地平に遠く霞んで建物群が見えた。
バスを降りる予定だった街だ。
「馬車に乗せて貰わなかったら、あそこから歩かなきゃならなかったのね。テオおじさん、本当にありがとう」
「いやいや、鳥の声なんか気にした事もなかったから、学生さんの話は面白いな。いつもは一人で退屈だし、キオの奴は無愛想だし」
御者の叔父は言って、手綱を開いた。本道から外れて草の中の轍道に入る。
この先に蒼の妖精民族の村がある筈なのだが、広がる草原には何も見えない。そんなに遠かったか、これはポシェットの女の子たちを連れて歩く事にならなくて良かった。
ネリは地図を広げコンパスを置いて、確認している。
シュウが覗き込むと、印刷の地図に朱で丸が記され『蒼の里』と手書きされていた。
「もうそろそろだと思うんだけれど……」
「ああ、目には見えないんだ」
叔父がサクッと言った。
「何かデッカイ術が効いているんだとさ。すぐそこに、ある事はあるんだ」
「ええ? 本当に、こんなに何もない感じなんですか」
書物には結界に守られていると書いてあったが、術のかかった塀みたいな物を想像していた。
「うちは代々取引があるから慣れているが。昔っからそうだから、今更疑問に思った事もないな」
「まさかこんな完璧に、きれいさっぱり隠れているなんて……」
思ったより閉じられた部族なようで、ネリは不安げに眉を寄せた。
「大丈夫だよ」と、シュウが言い掛けた横を、蹄音高らかにキオの馬が駆け抜けた。
馬車の前に出て、空に向いて指を咥える。
――ヒュ――イィィ
「あは、鳶の声みたい」
ネリの安心した声に、シュウはまた胸にモヤが湧いた。
少し置いて、キオの前の空間が、一枚の透明な緞帳(どんちょう)のように揺らいだ。
次に、空にいきなり一頭の馬が飛び上がった。それこそ鳶の飛ぶような高さだ。
ネリは息を飲み、さすがのシュウも「わっ」と声が出た。
馬は頂点で一瞬無重力になった後、落っこちるみたいに急降下して来て、地面近くでフワリと減速してキオの横に降り立った。
黄緑の馬。全身の体表が草原のように波うっていて、所々向こう側が透けて見える。
「く、草の馬ってやつ……?」
書物に載っていた、蒼の妖精専用の空飛ぶ馬。勿論見るのは初めて。
草を馬の形に編んで、術で風をはらませて浮力を得ている……と、文章で知ってはいたが、目の前に現物が現れるとインパクト絶大だ。
「キオ、久しぶりぃ」
馬には同い年くらいの子供が乗っていて、ヒラヒラと手を振っている。左右に広がる綿花みたいな髪は本当に水色だ。
キオは相変わらず喉だけで返事をし、頭を下げた。
「テオさんもお久し振りですぅ。今、馬車の通れる通路を開きましたから、後ろを着いて来て下さぁい」
「おお、ありがとよ。元気してたか、チト」
「はぁい、元気元気。今日はあの丸いチーズあります?」
「カチョカバロか、あるぞ」
「やったぁ!」
チトと呼ばれた子供はさっさと先に立ち、さっき揺れた空間に踏み入った。馬車は後から着いて行く。
途端、景色がぐにゃりと歪み、水のトンネルみたいな道になった。
先導の子供が馬上でチラと振り向き、荷台のシュウと目が合った。
妖精族のイメージ通り、目と口が大きく頬がバラ色、西国の陶器人形みたいだ。銀環のキラキラしたイヤリングが明るい髪に映え、声も可愛くて男の子か女の子か分からない。
「こ、こんにちは、僕は……」
「あ、ダメダメぇ、始めての訪問者の名乗りは、まず長さまにぃ」
「えっ、そうなんだ、すまない」
「うぅん、それより、その子、大丈夫?」
まだ寝ているルッカの事かと思いきや、チトの視線は反対隣を見ている。シュウはやっと、ネリが真っ青でグラグラ揺れている事に気が付いた。
「どうした、ネリ」
「ウウ……」
「馬車に酔ったか?」
叔父が心配そうに水を渡してくれた。
「いや、さっきまでまったく……」
「酔ったのなら、よく効く薬草があるけどぉ…… でも長さまに診て貰ってからのが、いいっか」
「長様、お医者さんなのか?」
「うぅん、お医者さんのひとつ手前。医療で治る病気か、他に原因があるのか見分けるの。たまに何か憑き物のあるヒトが、里に入った途端具合が悪くなるとかあるから」
「ええっ!?」
チトの少し後ろを歩いていたキオが、やにわに馬に喝を入れて駆け出した。
「ああっ、キオぉ」
黒い長い尻尾は、水景色の中に溶けて行く。
「もおぉ、せっかち」
「すまないな、チト。長殿の所へ知らせに行っちまったかな」
叔父が申し訳なさそうに言う。
「いいけどね、キオなら里の決まり事も知ってるし。まぁあれだね、きっとその子の事がすんごく大事なんだね」
シュウはモヤモヤを通り越して、チリチリした焦燥を感じ始めた。
自分はそこそこ優秀な筈だ。知らない事でも努力して勉強して、すぐに自分の物に出来る。
でも蒼の里の内部なんて予習のしようがなかった。ここへ来てからキオの背中が遠くて、どうやっても追い抜けない気がしてしまう。
***
「わ、私、もう大丈夫だから。キオ行っちゃったの?」
水を飲んだネリは、少し顔色を戻して言った。せっかく待望の蒼の妖精の村へ来たのに、こんなスタート情けない。
「無理しないで、ちょっとでも横になりなよ。ルッカ、ルッカ、いい加減起きろ」
「まだ寝てる。ルッカ、結局何があってもずっと寝てたわね」
「ああ、どれだけ大物なんだ」
シュウがルッカの肩を掴んで揺すった。
「もにゃ……母さん、もうちょっと……」
「母さんじゃない、起きろ」
「んあ? おはよ、何でシュウいるの? ぐぎゃっ、背中イタイっ!」
「そりゃ揺れる馬車でそれだけ無防備に熟睡してたら痛いだろ。もう蒼の妖精民族の村だぞ」
「ええ~、何それダッサ。『蒼の里』って言ってぇ」
前の方のすっとんきょうな声に、ルッカは首を伸ばして水色の髪のチトを見た。
「かわいっ!」
「え」
「めっちゃ可愛い! アオノサトって君みたいな可愛い子ばっかりなん? 目が覚めたら天国じゃん、マジで!」
「えへ~、そういうノリなの? クリンゲルの子って」
「俺発信だよ。可愛いと思ったら素直に可愛いって叫ぶ。したら世界平和に繋がるだろ、ちょっとは」
「あはは~」
(ルッカ……)
シュウは呆気に取られて脱力している。
この筋向かいに住む幼馴染みは、ガサツで無礼で自分勝手な癖に、何でかそれが許される。
友達を選別しがちなシュウの母親ですら、「もぉ、ルッカ君はしようがないわね」と選別の網を外す。
凄い才能だと思う。
トンネルを抜けて前が開けた頃には、ネリの顔色はかなり回復していた。
「本当に大丈夫? 疲れたんじゃない? 準備期間からずっと気を張ってただろ」
「うぅん、もう大丈夫だから、心配させてごめん」
「ネリ、具合悪かったの? 鬼の撹乱?」
「もお!」
言っている間に、馬車は所定の場所に停まった。
青い髪の大人が何人か荷車を用意して待っている。
「俺は仕事に掛かるから、お前たちはキオが戻るまで待ってな」
テオ叔父は荷物を開けて、先方と、品物や数の確認を始めた。
三人は馬車を降りて辺りを見回した。
ここは停車場みたいな物らしく、扇形の広場に、濃い色や薄い色の草の馬がズラリと繋がれている。
黒いたてがみのキオの馬がポツンと目立って端にいた。
チトは自分の馬をその隣に繋ぎに行った。並べてみると、チトの馬も主に似て、細身で可愛らしい。
里は全体がなだらかな丘になっており、向こう側には川も流れている。斜面には丸いテントみたいな住居……遊牧民族のパォってやつが点在し、思ったよりも面積が広い。
街みたいにギッチリしていなくて広々暮らしているのが、ネリは(ゆったりしていていいな)と思い、シュウは(ひなびている)と感じた。
「電気来てないの?」
ルッカが遠慮無しに聞く。
「無いよぉ、キミらの所ではいつぐらいから使い始めてる?」
「え、えっと?」
「四十年ほど前から普及し始めた。発電には風と水を使ってる」
シュウが横から答える。
「ん――、それくらい経って入って来ないんじゃ、里では流行らないんじゃないかなぁ。絶対に欲しい物なら誰かが持ち込むし、長さまはそういうの止めないし」
何だかのんびりだ。最初から無い物を、欲しいと思う切っ掛けがないのだろう。外から干渉し辛い村だけに、外のお節介も届きにくい。
蒼の妖精の大人の外見は、自分たちの街の者とあまり変わらなかった。
チトがあまりに可愛いいから構えてしまったが、この子が特別だったみたい。
おとぎ話のエルフの里みたいに神秘的な美形揃いって訳でもなく、シワを刻んだヒトもいれば、丸いヒト逆三角のヒト、いかつい顔のヒトもいる。強いて言えば全体的な色素がちょっと薄いぐらい。
青い髪はやはり目に珍しく、異郷を感じさせる。
チトみたいな見事な水色は他にいなくて、落ち着いたダークブルーが主流、普通にグレーや茶髪のヒトもいた。
「ん~とねぇ、初めてのお客さんはまず長さまの執務室に…………うわっ!?」
チトは丘の中央の坂道を見て飛び上がった。
キオが小走りで下ってくる後ろを、一人の大人が急ぎ足で続いている。
(長様だ)と一目で分かった。
真っ直ぐ伸びたきれいな姿勢、色んな装飾が垂れ下がった長い法衣、醸し出される偉いヒト感。
「キオぉ、長さまを直接お連れするなんて」
「チト、いいから先に具合の悪い子を診ましょうね。どの子ですか?」
息を付きながら目の前まで来てくれた男性は、見た感じは、皆の父親よりちょっと下ぐらいな年齢。
蒼の妖精はえらく寿命が長いらしいから、正確な所は分からない。
群を抜いて綺麗な容姿で、髪はサラサラストレート。それを真ん中で分けて背中に流し、銀色の輪っかを被せている。判で押したような妖精族の長スタイル。
ネリは男性の長髪はアーティストでも苦手だが、このヒトくらい大真面目にキメているのなら、もう別物だと思った。
患者を座らせて額に手を当て、長殿は目を閉じたが、二呼吸ほどですぐ目を開けた。
「チト」
「はぁい」
「貴方、この子たちを迎えに行く時、けっこうな急降下をしたでしょう」
他の大人とは一線を画す、深いゆったりとした声だ。
「う――ん、普通に下りた……つもりですぅ」
「このお嬢さんは、貴方が墜落したように見えて、血の気が引いたんですよ。他部族の前では優雅に降りなさいって、いつも言っていますよね」
「えぇ――」
「そうなの、ネリ?」
シュウに聞かれて、ネリは顔色を青くした。さっきの光景を思い返すとまた目が回る。
「はい落ち着いて」
長様が言うと、額の手が暖かくなって、ネリはスッと楽になった。
ハルさんの手に似ていると思った。
長様にハッキリ言われるまで自覚がなかったが、やはり自分は高所恐怖症って奴なのかもしれない。
「き、来た瞬間、ご迷惑をお掛けして、あの、ごめんなさい」
「いえ、怖いことは人生の経験によって一人一人違います。チトも、貴女を怖がらせたという経験をつんで、この先危ない事をしなくなるでしょう。良かった事です」
長様は目尻にシワを寄せて優しげに微笑んだ。
やっぱりハルさんに似てる……と思った。