もう1人のバカ兄貴   作:佐倉シキ

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江鷹

 

 

 

 

 

 

 

 

落ちる────。

 

 

 

 

 

塔の外へと放り出された2人の眼下に広がるのは、不夜城と呼ばれる街の幻想的な光景だった。数え切れぬほどの灯りが夜空に散る星のように瞬き、通りを縁取る松明の炎が、闇に浮かび風に揺れていた。楼閣が連なり、どこまでも華美に並び立つ建物は、まるで夢の中の景色のように現実離れした輝きを放っている。だが、それは美しさと同時に、崩壊へ向かう儚さを孕んでいた。

 

瓦礫を蹴飛ばし、体を加速させながら神楽は腕を突き出す。必死の一心で伸ばしたその手は、落下する兄の腕をがっしりと掴み取った。反動で肩に凄まじい衝撃が走り、関節が外れかけるほど悲鳴を上げる。もう片腕は必死に飛び出した石の突起を握り締め、辛うじて自らの身体を留める。全身に痛みが奔り、視界が白く弾ける。夜兎でなければ肩は砕け落ちていただろう。

 

2人分の重量が石の突起をきしませ、石片がポロポロと落ちていく。神楽の背中を冷たい汗が伝い、握る手が血に濡れて滑りそうになる。それでも彼女は必死に掴み続けた。

 

「手ェ放せよ」

「嫌アル!」

「お前まで落ちるぞ」

「絶対ッ、嫌だッ!!」

 

江鷹の低く静かな声に、神楽は絶叫のような声で応じる。歯を食いしばり、目を吊り上げ、全身の力を込めて兄の腕を引き上げようとする。上方には銀時たちの姿が見える。二人のいる場所は彼らよりおよそ20メートル下方。上まで戻らなければ助かる道はない。だが突起の岩はひび割れ、砕け散るのも時間の問題だった。

 

江鷹の頬に熱いものが滴り落ちた。視線を上げると、それは神楽の腕から流れ出した血だった。彼女の腕は裂け、血がぼたぼたと滴り落ち、江鷹の顔を赤く染めていく。どちらもすでに満身創痍。いや、むしろ江鷹の方が圧倒的に深手を負っていた。火傷により皮膚は焼け爛れ、薬物によって内臓は破壊され、骨は折れ、全身に無数の裂傷を抱え、激しい出血に晒されている。

 

(どうせ俺は、もう長くはない)

 

江鷹はその事実を淡々と受け止めていた。己の命が終わりに近づいていることを、既に悟っている。ここが死に時であると。

 

神楽もまた、本能で理解していた。だからこそ、必死に抗い、絶対に手を離すまいとする。彼女は折れんばかりの力で兄を掴んでいた。

 

「なあ、分かるだろう。放してくれ」

「嫌だ!」

「頼む放せ。2人まとめて死ぬべきじゃない」

「嫌だァッ!!」

 

瓦礫の音と炎の爆ぜる轟音の中、2人の声が重なり合う。神楽は渾身の力を込めて江鷹を持ち上げようとした。だが彼女が掴む石の突起には亀裂が広がり、もはや長くは持たない。周囲に炎は広がり、熱風が肌を焼き、火の粉が雨のように降り注ぐ。

 

眼下の街にもまた、炎が容赦なく広がっていた。最初は小さな火の手にすぎなかったものが、瞬く間に街を覆い尽くしていく。地下の冷たい闇に閉ざされていた空間が、炎の赤に塗り潰され、光と熱に飲み込まれていった。楼閣の屋根を駆け上がる炎は生き物のように激しく揺らめき、燃え盛る火柱は天へと突き抜けるかのようだった。煌びやかな装飾を誇っていた建造物は次々と焼け崩れ、瓦や柱が爆ぜながら崩落し、火の粉を撒き散らして地へ叩きつけられていく。街の至る所で爆発音が響き、鮮やかで豪奢だった花屋敷の街全体が、燃え広がる炎に包まれ、まるで地獄の業火そのものの姿を晒していた。

 

江鷹の瞳に、その炎が映る。翡翠色の瞳に燃え盛る赤が揺らめく。下方に広がるのは炎の海。いくら夜兎の肉体であろうと、今の彼の重傷では、この高さからの落下は死に等しい。その上で炎に呑まれれば、生存の可能性はゼロに限りなく近い。

 

(まあ、仕方ない)

 

江鷹は心の中で呟いた。それもまた天命というものだ。人は死ぬべき時に死ぬ。自分にとってはそれが今だった、ただそれだけの話。過去を忘れ、名を失い、空っぽの器でありながら人を虐げてきた己には、これ以上に相応しい末路はない。むしろこれほど恵まれた最期はないだろう。

 

 

彼は静かに目を閉じた。

その刹那、忘却の彼方に置き去りにしたはずの風景が、脳裏に鮮やかに蘇った。

 

 

一年中雨ばかりが降りしきる、じめじめとした街。ザーザーという途切れぬ雨音はノイズのように耳にまとわりついていた。誰かが言った、ここは魔窟だと。だが江鷹にとって、雨は嫌いではなかった。むしろ好きだった。

 

ずぶ濡れで帰宅した日のこと。

 

『風邪を引くわよ、江鷹』

 

鈴が鳴るように柔らかい声が降り注ぐ。振り返れば、珊瑚色の髪を揺らし、翡翠色の瞳を持つ美しい女性が微笑んでいる。優しくタオルを頭にかけて、濡れた髪を丁寧に拭ってくれる。母の穏やかな笑顔は、雨の街に咲く花のように温かかった。

 

『傘無しがカッコいいと思う年頃なんだろ、江鷹は』

 

横でからかう声。

 

『はぁ〜? 馬鹿にすんなよ。怪我隠してスカしてるお前よりマシだね神威』

『はぁ? スカしてないけど、バカしてるよりマシだろ』

 

少年たちの言い争いに、父の呆れたような低い声が割り込む。

 

『こら2人とも。また拳骨が必要か?』

 

父のその声に、二人は気まずそうに目を逸らし、口笛を吹いて誤魔化す。母はその光景に花が綻ぶような笑みを浮かべ、楽しげに肩を震わせて笑った。

 

『あー! 江鷹帰ってきたの!?』

 

幼い少女の弾む声が響く。

 

『神楽、お兄ちゃんにおかえりって言ってあげて』

『兄ちゃんおかえり!』

 

無邪気な笑顔で抱きついてくる小さな妹。

 

『みてみて! 神楽おにぎり作ったの! 上手にできたから兄ちゃんにもあげる!』

 

笑顔で差し出されたのは不恰好なおにぎり。その笑顔を見て、江鷹は心の底から嬉しそうに微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

(大事な、家族か)

 

記憶はまたすぐに、霞に攫われるように消えていった。輪郭を保てず、声も顔も淡くほどけ、夢の残滓のように消えていく。それでも、最後の最後に、確かに思い出すことができた。声も、姿も、温もりも。一瞬だけであったが、それだけで十分だった。

 

(ふふ。それなら、上等だ)

 

江鷹はゆっくりと目を開き、掴まって必死に離すまいとする神楽の瞳を真っ直ぐに捉えた。その双眸に宿る光は、何かを決めきってしまった者のものだった。悟りにも似たその気配に、神楽は必死に首を横に振り、嫌だ、嫌だと駄々を捏ねる子供のように涙を浮かべて拒絶する。彼女は歯を食いしばり、全身の力を込めて兄の体を少しでも引き上げようとした。だが、彼女の掌を支える石にはひびが走り、亀裂は音を立てて広がっていく。砕け落ちれば2人は奈落へと落ちる。かといって力を込めなければ上に戻ることはできない。にっちもさっちも行かない、極限の状況であった。

 

「なあ、お前らが思ってるほど、俺の人生は不幸じゃないぞ。俺を憐れむなって言った言葉に嘘はない」

 

血で濡れた唇がゆるりと動き、江鷹は微かに笑った。

 

「もう少しッ、もう少しだから!」

 

必死に引き上げようとする神楽の叫びが夜の空気を震わせる。

 

「他人から見れば、そりゃあ酷いもんかもしれないけどな。強くなれたし、アイツらは認めないかもしれないけど友達もいる。龍宮様は確かに怖いお方だが、彼女に救われたこともまた事実。不夜城での暮らしは値打ちのある日々だったと自信を持って言える。恨みなんてない」

「後にするアル! 後で、後で聞くからッ!」

 

涙で声を震わせる妹を見て、江鷹は一瞬だけ眉を緩めた。

 

「夕染と訓練し、魈雲と語らい、龍宮様と食事を共にした。他にもあの船にはいろんな人達がいた。戦い、売り、買い、働き、笑い、語らい、短い時間だったが共に過ごしてきた。ははは! 主は俺を捨てたし、俺は主を裏切ったけどな! それでも、燕心の人生は悪くなかった!

ずっとずっと探してくれた家族がいた。奴隷売買の会場にまで単身乗り込んできた父親、本気で拳を打ち合った兄貴、命をかけて腕を伸ばしてくれる妹。もう死んじまったけど、優しかった母親。江鷹の人生も最高だな!

ああ、そうさ! 総合して、俺は良い人生を送った! 良い人生だった!」

 

その言葉はまるで遺言のようであった。疲労困憊、血に濡れ、肉体は既に限界を越えている。もはや余力は残されていない。だが江鷹の顔には、妙な清々しさがあった。すべてを吐き出し、何も残していない者だけが得られる安らぎ。その表情を見て、神楽は更に力を込め、体格で劣る自分の身体で、頭一つ大きい兄を引き上げようとする。彼女の筋肉が悲鳴を上げ、血で滑る掌が必死に兄を掴み続ける。江鷹の腕ももうすぐ石に届きそうだった。

 

だが、その時だった。

 

メリメリ、と嫌な音を立てて、突き出ていた石のひびが一気に広がっていく。

 

「もう十分だ、十分満たされた」

 

江鷹の声は静かで、どこか安堵すら感じさせた。

 

「嫌アル! そんな事言わないでヨ! 折角会えたのに」

 

神楽の声は涙に濡れ、掠れて震える。

 

「アイツらと共に戦えて幸福だった! お前らがずっと探してくれてたってだけで超嬉しかった! 俺は幸せ者だッ」

「今度はッ、今度は私が助けるアルッ」

 

その瞬間、神楽の握っていた石が砕け散った。二人の体が一緒に落ちそうになる。だが江鷹は最後の力を振り絞り、咄嗟に腕を伸ばすと、砕けた石の残りに指を引っ掛けた。そして、解けた妹の腕を今度は自らの力でしっかりと握りしめる。

 

「悪いね。助けんのは兄貴の特権なんだ。……俺のことは気にすんなよ! 胸張って、生きろッ!」

 

その瞬間、立場が逆転した。掴まれていた者が支える側に。江鷹は残された力を振り絞り、叫びながら神楽の体を上へと放り投げた。骨も砕けそうな渾身の力が込められたその投擲に、突起の石は今度こそ粉々に砕け散り、支えを失った江鷹の体は宙に投げ出される。

 

「兄ちゃぁぁぁんッ!!!!!」

 

神楽の絶叫が響き渡る。

 

「じゃあな、神楽。悪くなかったよ」

 

落下していく最中、江鷹は赤く燃える街を背に、声を張り上げた。

 

「後は任せたぞッ!! 今度こそちゃんとしてくれよッ!!!

 

頭の爽やかなお父さんッ!!!」

 

瞬間、神楽の体は広間の床へと放り込まれ、無様に転がりながらも確かに生還を果たした。石床を擦って止まり、息を荒げると同時に、少女は即座に立ち上がり兄の元へ戻ろうと駆け出す。だが、それはもう叶わない。

 

瓦礫の中から這い出た銀時と夕染が、必死に彼女を押さえ止めた。

 

「あぁぁぁぁあああぁぁぁぁッ!!」

 

神楽の喉が裂けるような悲鳴が響く。瞳から大粒の涙が零れ落ち、頬を濡らし、床に散る。必死に暴れ、兄を追い求めるその姿は痛々しいほどであった。

 

「燕心さん……」

 

夕染もまた悲しげに呟き、燃え盛る街並みを俯きながら見下ろす。その声音は悼むようにか細かった。

 

銀時は何も言わなかった。ただ、嗚咽する少女の背を黙って支え、その視線を炎の中に落としながら、無言のまま立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

落ちる───────。

 

 

重力に引きずり込まれるように、江鷹の体は奈落へと急速に落下していく。彼の瞳に映ったのは、かつての華やかさを完全に失い、業火に呑まれた地下都市、花屋敷の姿だった。龍宮が買い上げ、夢のように繁栄していた不夜城。幾重にも重なる楼閣が整然と立ち並び、無数の光が瞬いていたはずの街並みは、今や炎に蹂躙され、赤黒い地獄絵図と化している。

 

松明の炎が列をなし、風に揺れるたびに不規則な影を広げ、街全体が怪物のように蠢いて見える。燃え上がる音と轟く熱気が、落ちゆく彼の鼓膜を震わせた。

 

(悪人は地獄に落ちるってね、文字通り……)

 

脳裏に浮かんだ皮肉めいた思考が、痛みで霞んだ意識の奥で冷たく笑った。

 

次の瞬間、彼の体はせり出した瓦屋根に激突する。骨が軋み、瓦が粉々に砕ける轟音が響き渡った。勢いは止まらず、そのまま屋根を突き破り、瓦礫と共に下へと叩き落とされる。

 

「ッ──」

 

喉から声を絞ろうとしても、肺が空気を吐き出すばかりで、叫びすら音にはならない。受け身を取る余裕など、もはや一片もなかった。

 

背、肩、脚、次々と硬い床や梁に打ち付けられ、そのたびに視界が白く弾け飛ぶ。意識は遠ざかろうとしながらも、鋭い痛みが無理矢理に彼を現実へ引き戻す。血と埃の臭いが鼻を突き、全身を襲う衝撃が呼吸を奪う。やがて、地面に叩きつけられた瞬間、肺の中の空気が一気に絞り出され、胸郭が破裂するかのように苦痛が走った。視界は闇に覆われ、時間の感覚さえ途切れる。

 

数秒、いやもっとか。どれほど経ったかも分からない。

やがて朧げな意識がゆっくりと戻り、暗闇の隙間から炎の赤が滲んできた。

 

生きている。

かろうじて、命は途切れていなかった。

 

だが、その実感と同時に、体の奥底から温もりが急速に流れ出しているのを悟った。胸から、腹から、四肢から。血が止めどなく溢れ、冷たい床石を濡らしながら広がっていく。その広がりは彼の体温を奪い、凍てついた指先から死が迫ってくるのを、まざまざと感じさせた。

 

「雨が──」

 

江鷹は真っ赤に染まった腕を震わせながら、虚ろな空に向けて伸ばした。ここは地下都市。不夜城に、雨が降るはずもない。

 

「雨は、もう……止んだか……」

 

言葉が途切れるたび、心拍は確実に鈍く、弱くなっていく。

重いまぶたが意識を放り出そうとするのを、必死に振り払うようにもう一度目を開いた。

 

視界に広がったのは、炎に呑まれ朽ちていく街並みだった。かつては誇らしげに聳えていた楼閣が炎に次々と飲み込まれていく。木組みは悲鳴を上げながら崩れ落ち、黒煙が天井のコンクリートへ突き刺さり、空間全体を赤黒く染め上げている。かつての栄光は、今まさに灰となろうとしていた。

 

「無事でよかった、元気そうで……良かった……」

 

ふと脳裏に浮かんだのは妹の顔だった。砕けた記憶の欠片の中にあるのは、かつてのジメジメとした故郷の薄暗さではない。神楽は今、自信に満ちた明るい瞳で立っている。確かにこの星で、素晴らしい仲間や出会いがあったのだと分かる。

 

「父さんも……ついでに神威も……死ぬ前に会えて、良かったなぁ……」

 

腕を力なく地面へと落とす。呼吸は浅く、空気を吸うたびに胸が激しく痛んだ。

母には会えなかった。あの世でさえ、会えることはないだろう。もしも死後の世界があるのなら、自分が行くのは天国などではなく、間違いなく地獄だ。

 

バチバチ、バチバチと木材が焼け崩れる音が街中に響く。しかし、その轟きさえ、もう耳には届かない。

 

 

雨も、悲鳴も、耳鳴りも。

 

何もかもが遠ざかっていく。

 

 

 

(ああ……やっと、静かになれるんだ……)

 

 

迫り来る死の気配は、苦痛ではなく、むしろ心地よい安堵となって彼を包み込む。すべての痛みも、怒りも、背負ってきた重荷も、遠ざかっていく。心拍はゆるやかに、鈍く、そして静かに彼の胸を叩く。まるで、深い眠りに誘う子守唄のように。

 

「───────!」

 

霞む視界に、ひとりの女の姿が現れた。江鷹の側に寄り添い、優しく、どこか寂しげに微笑みながらこちらを覗き込む女が。幻覚だと理解できた。だが、それでも、最期にもう一度会えたことが、何よりの救いだった。

 

(母さん、俺はちゃんと守ったよ。ちゃんと出来た。ちゃんと生きた。2人の息子として、恥ずかしくないように生きたつもりだよ。だから……)

 

「悪く、ないでしょ……?」

 

声を絞り出したとき、母は包み込むように穏やかに微笑み、静かに頷いた。撫でるようなその眼差しが、彼の心を温める。

 

その光景を最後に、江鷹はゆっくりとまぶたを閉じた。

 

(ああ……良い人生だった……)

 

やがて全ての感覚が遠ざかる。痛みも、苦しみも、重さも、すべてが溶けていき、静かな安らぎだけが残る。江鷹の意識は闇に沈み、その魂は、炎に包まれ崩れゆく地下都市と共に、静かに消えていった。

 

 

 

 

 

 

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