「そうだ、君の口琴(こうきん)を見せてよ」
突然言われて子供は困惑した。
「口琴ってあのコォンって鳴る奴か? 私は持っていない」
一族でも作る習慣の無かった物だ。昨日初めて知った位で。
「鳴らしていたじゃないか」
「いつ?」
確かに一つ以上の音を感じた。でも霧と谷の反響じゃないかと思う。
「川に落ちた時」
「か……あの状況で楽器なんか鳴らす訳ない」
「そう? 声が出ないから楽器を弾いたんだと思った。実際音を頼りに君の落ちた穴を見付けたんだし。その前も僕の音に合わせて鳴らしてくれていたから、ちょっと嬉しかったんだ」
「違う。……何でそう思えた?」
「僕んちの書庫の昔の書き付けなんかを繋ぎ合わせたらさ、どうやら僕のご先祖は五百年前、この谷から三峰の山に来たみたいなんだ。だからそのヒトが残した口琴の作り方、こっちの子孫にも伝わっているかなあと思って」
「伝わっていない……」
「そっか、残念……」
子供は胸がそわそわした。今まで残念がって帰る客に何の感情も湧かなかったのに、この客には何とか明るい気持ちになって欲しかった。
「あ、あんたのご先祖はこの谷出身なのか?」
「僕がふわっと思うだけだからね。キティは、『確証が無さ過ぎ、お前の願望が先行しているだけ』って言うし。
でも、暗い書庫でその考えに至った時、急に世界が広がった。嫌いだった自分の容姿も大好きになった。だってこの白い髪も肌も、そのご先祖と同じ色なんだ」
「そうか」
子供は次の言葉を探した。谷の子孫である自分の一族にはこの男性のような色の者はいない。
でももしかして……
「じゃあ、久し振りの子孫が帰って来て、谷が嬉しがって音を合わせてくれたのかな」
……離れて行ったのは自分たちの方なのかもしれない。
男性は目を真ん丸にして子供を見た。その光彩の中に、ほんの微かに風露草の紫が見えた。
***
明らかに口琴とは違う・・あの谷全体を揺るがすブォンって音は、夜営地の女性の耳にも入っていた。それで何事かと心配して、谷を渡って来てくれたという。
「複雑な形の谷だし、風がそういう音を立てる事もあるかもしれない。でも僕は別の可能性を信じてみたいな。キティにはまた夢想家って言われそうだけれど」
陽が顔を出して辺りが明るくなり、男性は立って、自分の寝袋をテントで寝ている女性に掛けて戻って来た。
「まだ当分寝ているな、あの様子だと」
「あんたばっかり働いているな」
子供は作って貰ったスープをすする。
「そんな事ないよ、昨日の三人のタスクを並べてみて?」
「えっと?」
「君はガイドの仕事をしていた。僕は自分の事だけをしていた。彼女は夜営道具を担いで山を登り、テントの設営をして薪を集めて、その後僕らを助けに来て君を背負って走り、動けない僕らの代わりに余分に発生した仕事を全部やった」
「……そういえば……」
「気が付かないだろ? 当たり前みたいにぱっぱと出来ちゃうヒトだから」
「……うん」
「でも生身なんだから疲れない訳がない。彼女、優秀だから自分で気付けないんだ。だから横に居る者が気付いてやらなきゃならない。休む事が必要だって」
「…………」
陽が昇るにつれて、夕べの靄が嘘のように晴れ、向こう岸の塔が見えるようになった。
「ねぇ、もう一度口琴を聞かせて」
という子供のリクエストに、男性はごめんと言って、真っ二つの竹の棒を懐から出した。
「どうして?」
「あ――、ついうっかり……」
「……足を挟んだ岩の下、それで掘ったのか?」
「固い物がこれしかなかったから。最後テコにもなってくれたし」
「…………」
「また幾らでも作れるし」
「済まない……」
「いやだから大丈夫だって」
「あんたにしたら、ここで谷に返事して貰った大切な楽器なのに」
子供に哀しそうに見つめられ、男性は困ったこめかみをポリポリと掻いた。
「そんなに言うなら、ひとつ頼まれてくれるかい」
「うん、何?」
「キティの側に居て監視する役割をやって欲しい。昨日みたいに働き過ぎてダウンしてしまわないように」
「え、あ、はい……? ガイドの期間一杯、彼女に注意を払って、頑張って見ているよ」
「違う違う、君が足を治してからだよ。彼女は学者としてあちこち掛けずり回るから、その間、ずっと」
「は・・??」
「僕は族長になっちゃうから、もう彼女だけに構けていられない」
子供は時間を掛けて考えてから、慎重な声で聞いた。
「私、家……を、出るの?」
「『嫌』が違う者と一緒に居てもロクな事にならない。例えそれが家族でも」
「…………」
「君の親族は知らないだろうけれど、僕らの世界では、君のように誠実で正直で責任感のある者は、とてもとても価値があるんだ。僕とキティは稀少なお宝に巡り会えた。この谷に来て本当に良かった」
子供は俯いたまましばらく黙っていたが、やがてポソリと口を開いた。
「その役割って、いつまで……?」
「僕がいいって言うまで」
***
そこでは結局もう一泊して、子供は翌朝、女性に背負われて谷を後にした。男性は顔色を変えながらも重い夜営道具を背中に歩いたが、一つも弱音を吐かなかった。
ガイドを無期限延長する旨を告げると、家族は予想通り渋ったが、子供が行く意思を見せたら、今度は法外な金銭を要求して来た。
「ツェルト、ちょっとその子を連れて離れていてくれ」
そう言って女性が親族たちに近寄って、何やらこそこそ話し始めると、皆真っ青になってみるみる萎れて行った。
そうして子供は生まれた場所を後にした。
ついでに名前も捨てた。
ツェルト族長が色々占って付けてくれた『マミヤ』という名を、彼女はとても喜んだ。
それから幾年。『学校』で読み書き計算を習わされ、各地を渡る博士にくっ付いて、あれこれ振り回されながら暮らしている。博士の研究する『歴史』も面白くなって来た。
族長は全然「もういいよ」って言う気配が無い。
あの口琴にはそれだけの価値があるって言われてしまえばそれまでだ。
もうすぐあそこで暮らした時間より、三峰で過ごした年月の方が多くなる。
そうしたら三峰を故郷と呼んでもいいだろう。
マミヤはその時を本当に楽しみにしている。
~谷間に微かに残る音・了~
~サワシオン・完了~