「「お、お前……なんで……」
神楽は声を搾り出すように震わせ、喉の奥からかすれた音を吐いた。
広間の空気が凍りついたのは、そこに現れた存在のせいだった。姿を現したのは、他ならぬ龍宮であった。
彼女は静かに歩みを進め、衣服には一切の乱れがない。まるで散歩の途中に、気まぐれで顔を出しただけのような余裕すら漂わせていた。だが、その手に握られていたものが常軌を逸していた。彼女の細く白い指先が掴んでいるのは人間だ。しかも2人。
片方は、己が忠実な部下であったはずの夕染。
そしてもう片方は、
「銀ちゃん!!」
神楽が叫んだ。
その声は、喉を切り裂くように響き渡った。龍宮が掴み上げていたのは、万事屋のリーダーである坂田銀時の首だったのだ。
「ふ〜ん、この子がリーダーだったんだねぇ」
龍宮は唇の端を上げ、心底おもしろそうに嘲笑を浮かべる。その声音には一片の慈悲もなかった。
次の瞬間、銀時の体は無造作に宙を舞った。まるで壊れた玩具を放り捨てるかのように、彼女は軽々と神楽たちの方へと投げ飛ばす。
銀時の体は床に叩きつけられ、石造りの床を転がりながら止まった。呻き声とともに激しい咳が響き、血の混じった唾が床を汚す。ヨロヨロと両手で体を支え、必死に上体を起こすその姿は、見る者に痛々しさを覚えさせた。
「弱いね。酒の肴にもならないよ」
「ばけもんが」
銀時は吐血で赤く染まった口端を拭いながら、搾り出すように吐き捨てた。だが、その声は震えながらも確固たる意志を宿していた。
しかし次の瞬間、神楽の腕の中にあった重みがふっと消えた。彼女はハッと目を見開く。そこにあったはずの燕心の体が、跡形もなく奪われていたのだ。
「江鷹ッ!!」
叫ぶ神楽。その一瞬の意識の隙を突き、龍宮は神楽の腕から燕心を奪い去っていた。星海坊主の顔に怒りの影が走る。彼はすぐに傘を構え、鋭い眼光を龍宮へと向けた。
「息子を返せ!」
その声は広間全体を震わせるほどの怒号だった。しかし龍宮は涼やかな笑みを崩さない。
「返さないよぉ、私のものだもの。と、言いたいところだけど……もう要らないや」
言葉とともに、龍宮は燕心の体をまるで無価値なガラクタでも放り捨てるように乱暴に地面へと投げ落とした。その仕打ちに、星海坊主の怒りはさらに燃え上がる。
「これだけ時間をかけても、家族の事を完全に捨て去れないなんて駄目な子だねぇ。捨てたって言ってたのにこの様だもの。ちょっとガッカリ」
「当たり前だろ、本当に大事な記憶っていうのは何をしても消せねぇし、捨てられねえんだよ」
「はぁ、本当にガッカリだよ。ガッカリ。女々しい子。せっかくお兄ちゃんと合わせたのも無駄だったなぁ、むしろ余計中途半端になっちゃったかも」
冷たく突き放すように言い捨てると、龍宮は倒れ伏した燕心を足先で軽く蹴り上げ、無理やり意識を引き戻した。
朦朧としていた燕心の目が開かれ、すぐさま現状を把握する。彼の顔はみるみるうちに蒼白となり、血の気が引いていく。いや、蒼さを通り越し、まるで死人のように真っ白に染まっていった。
「あ……ある、主……何故ここに……」
声は震え、唇がわなないた。
「うふふ、まぁ……負けちゃったんだね、情けない」
龍宮は唇を艶めかしく歪めながら、冷淡に囁く。
燕心は必死に弁解しようと口を開く。
「そ、れは……」
だが、龍宮は彼の言葉を最後まで聞こうとしない。
「そんなに怖がらなくても、大丈夫だよ」
彼女の声音は優しくすら聞こえた。しかしそれは残酷なまでに冷たい響きを帯び、燕心の背筋を氷のように凍らせる。
彼の反対側には、同じように顔を伏せ、声を失っている夕染がいた。しかし龍宮は彼女には一切の興味を示さず、ただ燕心だけに目を注いでいた。
「今日はやっと、魈雲が派手な宴を開いてくれたから……久々に面白いかもって思ってたのに、2人とも負けちゃったからびっくりしちゃったよぉ。もう少し、頑張れるかと思ってたのに。ダメな子だねぇ」
「ま、まだ! まだ俺はやれます! 今は遅れをとりましたが、次こそは必ずッ」
燕心は声を張り上げ、必死に縋る。だがその言葉は彼女の耳に届かなかった。
「次はもうないよぉ」
龍宮の声が甘やかに響いた瞬間、細い針が燕心の首筋に突き立った。
ブスリ。
「────あ」
間抜けな声を漏らす彼の頸動脈に、薬液が流れ込む。
それは以前にも見たことのある、忌まわしき薬、活性アンプル。脳にかけられた制御を強引に解除し、肉体が壊れるほどの力を引き出す、猛毒にも等しい代物だった。
燕心の体はその場に崩れ落ちる。しかし直後、彼の心拍は爆発的に跳ね上がり、血流が全身を駆け巡り、体温は尋常ならざる速度で上昇していった。まるで体内で炎が燃え盛っているかのように、血管が浮き上がり、青白い皮膚の下で脈打っていた。
「テメェェェェッ!! 何しやがったッ!!」
星海坊主が怒声を上げた。冷静さをかなぐり捨て、感情のままに踏み込み、握った傘を振り抜く。轟音を伴って唸るその一撃は岩壁すら砕く威力を秘めていた。だが龍宮はまるで遊戯のように軽やかに身を翻し、一歩で回避した。
「江鷹! おい江鷹! しっかりしろ!!」
星海坊主の声が響く。傘を構え直すよりも、今は苦しみ悶える息子を救おうと叫ばずにはいられなかった。燕心は地に膝を突き、体を折り曲げ、喉を掻き毟っている。その様子はまるで猛毒を流し込まれたかのようで、血管が浮き出し、息は荒く、苦悶のうめきが広間にこだました。
「それ、私の血から作られた薬」
カラカラと乾いた笑い声を出し、龍宮は面白そうに両の腕を広げ、あっけらかんと告げた。その声音は残酷さと無邪気さが入り混じり、聞く者の心を逆撫でする。
「龍の血が龍以外に適応する訳ないから大抵死んじゃうんだけどね、死ぬ前にものすごーい力を引き出せるんだよぉ。燕心も夕染もダメダメだから、手を貸してあげようと思って……これでもう少し、頑張れるよね」
空になったアンプルの容器をひらりとしまい、龍宮は涼やかに微笑んだ。その笑みは、命を弄ぶ者だけが浮かべられる、底知れぬ残酷さを孕んでいた。
遠くに声が霞んでいく。
熱い。体が焼ける。喉が枯れる。頭蓋の奥から金槌で殴られるような痛み。
燕心の心は呻き声に支配された。かつて船で見た、発狂した猿の叫び。あの時理解できなかった苦痛が、今は骨の髄まで迫ってくる。暴れたい、暴れなければ耐えられない。
「ぐっ……ッ!」
喉から大量の血が噴き出す。口腔が赤に染まり、吐瀉の度に広間の黄金の床が穢れていく。耳の奥ではガンガンと絶え間なく打ち付けるような轟音。幼子の悲鳴にも似た幻聴が、頭を割り裂くように鳴り響いた。
「うるせぇ、うるせぇうるせぇ! 頼むから静かにしてくれよッ!」
「しっかりしろ!」
星海坊主が声をかけるが、その声も燕心には遠く霞んで聞こえた。毛細血管が次々と破裂し、瞳は血で濁り、強膜が赤く塗り潰されていく。瞼の隙間から血の涙が流れ落ちる。その異様さに星海坊主の顔が焦燥で歪んだ。
その時だった。龍宮が一歩前に出て、燕心に言葉を投げかけた。
その声は耳ではなく、脳髄に直接響くように滑り込む。
「燕心、最期まで戦いなさい」
「……はい。主」
燕心の思考が切り替わった。苦痛と恐怖は切り捨てられ、残ったのは忠誠と狂気。
次の瞬間、広間に破砕音が轟いた。燕心の拳が眼前の敵を直撃する。咄嗟に防御した星海坊主だったが、その威力は先ほどの比ではなかった。腕ごと衝撃に押し潰され、巨体が宙を舞う。
「もう、失敗しない。絶対にッ──!」
燕心は血の涙を撒き散らしながら立ち上がった。理性の灯火は既に消え、薬に狂わされた力が肉体を支配する。赤く染まった目が獲物を射抜き、獣のような唸り声を上げて駆け出す。その脚は地を抉り、空気を裂き、再び星海坊主へ迫る。
「星海坊主!!」
銀時が援護に飛び出そうとする。しかし、その目の前に巨大な棍棒が振り下ろされた。轟音と共に床が砕け、砂塵が舞い上がる。銀時は即座に飛び退き、眼前の敵を睨み据えた。
「勝ちます。私は、必ずッ。必ず……必ず、必ずッ!」
「まともじゃねぇッ」
立ち塞がるのは夕染。彼女の全身は血に濡れ、今にも崩れ落ちそうでありながら、幽鬼のごとき執念で立ち続けている。震える手で金棒を振り上げ、その眼には狂気が宿っていた。次の一撃が振り下ろされようとした瞬間、
無数の暗器が雨のように降り注いだ。鋭い刃が夕染の周囲に突き刺さり、彼女は動きを止める。
銀時も夕染も一瞬息を呑み、天井を仰いだ。
「まったく、手を煩わせないで下さいよ」
「銀さん! 神楽ちゃん! 無事ですか!?」
壊れた壁の隙間から、上階に姿を現したのは魈雲と新八だった。見下ろす二人の影が揺れ、戦場に加わる。
「倒してくれる事を期待していたのに、なんだか余計に状況が乱れているように見受けられますが?」
「うっせ、ちょっと手こずってるだけだ。こっから全部ひっくり返すんだよ」
「言葉だけは強気ですね、全く」
「それに期待はずれなのはテメェも同じだろ。アイツ倒せてねぇじゃん」
「ちょっとしくじっただけです。こっから全部ひっくり返すのでお構いなく」
魈雲は眼下の戦況を冷静に分析する。その表情には焦燥の色が隠しきれない。燕心と夕染は薬によって凶暴化し、龍宮は未だ傷一つ負っていない。対してこちらは満身創痍。状況は最悪だった。
星海坊主に龍宮を押さえ込んでもらうしかない。だが彼の心は息子に縛られている。それでは力を発揮できない。
燕心の猛攻が続く。殴撃、蹴撃、連撃。回転力を増した暴風のような連打が星海坊主を押し込み、防御の傘をも軋ませる。守り続けても衝撃は確実に肉体を削り、立っているだけで限界を超えていた。
(星海坊主は息子を殴れない。そんなに負い目を……)
このままでは防戦一方。時間が経てば経つほど怪我が増えていく。防御に徹したとて無傷でいられる相手ではないのだ。その事には銀時も気づいている。
「銀時さん。夕染さんは僕達が引き受けます」
「あ?」
「だから、燕心さんを倒してください。龍宮は星海坊主でなければ抑えられない」
銀時は一瞬迷い、しかし状況を見極める。魈雲の言葉は正しい。星海坊主が龍宮を相手取るしかない。ならば、自分が燕心を止めなければならない。
「次はしくじんなよ」
「舐めないで下さい。一度倒した相手には負けません」
魈雲は鋭い笑みを浮かべ、武器を構える。そして銀時に一つのものを投げ渡した。
「これは……」
「予備はありませんので、しくじらないで下さいね」
銀時はそれをしっかりと懐に収め、新八を伴って走り出した。二人は夜兎の戦場へ足を踏み入れた。
蹴り、殴り、襟首を掴み、頭突きが炸裂する。燕心の激しい攻撃に星海坊主は押され続け、神楽が援護に割って入るも、その全てが捌かれ、逆に血を流す結果となる。
燕心の武術は洗練されていた。拳の形を瞬時に変え、蹴りの角度を変え、的確に急所を狙い続ける。鼻、こめかみ、額、顎、頚椎、心臓、肋骨、肝臓、腎臓、鳩尾、肩口、膝、大腿、脛。殺すためだけの連撃。完璧な攻撃。
「ッ!?」
神楽の額を手刀が裂き、血が視界を覆った。瞬間、燕心の掌底が心臓を狙って伸びる。鋭い一撃、決定打。だがそれが神楽を穿つことはなかった。
ドスッ──
二人の間の床に、一本の木刀が突き刺さった。
銀髪の侍が立ち塞がった。
「ぎ、銀ちゃん……」
「お前は……」
銀時は砂煙を切り裂くように木刀を振り払い、その向こうに立つ燕心を真っ直ぐに見据えた。陰鬱な影を纏った顔、白目は赤く染まり、血走った眼が獣のように細かく揺れている。
新たに立ち塞がった銀時を視界に入れても、その瞳には感情らしい色が浮かばない。ただ、増えた敵を殺せばいい。そんな無機質な殺意のみが燃え続けていた。
「おいハゲ、変われ。ここは俺が引き継ぐ」
「なんだと」
「殴る事もできねぇんならすっこんでな。代わりに俺が殴ってやる。気にすんな、喧嘩は得意だ。そんでお前はモンスターハンターだろ、モンスターハンターは大人しくドラゴン退治に行ってこい。適材適所ってもんがある」
「モンスターハンターじゃねぇ、“えいりあんばすたー”だ」
「どっちでも同じだろ。アイツ倒したところであの女がいたんじゃ意味がねぇ。あの女を倒さなきゃ自由は手に入らねぇ。そんでムカつくが、あの女はお前がいなきゃ倒せねぇ」
「お前……」
「アイツのことは俺に任せろ。地球にいる、神楽のもう1人の家族。万事屋にな」
星海坊主の眼光が銀時を射抜く。言葉の裏にある覚悟を読み取り、彼は数瞬の逡巡を経て、深く息を吐き、立ち上がる。
「いいだろう。バケモノ退治は俺の仕事だ。さっさと倒して帰ってくる。だから殺されるなよ。死んだら殺すからな」
「おう」
互いの背を預けるように視線を交わし、星海坊主は背を翻す。彼が龍宮の方へと消えていくのを見届け、銀時は木刀をギュッと握り込む。手の中で木刀がわずかに軋み、静かな気迫が迸った。
「銀ちゃん……新八……」
神楽が弱気に声を震わせる。血と汗にまみれたその顔は、必死に気丈さを保とうとしているが、仲間を案ずる心が隠し切れていなかった。銀時はちらりとも振り返らず、燕心へと声を投げた。
「初めましてじゃねーけど、一応改めて自己紹介でもしとくか。家族の問題に部外者が立ち入って来たってんじゃお前も気分悪いだろ」
「家族……?」
「俺たちは血の繋がりなんてもんはねぇがな、同じ屋根の下で同じもん食って、同じもんに心を動かされてきた万事屋だ。コイツのために、コイツの大事なもんのために動くのに大層な理由なんていらねぇんだよ。俺たちは、神楽の味方だ」
「じゃあ敵だ。敵は殺す」
「江鷹さん! その拳を収めて、正気に戻ってくださいもうこんな戦いは終わらせるべきだ!」
「敵は、殺す……殺さなきゃならないんだ……殺さなきゃ……」
燕心の唇から漏れる声は掠れ、震え、だが執拗な執念に塗れていた。体は小刻みに震え、頭を抑えるように耳を塞ぎ、存在しない騒音を振り払おうとする。だが脳裏には消えない悲鳴が響き渡っていた。止まらない。終わらない。己の心に深々と刻み込まれた恐怖と苦痛が、呪いのように彼を縛っていた。
「龍の鎖は随分と頑強みたいだな。悪いが少し痛い目にあってもらうぞ江鷹。お前が忘れちまったもん、捨てざるを得なかったもん。全部俺が思い出させてやる。
だから10年以上の恨み辛み、憎しみも苦しみもまとめて俺にぶつけてこい。全部踏み越えて、お前を家族の元に連れてってやる」
「お、俺は……俺は負けねぇッ!!」
血の涙を垂らす燕心が爆発するように踏み込み、拳を振り抜く。その一撃が銀時の顔に突き刺さり、激しい衝撃が全身を揺らす。しかし銀時は踏みとどまり、木刀をしなやかに振り抜いて燕心の顔面を打ち据えた。
「さあ、全部出してこい。
殴り飛ばされた燕心の体が壁に叩きつけられ、瓦礫が崩れ落ちる。舞い散る破片を払い除けながら、燕心は幽鬼のように立ち上がった。ふらつきながらも目は赤く爛れ、血塗れの顔で銀時を射抜く。
「殺さないとならないんだ……失敗は許されない、許されないから……もう2度と……間違えないから……」
咳き込み、血を吐き出す。その血が床に飛び散り、赤黒い染みを広げていく。だが彼はなおも前を向き、震える身体を無理やり駆動させて叫んだ。
「もう、あんなのは嫌だ! だからッ、俺は負けない!!」
地面が砕け散る程の踏み込み。アンプルの影響か骨が軋む。それを無視して振るわれた拳が銀時を狙う。銀時は身を逸らしたが、後方の壁が粉砕され、飛散した瓦礫が銀時を襲う。その隙を逃さず追撃へと移る燕心。しかしその腕を木刀で叩き止める者がいた。新八だ。
燕心はすぐさま狙いを変え、木刀を掴み引き寄せて頸椎を砕かんとする。だが次の瞬間、背後から神楽の踵が後頭部に叩き込まれる。
「ガッ……」
視界が歪む。それでも意識を止めることなく、燕心はその足を掴み、神楽の体を振り回して新八に叩きつける。その衝撃で腕が裂け、鮮血が溢れ出す。燕心はわずかに視線を落とし、自らの傷を確認する。
アンプルによる力の増幅に肉体がついてこられず、骨は既に砕け、血管は破裂し、命を削る速度が加速していた。心拍は乱れ、血は滝のように流れ続けている。このまま続けば出血死は避けられない。いや、戦いを終えた後に生き残る可能性すらも限りなく低い。
それでも構わない。命令はただ一つ。『最期まで戦え』。
ならば、命尽きるその瞬間まで、戦い続けるだけだ。
しかし、それを認めない者たちがいた。
銀時。新八。神楽。
血に濡れ、瓦礫にまみれ、それでも立ち上がる。亡霊のように立ち塞がる燕心に、彼らは決して折れぬ眼差しを向け、武器を構えた。