もう1人のバカ兄貴   作:佐倉シキ

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忘却

 

 

 

地獄のような日々だった。

 

暗く湿った牢の中で苦痛と絶望だけが渦巻き、そこに安らぎなど一欠片も存在しなかった。時間の感覚はいつしか薄れ、朝と夜の区別すら曖昧になっていった。ただひたすらに、終わりの見えない苦行のような日々が繰り返される。

 

それでも江鷹は耐え忍んだ。堪え続ければいつか、いつかきっと救いが来ると信じていた。家族が必ず迎えに来てくれるのだと、子供のように純粋に願っていた。心を引き裂く痛みと絶望を押し殺し、ただその未来だけを支えにして生き延びた。

 

 

 

 

 

けれども結局。

 

助けは来なかった。

 

 

 

 

 

 

     *   *   *

 

 

 

 

 

 

1分1秒の自由すら与えられない、徹底的に管理された生活がそこにはあった。朝から晩まで隙間なく予定が詰め込まれ、体力作りから始まり、数多の武道や武術を徹底的に叩き込まれる。殴打の痛み、骨の軋む音、息を切らして倒れ込んでも許されることはなく、無理矢理に立たされては繰り返し打ち倒された。

 

学問もまた徹底的に教え込まれた。数字の羅列、歴史の出来事、兵法や言語。覚えが悪ければ罰が待っている。机に突っ伏して眠気に負ければ、冷水を浴びせられ鞭が飛んだ。

 

食事は初日に出されたあの無機質なものと同じだった。栄養だけを計算された餌のような食べ物で、味などというものは存在しない。ただ咀嚼して飲み下すことだけを強制される。足りない栄養はサプリメントで補われ、しっかりと管理されていた。

 

拷問を担当していたのは霧紅であり、それ以外の訓練や管理は黎武が請け負っていた。吐き気に負けて食事を嘔吐すれば容赦なく怒鳴り散らされ、失敗すれば背に鞭が走り、肉が裂ける感覚に泣き叫んでも止まることはない。武術の出来が悪ければ折檻された。

 

だが、それ以上に残酷だったのは無関係な子供達が見せしめとして目の前で殺されることだった。小さな身体が倒れ、血が飛び散るたびに、江鷹の心は凍り付いた。どれほど泣き叫び、謝罪しても許されることはない。地面に額を擦りつけ血を流しながら乞うても、霧紅は冷ややかに笑い、お前の所為だと言いながら無垢な幼子の首を落とした。

 

その残酷な情景に、江鷹の心は何度も折れそうになった。だが、必死に過去の平穏を思い出し、自分はまだ壊れていないと繰り返し言い聞かせていた。暖かな家族の記憶、両親の声、兄妹の笑い声。それだけが彼を繋ぎ止めていた。だが、その拠り所も長くは続かなかった。

 

この船での生活では一月に一度、検査と面談が課されていた。裸にされ、冷たい視線で身体を隅々まで調べ上げられ、骨や筋肉の成長を確認される。皮膚の傷や痣すら細かく記録され、その後には必ず薬を打たれる。その薬は頭をふわふわとさせ、思考を掻き乱す作用を持っていた。

 

そして朦朧とする意識の中で、黎武との面談が始まる。彼は穏やかな声音で、しかし確実に江鷹の記憶を侵食していった。

 

「その日は、神威と買い物に行ったんだ。港の側に珍しい品が買える店が開いたらしくてな」

「いやいや、それはおかしいね〜」

「おかしい? 何がだ?」

「いやいや〜、だって港の近くにそんな店はなかったよぉ? ちゃんと調べたんだから間違いない」

「え? いや、そんな筈は……」

「記憶違いだと思うよ〜、だって本当にそんな店はないものね〜」

「そ、そうだっただろうか……」

「ほら、この写真を見てご覧。店なんてないでしょう?」

「本当だ、じゃあ何だったんだっけ……」

 

面談で行われていたのは、徹底的な“否定”だった。初めは取るに足らない些細なことから始まる。「そんな店は無い」だとか「その料理に使われる食材は違う」など、小さな綻びを突いて記憶を崩していく。

 

「近くの少年達と喧嘩をしたんだ」

「その少年はその時期にはもう引っ越してるよ」

 

次第にその否定は大きくなっていく。

 

「父が土産で巣蜜を持ってきた。初めて食べたんだが、美味しかった」

「烙陽に巣蜜は持ち込み禁止だよ、違うものじゃ無いの?」

 

そして、さらに深い記憶までもが侵食されていく。

 

「め、珍しく暇そうな父と、散歩に行った、ような気がする……」

「君のお父さん、君が2歳あたりから一度も家に帰ってないらしいけど?」

 

年月をかけ、江鷹の中で大切だったものまでも否定された。

 

「い、妹が生まれた日の筈だ。その日は……」

「流産してる。君に妹はいないよ」

「そ、そうだったか?……そうだった、かも、しれないな……」

 

こうして黎武は、薬と巧みな言葉を用い、じわじわと時間をかけて江鷹の記憶を破壊していった。否定に否定を重ね、現実を塗り潰すようにして、彼の心の支えを一つずつ崩していったのだ。

 

初めに忘れたのは声だった。

 

「江鷹」

 

頭の奥底で、確かに誰かが己の名を呼んでいた。懐かしく、何よりも大切なはずの声。それなのに、誰の声だったのかどうしても思い出せない。胸の奥を冷たい爪で掻き毟られるような恐怖が、ゾクリと背筋を駆け抜けた。体の芯から震えが広がり、心臓が苦しく軋む。思い出せない。それはつまり、自分が家族のことすら忘れてしまっているということだった。

 

江鷹はそのことに気づいた時、耐えられず一度だけ脱出を試みたことがあった。あの終わりなき牢獄のような日々から逃げ出すために。何処かの星へ船が到着する、その一瞬の隙を狙って、手錠と足枷を力任せに破壊した。監視に立っていた辰羅に襲いかかり、その首に腕を絡めて縊り殺した。

 

あと少し、あと一歩。自由の光はすぐそこにあった。だが結末は残念なものだった。霧紅が現れたのだ。

 

「良いわねぇ根性あって。怖いだろうに、ワタシ貴方の事大好きだわぁ」

「クソ! ぶっ殺してやるッ!」

 

怒りと憎悪に突き動かされ、飛び掛かってくる辰羅の男達を次々に投げ飛ばし、捩じ伏せ、踏み潰し、骨を叩き砕いた。捕えられた当初とは比べ物にならない程に、江鷹は鍛え上げられ、強くなっていた。だが、それでもまだ子供だった。二十人近くを殺し毒物を体内に打ち込まれたところで、力尽きて捕らえられた。

 

霧紅も黎武も歓喜に打ち震えていた。想像以上の成長だと手を叩き、笑い、子供の暴力をまるで成功の証のように讃えた。だが罪は罪。待ち受けていたのは壮絶な罰だった。

 

まずは見せしめの拷問だった。

奴隷たち全員の前で江鷹は怒鳴りつけられ、無理やり上着を剥ぎ取られた。その裸の背に、霧紅の手にした鞭が振り下ろされる。鋭く空気を裂く音が響き、肉を叩く重苦しい衝撃が走る。普通の人間ならたった一度で皮膚が裂けるほどの鞭だった。しかし夜兎族である江鷹の肉体は頑丈で、一発では裂けなかった。だからこそ霧紅は何度も、何度も、飽きることなく鞭を振り下ろし続けた。やがて皮膚は裂け、血が滴り落ち、床に黒々とした染みを作った。

 

夜兎族の強靭な治癒力をもってしても、これ以上やると傷跡が残ってしまうと判断された時点で、ようやく鞭は止んだ。江鷹の肩は震え、頬は涙に濡れていた。痛みと恥辱が心を抉る。霧紅は反抗心を持つ子供を叩き潰すのがたまらなく好きだった。

 

拷問が終わると、今度は黎武が現れる。霧紅を嗜めるように声を掛けながら江鷹を抱え、優しく手当を施した。「もう逃げ出したらダメだよ?」や「私達も君達を大切に思ってるんだ」など、彼は穏やかに、慈しむように語りかけた。すべての傷を治療し、痛み止めを与える。だがそれは救いではなく、次の苦痛への準備に過ぎなかった。

 

再び霧紅が現れ、江鷹の腕を乱暴に掴み、床を擦るように引きずっていった。放り込まれた先は暗く狭い部屋。折檻だった。

 

寒気が骨の髄まで染み渡る。光は一切なく、空間は湿り気を帯びて重苦しい。初めはまだ耐えられた。だが10分も経てば孤独が心を締めつけ、30分で震えが止まらなくなり、一時間を過ぎる頃には暗闇そのものに心を蝕まれていった。

 

真っ黒な闇がすべての光を飲み込み、圧迫感が胸を潰す。空気は冷たく湿って皮膚に纏わりつき、船の駆動音がゴウゴウと不気味に響く。孤独と寒さと闇の三重苦に、江鷹の精神は崩壊寸前だった。耐え切れず叫び、許しを乞い、壁に縋りながら部屋をぐるぐると回った。指先で壁をなぞればザラついた感触が返り、冷たい壁に身を預けて座り込み、耳を塞ぐ。だが機械音は容赦なく響き続け、暗闇は一層深く彼を飲み込んでいった。

 

時間の感覚は失われた。数時間か、一日か、あるいは数日にすら思えた。ようやく解放された時、江鷹の精神はすでに限界だった。だがさらに残酷な光景が待っていた。

 

彼の部屋に戻ると、そこには5つの幼い子供の首が並べられていた。自分が大人しくしていれば死なずに済んだ命。光を失った幼子の瞳は、まるで恨めしげに江鷹を睨みつけているようだった。耳には幻の悲鳴が木霊し、心臓を握り潰す。

 

心は、完全に折れた。

攫われて4年。8歳になった江鷹は、ついにこの船からの脱出を、奴隷という枷からの解放を諦めた。

 

 

 

 

     *   *   *

 

 

 

 

日常が壊れ、非日常が続き、そしてその非日常すらも日常へと変わり果てた頃。

 

「では夜兎君、君の家族構成は何だったかな?」

「父と母だけです」

「ご両親はどんな人だったっけ?」

「覚えていません。母は幼い頃に死んだと聞いていますし、父は家には戻ってきませんでしたので」

「名前とか職業とか覚えてないの?」

「さて、なにぶん昔の事ですので。覚えておりません」

「君に兄妹はいなかったの?」

「いなかったと聞いています」

「そうかそうか、1人っ子だったんだね。じゃあ最後の質問だ。君の名前は何だったかな?」

「名前……申し訳ありません。もう随分と名乗っておりませんでしたので、忘れてしまいました」

 

少年は、全てを忘却していた。

攫われてから8年。家族の顔も名前も、自らの名すらも、記憶の中から完全に消え去っていた。黎武はその答えを聞き、静かに、満足げに口元を吊り上げた。

 

「……ありゃりゃ、まあそういう事もあるかな。別に良いよ。次の主人が決まったら、その人に適当に付けて貰えば良いからね〜」

「次の主人、ですか?」

「そうそう、5年に1度の大規模なマーケットが2ヶ月後にあるからね。そこに君を出す予定なんだよ。今の君は〜、身長が157cm。体重が47kgで体脂肪率は9%。うん、理想的な成長だ。大丈夫そうだね〜」

 

少年の緑の瞳は光を失い、退屈そうに黎武の姿を追っていた。その瞳には感情の色はなく、姿勢には生気が感じられなかった。黎武が肥え太った体を揺らし、楽しげにオークションの話を続ける中、少年の心はすでに遠いどこか、虚ろな闇の中に漂っていた。

 

少年は夜兎族であった。

その血に宿るのは、生まれながらにして戦いを求める獣の本能だ。夜兎族とは即ち戦闘民族であり、その肉体は鍛錬を重ねるたびに強靭さを増し、精神は殺伐とした戦場にこそ歓喜を見いだす。

 

ゆえに今の訓練は、彼にとっては余りに退屈で物足りなかった。すでに引き締まった筋肉は過酷な調教によって磨き上げられている。しかしその内側には、まだ飢えた獣のように“もっと戦いたい”という欲望が燻っていた。表面上は大人しく黎武の言葉に耳を傾けているように見える。だがその緑の瞳は静謐さを装いながらも、底知れぬ苛立ちを秘めていた。

 

それは夜兎族の本能そのものだった。

もっと血が飛び散るような戦いをしたい。肉と骨とがぶつかり合い、命を賭けた修羅場を駆け回りたい。そんな渇望が日増しに募っていく。奴隷商船の者達の命令には素直に従っているようで、心の奥底では鬱屈とした不満が渦巻いていた。

 

そして黎武は、その小さな狂気を誰よりも早く察していた。

幾千の奴隷を扱ってきた眼で、表面上の従順さに隠された飢えを見抜いたのだ。だからこそ彼は判断した。そろそろ潮時だ、と。

 

学習性無力感という言葉がある。サーカスの象の例が分かりやすいだろう。象は幼い頃から頑丈な鎖で繋がれ、逃げようとしても無駄だと身体に刻み込まれる。そのまま成長して鎖を容易く引き千切る力を得ても、もう試そうとはしなくなる。

少年もまた幾度もの苛烈な調教を経て、この象と同じ状態に陥っていた。だが夜兎という獣の血が、その鎖を本能で砕こうとしていた。

 

「そろそろ本気で戦おっか」

 

ふいに黎武が言った。その一言で、虚空を漂っていた少年の意識が現実に引き戻される。無関心に曇っていた緑の瞳が、鋭く黎武に向けられた。

 

「……はい?」

「オークションで君を欲しがる人達に参考になる資料をあげないといけないからね〜。その為に君には一回、本気の戦いをやって貰わないと」

「本気、ですか……」

「そう。今までも本気で戦ってたと思うけど、更にその一歩先の戦いだよ〜。いわゆる殺し合いだね〜。もしかしたら死んじゃうかもしれないから、無理なら別にやらなくても良いんだけどね〜」

 

殺し合い。

 

その言葉を聞いた瞬間、少年の瞳の奥に猛り狂う炎が灯る。黎武の「無理ならやめてもいい」という言葉を鼻で笑い飛ばした。

 

「上等じゃないですか。殺しても良いのならむしろ気が楽ですよ」

「そっかそっか〜。でも本当に頼むよ〜? 死なないでね、いやマジで。笑い事じゃなくて。いやいや大丈夫だと思うんだけれどもね、疑ってはないんだけどもね」

「はは、きゃははは!……俺が負けるとでも?」

「まさかまさか、思ってないよ〜。ホントだよ?」

 

高鳴る鼓動が血を滾らせ、四肢へと力を漲らせる。戦いの予感に少年の全身が粟立ち、震えが止まらなかった。黎武はその様子を見ながら、太い指で額の汗を拭き、手元の機械を操作する。数分も経たずに霧紅が現れた。少年はその姿を目にした途端、眉を顰める。いつになってもこの女だけは生理的に受け付けなかった。

 

かつてのように目隠しをつけられ、暗闇の中をおよそ10分ほど歩かされる。やがて到着した先で、異様な空気が肌を撫でた。鼻腔を突き破るような強烈な獣臭が漂っていた。

 

次の瞬間、幻のように幼子の悲鳴が耳を打つ。頭蓋を内側から叩き割るかのような鋭い声。耳を塞いでも消えないその声に苛立ち、少年は眉を寄せて低く呟いた。

 

「うるせぇな」

 

それを耳敏く拾った霧紅が、愉快そうに何がうるさいのかと尋ねる。しかし少年は舌打ちを一つ響かせ、それ以上は黙り込んだ。霧紅は紅の唇を僅かに吊り上げ、魔女のような笑みを浮かべる。

 

たどり着いたのは船内に造られた広大な闘技場だった。その控室のような部屋へと通される。ここは本来、獣を戦わせたり奴隷の見せしめを行う娯楽の場で、少年にとっては初めての場所だった。壁や床の一部には、どれほど拭っても消えなかった血の痕が黒ずんで残っていた。

 

やがて訓練のときと同じように、両手の手錠と重い足枷が外される。長らく拘束されていたため、手首と足首には濃い痣が刻まれていた。

 

「はいこれ」

「は?」

 

不意に何かが投げ渡され、少年は反射的にそれを掴む。見下ろすと、それは一本の傘だった。先端は銃口のように加工されている。見覚えのある形状に、少年は思わず首を傾げた。夜兎族は日光に弱く、常に傘を携える習性がある。そのため彼らの使う傘は頑丈であり、武器としても扱えるのだ。

 

「貴方の為に新調したのよぉ。夜兎らしく派手に血腥く戦って頂戴ね」

「いいよぉ、言われなくても」

 

手に馴染む感触を確かめるように、傘を握り直す。珍しく口元に笑みを浮かべる少年を見て、霧紅は満足げに紅を引いた唇を吊り上げた。

 

霧紅の指示に合わせて、控室の後方の扉が重々しく閉ざされる。厚い鉄板で囲まれた闘技場を、ひやりとした沈黙が支配した。やがて対面にそびえる重厚な門が軋みを上げて開く。

 

影が、いくつも姿を現した。

獣。異形の、飢えた獰猛な怪物。

 

土色の肌は岩のように硬質で、荒れ果てた毛並みは使い古したモップのように乱れている。四肢は鋭い爪を備え、鉄の床を引っ掻くたびに耳障りな音を立てた。顎からは涎が滴り、口内の巨大な犬歯が鈍い光を反射する。

 

群れを成した獣たちは、鉄の檻に佇む小さな獲物を見つけると、狂気じみた咆哮を上げて一斉に駆け出した。

 

その光景を目にした瞬間、例の幼い悲鳴の幻聴が、これまでになく鮮烈に脳内を木霊した。

 

だが、それすらもどうでもよかった。

 

迫りくる死の気配に、少年の胸は歓喜で震える。抑えきれない高揚が身体を突き動かし、全身に武者震いが走った。

 

床を強く踏みしめ、傘を構える。

そして彼は、獣たちの群れへと躊躇なく駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

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