少女の願い
侍の国───
彼らの国がそう呼ばれていたのは、今はもう昔の話だった。
かつて侍達が仰ぎ夢を見た青い空には異星の船が飛び交い、かつて侍達が肩で風を切り歩いた街には異形の者たちが跋扈する。
* * *
高く果てしなく広がる青空はどこまでも澄み渡り、深い蒼さを湛えていた。まるで吸い込まれるようなその色彩は、見上げる者を静かに引き寄せていく。空を横切るのは柔らかな風であり、流れる気配を残しながら穏やかに街の屋根を撫で抜けていった。太陽は真上から大地を照らし、光は瓦屋根の一つひとつを反射させ、江戸の街並みに暖かな輝きを与えている。
雲ひとつない快晴だった。
江戸の一角、かぶき町。太陽の光を浴びた街並みは活気に溢れ、どこもかしこも人の声と笑い声で満ちていた。瓦屋根の連なりが生み出す曲線は街の奥まで続き、木造の家々の間からは料理の匂いや三味線の音色が微かに漂ってくる。昼下がりにもかかわらず、夜の店、キャバクラやホストクラブの看板が並び、その独特の色彩が町並みに混じり合っていた。しかしその景色は決して下品ではなく、むしろ雑多さの中に独特の情緒を宿していた。人情の街、と呼ばれる所以がそこにあった。
そんな街の賑わいの中で、一際騒がしい一団が通りを駆け抜けていた。
「待てェェェい!! 待て待て待てぃ!! この、クソ猫がッ!!」
騒がしい声が響き渡る。着崩した着物の袖が風を切り、ばさりと大きく靡いた。声の主は、銀色の天然パーマに眠たげな瞳を宿した男、坂田銀時である。かぶき町で万事屋を営む彼は、普段はろくに仕事もなく惰眠をむさぼることが多い。しかし今日に限って珍しく依頼が舞い込んでいた。内容は猫の捕獲。
依頼を受けた銀時と万事屋の面々は早速その足で動き出したのだが、路地裏で見つけた猫は当たり前だが人間よりも素早く、そしてずる賢かった。銀時の視線に気づくや否や、するりと身を翻し、細い通りを風のように駆け出していったのだ。その瞬間から、街中を巻き込んだ追走劇が始まった。
猫は小さな体をしならせ、道を横切り、塀を飛び越え、人混みの中を縫うように逃げる。銀時は必死に後を追い、時折立ち止まっては舌打ちし、再び走り出す。追いかけられているはずの猫の瞳はきらきらと輝き、まるで遊戯を楽しむ子供のように生き生きとしていた。
「あの猫、馬鹿にしやがって!」
銀時が怒鳴ると、頭上から澄んだ声が返る。
「銀さん!! こっちまで追い込んで下さい!!」
銀時が顔を上げると、青い袴を着た眼鏡の少年、志村新八が屋根の上に立っていた。彼の両手には投網。漁師さながらの構えで、下を走る猫を待ち構えている。その目は真剣そのもので、作戦は単純だが効果的に思えた。
銀時は息を切らしながらも理解する。猫を新八の射程へと誘導する、それが自分の役目だ。彼は笑顔を作って猫へとじわりじわりと近づく。だが疲労と苛立ちが混じったその笑みは、優しさとは程遠く、むしろ捕食者のように獰猛なものだった。猫は背を丸め、毛を逆立て、低く唸り声をあげる。
やがて追い詰められた猫は屋根下へと追いやられる。銀時の合図を待つように新八の網が構えられた、その瞬間
「今だッ!!」
新八が大きく腕を振り抜き、網を放り投げた。網は弧を描いて地面に落ちた。土煙が舞い上がる。
「……よし!」
銀時は袖で口元を覆い、煙を払いながら息を整えた。新八も手応えを感じたのか、達成感に満ちた顔で屋根から降りてくる。二人は勝利を確信していた。だが、次の瞬間。
黒い影が土煙を突き抜け、稲妻のような速さで飛び出した。鋭い爪が閃き、銀時と新八の顔面を同時に引き裂いた。頬を焼くような痛みに二人は呻き声を上げ、その場に転がる。
猫はその様子を尻尾を立てながら見下ろし、まるで笑っているかのように目を細めた。
「ふざけやがって、ただじゃおかねぇぞ……」
銀時が青筋を浮かべて立ち上がろうとしたその刹那、猫の逃走先に白い巨影が立ちはだかった。巨大な犬、定春。その丸い体と鋭い眼光に猫は硬直し、一瞬動きを止める。その隙を逃さず、犬の背にまたがっていた少女が身軽に飛び降り、素早く首根っこを掴んで持ち上げた。
「猫1匹まともに捕まえられないなんて、これだから地球の男はダメダメアル」
呆れ顔の少女、神楽は捕らえた猫を撫でながらため息をつき、銀時と新八を見下ろす。猫もまた彼女の腕の中で落ち着きを取り戻し、満足げに目を細めていた。
「良くやった神楽! これで今日の分の夕食代が手に入ったぞ」
「私が捕まえたんだから私にメニューを選ぶ権利がある思うヨ」
「はぁ? ったく、しょうがねぇなぁ。焼肉とかあんま豪華すぎんのは無理だからな」
「卵かけご飯アルヨ!」
「おいッ! またかよッ!?」
「チッチッチ。甘いアルなぁ銀ちゃんは。今回の卵かけご飯はただの卵かけご飯じゃないアル。デラックス卵かけご飯アルヨ」
「何だよそれ」
「卵かけご飯にネギと白胡麻と柚子胡椒を乗せるアル! 姉御が美味しいって言ってたヨ。パピー遊びに来る言うてたし、ちょっとは良いもん出してやるアル」
「なに? あのハゲまた地球に来んのか? 実は暇だろ。つーか柚子胡椒って、ガキのくせに渋いな」
「もう私ガキじゃないアル。立派なレディーネ。と言うわけだから新八ィ。後は任せたアル」
「はぁ!? 何で僕!? 今日の当番神楽ちゃんじゃん! 神楽ちゃんが作る流れだったじゃん!」
「誰のおかげで飯にありつけると思ってるアルか? 分かったらさっさと材料買ってこいダメガネ」
「ほんっとに理不尽だなぁ。もう……」
新八は額に手を当てて天を仰ぎ、頭を掻きむしりながらも諦めたように歩き出す。その背中には不満が滲んでいたが、結局は素直にスーパーへと向かっていった。
その間に銀時と神楽は猫を依頼主に引き渡し、報酬を受け取って帰路についた。夕陽が傾き始め、町は朱に染まり始めていた。途中で買い物を終えた新八と合流し、三人と一匹はいつもの万事屋へ続く階段を上がっていく。
その時だった。
定春が鼻をひくりと動かし、立ち止まる。玄関先に何者かの気配を感じ取ったのだ。神楽が目を細め、その先へと視線を向ける。万事屋の戸口には、既に先客の姿があった。
「あ、猫だ」
神楽のその声を聞き、小柄な人影がゆっくりと振り返る。光の加減で細い輪郭が浮かび上がったそれは、まだあどけなさを残した幼い少女だった。年の頃は五つ、六つといったところか。しかしその瞳は年齢に似つかわしくないほど濁っていた。酷く疲れた様子の瞳は、長く続いた苦境を物語っている。
彼女が身につけているワンピースは、白地であったのだろうが、すでに泥にまみれ色を失い、至るところが破けていた。布の隙間から覗く肢体には、生々しい擦り傷や切り傷が散らばり、腕や足の細い線を痛ましく彩っていた。顔には青黒い痣が広がり、その小さな身に刻まれた傷跡は、彼女がどれほどの境遇に置かれてきたのかを雄弁に物語っていた。
さらに異様だったのは、その頭の上に揺れる二つの三角。風にそよぐ栗色の髪の間から、猫のような耳がぴくりと音を拾うように動いていた。そして腰からは、彼女の感情に呼応するように長い尾が揺れている。
「お前、大丈夫アルか?」
神楽が思わず声を掛けるが、少女は返事をせず、小さな手でくしゃりと握りしめた紙幣を差し出した。
「道を、教えてクダサイ」
その頼りない声に、新八は思わず身を乗り出す。
「道って、それより先にその傷の手当てをしないと!」
少女の痛々しい姿を目の当たりにし、彼は焦りを滲ませた。だが、その隣で銀時は鋭く目を細める。彼の勘は告げていた。これは単なる迷子ではなく、間違いなく厄介事の匂いを孕んでいる。
「お気になさらズ。急いでいるデス。わたし」
少女は辿々しい日本語で繰り返しながら、もう一度金を押し付けるように差し出した。困惑する新八の顔を見て、銀時は小さく息を吐き、助け舟を出す。
「新八ィ、客だ。通してやれ」
「不要。わたし、急いでいるデス。ここでヨイ。浅草奥山、地下都市。何処にある?」
少女の口から飛び出した地名に、銀時の瞳がわずかに大きく見開かれた。
「急いでイル。教えてほしい。今、ここで」
「そういう訳にもいかねぇ。客は中に通して対応するのが地球のマナーだ」
銀時の低い声に、少女は短い沈黙を置いた後、小さく頷いた。
「……そう、分かっタ」
そして観念したように、3人の背中に従って万事屋の中に入っていく。
「そうだ神楽ァ。流石に汚れた体で家ん中歩かれちゃかなわねぇからな。風呂入れてやれ。ついでに傷の手当ても」
「ガッテン承知アルッ!!」
「!?…不要!」
少女は慌てたように首を振ったが、神楽は一切構わず力強く彼女を抱えて風呂場に押し込んでしまった。扉が閉まる音が響き、数十分後。
湯気と共に現れた少女は、先ほどまでの痛ましい姿からは一変していた。汚れを落とした栗色の髪は光を取り戻し、額や頬に散らばっていた泥が消えたことで幼い顔立ちがはっきりと浮かぶ。包帯に覆われた体はまだ痛々しいが、かなりマシになっている。
神楽に導かれて席に着いた少女に、銀時は鋭い視線を向ける。
「浅草奥山、地下都市。意味分かってて言ってんのか?」
「とてもとても危ないトコロ。怖いトコロ。でもわたし、行かないとイケナイ」
「銀さん、浅草に何かあるんですか? 地下都市なんて聞いた事ないですよ」
新八の問いに、銀時は低く呟いた。
「そりゃそうだ。ガキが行くような場所じゃねぇからな」
浅草見世物。地下都市で繰り広げられる非合法の市場であり、裏の娯楽の場だ。吉原同様に幕府が黙殺している超法規的空間の一つ。そこでは剣闘、奴隷の売買、公開処刑、闇オークション。ありとあらゆる禁忌が繰り広げられる。大金を持った天人達が定期的に貸し切り、大規模なマーケットを開いている。その場こそ、浅草奥山の地下都市だった。
「……あそこの見世物小屋なんぞガキが行くような所じゃねぇ。金もないだろうし、そんなボロボロな状態で何でンな所行こうとするんだ? 正直に話せ」
銀時の真剣な眼差しに、少女はしばし口を閉ざした。小さな手が服の袖をぎゅっと握りしめ、その小さな胸が上下する。やがて、意を決したように口を開いた。
「わたしベル。猫の天人。でもただの猫チガウ。尻尾ある、とても珍しい」
そう名乗った少女、ベルは自らの腰から伸びる尾を両手で掴み、震える声で見せつけた。
「コレ人は先祖返り言う。先祖返りとても珍しいコト。珍しい、それつまり、価値あるって意味」
ベルは小さな尾を強く握りしめ、その表情は苦痛と恐怖に歪んだ。
「価値ある者、欲しい人沢山いる。悪いヤツ、わたし達捕まえて奴隷にしようとした」
奴隷という言葉に、神楽の瞳が鋭く光った。吉原での死闘、エイリアン騒動。その時に真ん中の兄のことを聞いていた銀時は神楽の横顔を横目で見ながら、静かに息を吐いた。
「わたし達親いない。親、病気で死んだ。わたし、お兄ちゃんと2人だけだっタ。お兄ちゃんも尻尾あった。だからよく狙われてタ。狙われてたけど頑張って逃げて、2人で生きてきタ。でも、お兄ちゃん、捕まってしまっタ」
ベルの瞳に、涙が滲み出る。
「わたしが足引っ張っタ。わたしいなければお兄ちゃん無事だっタ。お兄ちゃんわたし庇った、庇って捕まった。わたし1人逃げタ。でもバラバラになるの怖くて、わたしこっそりソノ奴隷船に忍び込ンだ。船ノ人間、浅草奥山の地下都市で売る言ってた。タツノミヤ気にいる筈言ってた。わたしお兄ちゃん助けなければならなイ。でもわたし弱い。だからお兄ちゃん買う事にしタ」
「買うって言ったって、ガキ1人幾らすると思ってんだ?」
銀時の問いかけに、ベルは小さく震えながら答えた。
「分からない、だからコレ差し出すつもり」
そう言って懐から取り出したのは、大粒の宝石が嵌め込まれたネックレスだった。汚れた小さな手の中で煌めくその光は、彼女が兄を取り戻すために抱えてきた最後の切り札であることを、雄弁に物語っていた。
「コレ母親の宝物だった。とても珍しい宝石。トテモとても価値ある。お兄ちゃんと釣り合いとれる思う」
少女ベルの小さな手の中に収められた宝石は、ただの石とは到底思えない輝きを放っていた。深い青の光は、まるで海の底をそのまま閉じ込めたかのようで、見る者の目を離さぬ力を持っていた。透明な層の奥からは淡い光が零れ出し、銀時たちの顔を青白く照らす。
「マミーの大事な物を薄汚い連中に渡してやる義理はないアル」
神楽が強い調子で吐き捨てるように言う。彼女の目には怒りが宿り、その小さな拳は震えていた。奴隷という言葉が出た時の反応と同じく、心の奥に深く触れるものがあったのだろう。
「でもわたし、コレしか無い」
ベルはうつむきながらも、必死に宝石を差し出そうとする。その瞳には決意と焦燥が入り混じり、幼いながらも命を懸ける覚悟が滲んでいた。
「まあガキ1人で行った所でカモられて終わりだろ。その宝石は仕舞っとけ」
銀時はふっとため息をつくと、無造作にその宝石をベルに投げ返した。その声音にはいつもの軽薄さが混じっていたが、その眼差しは珍しく真剣で、彼女の覚悟を否定するのではなく守ろうとするようなものだった。銀時はそのまま踵を返し、無言で歩き出す。
「銀さん、どこ行くんですか?」
慌てて立ち上がった新八が声をかける。場の空気を読めないわけではないが、銀時の行動があまりにも突発的で理解できなかったのだ。銀時は振り返りもせず、あっけらかんと答える。
「浅草」
「え、場所知ってるんですか!?」
驚愕の声をあげる新八。目を丸くして彼を見つめる。
「まあな。行くだけなら誰でもできんだよ、吉原と一緒だ」
銀時の口調は軽いが、その背中からはただ事ではない雰囲気が漂っていた。
「とりあえず、見に行ったほうが早いだろう」
銀時は続ける。
「百聞は一見に如かずだ。ああだこうだ考える前に自分の目で確かめりゃいい」
彼の言葉に神楽と新八は顔を見合わせ、そして腹を括ったように後に続いた。ベルもまた、小さな足で必死に彼らに追いつこうと駆けていく。その姿は小動物のように健気で、それだけに胸が締めつけられる。
一行はバスをいくつも乗り継ぎ、やがて浅草へと辿り着いた。街の灯りが遠ざかり、賑やかさから切り離されるようにして彼らが向かったのは、人通りもまばらな場所にひっそりと佇む古びた神社だった。
「こんなところに何が……」
新八は不審そうに辺りを見回したが、銀時は迷うことなく神社の社殿へ足を踏み入れた。そこにあったのは祭壇でも祠でもなく、無機質な鉄の扉。その奥には、場違いとも言える巨大なエレベーターが口を開けていた。
「これは……」
「複数ある入り口のひとつだ」
そういう銀時が真っ先に乗り込み、3人が続く。4人がエレベーターに乗り込んだところでボタンを押す。機械が重く唸りを上げ、ゆっくりと下降を始める。壁に埋め込まれたパネルに表示された数字を見れば、降下距離は1キロ以上。深い深い地の底へ、5分以上かけて落ちていく感覚は、ただの移動というよりも異世界へ向かう儀式のようで、誰もが自然と口を閉ざした。
そして、
「こ、これは……」
「すごい所アルな」
目に飛び込んできた光景に、新八と神楽は声を失った。
そこに広がっていたのは、地下であることを忘れさせるほどの、あまりに絢爛豪華な都市だった。
不夜城。
それが最も相応しい言葉だった。
天井には昼も夜も存在せず、無数のランプが星空のように煌めいている。人工の光は永遠に消えることなく、まるで偽りの空を作り出していた。通りには日本家屋がずらりと軒を連ね、障子の隙間からは色とりどりの光と香の匂いが溢れ、笑い声や怒号が絶え間なく流れてくる。楼閣は金と朱に彩られ、煌びやかな装飾が街全体に威厳を与えていた。
その奥には、天井を突き抜けんばかりの巨大な高塔が闇に溶けるようにそびえ立ち、見上げる者に畏怖を抱かせる。その周囲では多種多様な品々が売りに出され、天人たちが物珍しそうに群がっていた。羽を持つ魚、虹色に光る昆虫、奇妙な獣。現実離れした存在が雑多に並べられ、客たちを誘っていた。
さらに進めば、巨大な見せ物小屋から大歓声が轟いてくる。血と酒と欲望が入り交じった匂いが鼻をつき、まるで人の業が具現化したかのような都市がそこにあった。
「これが浅草奥山、地下都市。通称“花屋敷”だ」
銀時の声が、人工の光の中で低く響いた。
「この辺りでは珍妙なもんが売られてるだけだが奥に行けば行くほど花屋敷はディープになる」
「と、言うと?」
「剣闘に賭博、見せ物、人身売買。文字通りなんでもありの街だと聞いたことがあるな」
銀時の口調には軽さが残っていたが、目は笑っていなかった。
「そんなことはどうでもいいアル。とりあえず私達はベルの兄貴を見つけるのが最優先ネ」
神楽が言い放つ。彼女の眼差しはいつになく鋭い。
「とはいえ、このデケェ場所でどうやって探したもんか」
銀時は苦々しく呟く。剣闘場、賭博場、見せ物小屋、オークション会場。広大なこの地下都市のどこにベルの兄が囚われているのかは分からない。売られてしまえばもう手の届かない場所に消えるだろう。残された時間がどれほどかも不明。刻一刻と猶予が削られていく中で、銀時たちはついに決断した。
手分けして探すしかない、と。