「塩気が足らん」
一言ボヤいたところですぐ行動に移った。先程仕留めた猪を背負い麓を目指して歩く。目指すは人里だ。なるべく規模の大きい村でもあればいいのだが──そう願ったところで、時代背景を鑑みると期待できそうになかった。
仮に人間が集落を作っていれば川の近くにあることは間違いない。暗闇に呪いが蔓延る山深くまで人の手が入っていないことから、人々が山を避けてどこかに集落を構えている可能性があった。そうなると、ひとまず麓まで降りなければ話にならない。
短いながらも俺はこの山を拠点にして数日過ごしていた。仕留めた獣と呪いは数えていないが、既に山の動物といえるものは軒並み狩り尽くしたところだった。このまま獲物がまともに寄り付かなくなれば、新たな狩場を探さなければならない。少々面倒ではある。
俺自身の成長は著しいもので、あの日初めに立ち上がった頃から背丈はさらに伸び、全体的にマッシブな姿になっている。獣の骨肉から内臓までもれなく食って栄養に変えているとはいえ、やはり人間離れした変化だった。
しかし生で獣肉を食い続けていれば流石に飽きが来る。趣向を変えて焼いたり燻したりと試したものの、淡白な食感と残った血の味を覚え、美味とは言えない半端な成果物が出るだけだった。
そこで欲したものが塩だ。血や内臓をそのまま食うため、各種ミネラルが不足することはなかったが──飽きには勝てない。食うことこそが己の快。人間にとって塩味は美味と感じる一つの要素だ。それを求めて歩き始めていた。
塩の精製には海辺が適している。山から見渡した景色に海はないため、麓まで降りて集落を探しそこで手に入れるか、自ら海まで足を運び塩作りに精を出すかの二択だった。日本の山地から岩塩が取れるといった話は、現代でもまず耳にしないため、自ずと山から遠ざかる結論に至った。
塩の精製にはとにかく手間がかかる。海水を濃縮して高濃度の塩水を作り、そこから水分を蒸発させて……といった工程が要る筈だ。この時代の文明が塩の精製法を獲得する程度に発展しているかどうか、半ば賭けではある。
かといって山に篭っていても塩は手に入らない。文明が発達していれば交渉や物々交換の概念もあるだろう。そのために猪肉をわざわざ持って行くのだ。
既に自らの異形の程は確認済み。水溜まりや川の水面を姿見の代わりにして、客観的に己の身体を捉えている。
肉の板を貼り付けたように歪んだ右顔面。四つ目がそれぞれ左右非対称に嵌った四つ腕の化け物。おまけに口が腹にもついていた。姿形の美醜などどうでもいいが、仮に対面する人間から呪い共と俺を一緒くたに扱われても面倒ではある。
ふと脳裏に強奪の二文字が過ぎるものの──争う弾みで事態がややこしくなるのもまた面倒だと判断した。年代と現在地の情報を収集するうえで対話は不可欠だ。呪いや術についての体系的な知識が見つかる可能性もある。己の怠惰と傲慢で機会を損なうような真似は避けたかった。
現代の価値観から得た社会性と、他を顧みない自己の本能的な欲望が絶えず衝突を繰り返していたが、答えは出ないままだった。
雄大な飛騨山脈の西側一帯には飛騨の民という豪族達がいた。山岳に居を構えた先住民族──飛騨の民に対して、奈良の盆地を本拠とする大和の国は力による征服を図っていた。
しかしこの時代──後に奈良時代とも呼ばれるこの時世には、人々の畏れや負の感情を糧に育った、人智の及ばぬ強大な呪いが闊歩していた。
飛騨高知の中央に位置する位山。そこに陣取る呪い──すなわち呪霊は名を
苦難や災いへ向けられた負の感情を糧に育ち、奈良時代に広まった知識によって存在を確たるものとした鬼神。火災や水害、さらには風害、干ばつ、戦乱といった多様な概念を包括した災いの呪霊である。
飛騨の民、そして大和国の民にも七難の悪名は轟いていた。災害が人々を襲う度に強くなり、呪霊として強くなればさらに呪術をもって災いを起こし人々を苛む。
七難の討伐には腕利きの術師達が挑んだものの、誰一人として位山から帰ってくることはなく。非力な民は待つことしかできなかった。鬼を祓う者──
ある日のこと、飛騨の山から神の化身が降りてきた。四つの腕に二つの面を持つその
「塩を寄越せ。肉を差し出せ。酒を注げ。さすれば──災いを打ち砕き、鬼神を祓ってやろう」
ついと猪を放り出して男は山へ向けて駆け出した。風よりも速く走るその姿に、飛騨の民は畏れ震えたまま祈りを捧げるほかなかった。位山には相変わらず暗雲が立ち込めている。強大な二つの災いがぶつかろうとしていた。
「……ほう。存外やる気があるらしい」
位山の中ほどに差し掛かった辺り。山を駆け下りてくる大規模な土石流を目にして男は一言呟いた。
泥水に岩石と樹木が混じったその激流を前にしても男はなんら余裕を崩していない。男には確信があった。自らの刃ならば斬り裂けるという確信が。前方へ差し向けた手指で照準を定め──
「『
不可視の斬撃。放たれたそれが濁流を二分した。さらに斬撃を一極に重ねて放ち続ける。刃を通して布を裂くように。男の前で土石流が二つに分かれては、背後で再び合流していく。
やがて勢いが緩やかになり流量も少なくなると──土煙だけが流れ、それもすぐに収まった。
突然の土石流にも難なく対処した男は、近づいてくる呪いの気配を察知した。濃い呪いの気配。呪霊本体の到来である。現れた呪霊──その鬼神には目が一つしか見当たらない。
「あらあら。目移りしそうなくらいたくさんあるのね……あなたの目玉。一つわたしにくださらない?」
ボロ布を纏った妙齢の女の姿であった。全身に刻まれた黒い紋様と灰色の肌、長く伸ばした幽鬼じみた黒髪に赤い一つ目は人外たる証左。
放った言葉はこの時代の言語とも、現代ともまるで違っていたものの、その独自の言語体系によって日本各地の民と言葉を通わせることが可能であった。専ら痛めつけて命乞いを引き出すために使われていたのだが。
鬼神とは表したものの、この時代の鬼は呪霊や呪い全般を指す言葉であり、必ずしも牛の角や剛力を持ち合わせた姿ではなかった。
漠然とした災いの概念を操る術式は大雑把で洗練されてはいなかったが、出力は桁違いのそれ。まさに災いそのものを体現することで、歴戦の術師共を返り討ちにしていたのだ──
「目玉一つで満足するのか?随分と謙虚な呪いだ」
「そうね。腕も欲しいわ。残っていれば貰っていきましょう」
『火難の相』
突風が男の顔を撫でた。次いで炎が地を這うようにしてたちまち襲いかかり、辺りの草木までもが燃え広がる。
呪詞の詠唱もなく放たれた熱波は広範囲に及んだ。火災や干ばつ・日照りと、風害の概念を合わせて纏ったことで体現する術である。並の術師であれば容易く焼き殺せるだろうそれだったが、男には通じない。
「
「……あら?なぜ焼けてな──」
やにわに男は走った。影が尾を引く速さでたちまち七難へ近づくと、腕を強く引き絞り──剛拳が炸裂する。
「──い゙ぃっ!?」
「『
頬の痛みで思わず仰け反る七難へ、迷わず追撃の刃を放つ。ボロ布に隠れていた細腕には無数の切り傷が刻まれ、零れた血は紫色を呈していた。
「流石に硬いな。ならば連撃はどうだ?」
地を蹴る音。再び接近した男は四つ腕を駆使した格闘戦を仕掛ける。
七難は掌印と共に炎熱をぶつけて抵抗を図ったが──
「ぶぐっ!!ゔごっ!!ちょ、ちょっど──」
(重い!!痛い!!わたしの炎が通じていないのか!!)
男は腕をいなし抑え込む。さらに空いた三つの拳で惜しみなく殴打を放った。七難の頑強な皮膚にもヒビが入るほどに強烈な連続打撃。
危機を察知した七難は関節の可動域を無視した動作で掌印を構えた。
「──離れなさいっ!!」
『水難の相』
「おっと」
途端に生じた濁流が男を押し流す。泥水から飛び上がった男へ、七難は矢次早に術を仕掛けた。
「もういい。気持ち悪い体なんて要らないわ!!殺す!!殺してから考えましょう!!」
『賊難の相』
槍を構えた一つ目の兵士が虚空から大量に湧き出た。戦乱への恐怖をも糧にする七難。この式神達を従えて数多の国を落としてきた過去があった。男一人に負ける道理はないとして、物量に任せた制圧を図る。
「烏合だな」
槍の穂先を掴み刺突へ対処するは四本の腕。さらに指先で照準を合わせれば──兵士の身へ斬撃が刻み込まれた。
異形故の身体的利点は非常に多い。四つ目が散眼のようにそれぞれ忙しなく動き回って常に戦況を見通し、四つ腕は単純な手数の多さから攻防共に用いられることで数の利を容易く覆した。
七難の術式操作は未だ洗練されていない。味方の兵士に慮って威力の制限を行うほどの技術はなかった。大雑把に他の術を放っても男には当たらず兵士を悪戯に押し潰すだけに終わるだろう。しかしながら──七難にはまだ手札があった。とっておきの鬼札が。
「位山はわたしの領地。位山のわたしは無敵!!なんだってできるのよ!!」
人々は"位山の七難"──という呪霊の概念を認識し、畏れと呪力を供給していた。それ故に、この七難は位山での戦闘に限って呪力が尽きることはなく、さらに特別な術理と力を得ることとなった。土地と人々を結びつけた認識が呪いを昇華させていた。
呪いとして認識されることがすなわち力へと変わるこの時代で、大和の国からその存在を敵視された七難である。それは大国ほどの戦力を有しながら、大地を蝕み世を呪う災いの具現を可能としていた。
「領域展開!!」
『
生得領域の具現。すなわち領域展開。七難が制する世界に男は引きずり込まれていた。
紫がかった雲の立ち込める雄大な景色そのものに、湧き出でる無数の兵士達が槍を構える死地が広がっていた。
「なるほど。自らの世界──心の
「そのニヤケ面っ!!すぐに剥がしてあげる!!腕は全部ちぎって芋虫みたいにしてやるから!!目玉も全部くり抜いて!!殺す!!」
男の身体へ槍が突き刺さった。次に炎熱と濁流が押し寄せてくる。さらに爆風による気圧変化が鼓膜を破壊し、高速で飛来する石片が肉を食いちぎった。まさに死の楽土。災いを具現する術式効果の本領が男へ襲いかかっていた。
領域は結界術によって構築された空間。そこへ付与された術式効果は内部にいる限り回避不能である。如何に頑強な者であろうと、災いそのものに絶え間なく攻められた場合死は免れない。
しかし七難は
男の前で領域を展開する術を見せてしまったのだ。ただ一回見ただけで技術を盗むことができる天賦の才。呪いの王たる片鱗を七難は味わうことになる。
「呪いの術理──すなわち呪術ということか。良いものを魅せてくれたな。礼をくれてやる」
象る掌印は閻魔天印。領域の具現と構築には高い結界術の技量が必要である。だが男は領域を展開する瞬間を認識し、呪術の境地へ一足飛びで上り詰めていた。
「領域展開」
『
一瞬で世界が塗り変わる。血の池で静謐に佇む巨大な厨子。その周りには獣の頭骨が山のように積み重なっていた。
厨子の内部に本尊はなく、神饌の赤身肉が皿に盛り付けられている。獣達の成れの果てがそこにあった。
男は式神である兵士達も共に領域内へ招き入れている。その歓迎はおびただしい斬撃によるものだった。まず柔らかい肉へ切り傷が入る。次に纏った鎧へヒビが入った。さらに骨髄を薄く削るように不可視の刃が振るわれると、あとは──塵になるまで絶え間なく刻まれるのみ。
「は?わたしの……わたしの位山は、どこ?なんで、ここは……?──」
「俺が塗り替えた。此処はもうお前の世界ではない。そういえば、なんだったか……腕を削ぐだったか?」
領域同士がぶつかった際、空間の主導権を巡ってやり取りが起こることもあるが──より洗練された領域が他の領域をすり潰すこともある。今回の場合はもちろん後者であった。
位山における七難の絶大なアドバンテージはもう存在しない。地の利を奪われたうえに男の領域内に閉じ込められたことで、如何に七難といえど混乱を隠せなかった。
その戸惑いの最中に訪れる──不可視の刃。
「あ゙ぎっ。い、い゙ぃぃ!!」
両腕の切断。呪霊たる七難はその程度で死にはしない。魂が折れかかっていることは確かであったが、女らしい格好で弱った様子を見せ、油断を誘うような素振りは呪霊の本能によるもの。
当然男がそのような呪霊に慈悲や情けをかけるわけもなく、寧ろ意趣返しのように嬉嬉として刃を構えるだけだった。
「そうそう。顔を剥ぐとも言っていたな」
「あ゙ぁぁ……いや、いやだ!!やめ゙っ──」
ずろんっ。と、顔の皮が一枚、重力に負けて捲れ落ちる。剥き出しになった表情筋の繊維も、プツプツと吹き出す紫の血も全ては人外のもの。人の真似事をしているに過ぎなかった。手で顔を抑えて泣きわめくような仕草も同様に。
例え領域に引き込まれて刻まれようと、七難の再生能力は未だ健在である。男の嗜虐心を煽るように痛がって見せるのも全て過剰な演技であった。術式の回復を待ちながら、斬撃によるトドメが放たれぬように必死で命乞いをしてみせた。
「た、たす……たすけてっ!!もうしない、もう何もしないわ!!人間には手を出さない!!本当よ!!位山からも出ていくから!!だからお願い……」
「そうかそうか。もう悪さはしないと。そう言うのか。なるほど……よし分かった」
先に領域を展開した七難は結界の外縁部を予め知覚していた。仮に男の領域が七難の領域外殻を流用しているとすれば、外縁から穴を開けてここからの逃走も可能である。術式の回復も今しがた終えたところで、内心ほくそ笑むばかりだった。
あと必要なものはタイミングだけ。ここで勝てなくとも、不意打ちによって隙さえ生じれば逃げて生き延びることができるうえに、領域外へ頭さえ出れば致命傷は避けられる。七難は決して諦めてはいなかった。呪いらしく狡猾に生き延びようとしていた。
……全て男に見透かされていたのだが。
斬り落とされた腕。塵とならず地面に転がっていたその手が密かに掌印を構える。具現化した兵士を盾に身を翻し──
「分かってくれたのね。じゃあ……さようなら゙っ──」
「馬鹿が」
頭から股までまっすぐ。刃がその身を両断した。目くらましとして現れた異形の兵士ごと真っ二つにされた七難は、煙を上げながら塵となって消えていく。
領域内にひっそりと開けられた逃走用の穴。そこから山のひんやりとした空気が入り込んできた。
宿儺は領域を解除するとおもむろに麓へ歩き始める。成果は上々。次は肉と酒を味わう番だと、揚々とした様子であった。
位山に立ち込めていた暗雲は消え去り、西日が男を照らしている。かくして飛騨の民を苦しめた呪いはついに祓われたのだった。