ふわふわと、重力さえ感じさせないほど軽やかに花畑の中を歩いている。風に揺れる無数の花弁が色とりどりに舞い散り、甘やかな香りが漂う。夢のような光景の中、自分の少し前を歩く黒髪の少年の姿があった。艶やかな黒髪に羽根の髪飾りを差し、翡翠のように澄んだ瞳を持つその少年、江鷹だ。
(あれ……なんで、江鷹がここにいるんだっけ?)
何年も探し続けた兄が、今は目の前にいる。その理由など今はどうでもよかった。ただ、心の奥底にずっと沈殿していた寂しさが弾け飛び、温かく溶かされていく感覚に包まれる。ぼんやりと霞んだ意識の中で、神楽は「やっと会えたんだ」と、ただその事実だけを胸の奥で強く噛みしめていた。
分からない。どうしてここに兄がいるのかなんて分からない。けれど、そこに立っているのは間違いなく大好きな兄だ。だから神楽は喜びに突き動かされるまま、声を張り上げた。
「江鷹!」
呼びかけに応じて、少年は振り返る。まっすぐに自分を見据える翡翠色の瞳がきらめき、柔らかい笑みを浮かべた。
「ん、なに? 神楽」
その微笑みに胸がいっぱいになる。込み上げる涙を誤魔化すように、神楽は咄嗟にどうでもいいことを口にした。
「え、と……江鷹は酢昆布って知ってるアルカ?」
「え、知らないけど……昆布?」
「お菓子ヨ。酸っぱい昆布、地球で見つけたお菓子なんだけどすっごい美味しいアル」
「へぇ、いいね。俺も食べてみたいな」
横に並んで歩きながら、神楽は堰を切ったように次々と話し出す。心の奥に積もり積もった感情をどうにか隠そうと、くだらない話を無理にでも繋げていく。
「今は定春っていう、白くて大きい犬と一緒に暮らしてるアルヨ」
「いい名前だね。渋くておしゃれだ」
「銀ちゃんは全然使えない奴ヨ。私がいないとダメダメアル。天然パーマは本当にダメネ」
「じゃあ神楽が尻を叩いてやらなきゃね。天パがストパになるくらい引っ叩いてやりなよ」
「新八っていう駄眼鏡がいるアル。弱っちくてオタクで、何をやってもダメダメヨ。まあ飯はそこそこまあまあだけどなー」
「美味しいご飯かぁ、いいね」
言葉は止まらない。まるで決壊した川の流れのように、寂しさや後悔を隠すために、神楽の口から次々と溢れ出していく。美味しかった食事の話、出会った人々のこと、可愛い動物との触れ合い、笑い合った記憶、別れてからの出来事……。それらを一つ一つ思い出しては声にし、兄に届けようとする。
江鷹がどんな顔で聞いているかも気にしなかった。話をやめてしまえば、この温もりが消えてしまう気がした。ただひたすらに、止まらぬ想いを吐き出し続ける。涙がにじんでも、見られまいと目を逸らし、必死に別の話題を探す。心の奥底では、会いたかった、寂しかった、もっと早く見つけたかった。そんな叫びが渦巻いているのに、声にはできない。
どれほどの時間が流れただろう。疲れも忘れ、時の感覚もなく、ただひたすらに言葉を紡ぐ。兄は黙って聞いてくれているように見え、その変わらぬ優しげな姿に安心して、もっと話を続けたいと願った。
そして、ついに堪えきれず、声が震える。
「ずっと、ずっと会いたかったアル……ッ」
その言葉と共に涙が溢れた。
「会いたかった? どうして?」
江鷹が立ち止まり、静かに問いかける。その背中に向かって、神楽は震える声で答えた。
「だって、大事な家族だからッ」
「大事な、家族……?」
声の調子が変わった。違和感に気づき、神楽ははっと顔を上げる。目の前の江鷹の姿が変わっていた。美しい三つ編みは乱雑に切り落とされ、服は泥と血に汚れ、振り向いた顔は血塗れだった。虚ろな瞳には光がなく、冷たく濁った視線が神楽を射抜く。
驚愕で目を見開く神楽の耳に、無慈悲な声が響いた。
「じゃあ何で助けてくれなかったんだよ」
瞬間、景色が崩れ落ちる。花畑は跡形もなく消え去り、意識は切り替わった。身体の小ささは戻り、14歳の自分のものへ。足元には硬い石畳、広がるのは浅草の地下都市、花屋敷。
背後から突き刺さるような殺気。振り向けば、精悍な顔立ちをした長髪の男が立っていた。吉原で出会ったもう一人の兄と似た雰囲気を漂わせるその顔。
次の瞬間、その蹴りが、鋭い稲妻のように神楽の頭部へと叩き込まれる──
「にッ……」
バサっと神楽はベッドの上で跳ね起きた。全身を汗がじっとりと覆い、呼吸は乱れ、喉がひりつく。嫌な夢の余韻が全身を支配していた。
「夢……」
かすれた声でそう呟いた瞬間、部屋に低く落ち着いた声が響く。
「起きたか、神楽」
そこにいるはずのない声。驚愕に神楽の心臓が跳ね、弾かれたように顔を上げた。
「ぱ、パピー!? 何で!?」
神楽の驚愕の声が響いた。目の前に立っていたのは、灰色の外套を纏い、年齢を重ねた皺の刻まれた顔に青い瞳を光らせる壮年の男。その姿は、神楽が決して忘れることのできない存在。星海坊主、本名は神晃。そして彼は神楽と江鷹の父であった。
「魘されてたみたいだけど大丈夫か?」
父の低く落ち着いた声が静かに響く。
「ウン、ちょっと……怖い夢見たアル」
神楽は俯き、額に浮かぶ汗を拭いながら答えた。
「そうか……」
星海坊主はそれ以上言葉を継がず、神妙な面持ちのまま口を閉ざした。重たい沈黙が二人の間に広がり、空気が鉛のように重く沈む。その空気を破ったのは、扉の開閉を告げるガチャリという音だった。銀時と新八が部屋に姿を現す。
「銀ちゃん! 新八! 無事だったアルか!?」
神楽は弾かれるように立ち上がり、声を弾ませた。
「おう」
「神楽ちゃんも無事で良かった」
新八も安堵の色を浮かべ、優しい声で返す。
「うん、最後……アイツ、狙いをずらした」
神楽の声は小さく震えていた。あの時の蹴り。鋭く狙い澄まされた頸椎への一撃。その瞬間に感じた冷たい死の気配。あれがもし逸れていなければ、今ここに自分はいなかった。
「……」
神楽は蹴り飛ばされた側頭部をそっと摩り、その表情には悲しみと恐怖が滲んでいた。銀時と新八は、その表情に息を呑む。いつも明るく騒がしい彼女が見せることのない、深く沈んだ悲しげな顔。だが掛けるべき言葉が見つからない。それを察したかのように、神楽は無理やり元気を装い、明るい声を振り絞った。
「銀ちゃん達は怪我もう大丈夫アルカ? ボコボコにされてたけど動いても平気なの?」
「まあな、上手い治療を受けたから」
「治療……パピーが助けてくれたアルカ?」
「いや、俺じゃない」
「じゃあ誰が……」
神楽が眉をひそめたその時、銀時が口を挟んだ。
「話なら直接張本人から聞きゃあいいじゃねえか。どう言うつもりか知らねえけど、自分らでボコボコにしといて俺らの治療を施した奴からよ」
銀時と新八がドアの前から退く。その隙間から、ゆっくりと一人の少年が室内へ足を踏み入れた。
「お前は……ッ」
神楽は咄嗟に警戒し、身を強張らせる。だが星海坊主が手を挙げて制した。そこに現れたのは先程まで敵として相対していた辰羅の少年だった。波打つ水色の髪に、鋭い橙色の瞳を銀縁の眼鏡越しに光らせている。尖った耳と額に刻まれた紋様、辰羅の血を示す証。その少年の名は、魈雲。
「どういうことアルカ」
神楽は吐き捨てるように言った。
「神楽、俺をここに招いたのはコイツだ」
星海坊主は魈雲を指差し、淡々と答える。
「はあッ!?」
神楽の目が大きく見開かれた。さらに銀時が続ける。
「人の事ズタボロにしておいて治すなんて、どういうつもりなんだかね。マッチポンプで恩売ろうってか?」
銀時の皮肉に魈雲は肩を竦め、大袈裟な仕草で溜息をついた。
「マッチポンプ? 酷い言われようですね。夕染さんと燕心さんがいたら貴方達は間違いなく殺されていましたよ。彼らが疑念を抱かない程度に貴方達を痛めつけ、彼らを追い払う。これでも結構神経使ったんですけどね」
その声音は冷ややかでありながらもどこか芝居がかっており、心底疲れ切ったような仕草で額に手を当てた。
「星海坊主さんが貴方達は使えるというから生かしたのですが、本当に期待できるのですか?」
「できるさ。なんせコイツらはあの鳳仙を下した」
「鳳仙を……」
まさか本当にと言った様子で3人の顔を見渡す。彼らの様子が、それが嘘でない事を証明していた。どうせもうどうしようもないのだ。コイツらがダメでももうやり遂げるしかない。そう考えて魈雲は覚悟を決めた。
「さて、何から話したものか……。まあまず貴方達の目的ですが、これは察するものがあります。娘さんまでいらっしゃるとは思いませんでしたが、これも運命というものなんですかね。ここまでのご足労、ありがとうございます。燕心さんに会いたかったんでしょう?」
「分かってたから俺を招いたんだろう。小僧、言っとくが俺は気が長い方じゃないぞ」
「はい、彼は江鷹さんです」
「速ッ!!?」
悠々とした調子で話し出した魈雲を星海坊主がドスの効いた声で急かす。すると驚くべき速さで魈雲は結論を述べた。あまりの豹変ぶりに新八は反射でツッコミを入れる。
「江鷹、やっぱり……」
神楽はベッドに腰を下ろし、拳をぎゅっと握りしめる。
「聞いてた話と随分違うな。俺はアイツを剣闘場で見たが、優しいとは程遠い奴に見えたぞ」
銀時の冷たい言葉に、魈雲は小さく息を吐き、淡々と答えた。
「年月は人を変えるんですよ。特に彼は奴隷だったんですから」
その何気ない一言に、神楽と星海坊主の表情が一瞬で険しく歪んだ。空気が再び重く沈み、室内の温度が下がったかのように感じられた。
「お前は……」
「はい?」
「お前は、江鷹が攫われてからどういう暮らしをしてきたか知ってるアルカ?」
「聞いてどうするんですか? 知っても意味はないと思いますけど」
「知らなきゃなんねえんだ、俺はな」
星海坊主の眼光が鋭くなる。その視線は迷いなく魈雲に突き刺さり、重苦しい空気が場を覆った。
「俺は江鷹の父親だ。アイツが何故燕心を名乗っているのかも知らねぇが、ともかく俺は知らなきゃならねぇ。アイツが攫われたのは俺が気を抜いてたからでもあるんだ」
「私もアル! 私が足手纏いだったから江鷹は攫われてしまったヨ! だから今度は、私が!」
「いや違う神楽。俺のせいなんだ」
「違うヨ私アル!」
「いや俺だ」
「私アル!」
「俺だって! 気持ちは分かったから、お前の気持ちはわかるけど俺のせいなんだよ! 大人の責任なの!」
「しつこいんだよこのハゲェェェッ!!」
「ハゲって言うんじゃありませんッ!」
声を荒げる親子の言い争い。魈雲はあからさまに“めんどくせー、帰ろっかな”という顔をして肩を竦めた。その仕草に気づいた星海坊主は、慌てて咳払いをして姿勢を正す。
「まあ、そう神妙になられても語る事は少ないんですけどね。ご想像の通りですよ、調教と拷問の限りを尽くされたとか。血統のいい夜兎ですから、奴隷商人も張り切るというものですよ。苦痛と恥辱に塗れていましたよ」
魈雲の言葉は、あまりにも淡々としていた。その口ぶりは残酷さを軽んじるようで、逆に残酷さを際立たせていた。
あっけらかんと言い放たれた言葉に神楽は絶望を浮かべる。夢で見た江鷹の『なんで助けてくれなかったんだよ』という言葉がフラッシュバックした。
「家畜のように管理された食事、秒単位で決められたスケジュール、成長を妨げないギリギリまで課される訓練。しくじれば皮膚が裂けるまで鞭で打たれ、泣き叫ぶまで折檻され、失態が大きい時は代わりに彼の目の前で幼子の首が刎ねられました。兄妹がいたからこそ課された罰なんでしょうね、歳の近い子を選んでいましたし。子供達の断末魔が脳裏にこびりついて離れないと、今でもたまに言っていますよ」
その光景を想像するだけで、血の気が引く。哀れみを口にした魈雲の声音に、ほんのわずか同情の色が滲んでいたが、それすら神楽にとっては耳を塞ぎたくなるような残酷さだった。
銀時は魈雲の話を聞きながら、燕心が呟いた“悲鳴をあげたか?”という言葉を思い出していた。なんのことかと思っていたがアレはどうやら古い記憶のフラッシュバックだったらしい。
「薬を使って記憶を破壊され、もう問題ないだろうと判断された彼は売りに出されました。貴方が襲撃したオークションですね。残念ですが少しの差で龍宮に買われ連れ去られてしまった。そこから先はまぁ、ご覧の通りです。龍宮に新しい名前をもらって愛玩されていますよ」
星海坊主は歯を食いしばり、頬の筋肉を硬直させる。歯にヒビが入るほどの力で噛み締めながら、必死に怒りを押し殺していた。だが次の瞬間、ある疑問が彼の胸をよぎる。
「お前、なんでそんなに詳しいんだ? まるで見てきたように話すじゃないか」
「……」
「いくらなんでも、そこまで赤裸々に自らの過去を語らないだろう。……確か、江鷹を攫ったのも辰羅の奴隷商人だったな。まさか、関係者か……?」
星海坊主の目が鋭く細まり、殺気が滲み出す。
「江鷹さんを攫った奴隷商人は、僕の母ですよ」
その言葉が落ちた瞬間、爆ぜるように星海坊主の怒気が弾けた。銀時達の目に映るより早く、星海坊主は魈雲へと飛びかかり、その喉を鷲掴みにして締め上げる。骨が悲鳴をあげ、魈雲の顔が苦悶に歪む。
「テメー、分かってて俺を呼んだのか? 分かってて俺を呼んだのか!? その言葉の意味、分かっててッ!!」
「星海坊主さん! 落ち着いてッ!!」
新八の声も届かない。怒りに支配された星海坊主の瞳は血走り、今にも魈雲の首をへし折らんとする。
「殺したければッ、殺せば良い。この首をへし折ることくらい、貴方ならッ、容易いでしょう。息子を痛めつけた仇の女の、その息子がここに居ますよッ」
「テメェェェッ」
「パピー、やめるアル!」
神楽が必死に星海坊主の腕にしがみつき、全力で引き剥がす。彼の力に抗うのは容易ではなかったが、娘の叫びが父の理性を辛うじて繋ぎ止めた。解放された魈雲は床に崩れ落ち、ゲホゲホと激しく咳き込みながら喉を押さえた。
「お前、どう言うつもりであのハゲ煽ってんだよ」
銀時がやや呆れ気味に声をかける。
「怒りは大きな原動力になる」
「はぁ?」
「僕の発言で星海坊主の怒りが爆発し、龍宮を殺してくれるのであれば何でも良い。あの女を殺す為なら命なんてくれてやるさ」
魈雲の瞳に宿るのは、憎悪と復讐の色だった。辰羅の命は軽い。己が死んでも次代はすぐに補われる。その認識を当然のように語る彼の表情に、銀時はこの地下都市花屋敷が想像以上に深く暗い闇を孕んでいることを悟る。
「悪いが俺は龍宮を殺しに来たんじゃねぇ、江鷹を連れ戻しに来たんだ」
「貴方何も分かっていませんね。それは龍宮を殺すと同義ですよ。彼女の所持品を持ち出して許されるわけが無い」
「江鷹は物じゃねぇ」
「彼女にとっては物です。それに、江鷹さんもそちらに戻る事を望まないと思いますよ。解放したければ殺さないと。龍の鎖は頑丈なんですから」
魈雲は乱れた襟を整え、淡々と告げると、鋭い視線を一人一人に向けた。
「やるかやらないか、決まったら声をかけてください。僕は別室にいますので」
それだけ言い残し、背を向けて部屋を出ていった。ドアが閉まる音だけが、重苦しい沈黙の中に響いた。