ゴウゴウと低く唸りながら、とある一隻の宇宙船が暗く果てしない航路を進んでいた。漆黒の外壁は無骨で、そこに据え付けられた数多の武装が不気味な存在感を放つ。正規の航行船には到底見えず、ただその姿だけでこの船が非合法のものであることを雄弁に物語っていた。
その巨大な船の奥深く、ほとんど光の届かない一室に江鷹は横たえられていた。
無機質で冷ややかな部屋だった。壁は灰色の鉄板で覆われ、隙間なく閉ざされている。そこに置かれたベッドは、新品らしく白く清潔で、作りも上質であることは分かる。けれども安眠を齎すはずのその寝具の上で、江鷹の顔色は死人のように蒼白に見えた。霧紅の刃に斬られた左腕からの大量出血の影響である。
部屋の片隅には小さな窓がひとつだけ存在していた。鉄格子が嵌められ、外からは人工的で冷たい光がわずかに差し込んでいる。その光に照らされて浮かび上がる部屋はなおさら冷たく、無情な空気に満ちていた。頭上の電灯は古びているのかチカチカと不規則に点滅を繰り返し、室内の陰影をさらに不気味に揺らめかせていた。
やがて、閉ざされていた江鷹の瞼がわずかに震え、ゆっくりと開いた。重苦しい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、彼はゆったりとした調子で目を覚ました。
最初に視界に入ったのは、ただの鉄の壁だった。冷たく無機質で、無情さを押し付けてくるような灰色の壁。視線を動かせば、部屋全体がその鉄に覆われ、まるで牢獄のように彼を閉じ込めていた。
江鷹はベッドから降り、よろめきながら一歩を踏み出す。足裏に広がる感覚はコンクリートの冷たさだった。彼の体温を根こそぎ奪い取るかのように、その冷気は足の裏から骨まで染み込んでいく。
ふいに、視界が揺れた。
立ちくらみだ。血を失ったせいで、頭がふらりと傾き、思わず顔に手を添える。そこで初めて気がついた。
「なんだよ、これ……」
手首に硬い感触があった。重たく頑丈な手錠が彼の両手を繋ぎ、動くたびにガチャガチャと音を立てている。両腕は不自由に拘束されており、生活に必要最低限の動作こそできそうだが、それ以上の自由は奪われていた。江鷹は引っ張ったり、口に持っていって噛んだりして外そうと試みた。しかしびくともしない。諦めるしかなく、苛立ち混じりの舌打ちをひとつ零した。
再び周囲に目を向けると、小窓からの光が目に留まった。そこからどうにか外の様子を覗き見ようと窓に近づく。だがそこは曇りガラスのようで、外の景色を掴むことはできなかった。
視線を奥へ移すと、頑丈で異様な存在感を放つ扉が一枚。まるで猛獣を閉じ込めるために作られた檻の扉のようだった。実際、夜兎族を監禁するという用途を考えれば猛獣用という表現は誇張ではないのかもしれない。取っ手や鍵は見えず、内側から開けられる構造には到底思えなかった。扉の向こうの気配を伺うこともできない。ただ沈黙が支配していた。
部屋を満たすのは、窓からの冷たい光と重苦しい静寂だけだった。孤独が胸を締めつける。
「おい! 誰かいないのか!?」
耐えきれず江鷹は扉に駆け寄り声を張り上げた。しかし返事はない。彼の声だけが鉄の壁に反響して、虚しく室内を巡る。
苛立ちを募らせた江鷹は今度は窓へと跳び上がった。頭上より高い位置にある格子を両手で掴み、必死にしがみつく。手錠が鉄格子にぶつかり、ガチャンガチャンと大きな音を立てる。しかし曇りガラスの窓の向こうは曖昧に霞み、何一つ手掛かりを与えてくれなかった。
「おい! ここから出せ!」
格子を揺らし、何度も何度も大きな音を響かせる。手錠をぶつけ、金属音をわざと立てた。それでも応答はなく、静けさが続くだけだった。胸を満たすのは虚しさだけだ。
「痛っ」
突然、左腕に鋭い痛みが走った。江鷹は格子から飛び降り、腕を見やった。そこでさらに気づいた。自分の着ている服が、以前のものではない。白い半袖半ズボンに着替えさせられていたのだ。一見清らかに見えるが、無機質で味気なく、囚人服のように思えた。
「そうだ、左腕……」
その瞬間、記憶が蘇る。霧紅の刃に斬られたときの光景。血が噴き出し、体から熱が奪われていったあの死の感覚。全身に寒気が走り、体がぶるりと震えた。震える手で袖を捲ると、腕には包帯が巻かれている。すでに治療は施されていたようだ。包帯には薄っすらと血が滲んでいる。格子にしがみついた時に傷口が開いたのだろう。だが夜兎族の治癒力ならば、この程度はすぐに回復する。
江鷹は再び扉へと歩み寄った。
「おい! いるんだろう!? 誰か!?」
扉をガシガシと蹴りつけ、怒鳴る。しかし沈黙は破られない。返ってくるのは、無反応の空虚さだけ。
不安がじわじわと心を侵食していく。本当に、誰もいないのではないか?
この船の中で、自分は永遠に一人なのではないか? 外からの音も声も届かない。ただ、船体のどこかで響き続ける鈍い駆動音だけが耳に残る。この冷たい部屋に閉じ込められ、孤独に蝕まれる。
「神威ッ!」
思わず名を叫ぶ。冷や汗が背中を伝う。
「神楽ッ!」
扉を叩きつける。
「母さんッ!」
さらに叩く。
「父さんッ!」
もう一度。
「誰かッ!」
何度も拳を打ち付ける。皮膚が裂け、血が鉄に滲む。だが返事はない。誰もいない。不安が膨れ上がり、全身に鳥肌が立った。気持ちを持て余した江鷹は、意味もなく部屋をぐるぐると歩き回る。
「いや、大丈夫、大丈夫だ……」
息を乱しながら、必死に言葉を繰り返す。冷静になれと自分に言い聞かせるように。江鷹は立ち止まり、大きく深呼吸をした。
そうだ、自分は奴隷商人に攫われたのだ。だからここに家族がいないのは当然だ。今、自分がどこにいるかさえ分からない。追いかけてきても、どうにもならない。心の底では助けてほしいと願っている。だが、この状況では望むべくもない。
だから、誰もいないのは当たり前なのだ。
何度も深呼吸を繰り返すうちに、鼓動は少しずつ落ち着いていった。自分は死なない。殺されることもない。そう信じ込むしかない。神楽が無事に逃げ切れたかどうかだけが大変心残りだが、あの裏道の狭さを考えれば捕まることはないはずだ。大人は絶対に通れない。爆弾でも使われれば別だが、そんなことをすれば人々の注目を浴び、奴らにとっても都合が悪いはずだ。
思考を整理し、呼吸を整え、江鷹は現状を受け入れた。
自分に今できることは何もない。そう悟った。
ゆっくりとベッドへ戻り、腰を下ろす。
冷たい部屋の中、江鷹の心臓の鼓動だけがわずかに響いていた。
部屋には、宇宙船の機関が唸るように響かせるゴウゴウとした低い音だけが漂っていた。壁も床も天井も、そのすべてが鈍く重たい響きを共鳴させ、まるで江鷹の頭蓋の内側にまで侵食してくるかのようだった。冷え切った鉄とコンクリートの牢のような部屋にたったひとり押し込められた彼の耳に届くのは、その途切れることのない騒音だけである。
他には何も聞こえなかった。声も、足音も、金属の擦れる音すらも。船が揺れるたびに、低く鈍い唸りが体の奥にまで沁み込んでいく。
どれほど時間が経ったのか。1時間か、2時間か。それすら曖昧になり、江鷹にはその時間が無限のように果てしなく感じられた。船の音はただ淡々と、しかしじわじわと心を追い詰めるように鳴り続けている。重苦しい空気はその音に共鳴し、不快な圧迫感となって江鷹の胸を締め付けた。
江鷹は壁に背を預け、目を閉じながら耳を澄ませる。
ゴウゴウと、轟轟と、囂々と──。
繰り返し響くその音に、次第に気が狂いそうな錯覚を覚えた。孤独と轟音が渦を巻いて心を覆い、逃げ場を奪う。まるで終わりのない悪夢の中に囚われたかのようだった。耐えきれずに江鷹は両手を耳に当て、必死に閉ざす。
──いつまでだ?
──いつまでこんなことが続く?
答えは返ってこない。ただ船の音だけが無情に鳴り響く。せめて誰か、何か声を掛けてくれればいい。奴隷であろうと看守であろうと構わない。誰でもいいから、早く誰かが来てくれ。
冷たい部屋の中でひたすら船の音に晒され、ただ待ち続ける時間は拷問のように思えた。やがてさらに時が流れ、江鷹の腹が小さく鳴る。はっと意識を向け、最後に食事をしたのがいつだったかを思い出そうとする。
花畑に行く前の朝食、それが最後だ。あの朝もまたいつも通りだった。父は仕事先でまた物を壊したらしく、その損害賠償で給料が雀の涙ほどしか残らなかった。食卓に並んだのは白米にふりかけを振っただけの粗末なご飯。江鷹はあのとき、思わず父に文句を言った。“次こそはちゃんとしてくれ”と。父はバツの悪い顔で謝った。神威はどこか思い詰めたように黙り込み、神楽と母は普段と変わらずに振る舞っていた気がする。
今となっては、文句を言わずにしっかり食べておくべきだったのかもしれない。腹の虫はぐぅぐぅと容赦なく鳴き続け、ひもじさと苛立ちが募る。江鷹は堪えきれず、髪を掻きむしり、ベッドに顔を押し付けて蹲った。全身を縮め、必死に耐えるしかなかった。
そうして数刻が過ぎた頃──。
ガチャリと乾いた金属音が部屋に響いた。錠前が外れる音。江鷹は思わず飛び起き、扉へと目を向ける。重々しい扉が軋みを上げながらゆっくりと開き、人影が差し込んだ。
「いやぁおはよう夜兎君、ああいや、もうこんばんはが正しいかな?」
入ってきたのは、でっぷりと肥えた灰色の肌の男だった。脂ぎった額をハンカチで拭いながら、ニコニコとした笑みを浮かべている。その後ろには、江鷹を襲ったあの色白で青髪の連中が無言で控えていた。
「待たせてごめんね〜。私達もこう見えて、君のお父さんが怖くてね。痕跡を消して、あの星から離れるのに全身全霊を注いでいたんだ」
江鷹は誰かが現れたら殴りかかってやろうと考えていた。だが今となってはその気力すら湧かず、ただ不快げに黙り込んで男を睨みつけるだけだった。
「ああ紹介がまだだったね、私は
その名を聞いた瞬間、江鷹の表情が鋭く変わる。辰羅。その言葉は父から聞いたことがあった。夜兎と並び、世界三大傭兵部族のひとつと呼ばれる民族。目の前の男たちは、あのとき自分の腕を切り裂いた女と同じ色合いをしている。ようやく合点がいき、同時に嫌悪感が胸を満たす。江鷹は無意識に左腕を強く押さえた。
「ああごめんね。その腕、痛かったよね」
「……おかげさまでな」
「まあそう怒らないで、治療は完璧だから。それに君は夜兎族だし、傷一つ残らないよ」
男は軽く笑いながら言葉を続けるが、その気安さが却って不快感を募らせる。江鷹は眉間に深い皺を刻み、顔を険しく歪めた。
「さて、込み入った話は必要ないでしょ? 食事の時間だよ」
合図を受け、後ろから別の辰羅が無言で籠を持って現れ、床に食事を並べていく。灰色のプレートの上には、ただ必要な栄養を詰め込んだだけの食物が整然と置かれた。肉、野菜、果物、卵。どれも火を通しただけの無機質なものばかりで、料理と呼ぶにはあまりにも無骨だった。側には見慣れぬサプリメントのようなものも置かれている。美味そうどころか、むしろ何が混ぜられているのか分からず不気味さしかなかった。
「こんなもの食べられるか」
「ええ、困るなぁ。君には立派に強く成長して貰わないといけないのに」
「知るか、要らない」
「う〜ん、最初はやっぱ皆意固地だよねぇ。でもダメだよ〜。ここに来たからにはここのルールをしっかり守って貰わないとね〜。一つ目はここの職員の指示には絶対に従う事。二つ目は自分について他人に話さない事」
一つ目は理解できる。しかし二つ目は理解に苦しむ。江鷹は怪訝そうに首を傾げた。
「ルールを破った子には、罰を与えるんだ」
「罰? 何だ? 拷問でもするのか?」
「普通の子供達には基本的にそうだね〜。でも夜兎君みたいに価値のある種族には肉体的な拷問はあんまりやりたくないかな。傷が残ったら価値が下がるからね〜」
「……肉体的な拷問?」
「鞭で叩くとか、君たちが想像する如何にもなヤツだね〜。でもそうだなぁ、う〜ん、君には」
黎武はわざとらしく顎に手を当て、しばし考え込む仕草を見せた。ウンウンと大袈裟に唸り、やがて両手を打ち合わせて「閃いた」と声を弾ませる。
「適当に大した金で売れなそうなヤツ、闘技場用の獣がいる場所に持っていってくれる?」
「分かりました」
控えていた辰羅の一人が短く頷き、素早く部屋を後にする。黎武は愉快そうに笑みを浮かべながら「行こうか」と軽く呼びかけ、まるで踊るように軽やかに歩き出した。
江鷹はその直後、辰羅の男たちに目隠しをかけられる。視界を閉ざされ、抵抗の余地もなく、ただ黎武の背に従って歩かされていった。
何度も角を曲がり、いくつもの無機質な扉を潜り抜けた末に、彼らはようやく一つの部屋へと辿り着いた。目隠しをされたまま進む道程は、永遠に続くようで江鷹の感覚を狂わせていた。足音は冷たい金属の床に反響し、どこまでも乾いた響きを残す。その一歩一歩が不吉な予兆のように思えた。
やがて立ち止まった瞬間、周囲の空気が変わる。そこはムワッと鼻を突くほどの獣臭に満ちた空間だった。重苦しい湿気が肺にまとわりつき、嗅いだことのない血と獣の混ざった臭気が肌を刺すように迫る。張り詰めた空気が喉を塞ぎ、呼吸が浅くなる。そこでようやく目隠しが外された。
視界に飛び込んできたのは、檻の中で蠢く1匹の獣だった。
それは、この世のものとは思えぬ荒々しさと異様な威圧感を纏っている。毛並みはくたびれ、まるで擦り切れた縄の束のように乱れていた。その隙間から覗く皮膚は土のような色をしている。顎から覗く牙は、人間の大人の手のひらよりも長い。その目は凶暴に輝きながら檻越しに江鷹を射抜いてくる。まるで捕食者が獲物を前にして歓喜しているかのような眼差しだった。
息を呑み、思わず身体が強張る。背筋に冷たいものが走り、足が床に縫い付けられたように動かない。
その時、不意に背後から小さな声が響いた。
「痛いよぉ」
か細く震える声。振り向くと、先程別れた辰羅の男が、まだ幼い少女の襟首を無造作に掴んでいた。齢は2歳か3歳ほどだろう。目尻に涙を溜め、しゃくり上げながら必死に男の腕を振り払おうとしていた。華奢な腕は力なく、抵抗は痛ましいほど無力だった。
「おい、乱暴するなよ。女の子だろ」
と。江鷹は思わず声を荒げる。
「そうだよ〜可愛いね。でもここじゃあ女の子とか、そんなの関係ないからね〜。あの子はまあ、大した金にはならなそうだから」
「金って、そんな……」
「まあ別に、子供が好きな人だっているだろうし育てても良かったんだけどね、君にここがどう言う所なのか理解して貰うのに丁度いいから」
「は?」
そのやり取りの最中、辰羅の男たちが無言で獣の檻に手を掛ける。上部の鍵を外し、鉄格子を開けると、中の獣は何かを察したかのように動き出した。巨体が檻を揺らすたび、金属が軋む不快な音を立てる。鼻息が荒くなり、喉の奥から興奮した獰猛な声が漏れ出す。
江鷹の心臓は激しく脈打ち、血の気が引いていくのを感じた。猛烈に嫌な予感が全身を貫いていた。目の前の光景がこれからどう展開するのかを、理解してしまったからだ。
「おいやめろッ!」
江鷹は叫び、無我夢中で男たちに飛び掛かろうとする。だがその瞬間、側にいた辰羅がさっと動き、彼を押さえ込んだ。関節を正確に極められ、動こうとすれば骨が軋み、耐えがたい痛みが走る。
「骨は折っちゃダメだよ、治す分の時間が無駄になるからね」
「はい」
黎武が愉快そうに言うと、男は淡々と返答した。
江鷹は地面に押さえ込まれ、ただ無力に目の前の出来事を見せつけられるしかなかった。
「さて、夜兎君。見ておくといいよ」
黎武はそう囁き、口角を吊り上げる。次の瞬間、少女を掴んでいた辰羅が容赦なく檻の中へとその小さな身体を投げ入れた。
「いやぁっ!」
甲高い悲鳴が部屋に響き渡る。小さな体は床に叩きつけられ、鈍い音を立てた。骨が折れたのか、少女は泣きながら「痛い痛い」と叫び、必死に地を這うようにして動こうとする。
「やめろッ! やめろよッ! やめろッ!!」
江鷹は喉が裂けるほどの声で叫ぶ。必死の抵抗も、腕を極められたままではどうにもならない。そんな彼に黎武の声が淡々と重ねられる。
「君はとても貴重な夜兎族だ。なるべく傷は付けたくない。8年後の奴隷のオークションでは10億円位になるんじゃないかと思ってるんだ。3年後でも良いんだけど、それだと安く買われちゃうかもだろう?」
「知るかよそんな事!! 早く止めろッ!」
「こら動かない、骨が傷付いちゃうだろう。5年毎に開催される宇宙でも最大のオークションで目玉商品になるんだから、しっかりバッチリ強く成長して貰わないと私としては非常に困る。だから私達の指示には絶対に従うように」
その言葉と同時に、獣が少女へと飛びかかった。
次の瞬間、目の前の現実が地獄へと変わった。
少女の悲鳴が鋭く空気を切り裂き、獣の顎が小さな体を容赦なく噛み砕く。絹を引き裂くような絶叫が響き、血が飛沫となって宙を舞う。鮮血が鉄格子や床を染め、肌が引き裂かれて赤黒い肉が露わになる。獣は臓腑を引き摺り出し、貪り喰う。骨の砕ける音、肉を引き裂く湿った音、血の臭いが混ざり合い、耐え難い悪夢のような現実が眼前に広がった。
少女の体はわずかに痙攣していたが、やがてその動きも完全に止まり、虚ろな瞳だけが江鷹を見つめていた。そこには命の光が欠片も残っていなかった。
「あ……あぁ……」
江鷹の口からは意味を成さない声が漏れる。脳裏に焼き付く悍ましい光景は、理性を蝕み、思考を奪った。呼吸は乱れ、酸素を求める魚のように口を開閉し、喉がひゅうひゅうと音を立てる。胸が締め付けられ、世界が歪む。
「君がこちらの言うことを聞かなかったら、君以外の子供達が代わりに罰を受ける事になるよ。君が優しい子で良かった〜。これが効かなかったら拷問するしか無かったから。成長を阻害する事になるかもしれないし、君にはなるべく拷問したくないんだよね。必要とあらばするけど、その数は減らしたいからねぇ」
「なんて、ことを……」
「じゃあ、戻って食事にしようか。ああでも、流石に食欲がないかもね。今日は多めに見ようか。明日からはしっかりこっちの言う事を聞くように」
江鷹には、もはや返事をする力さえ残されていなかった。そんな彼を見て黎武は楽しげに背を向け、辰羅の男達に指示を出す。江鷹は再び牢へと連れ戻され、抵抗する力も気力もなく、ただ足を引き摺るようにして従うしかなかった。
牢屋は変わらず、冷たい沈黙に包まれていた。
響き渡るのは、絶え間なく鳴り続けるゴウゴウとした船の音だけ。その音の奥底から、何度も何度も少女の悲鳴が脳裏に蘇る。耳の奥に張り付いたかのように離れず、鮮明な光景と共に繰り返される。
ここも魔窟だ。
これは悪夢だ。
江鷹は深い絶望の淵に沈んでいた。自分が下らない意地を張ったせいで、少女が無慈悲に殺された。その事実が胸を抉り、吐き気が込み上げる。喉は締め付けられ、胃の奥から酸が逆流する。心は既に折れかけていた。
視線は虚ろに揺れ、しかしその眼差しには無念の涙が宿り続けていた。