仲の良い家族
夜兎族。
荼吉尼、辰羅と並び、宇宙三大傭兵部族の一角に数えられる存在である。彼らは生来戦を糧とし、戦場で破壊と殺戮を繰り返す好戦的な種族であった。一撃で大軍を薙ぎ払うほどの膂力、家屋を軽々と飛び越える跳躍力、銃弾で穿たれた傷すら一夜で癒す驚異の回復力。その戦闘能力は数多の星々を滅ぼしたと伝えられる。
ただ「親殺し」という彼ら独自の風習や、その力を恐れた他種族たちの襲撃で故郷である徨安が滅ぼされたことにより、夜兎族は今や絶滅の縁に立たされていた。
烙陽───。
一年中雨ばかり降るジメジメした街。
どこまでも重く垂れ込める鉛色の雲が空を覆い、湿気を孕んだ空気が肌にまとわりつく。街灯の光は弱々しく霞み、古びた石畳やくすんだ家々の壁面をなんとか照らしていた。路地裏には痩せこけた鼠が這いまわり、朽ちかけた建物が寂れた雰囲気を醸し出している。
ここは魔窟だ。
陽の当たる世界では生きられぬ者たちが身を寄せ合い、どうにか生き延びる街。弱いものは生きていけず、死んでいく。無秩序で無遠慮で、外から見ればただのスラムでしかない。しかし、溝川に溝川の生態系があるように、この街にもまたこの街なりの秩序があり、人々にとっては不思議と居心地のよい棲み処なのであった。
ザーザーと、途切れることのない雨音が街を包む。
瓦屋根を叩き、石畳を打ち、溝に濁流を生み出す。全てを覆い尽くす灰色の雲の下で、烙陽はいつにも増して仄暗く、憂鬱な表情を浮かべていた。
(雨は、好きだ。)
その鬱屈とした街並みのなかを、ひとりの少年が駆け抜けていた。小柄な身体は雨粒を弾きながら宙を舞い、路地裏を風のように、いやむしろ舞い踊るように走り抜けていく。彼の髪からは雫が滴り、衣服もとうに雨でぐっしょりと濡れきっていた。
少年の髪はカラスの羽のように艶やかで、その長さは項のあたりで三つ編みに結わえられている。前髪の下に覗くのは翡翠色の真ん丸な瞳。母親譲りのその瞳は、兄妹とは異なる色を宿していた。
少年は雨を好んでいた。
それは単に傘を持たずに出歩けるからではない。空を仰いでも恐怖に怯える必要がなくなるからであった。
(……まあ、見上げても雨雲なんだけどね。)
彼はぴちゃりと水たまりの中に足を下ろし、立ち止まる。濁った水面に波紋が広がり、映し出されるのはどこまでも続く灰色の空。靴の中までぐっしょりと濡れてしまった感触に一瞬顔をしかめるが、それ以上は何も言わなかった。
何処までも澄んだ青空の下を傘を持たず駆け回りたいと夢見たことは一度や二度ではない。燦々と輝く太陽の下で、他の子供たちと同じように走り回れたなら……そう思ったこともある。
だが、それは叶わぬ夢だった。
彼が夜兎族として生まれた瞬間から、決して届かぬ願いとなったのだ。
「
不意に背後から声がした。振り返れば、そこには年の変わらぬ子供が立っていた。鮮やかな青藍の瞳、母親譲りの珊瑚色の髪。弟と同じ三つ編みを揺らしながら、少年は江鷹を見つめていた。
「神威兄さん」
兄の神威は、江鷹の翡翠色の瞳を羨んでいた。大好きな母親と同じ色であれば良かったのにと。だが江鷹にとって、その瞳は唯一母から受け継いだ宝であり、譲るつもりなど毛頭なかった。逆に兄と同じ珊瑚色の髪を欲したのである。小さな願望の食い違いは、やがて口論となり、そして幼子らしい取っ組み合いにまで発展した。
余談ではあるが、喧嘩を止めた父の神晃は原因を知ったとき深く落ち込んだ。自分の遺伝子、青い目と黒い髪の排斥が喧嘩の理由であったのだから。
「また雨なのに傘も持たずに遊びに行っただろ。母さんが心配してたぞ」
閑話休題。
神威は持ってきた傘を差し出す。江鷹は小さく「ごめん」と呟き受け取った。傘を開き、二人は並んで歩き出す。
「今日は何処まで行ってたの?」
「川より向こう、あっちに行っても噂は広がってた。俺は病原菌の子供らしい」
「なんだよ、どいつもこいつも。ちゃんとボコボコにしてやったか?二度と舐めた口聞けないように」
「前歯全部へし折ってやった。舐めた口どころか、暫くまともに話せないよ」
「そりゃあいい!」
神威はにししと、悪戯っ子のように笑った。彼はまだ6歳、江鷹は4歳にすぎない。だがその歳で大人を相手にしても引けを取らないのが夜兎族という存在だった。
二人はそのまま寄り道を重ね、あれこれと取り留めのない話に興じる。母の手料理のこと、病気のこと、烙陽の天気のこと、町で一番戦い甲斐のある相手のこと、そして……父の毛髪のこと。
この最後の話題は、言うまでもなく地雷である。神威はつい先日、母から「そのままじゃハゲるよ」と冗談めかして言われたらしい。そのとき自分だけが妙にドキリとさせられたのが癪に障り、江鷹の三つ編みを引っ張りながら口を開いた。
「母さんが俺にそのままじゃハゲるよって言ったけど、ハゲは父さんの遺伝子だろ?それなら江鷹の方が将来ハゲそうだと思うけどな」
「は?」
それはまさしく、余計な一言であった。
「俺はご覧の通り母親似の髪だし、やっぱりハゲる事はないと思うんだよね」
「そうやって慢心してる人って大体みんなハゲてるんだよね。知ってる?4丁目の樫原さん。あの人全部母親似なのに20代でハゲてるんだよ」
「髪の遺伝子だけ父親似だったんだよ、きっと。樫原さんの父親めっちゃくちゃハゲてるもん。やっぱり父親からの遺伝だよ。江鷹も将来ハゲるんじゃない?」
「俺は兄さんよりストレスフリーだから安心だね。大体、ハゲの遺伝子は優勢なんだよ。父さんに聞いたら爺さんも母方の爺さんもハゲ。つまりオールハゲ。ハゲ遺伝子は間違いなく俺も兄さんも持ってる。そんな中、兄さんはストレス過多で生活習慣も乱れ始めている。つまりハゲるのは兄さん、はいQED。俺の勝ち。」
「は?まだ俺負けてないけど、髪ふさふさだし。勝手に勝ちを宣言するの馬鹿っぽいし雑魚っぽいからやめたら?」
「あ゛?」
「は?」
男の子という生き物はすぐに喧嘩をする。
言葉を尽くしても決着がつかぬとき、最後に選ぶのはやはり拳である。
やはり暴力、暴力は全てを解決する。
そんなこんなで、拳を交わし合う音が路地裏に響いていた。幼い体同士とはいえ、夜兎族の子供の力は尋常ではない。互いに腕を振り回し、額と額がぶつかり合い、足を蹴りつけ、泥水を跳ね上げながら、夢中で相手を打ち倒そうとする。水たまりが散り、雨がまだ降りしきるなかで、二人は泥だらけになりながらも構わず楽しく殴り合いを続けていた。
その時、地を震わせるような力強い足音が近づいてきた。石畳を打ち鳴らす音は重々しく、次第に大きくなっていく。
「くらぁぁぁぁ!!何やってんだてめーら!!!」
低い声が轟いた。二人は殴り合う手を止め、ハッと顔を上げる。そして同時に「ゲッ」と嫌そうな声を漏らした。視線の先から勢いよく駆けてくるのは、他ならぬ彼らの父、神晃である。
しまった、と二人は顔を見合わせ、反射的に背を向けて逃げ出そうとした。だが遅かった。神晃の影は瞬く間に彼らを追い抜き、拳が振り下ろされる。
「家族は大切にしなさいッ!!!!」
ドゴッという衝撃音が辺りに響き、拳骨が見事に二人の頭頂に命中する。石畳にめり込むかのような威力に、神威と江鷹は同時に「ぐえっ」と情けない声を上げ、そのまま仲良く地面に突っ伏して気絶した。
* * *
「もう、二人ともまた喧嘩しただろう?」
母、江華の声が居間に響く。二人は畳の上に座らされ、気まずそうに視線を逸らしながらも同時に口を開いた。
「だって江鷹が」
「だって神威が」
声を揃えて互いを指差す。その瞬間から再び火花が散り、ムッとした表情でお互いの髪を引っ掴む。先ほどの殴り合いの続きを始めんばかりの勢いだ。第二ラウンドは目前であったが、間に割って入った江華の手がそれを制した。
「男の子って本当にヤンチャねぇ」
彼女はため息混じりにそう言ったが、その目は不思議と柔らかかった。神威は母を心配させまいと、外で他人と喧嘩するのは控えるようになっていた。だが兄弟喧嘩だけは、どうにもやめられなかった。売り言葉に買い言葉、そして何より気が合ってしまうのだ。だからこそ衝突し、戯れ、そして喧嘩に発展する。
本来であれば良くないことなのだが、江華の眼差しは終始慈愛に満ちていた。その暖かさに二人はどこか照れくさくなり、同時にそっぽを向く。だが、そんな母が誰よりも大好きだった。
「あー、兄ちゃんたち帰って来てる」
軽やかな足音が近づき、てちてちと小さな影が姿を現した。くりくりとした大きな瞳を輝かせ、幼い声で呼びかけてきたのは二歳の少女、神楽。二人の妹である。
「また神楽置いていったの?神楽も一緒に行きたかったヨ」
そう言いながら、兄たちの三つ編みを両手でぐいぐいと引っ張り、駄々をこねる。「神楽も〜神楽も行きたい〜」と声を張り上げる姿は可愛らしいが、彼女にとっては真剣だ。神威と江鷹ならば互いに髪を引き合うことは即座に喧嘩の火種となる。だが相手が妹であれば話は別だった。二人にとって神楽は絶対に傷つけてはならない存在。手を上げるなどあり得ない。
けれども、幼い神楽にはその兄たちの配慮は理解できない。兄二人に置いていかれたことがただ寂しく、仲間外れにされているように感じていた。
江華はそんな三人をそっと抱き寄せ、優しく言葉をかける。
「きょうだい三人、どうか仲良くね」
神楽は満面の笑みを浮かべた。江鷹は母の表情の奥に潜む影を理解できず、ただ不思議そうに首を傾げる。だが神威だけは、母の事情を知っていた。だからこそ彼は胸の奥で静かに決意を固める。
(俺がちゃんと強くなって、家族を、母さんを守らないと)
ぎゅっと小さな拳を握り締める。その瞬間、家の奥から神晃が現れた。
「飯が出来たぞ」
彼は手際よくテーブルに料理を並べていく。見慣れぬ香りと形。丸いパイのようなそれは、ふんわりと魚介の香りを漂わせていた。
「何これ?」
「死腐土星の名物のパイだ。温めるだけで出来るらしくてな、土産に貰った」
「何が入ってるの?」
「名物のチコン貝とフンギョらしいぞ」
「何?チ◯コ?」
「コラッ!女の子の前でそういう事言っちゃいけません!」
神晃がピシャリと叱る横で、神威と江鷹の二人は魚介の匂いに誘われて「待ちきれない」とばかりに席へ飛び込んだ。江華が神楽を席に座らせ、パイを切り分けて皿に取り分ける。
「なんか神威の方がデカくない?」
「江鷹の方が具が多くない?」
と、またもや火花を散らす二人。目つきは鋭く、今にも再戦が始まりそうな空気だ。
「神威、江鷹。また拳骨が必要か?」
神晃の低い声に二人は同時に冷や汗を流し、慌ててそっぽを向いた。張り合おうとした神楽も「神楽の方がキレイ!」と声を張り上げたが、相手にされずに頬を膨らませる。その幼い顔を、江華はそっと撫でて宥める。
「いただきます」と手を合わせ、食事が始まる。
一口齧れば、サクサクのパイ生地が香ばしく崩れ、口の中にじゅわりと海の香りが広がった。魚の旨味と貝の風味が絶妙に混ざり合い、思わず目を細めるほどに美味である。貧しい暮らしゆえ、こうしたご馳走を口にできるのは滅多にない。
「うまい!」と頬を膨らませながら食べる兄弟。神楽も小さな口で一生懸命頬張る。江華も微笑み、咳ひとつせず食事を楽しんでいた。
わいわいと賑やかに言葉を交わしながら、家族は久しぶりに揃って食卓を囲んだ。
食事を終え、湯を浴び、布団へと潜り込む。
いい一日だった。
家族で仲良く過ごせた、かけがえのない一日。
江鷹は、この日常がいつまでも続くものだと思っていた。自分たちがどれほど異端な存在かを理解せぬままに。自分たちの幸福が、実は薄氷の上に立つ儚いものだと知らぬままに。
悲劇も離別も、遠い誰かの話に過ぎないと思っていた。
だから、この日が家族で過ごした最後の団欒になるのだなどと、夢にも思ってはいなかった。