「後は任せたぞッ!! 今度こそちゃんとしてくれよッ!!!
頭の爽やかなお父さんッ!!!」
息子の最期の声は確かに父の耳に届いた。
その一言が胸に突き刺さった瞬間、星海坊主は理解する。江鷹は、死んだのだ。
胸の奥で何かがぷつりと切れる音がした。
耳を焼くように響いていた炎の轟音も、瓦解する建物の崩落音も、すべて遠ざかり、世界が無音に沈んでいく。音のない空間に取り残されたかのような錯覚の中で、ただひとつ確かなのは、息子の命が消えたという事実だった。
脳裏に、かつてのあどけない少年の姿が次々と蘇る。まだ幼い笑顔、無邪気な声。十年以上ぶりにようやく再会できたというのに、その喜びを味わう間もなく、もう二度と声を聞くこともできない。心臓が裂けるような痛みが星海坊主の胸を貫いた。
「ほぅら、まずは1人、死んじゃったねぇ。バイバイ燕心……ああ、江鷹だったねぇ。貴方の事は嫌いじゃなかったよぉ」
龍宮の嗤う声が、残酷に響き渡った。拘束されたままの星海坊主は、その言葉を聞きながら、どうしようもない無力感に苛まれる。守れなかった。烙陽にいれば、攫われることもなかったのかもしれない。今この瞬間、龍の拘束を破り捨てられれば救えたかもしれない。だがもう遅い。命は戻らない。戦場で数多の死を見てきた彼は、それを誰よりも理解していた。そして理解するたびに、心の奥底から溢れる喪失感が果てしなく膨れ上がっていく。
だがその深い悲しみを、さらに強烈な炎が塗り潰していく。怒りだ。胸を焦がすほどの怒りが星海坊主を燃え上がらせた。憎しみは江鷹を奪った龍宮へと向かう。だがそれ以上に、自分自身への怒りが彼を苛む。守れなかった自分、気を抜いた自分、十年以上も息子を見つけられなかった自分。そのすべてが許せなかった。
だが江鷹は自分に託した。死の間際に後は任せたと言ったのだ。ならば、悲しみに沈む暇などない。戦わねばならない。星海坊主は瞬時に感情を切り替え、痛みと悲しみを心の奥底に押し殺す。悲しむのは後でいい。今はただ生き残り、戦い抜く時だ。
闘志が体を貫き、魂を灼き立たせる。息子の死を無駄にすることは許されない。流れた血の代償は必ず返す。それが父としての責務だ。拘束された両腕は怒りで震え、心は戦いへの欲求で飢え渇いていた。
ドクン───
夜兎の血が脈動し、全身を沸騰させる。脳が焼き切れそうなほどの衝動が全身を支配しようとする。しかし星海坊主は強靭な理性でそれを押さえつける。
(黙れ、
瞼を閉じ、一瞬だけ江鷹の顔を脳裏に浮かべる。そして深く息を吐き出し、胸を焦がす怒りを闘志へと変換した。
拘束を押し潰すように、片腕を地面に突き立てる。押さえつける龍宮は、さらに力を込めてその小さな体を叩き潰そうとする。だが、
「ッ!?」
「お゛ぉ゛らぁッ!!!」
轟音が室内を揺るがした。星海坊主の腕が地面を砕き、石床が裂けていく。次の瞬間、50トンを優に超える龍宮の巨体が持ち上げられ、拘束を一気に振り払った。
そして、振り絞った全身の力を拳に込め、その巨体の顔面を殴り飛ばす。激しい衝撃音と共に、龍宮の体は宙を舞い、地面を幾度も転がっていった。その一撃は、今までの戦いがすべて手加減であったかと思わせるほどの圧倒的な破壊力だった。
(歯が砕けた……この私の歯が……)
龍の口から濁った血が滲み出し、床には大きな牙が4本、乾いた音を立てて転がった。鱗は剥がれ落ち、骨には深い亀裂が走り、流れ出た血が床を染める。
(へえ? 面白い)
龍宮は即座に龍脈の力を呼び覚まし、砕かれた肉体を修復する。傷は見る間に塞がり、骨が軋みを上げながら元に戻っていった。
「龍がアルタナの力を持ってるってのは本当だったようだな」
「龍脈なんて呼ぶ星もあるからねぇ。そういえば、
「だがどんだけ治ろうと関係ねぇ。死ぬまで殴れば死ぬだろう」
「野蛮だねぇ。でも、貴方にそれができるかな?」
星海坊主の腕からは鮮血が滴り落ちていた。己の全てを叩き込んだ一撃。その威力は龍をも砕いたが、反動は確かに彼自身の肉体をも蝕んでいた。
それでも、彼は揺るがぬ眼で龍宮を睨み据える。
「できるさ。託されたからな、家族を持たないお前には分からんだろうが……父親を舐めるなよ」
低く静かな声に、燃え盛る怒りと揺るがぬ決意が宿っていた。星海坊主の双眸は鋭く、強い覚悟を宿して龍宮を射抜いた。
「それに俺は1人じゃない」
静かに、だが力強く告げられた星海坊主の声。その言葉を裏打ちするように、重い音が床を叩き割った。
大理石のように固い床板が蜘蛛の巣状に砕け散り、鋭い音が室内を震わせる。振り向いたその先には、涙に濡れた瞳で龍宮を睨み据える神楽の姿があった。
次の瞬間、彼女は叫び声とともに飛び込む。全力を込めた小さな拳が龍宮の頬を正確に捉えた。星海坊主の一撃には遠く及ばぬ、あまりにもか細い拳。しかしその一撃は、今までで最も重く、最も痛烈だった。
(……拳が、重い? なんで……?)
龍宮は戸惑いの息を漏らす。その違和感に気づいた瞬間、背中を駆け上がってくる軽やかな足音を感じ取った。鋭い反射で落とそうとするが、それより早く右目へ鋭い痛みが突き刺さる。木刀が瞳を抉り、激痛が脳髄を焼いた。
「ッ!?」
反射的に頭を振る。その瞬間、逆鱗にまで鋭い痛みが奔る。
神楽の拳は囮。龍宮の注意が一瞬逸れた隙を突き、銀時がその背を駆け抜け、木刀を眼窩に突き刺したのだ。そして痛みに怯んだ一瞬の間に、魈雲が銀時の刀を掴み取り、逆鱗へと鋭く突き立てていた。
眼と逆鱗、龍の急所を同時に穿つ。連携に迷いも淀みもない。
魈雲はすぐさま判断し、木刀では不利と悟ると自らの真剣を銀時へと差し出す。銀時は短く礼を告げ、それを受け取ると二本の刃を手にした。両手に構えられた刀が、月光のように鈍く光る。
「世界には、とんでもない化け物がいる」
言葉とともに重い音が響いた。
星海坊主が上空から落ちてきた黒焦げの愛用の傘を掴み取ったのだ。煤けた骨組みを握り直し、真正面から龍宮へと突きつける。
「城を飲み込む獣、街一つを消滅させた蟲の群れ。災害と比べられるほどの化け物。ありゃあ俺たちとは規格の違う生物だ。そしてお前も、そんな規格の違う化け物の1匹」
その声には揺らぎがなかった。星海坊主の脳裏に、無数の戦場の光景が駆け巡る。己の刃が届かぬ異形、星を蹂躙する巨獣、アルタナに侵された怪物たち、敗北と死の臭いを纏った戦いの記憶が蘇る。
「ドラゴンとは龍脈が豊かな星に生まれる怪物の事だ。姿形は多種多様。共通しているのは寿命が長く、巨体で、龍脈と深い縁を持つという事だ。……俺はそうやって龍脈と、アルタナと深い縁を持った長寿の存在を1人知っている」
「変異体の事?……あぁ、察するものがあるねぇ。子供達からアルタナの匂いがするものねぇ」
「そうか。赤龍、龍宮。数多の子供を買い集めた不夜城の女王よ」
星海坊主は深く息を吸い込む。そして、その胸の奥底から絞り出すように問うた。
「……お前も、寂しかったのか?」
潰れた両目に視界はない。だが、音と匂いと気配で相手の存在は確かにわかる。龍宮は顔をわずかに傾け、声の方へ向ける。
「寂しい……? そんな事、考えた事もなかったよ」
「そうか。まあ、いい。俺は数多の怪物を倒してきたえいりあんばすたー、星海坊主だ。だが今は星海坊主ではなく、江鷹の父“神晃”として、お前を倒す」
「そう。ふふふ、受けて立つよ。矜持も誇りも叩き潰してあげる。皆まとめて可愛がってあげるからねぇ」
龍宮の全身を黄金の光が包み込む。龍脈の奔流がその肉体を駆け巡り、潰れた眼球が再生していく。割れ砕けた鱗も、軋んだ骨も、瞬きの間に元の強靭さを取り戻した。修復を終えた黄金の双眸がカッと開かれ、そこに宿る殺意が空間を裂く。
“可愛がる”、。その柔らかな言葉に隠されたのは、死の宣告だった。
空気が凍りついた。
世界そのものが止まったかのように感じられる。時間の流れが鈍り、呼吸すら奪われる。巨大な龍が睨みつける視線は、命を直接握り潰すかのような重圧を放っていた。
「ゆっくりと息を吸え」
星海坊主の声が響く。落ち着いた声色に聞こえるが、その胸の奥では嵐が荒れ狂っていた。全身の細胞が、遺伝子が、叫んでいる。お前はここで死ぬぞ、と。だが彼はその本能を、怒りと意志の力で押し潰した。
龍宮の圧力は、まるで山そのものがのしかかってくるかのようだ。心臓が鎖で縛られたように重苦しく打ち、鼓膜を裂く無音の圧力が体を締めつける。息が喉で止まり、胸は石のように固くなった。
それでも、戦うしかない。退けば終わる。ここで立たねば、全てが潰される。
室内の空気は極限まで張り詰め、緊張の糸が弾けるのを待つようだった。龍宮の黄金の瞳が6人を射抜き、彼らは決して退かぬと覚悟を決めて対峙する。
動いたのは龍宮だった。
天地を裂く咆哮とともに突進する。巨体が弾丸のごとく迫り、床石が爆ぜて木片が宙を舞った。その迫力は視線だけで命を刈り取るかのよう。
だが星海坊主は怯まなかった。全身の筋肉が悲鳴を上げるのを無理やり押さえ込み、己の存在そのものを賭けて龍の前に立ちはだかる。握り締めた拳に力を込め、全ての力を叩き込む。
拳が龍の顎を撃ち抜いた瞬間、轟音が空間を震わせた。巨躯が僅かに揺れ、硬質の鱗に深い亀裂が走る。
「痛いなぁッ!!」
龍宮が呻き声を上げる。すぐさま再生に取りかかるが、隙は生まれた。その刹那を逃さず、銀時が飛び込む。
星海坊主が作った一瞬の道を駆け抜け、刀を振り下ろした。鋭い斬撃が龍の体を裂き、深く肉を抉る。鮮血が噴き出し、宙に赤い飛沫が舞った。
だが龍は容易には崩れない。体を捩じり、反撃の尾を叩きつける。その一撃は大地を割るほどの威力。銀時は必死に身を翻し、紙一重でその軌道を回避した。
また神楽は星海坊主の動きを完璧に理解し、彼が龍宮に打撃を加える瞬間に合わせて側面から攻撃を仕掛ける。彼女の拳は鋭く、素早く、そして確実に龍の傷跡を狙い続ける。その小さな拳が振り下ろされるたびに、硬質な鱗に火花が散り、鈍い衝撃音が室内に響き渡る。兄を失った怒りと、胸を裂くような悲しみが神楽の体を突き動かし、その感情がそのまま拳に宿っていた。重く鋭いその一撃一撃が、龍を打ちのめしていく。
夕染と魈雲は互いの背を預けるようにして立ち、満身創痍の体を支え合いながらも、迷うことなく龍宮の背後を狙った。夕染の振るう棍棒が龍の巨体を揺らす。鱗の隙間に打ち込まれれば、亀裂が広がり、深い赤が滲み出る。魈雲の暗器は素早く傷口を縫うように突き刺さり、確実に毒を仕込んでいく。さらに魈雲の部下たちも援護に加わり、矢や暗記が絶え間なく飛び交っては龍宮の動きを阻害した。
だが、龍宮はその猛攻を黙って受ける存在ではなかった。血と炎にまみれながらも、彼女は嘲笑するように口角を吊り上げると、その巨大な尾をしなやかに振り抜いた。尾の一閃は暴風を巻き起こし、岩壁を砕く衝撃波となって銀時たちを弾き飛ばそうとする。さらに彼女の喉奥からは再び灼熱の炎が吐き出された。紅蓮の奔流は塔全体を呑み込み、圧倒的な熱が襲いかかる。だが、江鷹が身を賭して防いだあの一撃で火力は限界を迎えていたのか、今放たれる炎は以前の威力には遠く及ばなかった。勢いこそ凄まじいが、当たり所が悪くなければ命を奪うことはない。実際、銀時たちも必死に身を翻すことで炎を避け、直撃した者も皮膚を爛れさせる程度で済んでいた。痛みは走る。焦げる臭いが鼻を突く。それでも致命には至らなかった。
「チッ……」
爛れた皮膚を見下ろし、銀時は悔しげに舌打ちする。しかし、その眼は決して消えてはいない。銀時だけではない。皆が立ち上がる。どれほど焦げ、どれほど血を流そうと、星海坊主も、神楽も、夕染も、魈雲も、その瞳から決意の炎を絶やすことはなかった。
星海坊主の拳はすでに血で染まり、骨が砕け軋む音が自分の腕から響いている。それでも彼は退かなかった。
「ぅおぉらぁぁッ!!」
雄叫びとともに、彼は床を大きく踏み抜き、限界を超えた肉体をさらに鞭打つ。幾度も幾度も拳を振り下ろし、龍の顔面を打ち据える。衝撃で床石が弾け飛び、龍の鱗が粉砕されて散乱した。星海坊主の拳が叩き込まれる度に、血飛沫が紅い霧となって空間に舞う。拳の皮膚が裂けようが、骨が悲鳴を上げようが、止まることはなかった。彼が拳を振るうのはただひとつ、龍宮のアルタナが尽き、もはや再生の術を失い、ついに斃れるその瞬間を迎えるためだ。
やがて、確かな兆候が訪れた。
龍宮の回復速度が明らかに鈍り始めたのだ。
星海坊主たちの執念が、ついに龍の再生を上回ったのである。
龍宮はその変化に気づいた。己の巨体に走る傷が、以前のように即座には閉じていかない。血が止まらない。痛みが増していく。龍宮の黄金の瞳に、一瞬、かすかな焦りが浮かんだ。
(なんなんだろう)
胸を掻きむしるような違和感。理解できない感情。なぜだ、なぜ彼らは立ち上がるのか。命の危機にさらされ、何度も血を吐き、骨を折られ、それでも彼らはなお立ち向かう。最初の段階で勝てぬと悟ったはずだ。普通なら絶望に沈み、逃げ出しているはずだ。それなのに、なぜ炎は消えない。なぜその目に光が宿り続ける。
(こんな生き物、会った事がない)
己の戯れにすら耐えきれず、肉片と化して消えた存在ばかりだった。視線を向ければ怯えて逃げ出した。誰も彼もが距離を取り、決して傍には寄らなかった。龍宮の周囲には、常に虚無しかなかった。だって、誰もが死を恐れるから。
(何の為に戦う? 復讐? 義心?……いくら何でもそんなもののために命をかけるかなぁ? 夜兎の2人やウチの子たちはともかく、銀髪の子達は本当にわからない)
その目。彼らの瞳の中に宿る強靭な炎。揺らがぬ信念。互いを信じ、互いを託し、仲間のために立ち上がるその姿に、龍宮は強く惹きつけられていた。だが、その感情の名を彼女は知らなかった。
(綺麗な目だねぇ、でもなんだかその目……今は気に入らないなぁッ!!)
苛立ちが迸る。龍宮は再び腕を振り上げ、攻撃を仕掛ける。だがそれは、これまでのように冷静で的確な攻撃ではなかった。激情に駆られた乱撃。苛立ちに任せて叩きつけられる、大雑把な一撃だった。
「この瞬間を、待ってたぞッ!!」
星海坊主は、そのわずかな隙を見逃さなかった。痛みに歪む顔を押し殺し、渾身の力を拳に集め、全身全霊の一撃を龍の顔面へと叩き込む。骨が砕ける轟音。拳が龍の頬を抉り、その巨体がぐらりと揺れた。
(あ、しまった。脳震盪だ)
龍宮の脳が激しく揺れ、視界が霞む。
「今だぁぁぁッ!!!」
銀時の叫びが空気を震わせ、全員が一斉に猛攻を仕掛けた。刀、拳、暗器、棍棒。全てが嵐のように降り注ぎ、龍宮の揺れを止めさせない。回復させてたまるか、このまま押し切るんだ。全員の心が同じ結論に達していた。
だが、負けてたまるか。その思いは龍宮もまた同じだった。巨体を回転させ、竜巻のように尾を振るい、小さな体を吹き飛ばす。星海坊主は必死に踏みとどまったが、それ以外の仲間たちは膝をつき、床に叩き伏せられる。限界は刻一刻と近づいていた。
「トドメを刺してやる」
龍宮がそう考え、一歩を踏み出そうとしたその瞬間、ぐらり、と視界が揺らいだ。
「……またッ、毒!?」
口から、鼻から、目から、血が溢れ出す。鉄錆の味が喉を焼き、呼吸すら妨げられるほどの出血が止まらない。
だが、おかしい。魈雲の毒は効かなかったはずだ。
「まさかッ」
瞬時に理解が走る。別の毒だ。魈雲たちの暗器に塗られていた毒とは異なる、もう一つの猛毒。
(あの侍の刀か!)
逆鱗の近くには無数の血管が走っている。そこに刃が突き刺さった時、毒は血流に乗って全身に回ったのだろう。それも遅効性の仕込み。しかもただの遅効性ではない。
(私がアルタナで回復しようとすればするほど効力が高まる毒だ。怪我を治そうとすれば代謝が良くなるから、それで一気に毒が回った!)
最初から、この瞬間を狙っていたのだ。
魈雲の狡猾な笑みが、龍宮の脳裏に浮かぶ。
視界は血に染まり、赤く滲む。その滲んだ景色の中で。銀髪の侍が、真っ直ぐこちらに向かってくるのが見えた。