当にいいんだよ。この谷で夜を明かすのは子供の頃からの夢だったから、眠るのが勿体ないんだ。だから君は遠慮しないで暖かくして寝ていてくれ」
「そうなのか? 子供の頃からの夢?」
「うん。小さい時は自分の容姿が嫌いでね。引き込もって、家にあった書物を読み漁って過ごしていた。
その中でこの谷の記述を見つけてさ。楽器作りの民の住む、霧に覆われた尖塔の谷。夕暮れになると霧が朱色に染まって、その中から作りかけの楽器の音が降って来る……初めて読んだ時は家の薄暗い書庫で胸が踊ったなあ」
「…………」
子供は返事が出来なかった。
そういう事を言って訪れるガクシャや物好きをこれまで何回も案内したが、満足して帰る者はいなかった。
里へ下りた子孫の作る楽器は優れてはいたが過去の物には遠く及ばず、一族は世俗にまみれている。
そういう理想って、本当は現地に来たりせず、一生胸の中だけで育てている方が幸せなんじゃないの?