もう1人のバカ兄貴   作:佐倉シキ

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離散

 

 

 

 

 

 

その日、江華は何となく胸騒ぎを感じていた。

理由は分からない。ただ、胸の奥でざわざわと落ち着かないものが渦巻き、心を掻き乱していた。目の前に広がる光景は普段と何ら変わりのない日常である。珍しく晴天に恵まれた今日、窓の外からは近所の子供達の無邪気な笑い声が弾んでいた。走る足音、歓声、じゃれ合う声。穏やかで、何もかも平和に見える。

 

けれどもその安らぎは、江華の胸に重くのしかかる悪寒を打ち消すことはなかった。体調不良のときに覚える鈍い不快感とも違う。もっと直接的で、冷たい指先で背筋をなぞられるような、理屈のつかない嫌な感覚だった。

 

思わずカーテンを引き開ける。差し込んだ陽光が肌に触れた途端、ピリリと鋭い痛みが走る。昼の光は彼女にとって毒であり、敵だ。陽が照らす街は薄汚れた灰色に沈んでいるはずなのに、その瞬間だけは妙に鮮やかに、残酷なほど明るく映った。江華は思わず目を細め、すぐにカーテンを閉ざす。影に戻ると同時に深く息を吐き、席に腰を下ろした。

 

(早く、帰ってこないかな)

 

胸中で小さく願ったその瞬間、ふと慣れ親しんだ気配が近づいてくるのを感じ取った。神楽だ。小さな足音が慌ただしく近づき、その焦りは気配からでも明らかだった。だが、そこにあるはずの江鷹の気配が見当たらない。

 

心臓が一気に跳ね上がる。嫌な予感が、現実となって押し寄せてきた。江華はその場に留まることもできず、思わず家を飛び出していた。

 

「マミー!」

「ッ!? 神楽!!」

 

愛娘の切羽詰まったような大声に、江華は思わず駆け寄り神楽を強く抱き締めた。小さな身体は恐怖に震えており、煤と埃に塗れてぐしゃぐしゃだ。泣きじゃくる声は途切れることなく、息も詰まるほどだった。それでも神楽の手にはしっかりと何かが握られている。視線を落とすと、崩れかけた花冠だった。江鷹が妹のために被せてやったものだろう。しかし今は原型を留めぬほど潰れており、花びらは千切れ、色も失せている。唯一、かろうじて形を保ち美しさを残す花が一輪だけ残っていた。

 

「どうしたの神楽? 何があったの?」

「江鷹がぁ! 江鷹がぁ!」

 

泣き噦る神楽を落ち着かせて話を聞き、目を見開いた。いや、それどころじゃない。江華の心臓は大きく跳ね、全身の血が一気に冷えた。耳鳴りがして呼吸が乱れる。あまりの衝撃に喉が詰まり、咳き込み、血が込み上げる。神楽が怯えた顔で見上げてくるが、気遣っている余裕などなかった。江華は神楽を抱き上げ傘を掴み取ると、気怠く重い身体を無理やり動かし駆け出した。まだ、間に合うかもしれない。

 

空は憎たらしいほど澄み渡っていた。雲ひとつない青空がかえって残酷に思えた。誰もが日常を過ごす中で、奴隷商人が忍び寄るなど想像もしなかった。ここは烙陽、逸れ者達が集う星だ。言い方を変えれば、奴隷市場に並ぶほどの商品価値のある人材など存在しない土地。歴史の中で一度も奴隷商人が足を踏み入れたことはなかった。だからこそ、誰もが油断していた。白昼堂々と現れるなど、夢にも思わなかった。おそらくは直前にやって来ていた宇宙海賊春雨の存在を隠れ蓑にしたのだろう。

 

走ればすぐに街の喧騒は遠ざかり、人影もまばらになる。荒んだ呼吸を抑えながら進むと、江華の鋭敏な嗅覚が血の匂いを捉えた。鉄のように重く、鼻腔を突く生臭さ。胸が締め付けられる。足は自然と匂いの源へと向かっていた。

 

「ああ……嘘。嘘よ……」

 

目に飛び込んできた光景に、江華は膝から崩れ落ちた。地面に広がる血溜まり。その中に沈んでいるのは、見慣れた黒い三つ編み。血に濡れ、鈍い光を放っていた。吐き気が込み上げる。あの出血量は致死量に近い。頭が真っ白になり、立ち尽くすことさえできなかった。

 

神楽が大声で泣きながら母の服を掴んでいた。江華は震える手で娘を支えながら、ふらつく足で血溜まりに近づいていく。真っ赤な血を掻き分けるようにして、髪を掬い上げた。そこに結ばれていたヘアゴムには、小さな羽飾りが揺れていた。間違いない、江鷹のものだ。

 

江鷹はここで襲われ、攫われた。

胸にのしかかるその事実は、耐えがたいほど重い。

 

しかし立ち止まっている暇はなかった。江華は立ち上がり、震える足を前へと進める。辺りを見渡して必死に痕跡を探す。だが、何も残されてはいない。徹底的に消されていた。焦りが募り、江華は港へと急いだ。

 

見慣れない船はなかったかと人々に尋ね回る。しかし返ってくるのは冷たい視線と無視ばかりだった。元々嫌われていた一家だ。厄介ごとに巻き込まれてなるものかと、誰もまともに答えようとしない。それでも江華は諦めず、港中を駆け巡り、船が停泊できそうな場所を一つひとつ調べ上げた。しかし、何の手掛かりも得られない。

 

時間だけが無情に過ぎていき、やがて身体は限界を迎えた。胸を抉るような激しい咳と共に血が口から溢れ出す。足が震え、視界が霞む。神楽も疲れ果て、母の背で静かに眠っていた。これ以上は進めない。江華は唇を噛み、血が出るほどに強く歯を食いしばると、悔しさに滲む目を逸らし、帰路についた。

 

 

 

 

 

 

         *  *  *

 

 

 

 

 

 

神威は言葉を失っていた。その日もいつものように春雨の連中と訓練を終え、家へ帰ったのだ。珍しく晴れ渡った空とは対照的に、家の中の空気は重苦しく淀んでいた。不穏な静けさに背筋が冷える。

 

家には誰もいない。江華は病に蝕まれ、まともに動ける状態ではないはずだ。なのに家を空けるなどあり得ない。慌てて探しに出ようとしたその時、玄関が開き江華が帰って来た。

 

その姿は神威の目に焼きついて離れなかった。疲れて眠る神楽を背負い、顔は酷く青ざめ、そして、その手には血で濡れた黒髪を握り締めていた。

 

頭が真っ白になる。声を出そうとしても、「何があったの?」や「江鷹は?」と問うべき言葉がまるで出てこない。口から漏れるのは「あ」や「え」といった意味をなさない音ばかり。喉が固まり、言葉を拒む。

 

江華は「ごめん」と何度も繰り返し、神威の視線を避けるように部屋の奥へと消えていった。電話を手に取る音がする。かける先は明白だ。父、神晃であろう。

 

 

その夜、何も聞けないまま日が沈み、神威は眠れぬまま時を過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日の昼、神晃が血相を変えて帰宅した。息を荒げ、顔は怒りと焦燥に歪んでいる。仕事を途中で放り出して帰った姿など初めて見た。神威はその様子を目にしただけで、すでに胸の奥で察していた。当たり前だ、弟が帰ってこなかったのだ。もしかしたら死んでしまったのかもしれない。そう思うだけで胸が痛み、手が勝手に服の胸元を掴んでいた。

 

神晃は江華と短く言葉を交わしただけで、怒りに任せてドアを蹴破る勢いで飛び出していった。廊下に残された緊張と焦燥の空気。神威は耳を澄ませ、二人の会話を盗み聞いていた。だから真実を知った。

 

 

弟が、奴隷商人に攫われた。

 

 

奴隷。その言葉が突き刺さる。神威も知っている。人としての自由も権利も許されず、他人の支配下に置かれ、物のように売買される存在。人でありながら人でいられない地獄。理解した瞬間、サァーと血の気が一気に引いていくのが分かった。

 

自分が弱かったから、家族を守れなかった。強くならなければならなかったのに、足踏みをしている間に、弟を失った。

 

 

 

いや、そもそもだ。

 

 

 

 

そもそも、

 

 

 

 

 

父は何をしていたのだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気がつけば、数時間が経過していた。

息を潜めるように部屋の中で時をやり過ごしていた神威は、胸の奥に渦巻く不安を抑えきれず、やがて重い腰を上げた。父はそろそろ帰ってくるはずだ。問いたださなければならない。胸を固く握りしめ、意を決して扉を開いたその瞬間、神威の視線は足元に釘付けになった。

 

家の前に、一輪の見覚えのない花が置かれていたのだ。

 

それは鮮やかな黄色をした花だった。

雨に濡れてもいないその花は、異様なほどに瑞々しく、あまりにも場違いだった。だがその花の存在は空気を一変させるには十分だった。

 

背後に気配を感じ、振り返ると江華がそこに立っていた。彼女の顔は一瞬で血の気を失い、真っ青に染まっていく。その表情は言葉を要さずに物語っていた。この花は決して良いものではない。むしろ、忌まわしき警告の印だと。

 

やがて、荒々しい足音と共に神晃が帰って来た。息を切らしながら現れた彼は、瞬時に神威の手元にある花に目を留めた。

 

「その花、何処で見つけた?」

 

父の声は普段よりも低く、震えていた。

 

「玄関」

 

神威が短く答えた途端、神晃の顔が険しく歪んだ。

 

「ッ! 舐めやがって……」

 

怒号と共に、父の額には怒りで浮かんだ青筋が走り、その形相はまるで獣のように恐ろしいものだった。

 

“お前が息子を取り戻しにくるというのなら、その隙を狙って我らはいつでもお前の家族を殺してやる”

 

ただ一輪の花に込められた奴隷商人の冷酷なメッセージが、そこには確かに刻まれていた。神楽をあえて見逃したのも、この脅しを成立させるためだったのだ。

 

神晃は苛立ちのまま神威の手から花を奪い取ると、容赦なく地面に叩きつけ、何度も何度も踏みにじった。花弁は泥に塗れ、鮮やかな黄色は無残に潰されていく。それでも神威の心は動かなかった。むしろ、逆だった。どこかで感情が冷めていくのをはっきりと自覚していた。

 

「大丈夫だ」

 

神晃の口からその言葉が零れた。

 

──何が大丈夫なのだろう?

 

「江鷹は死んでない、態々殺す意味がない」

 

──だから何だというのだ?

 

「アイツは必ず俺が連れ戻す」

 

──大切な人すら救えない男が、更なる重荷を背負えるとでも?

 

「だから、安心しろ」

 

──たった一輪の花で身動きが取れなくなる、この弱い男に何が出来るというのか。

 

安心などできるはずがなかった。むしろ、不安も不満も、胸の内で一気に膨れ上がっていく。

 

 

(やっぱり、父さんは人を護れない)

 

(父さんじゃあ、母さんを救えない)

 

 

江華は今回の件で酷く弱り、病に蝕まれ命を削っている。このままでは弟だけでなく、近いうちに母までも失うことになるだろう。奴隷商人どもは見つけ次第この手で殺してやらねばならない。そして、間抜けにも攫われた愚弟も同様だ。探し出してぶん殴ってやる。今、そう決めた。

 

そして、もう一つの決意が胸に宿る。

あの男が護れないのなら、自分が護るしかない。

 

神晃が家を飛び出して間もなく、神威もまた静かに家を後にした。背後から母が何か呼び止めた気配があった。妹の神楽が、不安げな声で自分の名を呼んだような気もした。だが神威は振り返らなかった。

 

足を向けた先は春雨だった。話をつけるために。

 

 

 

 

 

 

 

──そして後日。

 

 

太陽が真上に昇る頃、神威は家へと戻った。当然、その太陽は雲に覆われていて見えない。あいも変わらず、ザーザーと雨が降っている日のことだった。

 

家族ではなくなったとしても、母には生きていて欲しかった。だから神威は話したのだ。江華を徨安へ連れていく、と。しかし江華は拒んだ。だが、そんなものは意に介さなかった。無理矢理にでも連れていくつもりだった。その時、神楽が帰ってきた。

 

「神威、何やってるの? マミーを何処に連れていくの?」

 

妹は今にも泣き出しそうな顔でこちらへ駆け寄る。

 

「嫌だヨ! マミーまでいなくなるのは嫌だ!」

 

──うるさい。もう決めたのだ。

 

神威が江華の腕を引いた、その時だった。

玄関が開き、神晃が帰って来た。

 

何故、今なのか。

何故、己がいる時を選んだのか。

神威は神妙な顔でそう問いかけてきた父を見据えた。

 

──何故って? そんなものは決まっている。

 

「母さんを救うには家族である事を捨てるしかない。アンタを、越えて行くしかない」

 

神威は神楽の手を振り解き、神晃へと襲い掛かった。

 

 

 

 

     *   *   *

 

 

 

 

 

決着は、案外あっさりとついた。

神晃の片腕を吹き飛ばすことは出来た。だが、結局のところ実力は歴然としていた。あまりに違いすぎたのだ。

 

血塗れの身体を引き摺り、神威は家を後にした。

 

そして程なくして、江華は亡くなった。

 

さらにその後、神晃もまた家に戻らなくなった。

 

 

 

 

     *   *   *

 

 

 

 

 

相変わらず、烙陽には雨が降り注いでいた。

ザァーザァーと無遠慮に大地を叩く雨音だけが、街を覆い尽くしている。冷たい雨は容赦なく灰色の街を濡らし、風が吹けば埃やゴミが舞い上がり、水溜まりには重く沈んだ鉛色の空が映り込んでいた。

 

今日もまた、街は陰鬱な雰囲気に包まれていた。

 

ここは魔窟だ。

無秩序で、無遠慮で、酷く他人に冷たい雨の星。

 

神楽は、そんな星でひとりぼっちになってしまった。

父からの仕送りで何とか食事はできている。けれど、5人掛けの食卓にたったひとり腰を下ろし、黙々と口に運ぶご飯は、もはや味気ない。かつて家族と共に笑い合いながら食べたふりかけご飯でさえ、あれほどまでに美味しかったたのに。

 

「ごちそうさまでした」

 

神楽の声が、静かに虚しいほどに響く。

烙陽の街以上に、この家には陰鬱な空気が漂っていた。

 

真ん中の兄、江鷹が攫われた。

一番上の兄、神威は家を出ていった。

母、江華は病に斃れた。

父、神晃は自責の念からか家に寄り付かなくなった。

 

ただ、雨の音だけが聞こえてくる。

 

神楽はふと思った。いつまでも此処にいるわけにはいかない、と。思い立ったが吉日。母の墓に花を供え、荷物をまとめ、神楽は歩き出した。両親がかつてよく語っていた地球へと向かうことを決めたのだ。

 

江鷹が消え、神威が去り、江華が亡くなり、神晃は戻らず、そして神楽も家を出た。

 

神楽、若干14歳の時。

 

彼らの家には、もう誰の姿もなかった。

 

あっという間に崩れ去った日常。

それでも、烙陽の雨だけは、相変わらず強く打ち付けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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