塔が突然、突き上げるように大きく揺れ始めた。
その衝撃は建物全体を打ち据え、銀時は反射的に階段の手すりを掴み、身を壁に預けた。頭上からはパラパラと木屑や塵が降りかかり、塔そのものが崩れ落ちる前触れのようだった。
足元が激しく波打ち、体が宙に浮いたような感覚に襲われて新八は悲鳴を上げる。銀時は飛ばされぬようベルとルイの服を掴み、揺れに耐えた。小さな子供たちの体は軽く、少しでも気を抜けば簡単に振り回されてしまいそうだった。
やがて激しい振動は徐々に収まり、塔の中には再び不気味な静寂が訪れた。銀時は壁から体を離し、肺に溜まった息をゆっくり吐き出す。床はまだかすかに震えていたが、それでも彼は足を前に進め、再び階段を駆け上がる。
「何だったんですか今の!?」
「親子喧嘩だろうさ」
その軽口とは裏腹に、銀時の瞳は冴え渡っていた。何段も何段も、途切れのない階段を駆け上がり、ようやく彼らは広々とした廊下へと辿り着く。廊下は異様なほど静まり返り、空気そのものが重く淀んでいる。天井から吊るされたシャンデリアは、今にも消えそうな薄い光を零し、長く伸びた影を床に落としていた。その輝きは壁の装飾に反射し、ぼんやりとした陰影を刻み込んでいる。
さらに奥へと進むと、廊下の先に見慣れぬ巨大なエレベーターが現れた。鉄と木が融合したその構造は荘厳で、外界……地上へと続く唯一の道であることを示していた。
「新八、ガキどもを先に上に連れてっとけ」
銀時の低い声に、新八は思わず振り返る。
「え!? でも銀さん……」
「巻き込む訳にはいかねぇだろ。2人で行かせる訳にもいかねぇ、護衛が必要だ。お前が2人を上まで連れて行け」
理屈は正しかった。ベルとルイを放ってはおけず、しかしこの先の戦場に連れて行くわけにもいかない。目の前に上へと繋がる道がある今こそ、彼らを解放する好機だった。新八も頭では分かっている。だが、鳳仙に並ぶ実力者である龍宮の元に、銀時をたった1人で行かせることへの不安は拭えなかった。
「気にすんな新八、ドラゴン退治は俺の仕事だ。ドラゴン倒したとなりゃあ万事屋の看板に箔がつく」
「……分かりました。絶対、勝って下さいよ!」
新八は子供たちの小さな手をしっかりと握り、エレベーターへと歩き出した。振り返り、声を張り上げる。
「絶対勝って、万事屋に箔をつけて下さい! そんで時給アップお願いしますよ!」
「おう、今日から俺らはドラゴンスレイヤーだ」
銀時は軽く手を振り、さらに上へと駆け出す。最後の階段を一気に駆け上がり、その視界に広がったのは、極彩色に満ちた華やかな和室だった。
足を踏み入れた瞬間、靴裏を柔らかな畳が包み込む。
「畳を土足で踏むなんて、地球の人なのにマナーがなってないんだねぇ」
「悪いね。田舎者に都会のマナーは難しいんだよ」
涼やかな声が空間を震わせる。その声音は軽やかでありながら、底に潜む冷ややかさが皮膚を刺すようだった。銀時は軽口を返しながらも木刀を強く握りしめ、決して警戒を解かなかった。
和室は重厚な静寂に支配されていた。天井には金箔を施された梁が煌めき、燭台の小さな炎が揺れながら金色の光を四方に投げかけている。壁には絢爛な屏風が連なり、紅葉の山並みや清らかな流れが描かれ、まるでそこに風が吹き抜けているかのような錯覚を与えた。床の間には古めかしい壺と見事な掛け軸が飾られ、威圧的な静謐を漂わせている。
その奥、上座に女はいた。
艶やかに流れる赤い髪が指の間から零れ落ち、炎のように輝いていた。その隙間から覗く瞳は金色に輝き、縦に細い瞳孔が爛々と光を放ち、銀時を射抜いて離さない。
女が立ち上がる。その身は銀時より10センチほど高く、頭からは鹿のような角が天へと伸びている。緻密な金の装飾が縫い込まれた赤い漢服を纏い、威容と艶美を同時に纏ったその姿は人の域を超えた存在感を放っていた。ゆったりとした足取りで銀時に歩み寄るたび、畳が柔らかく沈み、空気が重く揺れた。
「貴方が噂の侵入者か。星海坊主が来るかと思ってたんだけど、まさか地球の男の子1人とは、驚いたなぁ」
「男の子? 俺ぁもう“子”なんて呼ばれる歳じゃねぇんだがな」
「まだ二、三十年しか生きてないなんて、子供みたいなものでしょう? それにしてもヤンチャだねぇ、魈雲に丸め込まれちゃったのかな? ここまで来るなんて、愚かだよぉ、愚か。でも努力は認めてあげる。可愛がってあげたいところだけど、貴方はもう可愛く無いから、ダメ」
「悪いがこっちから願い下げだ。俺はお淑やかな若い女が好きでね、ペド趣味のババアはごめんだぜ」
「酷い事を言うんだねぇ、傷付いたよ」
龍宮は微笑み、服の裾で口元を隠しながら芝居がかった仕草で泣いたふりをした。
「それで、改めて聞くけど、何をしにきたのかな?」
「ドラゴン退治。ついでに宝物庫の中身掻っ攫いにきた」
「盗みはダメだよ。それに無理。大切なものはちゃぁんと鎖で繋いであるからねぇ」
「その鎖引きちぎりに来たんだよ。それに鎖はアイツらよりテメーの方がお似合いだぜ」
「そうなの?」
「ああ。地球にはテメーに似合いの鎖がある。手錠って言うんだけどな。ガキども侍らせて笑うテメーに似合いだ」
「好き勝手言ってくれるねぇ。人の街に勝手に来て、乱暴して。何か嫌な事でもあったのかなぁ? 話くらいなら聞いてあげるよ」
「ああ、嫌も嫌だ。最悪だ。
ここに居るガキはどいつもこいつも辛気臭ぇ面してやがる。夜兎も荼吉尼も辰羅も、その他のガキもみーんな誰1人心の底から笑ってねぇ。楽しそうに笑えてねぇ。
冗談じゃねぇよ、鎖に繋がれたガキなんて見てらんねぇ。まだ10何年しか生きてねぇようなやつが未来に希望を見出してねぇなんて、自由な未来を夢見てないなんて、そんなんは見てらんねぇんだよ」
「義心ってやつかなぁ? 可愛いね、可愛く無いけど。後10歳若かったら欲しかったかも。貴方みたいな気高い心を持った人間が一生懸命頑張ってる姿は、可愛くていじらしくて、好きなんだよね。虐めたくなっちゃう」
龍宮の口元が裂けるように歪む。笑顔の形をしていながら、その奥には鋭い牙が覗き、飢えた猛獣の本性を隠しきれなかった。美と恐怖が同居するその笑みは、見る者を魅了すると同時に心を凍らせる。
「貴方がどれくらいの間、心が折れずにいられるのかに興味が湧いたよ。だから少しだけ、戯れに付き合ってあげる」
「言ってろ、サドババァ。テメーの虐待も今日までだ」
「じゃあ、戦おう。地球人のか弱い刃が、この龍王の鱗を貫けるかな」
「ペドフィリアのサドババァの干からびた鱗なんざ、トイレットペーパーと変わんねぇよッ!!」
銀時は雄叫びを上げ、木刀を振りかざして龍宮へと切り掛かった。
* * *
塔の中程に位置するその広間は、既に戦乱の痕跡に呑み込まれていた。かつては威容を誇ったであろう室内の景色は、今や無惨な残骸へと変わり果てている。
豪奢に磨かれたはずの木製の柱は、拳に穿たれた深い傷跡で無残に抉られ、裂けた畳はその下の木材を剥き出しにして散乱していた。壁は無数の裂痕と亀裂に覆われ、断片となった木片が時折ぱらぱらと剥がれ落ち、乾いた音を立てて床に転がった。
天井に目をやれば、そこには未だ壮麗な龍が舞っていた。絵師の技が極限に至った天井絵。青雲を割り、黄金の鱗を煌めかせ、悠然と天を翔けるその姿は、この部屋の守護者そのものであるかのように静謐な威厳を放っていた。だが、その威容とは裏腹に現実の部屋は荒れ果て、襖は裂かれ原形を留めず、打ち倒された家具は角材となって隅に積み上げられている。床のそこかしこには赤黒い痕跡が乾いた埃に覆われ、鉄の匂いが仄かに漂っていた。
その荒廃の中心で、燕心が笑っていた。顔面から血を滴らせながらも、その口角は陰鬱に吊り上がり、狂気じみた光を帯びていた。
「おいおいどうした星海坊主ッ!? 拳が鈍くなってるぞ!」
嘲る声が荒れ果てた広間に響く。
星海坊主は無言のまま口元の血を袖で乱暴に拭い去ると、拳を叩き込んだ。しかし燕心はその拳を受け止め、力を吸収するように引き寄せ、星海坊主の体勢を崩す。体が前に傾いた瞬間、鋭いハイキックが唸りを上げて飛び、頬骨を抉るように直撃した。
(クソッ……またチラつきやがる……)
視界に閃くのは、燕心の幼き日の笑顔。妻、江華の面影を宿すその横顔。振り払いたくとも、顔を合わせる度に記憶は突きつけられる。その度に拳は鈍っていくのだ。
何より、江鷹……燕心は神威とは違う。自ら選んで闇に堕ちたのではない。自分が守れなかったが故に誘拐され、奴隷にされ、そして今なお鎖に繋がれている。その運命に追い込んだのは、他ならぬ自分。江鷹が歪んでしまったのは、自分が弱かったからだ。
だからこそ振るう拳は迷いを孕み、決定的な一撃になり得ない。
(殴れねぇ──ッ!)
何度も拳を交え、蹴撃で距離を取っても、燕心は音もなく迫る。左拳のカウンターを叩き込もうとした瞬間、燕心はそれを読んでいたかのように掴み取り、腕を極め、そのままへし折った。鋭い痛みが肩に走り、さらに星海坊主は地に引き倒された。
「ぐっ……!」
「なんだ、やっぱり義手か」
呻き声を漏らす間もなく、燕心は星海坊主の義手に渾身の力を込め、肩から捻り上げる。金属の軋みと共に接合部が悲鳴を上げ、義手はもぎ取られ、床に投げ捨てられた。残された片腕も押さえつけられ、身動きが取れない。燕心は星海坊主の胸を馬乗りにし、血に濡れた顔を覗き込む。
「お前は何をしにここに来たんだ?」
その声には怒気ではなく、渇望に似た何かが滲んでいた。
「さっきからやる気が感じられねぇ。拳に殺意が乗ってねぇ。足りねぇんだよッ!! そんなんじゃ!! 俺は本気の星海坊主と死合ってみたかったんだ!!」
苛立ちが爆ぜ、拳が振り下ろされる。
「足りねぇッ! 足りねぇッ! 足りねぇッ!」
何度も、何度も。顔面に肉を打ち据える鈍い音が広間に響く。血飛沫が畳に散り、乾いた息が漏れる。
「何しに来たんだよッ! なぁ、今更何しに来やがったッ!!」
「江鷹、俺は」
「俺は強いんだ! 強くなった! もう何も怖くねぇッ!! なぁ星海坊主! 手ぇ抜くんじゃねぇ!! 勝手に憐れむな!! 憐れむなよ、なぁ! 俺は憐れじゃねぇッ!!」
血を吐くような叫び。胸を突き刺すその言葉に、星海坊主の心は張り裂けそうだった。燕心は「クソッ! クソクソ!」と叫びながら髪を掻きむしり、荒れ狂う。
「どいつもこいつもうるっせぇんだよ!! 俺は赤龍の夜兎、燕心様だ! 殺る気がねぇならここでくたばれッ!……このッ! クソハゲがッ!!」
殺意を込めた拳が振り下ろされる。その一撃は、頭蓋を砕き尽くすものだった。星海坊主は目を閉じる。江鷹に殺されるなら、それは仕方のないことだと思った。自らを責め、抗う気力は残されていなかった。
だが──
衝撃は訪れなかった。
「見てられないアル」
その声に、星海坊主は目を開く。拳を止めていたのは神楽だった。小さな体で兄の腕を掴み、その力を受け止めている。神楽はそのまま腕を引き、流れるように投げ飛ばした。燕心の身体は宙を舞い、しかし空中で身を翻し、猫のような身軽さで床に着地する。
「こんな悲しい戦いは、私が止める。家族に戻ろう、江鷹」
まっすぐな眼差し。神楽の声は静かだが強い。
「さっき言っただろう、江鷹はもう死んだんだよ。昔の事は何も覚えてねぇ、あの船に乗るより前の俺は、もう何処にも存在しない。全部捨てた」
「おかしな事を言う奴アルな」
神楽は一歩踏み出し、迷いなく言い放つ。
「じゃあ何でお前、泣いてるアルか」
「ぇ……」
頬を伝う涙に気づき、燕心は狼狽するように拭い去る。だが震えは止まらず、顔を振って必死に感情を振り払おうとする。
「記憶になくても、全部忘れても、捨てたつもりでいても、魂はちゃんと覚えてる」
「るせぇ」
「お前が覚えてなくても、もう江鷹じゃなくて燕心でも……何でもいいアル」
「うるせぇ」
「過去は消えない、変わらない。お前が私の兄貴で、パピーの息子である事実は変わらないアル」
「うるせぇんだよ!」
「帰ろう、一緒に」
「黙れよッ! クソガキがッ!!」
差し伸べられた手を、燕心は拳で叩き潰そうとした。その殴打を神楽は逃げずに拳で迎え撃ち、衝撃が迸る。次の瞬間、燕心は拳を開き神楽の手を掴み取ると、一気に振り上げて地面へと叩きつけた。畳が裂け、空気が震える。さらに拳を離さずに振り回し、壁に投げ飛ばす。衝撃で壁が砕け、木片が四散した。
追撃のために燕心は駆け、鋭い蹴りを神楽の頭部へ放つ。しかし神楽はわずかに身を逸らし、紙一重で躱す。すかさず顎を狙い、下から突き上げる渾身のアッパーを放った。拳が炸裂し、鈍い衝撃が燕心の頭蓋を揺さぶった。
「お前の拳は、私が受け止めるッ!!」
神楽の拳が燕心の顎を撃ち抜いた瞬間、乾いた音が部屋に響き渡った。脳が大きく揺さぶられ、視界が白く弾ける。燕心は咄嗟に歯を食いしばり、反射的に右腕を振り抜いた。燕心のバックブローはしかし、決まらない。
それを待ち構えていた神楽は怯まなかった。頭突きで正面からその打撃を迎え撃ち、額と拳が衝突する鈍い音が響く。燕心の拳が止まった瞬間、神楽は地を蹴り、低く滑り込むように足を払う。燕心の足が空を切り、体勢を崩した刹那、彼の鳩尾へと神楽の拳が鋭く突き刺さった。肺の中の空気を強引に絞り出されるような衝撃。燕心の身体は弾き飛ばされ、そのまま背を壁に叩きつけられた。
「私はもう、弱くない。守られて逃げるだけの妹じゃない」
壁に打ち据えられ、燕心は苦痛に咳き込みながら息を吐く。的確すぎる一撃だった。剣闘試合でわざと攻撃を受けていたあの箇所。まるでそれを狙い澄ましたかのように打ち込まれた拳。激痛が走り、確かに骨に亀裂が入った感触があった。
殴り飛ばされ、朦朧としていた意識の中で神楽は兄と父の戦いを見ていた。その殴り合いで、攻撃が腹に掠った時に燕心が僅かに顔を顰めていたのを神楽は見逃していなかったのだ。
「今度は私がお前を守るッ!! もう何も怖くないッ!!」
決意に燃える声と共に、神楽は燕心へと再び踏み込む。鋭い拳が一直線に迫る。燕心は必死にそれを受け止めようと腕を伸ばす。しかし、その瞬間、神楽の拳は軌道を変え、掴まれた腕を逆に利用して引き寄せると、全身の回転を乗せた蹴りを彼の顎へ叩き込んだ。炸裂する衝撃が顎を揺らし、視界が跳ねる。燕心は思わず大きくタタラを踏んだ。
燕心の中に焦りが生まれる。
(追い詰められてるのか、俺が!?)
心臓が大きく跳ね上がる。冷たい恐怖が背筋を駆け上がった。奴隷船で、赤龍の船で叩き込まれた掟。失態には罰が下る。痛み、苦しみ、絶望、そして死。かつて自らが幾度も目にしてきた惨たらしい末路。それを、今度は自分が辿る番なのではないか。耳の奥に、あの幼子たちの悲鳴が木霊する。断末魔の声、恨み言。あの冷たい龍宮の声。
『残念だなぁ、期待してた子なのに……ガッカリ。う〜ん……もう、要らないかな』
その言葉が蘇る。夕染が敗北したと聞いた時、龍宮はまるで汚れた人形を捨てるかのようにそう言ったのだ。血も涙もない、無慈悲な声。胸を裂くような恐怖が全身を支配した。
(次は……俺だッ!)
恐怖と焦燥が燕心の肉体を突き動かす。二度と失態は犯せない。だがその強迫観念が逆に隙を生む。焦りが判断を狂わせ、冷静さを奪う。目の前の相手は同じ夜兎、同じ血統の、歴戦の猛者。
力任せの攻撃では崩せない。燕心の急所を狙う攻撃を神楽は必死に捌き続ける。しかし、やがて拳と蹴りは神楽の身体を確実に捉え始めた。耐えきれず、体勢を崩しかけ、ついに燕心は神楽の首を掴む。鋼鉄のような握力で締め上げた瞬間、神楽の足が高く振り上がり、燕心の顎を正確に打ち抜いた。
(また、顎ッ……!)
歯を噛み砕きそうな痛みが走り、口から鮮血が飛び散る。燕心は呻きながらも意地で堪え、神楽の頭を鷲掴みにすると、そのまま壁へ叩きつけた。
「ぐぁッ!!」
「負けねぇッ! 俺はッ、2度と失敗らねぇッ!!」
怒号と共に、拳を振り上げる。決着を急ぐ焦りが行動をせかし、頭を砕こうとその拳を振り下ろした。だが、その刹那。神楽が咄嗟に拾った瓦礫の破片を燕心の顔へと投げつけた。それは目に入り、眼球を焼くような激痛が走った。思わず狙いが逸れる。拳は空しく壁を砕き、粉塵が舞い上がった。
好機を逃さず、神楽は懐へ飛び込み、燕心の首に腕を絡める。足を燕心の背中に回し、完璧な締め技を決めた。
「ッ!?」
強烈な圧迫。頸動脈を絞め上げられ、息が塞がれる。夜兎とて肉体は生物。血流を断たれれば意識は落ちる。
(不味いッ! 落とされる……ッ!)
焦るが、背筋までしっかり抑えられているため逃げ出せない。
(クソッ!! ふざけんなふざけんなッ! 負けない! 負けたくないッ!!)
必死に暴れる。脇腹を拳で殴りつけるが、神楽は渾身の力で締めを解かない。
「もう何も怖くないッ! 怖がらなくていいッ!!」
神楽の叫びが耳を打つ。燕心の中で恐怖が渦巻いた。
(嫌だ! 嫌だ嫌だッ! 絶対に、嫌だッ!)
どれだけ殴っても、掻きむしっても抜けられない。酸素が奪われ、視界が暗く染まっていく。
「今度は! 私が絶対守るから! 一緒に帰るアル!!」
その言葉に、燕心は最後の手段を選んだ。指先を構え、相手の目を潰そうとする。両目を潰せば、いくら強い少女でも技を解くだろう。そう判断して力を込めた瞬間──
「神楽ッ!!」
星海坊主の怒声が響く。
(勝つのは、俺だッ!!)
燕心が指を突き刺そうとした、その時。神楽のポケットから何かが転がり出た。瓦礫の床に小さな音を立てて落ちる。
「ッ!」
それは押し花だった。お守りの袋からこぼれ出てきたのは一輪の黄色い花。それが封じられたはずの燕心の記憶を刺激した。捨てたはずなのに、魂の奥底にしっかりと残っていた微かな記憶。
雨の降る街
舞い上がる埃の匂い
魔窟と呼ばれた故郷、薄汚れた人々
質素な食事
黄色い花畑
花畑に立つ小さな少女の後ろ姿。彼女が振り向き、両手で嬉しそうに花冠を掴んで頭に乗せて笑うのだ。
『兄ちゃん!』
と───────
その声が魂の奥底を震わせる。
(できる訳、ねぇだろ……)
燕心は構えた手を解いた。その瞬間、意識が闇に落ちていく。全身の力が抜け、神楽の腕の中で崩れ落ちた。重い体が神楽の上に覆いかぶさる。神楽はその重みを抱きとめ、荒い息を吐きながら見下ろした。
「変わってないアル、お前は」
神楽は燕心を抱き起こし、優しく言葉をかける。
「あそこで攻撃を入れれば勝てたかもしれないのに、それが出来なかった。優しい兄貴のままアル」
安堵に表情を崩し、星海坊主が駆け寄ろうとした、その時。
「あらぁ? 燕心まで負けちゃったの? 情けないねぇ」
その場にいるはずのない、涼やかな声が、不気味に空気を切り裂いた。