地下都市の片隅、花屋敷の外れに建つ楼閣は、異界から切り取ってきたかのような妖しい美しさを放っていた。周囲の建物が幾重にも重なり、複雑に絡み合うように積み上げられる中で、その建物だけが際立って天へと伸びるかのようにそびえ立っている。そこはホテルだった。しかし、ただの宿泊施設などではなく、地上の高級旅館をそのまま地下に沈め、さらに魔的な威圧感を加えたような、荘厳で閉ざされた空気を纏っていた。
漆黒の漆喰に覆われた外壁は、長い年月を経て磨き抜かれたかのように深く鈍い艶を湛え、その重苦しい黒の中に散りばめられた金箔細工が、松明の灯りを受けて微かにきらめく。その光は夜空に瞬く星のように儚く、だが同時に、地下に広がる闇にあって異様な存在感を主張していた。
その内部を、銀時はゆったりとした歩調で進んでいた。重厚な木製の床板が彼の足取りに合わせてわずかに軋み、乾いた音を響かせる。廊下は迷路のように入り組み、角を曲がるたびに、光源となる薄暗い灯が等間隔に並んでいるのが見えた。その光は暖かさとは程遠く、ただ闇を退けるために最小限の役割を果たしているに過ぎない。
高い天井は繊細な彫刻が施され、わずかな光を反射して鈍く光を返している。静まり返った空間の中で響くのは、銀時の足音だけ。彼の歩調が遅くなるたび、軋む音も途切れ、再び動けば細く長い音が尾を引いた。
やがて、廊下の突き当たりに小さな扉が現れる。銀時が手をかけ、押し開くと、そこから冷ややかで澄んだ空気が流れ込み、頬を撫でた。扉の先は広々としたベランダで、そこに魈雲が腰を下ろし、花屋敷の街並みを眺めていた。
「なんか良いもんでも見えるのかよ」
銀時が声をかけると、少年は視線を景色に向けたまま、低く答える。
「もう時期消えて無くなる街が見えます。折角なので目に焼き付けておこうかと」
「やっぱ悪趣味だな。この街の人間は」
銀時には、その横顔が感慨に沈んでいるように見えた。だが余計な言葉を差し挟まず、彼もまた欄干の向こうに広がる光景へと目を向ける。
壮観だった。無数の灯火が闇に浮かび、地上の星空を逆さに映したかのように地下の闇を照らしている。幻想的な光景であるにもかかわらず、そこにはどこか不気味な気配がつきまとっていた。高楼や古びた建造物が複雑に折り重なり、都市の中心に向かって密集している。その奥に聳え立つ巨大な塔は、地下世界を支える柱そのものであるかのように堂々と屹立し、その頂には淡く揺らめく光が灯っていた。あの光の下に、龍宮がいる。銀時の視線は鋭く、その一点を射抜くように凝らされていた。
「決めましたか?」
魈雲が街を眺めたまま問いかける。
「あの少女の事なら心配しなくても大丈夫ですよ。僕の部下に頼んで兄妹ともども保護してあります」
「そりゃお優しいこって」
「優しい? まさか……人質ですよ。それで、どうするかは決めましたか?」
「その前に一つ聞かせてくれや」
銀時は遠慮なく隣に立ち、彼の横顔を見下ろした。
「お前、死にたかったんだろ?」
その言葉に魈雲はようやく顔を上げ、銀時の目を正面から見返した。
「なぜそう思うのですか?」
「お前のその目には見覚えがある。なんもかんもに疲れちまって、最後に少しでも自分の目的に近づく為なら死んでも良いって思ってる奴の顔だ。いや、少しでも目的に近づいた状況でさっさと死にたいってのが正しいか」
「辰羅は命をも利用して目的を果たす種族ですから」
「そうだがそうじゃねぇ。テメーのそれは利己的な死だ」
「何か問題でも?」
「自殺には付き合えねぇって話だ」
「自殺? はは、自殺ときましたか。まさか、自殺するつもりはありませんよ。ただ僕は龍宮を殺したいだけです。その為には命を賭けるのが最低条件というだけで」
「お前はなんでそこまで龍宮を恨むんだ? 神楽の兄貴も荼吉尼の女も、どっちかと言えば慕ってるだろう」
「彼らは元奴隷ですから。むしろ救われたと思っているんですよ。状況は奴隷の頃と大差ないのですが……愛を忘れた彼らにとっては、龍宮の愛玩が愛に見えている。小動物を捕まえて檻に入れ、好きな時に愛で、遊び、飽きたら捨てる。あの女のやっている事は、ただそれだけなのに」
「なるほどな、お前は違うのか?」
「僕は元々奴隷ではありませんので」
「奴隷商人の息子だったか」
「ええ、だから許容できないんです。彼女の愛玩を」
魈雲は欄干から腰を下ろし、再び龍宮のいる塔を睨みつける。周囲の街並みが静まりゆく中、その塔だけは絢爛豪華な輝きを放ち、闇の中に孤高の存在感を示していた。
「星海坊主がずっと探していた奴隷商人、霧紅と黎武は数年前に死にました」
「なんだ、仇はもういねぇのか」
「ええ。宇宙海賊春雨に徹底的に潰されましたからね。襲撃者は第七師団。奴隷商人達の頭は水風船のように弾き飛びました。僕の母も含めてね」
春雨。銀時にとっても因縁深いその名に、彼の眉間が自然と寄る。だが同時に、疑問が浮かんだ。
「春雨に襲われて、なんでお前は無事だった」
問いかけると、魈雲の拳が白くなるほど握りしめられ、爪が食い込み血が滲んだ。
「商船の情報を春雨に流してぶつけたのは龍宮だ。あの女は奴隷商船の情報を流すにあたって春雨に一つ条件を出したんだ。魈雲だけは寄越せ、他はどうなってもいいって」
龍宮は、江鷹を買うために訪れたオークションで、偶然魈雲を見つけていた。その瞬間から彼に目をつけていたのだ。奴隷ではない彼を手に入れるのは容易ではない。ただ攫うだけでは意味がない。彼女は一計を弄した。奴隷商人を皆殺しにし、魈雲だけを残す。辰羅は群れでこそ力を発揮するが、孤立した一人には価値がない。死に損ないはどこにも居場所がない。
魈雲を孤立させ、彼の手駒となる辰羅を雇い与え、血に塗れた奴隷商船で気を失っていた少年を攫った。目覚めた時には、整えられた衣服、与えられた部下、用意された食事。すべてが整えられていた。そしてそれは龍宮の“愛玩”としての立場。
芸を覚え、彼女を楽しませなければ生きられない。飽きられれば殺される。期待を裏切れば、やはり殺される。
「屈辱ですよ……あの女に全部奪われ、あの女に愛玩されて生きねばならないなんて」
魈雲は幾度も逃げようとした。幾度も殺そうとした。だがそのたびに、龍宮は愉快そうに笑い、言うのだ。“魈雲は可愛いねぇ”と。必死に爪を立て威嚇する小さな獣を、無邪気に可愛いと笑う人間のように。
「こんな惨めな人生を送るくらいなら、あの場で春雨に頭蓋を砕かれていた方が余程マシだった」
その声に宿るのは、絶望と怒り、そして燃え尽きたような疲労。魈雲の瞳は、深い闇をそのまま映すかのように濁り、なお塔に灯る光だけを憎悪で射抜いていた。
「復讐か?」
銀時の低い問いかけに、魈雲は口元だけで乾いた笑みを浮かべた。その声音は冷ややかで、憎しみよりも諦念が混じっている。
「まさか……悪人が悪人に殺されるなんてよくある事です。母が死んだのは母の所為。あれだけの人間を不幸にしておいて、今更復讐だなんだと言うつもりはありませんよ。僕はただ、自由になりたいだけです。飽きれば殺される、飽きなければ解放されない。僕達愛玩動物が自由になる為には、やはり龍宮を殺すしかない」
その声には震えも迷いもなかった。長い苦悩の果てに辿り着いた結論。その冷徹な響きが周囲の空気を重く染めていく。きっと彼女が愛玩しているのは、“自分に必死に抗おうとする魈雲”だ。反抗心が折れ、牙を失ったその瞬間こそが己の死に時だと、魈雲はある時気づいた。だがもう疲れてしまった。何度抗っても彼女は笑う。だからこそ、最後の策に出たのだ。決着をつけるために。
再び顔を上げた魈雲の瞳には、濁りのない決意の色が宿っていた。その光を見れば、もはや何を言っても聞き入れないことが誰の目にも分かる。
「さて、僕の不幸自慢はここまでです。それで、もう一度聞きますが……決めましたか、皆さん」
静かな問い。その声に促されるように彼らが振り返ると、そこには神楽と新八、そして星海坊主の姿があった。
「お前の覚悟は分かった。悪かったなさっきは。こっちから聞いといて殺そうとしちまった」
「そういう謝罪は不要です。憎悪や憤怒をぶつけてくれた方がやりやすい」
「お前の母親を殺したのが第七師団ってなら、そりゃ俺の馬鹿息子の仕業だ。俺は息子を奪われた。お前は母親を奪われた。これならまぁ、対等だ」
「やめてくれます?」
「そもそも、お前いくつアルか?」
「17歳」
「だったら、江鷹が攫われた時お前は5歳。どうしようもないアル。無関係な人間に八つ当たりするほどガキじゃないネ」
「ぅ」
神楽の言葉は、星海坊主が抱えかけていた怒りを真正面から断ち切った。思わず口をつぐむ父の様子を、他の三人は敢えて見なかったことにして話を進める。
「うんざりする程善人ですね。まあ、良いでしょう。それにしても星海坊主さんとその娘さんは分かりますが、あなた方お二人も来るおつもりで?」
「当然だろ」
「はい!」
「死にますよ。あの塔に残っているのは怪物ばかりだ」
魈雲が言いながら、視線を塔へと向ける。その鋭い眼差しを追うように、他の者たちもまた漆黒の巨塔を見上げた。
「それでも行くんだよ、俺らは」
「理解しかねる」
「俺たち侍には、どうしても、どんな理屈を捏ねられても動かなきゃならねぇ時ってのがあるんだ。それが今なんだよ」
「信念という奴ですか。そんなものの為に命を賭けると、逃げれば死なずにすむというのに」
「行かなきゃ結局、俺らは死ぬんだよ。……俺らの魂がな。魂が死んじまったら、結局生きてはいけねぇから」
「兄ちゃんがあそこに居る。それだけで、動かない理由はないアル」
「ベルちゃん達も見捨てられませんから。必ず助け出します」
「10年以上振りに息子に会うんだ。大層世話になったらしいトカゲの大将には挨拶くらいしねぇとな」
言葉を交わしながら、神楽と星海坊主がまず背を向けて歩き出す。その後を新八が静かに追った。
「自分の家族でもない相手に、何故命を賭けるんですか」
「侍ってのは非合理的な生き物なのさ。俺たちは今からお前の言う、龍の鎖とやらを引きちぎりに行ってくる。みんなが縛られている内に忘れちまった、自由ってやつを取り戻してくるのさ。どいつもこいつも、自分の意思で、自分のために、自分の好きなように生きて良いんだ。背筋を伸ばして、最期の時に“ああ良い人生だった”って言えるようにな。
……じゃあな。トカゲの女王の事は俺らに任せて、さっさとどこへなりとも行くと良い。今日からお前は自由だぜ」
銀時はそれだけ言い残し、去ろうと背を向ける。しかし、
「お断りします」
「はぁ?」
「残念ですがその申し出は受け入れられません。僕達も共に戦いますから」
「お前、分かってるのか。星海坊主を連れてくってなりゃあいくらなんでも許されねぇ。裏切り者として殺される」
「どうせそのうち殺される命。有効活用せねば損というものです。それに僕も死に際に“ああ、良い人生だった”って言いたいですからね。その為には逃げるなんて言語道断。これでも結構、プライドが高いので」
「ああ、見りゃわかる」
「どういう意味です?」
「そういう意味だ」
銀時は肩を竦め、呆れたように首筋を掻きながら歩き出した。
五人は迷うことなく塔へ向かって足を進める。魈雲が燕心に出した指示によって花屋敷からは人の気配が消えていた。静まり返った街路を抜け、ただ真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに、大切な人の待つ塔へと向かう。
その塔は地下都市の中心にそびえ立ち、闇を裂くかのような存在感を放っていた。構造は地上の五重塔を思わせるが、その規模と豪奢さは常軌を逸している。幾重にも積み重なった階層は数えることを諦めさせるほど果てしなく、まるで天井知らずに伸びているかのようだった。
外壁は深い漆黒の石で覆われ、その表面には金や銀、宝石が散りばめられ、わずかな光を受けて妖しく輝く。各階層の軒には緻密な彫刻が施され、龍や鳳凰、そして異形の像が今にも動き出しそうな眼差しで外敵を睨みつけている。塔の上層部からは細長い筒が伸び、地上へと通じていた。龍宮とその配下だけが使えるというエレベーター。敗北すればそれが唯一の逃げ道となると告げられていたが、果たしてその先に生があるかは分からない。
それでも塔は、暗闇の中に孤高の光を放ち続けていた。その光は温かさとは無縁で、冷たく妖しい。まるで塔全体が生き物のように脈動しているかのように見えた。
中央には巨大な扉がそびえ立ち、黒曜石と黄金で覆われたその姿は威圧そのものだった。誰も近寄ることを許さぬ気配を漂わせ、その上層に据えられた黄金の球体は都市全体を見下ろすかのように輝き、冷たい光を放っていた。
この塔は、地下都市そのものの象徴であり、支配と富、そして恐怖の象徴であった。
「行くぞ」
銀時は迷いなく黒い大扉を押し開け、暗黒の中へと踏み入っていった。