天使の梯子。それは雲間から太陽光が帯のように差し込む現象を指す。一種の自然現象であり、旧約聖書の記述から別名──ヤコブの梯子とも呼ばれた。
人は日の光を手で遮ることはできる。しかし降り注ぐ一筋の光を前にして、回避という手段は選びようがない。
雲の切れ目から差す日の光のように、限りなく清浄な威を纏ったそれは術式を消滅させる効果を持っていた。すなわち──不可視の刃は届かない。
「━━━━ッ!!」
(斬撃をかき消した!!これが天使の術式か!!)
宿儺は思考を回しながらその光を耐え凌いでいた。四つ腕による防御を持ってしてもジリジリと身を灼かれているのだ。まさに絶大な出力。"天使"に相応しい裁きの浄光であった。
(呪具を仕舞っておいたのは正解だったな。下手を打てば諸共消し飛ばされる。ならば──)
震脚。踏み砕いた地盤と立ち上った土煙は、光を遮れずとも視界を遮ることはできる。続いて身を屈めて膝に力を込めると、宿儺は音もなく山林の中へ駆け出した。燃え盛る山火事が木々を照らし出し、草木の擦れる音があがる。
「あぁぁ……!!何故だ!!何故!!子供達を燃やした!!返せ!!返してくれ!!」
「『■』『
呪詞の詠唱と共に虚空へ手を伸ばした宿儺。生得領域から取り出したのは呪具──“神武解”であった。不可視の斬撃は真っ向からぶつけた末にかき消されている。一箇所に留まれば待っているのは完全なる魂の消滅であった。宿儺は隙を窺いながら、雷撃を持ってして天使に対抗する心積りのようだ。
『神武解』!!
「──ッ!!そこかァ!!」
姿を現した宿儺は雷撃を放った。そしてすぐさま林の中へと身を隠し走り続ける。天使の纏った光が瞬くと同時に、宿儺の通った場所は浄光の柱に灼かれていった。
ヒットアンドアウェイで少しずつ心身を削る策。天使は宿儺の魂胆を本能的に察知して警戒を強めた。
天使が身に纏った清らかな光は、雷撃を次々に受け流し上空へと逃がした。立ち込める黒雲は星の光を隠したまま、やがてポツポツと大きな雨粒を落とし始める。
(慎重にことを運ばねばならん。現状、術理の性能で負けているのは確かだ。制空権は既に取られている。相性も悪いときた。だが……勝つのは俺だ)
続けて取り出したのは呪具"飛天"。術式効果を消滅させる天使の光には呪具の効果も効きが悪い。しかし宿儺は焦らずに"飛天"を構え、遠距離から攻め立て続ける。
『飛天』!!
「神よ!!何故連れて行かれたのですかっ!!あの子達に罪はない!!何故……!!」
槍撃をかき消す幾本もの光の柱。衝撃と吹き荒ぶ風が雨粒をかき混ぜる。
裁きを下す天使の威光はさらに輝きを強め、放たれる光の柱は山林を灼き焦がしていた。
一方で、木々の間から姿を見せる宿儺の皮膚は焼けただれており、火傷の痕が痛々しく目立つ。だが、傷に雨滴が滲みようとも、浮かべた笑みは未だ健在であった。宿儺は貪欲に勝利を求めて止まることなく走り続けた。
「まだまだ」
無造作に引き抜いた大樹の幹を掴むと、宿儺は走る勢いのままに投擲する。さらに斬撃で荒微塵に刻んだそれは目眩しを兼ねた牽制であった。
仕上げに加えるのは──迸る雷撃。雨粒をいくつも蒸発させながら空中の天使に雷が押し迫った。
しかしそれが天使の身を焦がすことはない。呪具の術式効果によって生じた雷は、天使の光によって相殺されてしまう。
「お前は天使ではなくなった!!呪いとの闘争に縋った!!魔の者に堕ちた……!!
稲光が夜闇に紛れる宿儺の姿を照らした。天使は今度こそ一撃で宿儺を消し飛ばすために、呪詞の詠唱を始める。
「"光よ" "全てを浄化したまう光よ"」
広がった山火事は周囲の大気を熱し、上昇気流を生み出していた。上空に立ち上った水蒸気は冷やされた後、凝結して積乱雲へと成長している。急変する山の天気を見極めることは至難の業である。雨に打たれながら宿儺はその
「"罪 咎 憂いを消し去り"」
宿儺が執拗に雷撃を仕掛けていたのは地表に正電荷を偏らせるためだった。地から空へと雷を放つことで静電誘導による電荷の偏りを再現している。それは結果的に上空に佇む雷雲の成長も促していた。全ては宿儺が整えていた条件。あとは導線を引くだけだった。
「"彼の者を導きたまえ"」
詠唱を咎めるように再三、地から放たれた"神武解"の雷撃。光に包まれた天使を焦がすことはなかったものの、それは天使を挟んで地面から雷雲までの大気を裂き、絶縁破壊によって
『邪去侮の──
天使の術式は他の術式効果を消滅させるもの。しかしそれは術式の介在しない自然現象にまで及ぶことはない。"神武解"の雷撃は天使に効きが悪いものの、
回避不能──必中の帰還雷撃!!
「何か、言いたいことがありそうな顔だな」
「お前が、お前が……此処に来なければよかった。あの子達はまだ生きていられたのに。お前が呪いを祓うから……戦いを求めたから……あの子達はいなくなった。そうなんだろう。だったら……何のために……!!あんまりじゃないかっ!!」
呪力による防御もあって息絶えてはいないようだった。しかし、今や落雷のダメージによって術式制御も満足にできない状態。這いつくばって此方を睨むだけだ。なんら問題なく屠れる。
武振熊とはまた違う、突出した異能。強力な術式性能を前面に出す術師──それが天使だった。俺なりに知恵を絞って戦ったつもりだ。“飢え”を満たすために勝利を求めた。それなりに楽しめたものだった。
だが此奴は違ったようだ。"天使"ではなく、人として惑い憤った末に戦いを仕掛けたのだ。餓鬼共の死に耐えかねて喚いた挙句、俺に当たり散らして縋り付いているだけ。なんと情けない姿だろうか。
俺は期待などしていなかった。その筈だ。此奴がどう足掻こうとも、俺にとっては興味の湧くこともない他人事に過ぎん。折りよく目に留まった俺へ不機嫌なままに喧嘩をふっかけてきた者。そこらの木っ端呪霊と大して変わらない存在。だというのに──俺の手は止まっていた。
「お前自身が悔いているだけだろう。天使だの神だの……げに下らんな。興が削がれた」
「まだ終わっていない。私はまだっ──」
頭部を揺らす一蹴り。天使は白目を剥いて山の急斜面を転がり落ちていった。
……何故斬撃で仕留めなかった。そもそも、初めから領域による殲滅で立ち向かえば術式の防御も意味をなさない。必中の『
終ぞ天使を仕留める気にならなかった──という自身の行動原理に対して、首を傾げながら思案に耽る。
俺は天使を──否定したかったのか?
翼を生やした異形の身でありながら、祝福と親愛を受けていた彼奴を。強力な術理を操り、崇められる存在であった彼奴を──俺自身と重ねていたのか。
かつての俺のように崇められながらも、遂には全てを失い彼奴の魂が折れたあの時。取り乱したその醜態を目にして俺が抱いたのは……嫌悪感だった。
俺と似た強者が無様に項垂れる姿を見て、殺意や怒りよりも先に失望が湧き出たのは──つまり同族嫌悪だった訳だ。
腹立たしいと思った。情けないとも感じた。その様を否定して、捩じ伏せることで俺自身を肯定したかった。だから戦いを望んだのだ。自身を肯定したいがために天使の心理をわざと逆撫でした。そして叩きのめした末に殺意も失せてしまったのか。
なんてことはない。俺自身もまた醜い自我で天使を打ちのめしたかっただけだ。彼奴の醜態を見ていられなかった。名前をつけるとすればそれは──同情だな。
「くっくっく」
笑いながらそう結論付けたことで、病に穢れたこの地を去ることに決めた。天使の生死に興味はない。追ってでも仕留める気にはならなかった。
雨がそろそろ止む頃だ。雲間から月明かりが見えてきたところで、焼けた山林を眺めながら歩き始めた。
奈良は葛城嶺、その東嶺に発し北へと流れる川を人々は葛城川と呼んだ。
葛城川の流域を少し離れた奥田には集落が構えている。そこには捨篠池という蓮の咲き誇る池があった。
七月になると、捨篠池では金峯山寺へ供える蓮を切り取り運ぶ──奥田の蓮取りと呼ばれる行事が開かれる。集落が賑わう祭りのような空気は人々を活気づけた。
祭りの灯りに誘われたのは二面四臂の男。八大尺の上背が人々を見下ろし、金剛杵と三叉槍を携えた闘神のような装いであった。
人々はその威風を畏れたものの、誰が口にしたか、いつの間にか"まろうど様"として歓待をする運びとなっていった。
まろうどとは"マレビト"──つまり客人のことを指す場合もあるが、この場合は来訪神としての扱いである。悪霊から守ってくれる存在が常世から来訪し、人々を祝福してくれると信じられていたのだ。当の本人は素知らぬ顔で祭場へと足を運んでいた。
男は肉や魚を腹の口まで用いて骨ごと喰らい、酒を飲み干しては再び肉を噛みちぎった。歓待の場に給仕は一人。祭場はどこか厳かな雰囲気が流れていたものの、男はなんら構わずに食事を口へ運び続ける。猪の骨を噛み砕き飲み込んでいったところで、男は語った。
「肉の臭みが丁寧に抜いてある。清酒もよく出来ているな。悪くない……それで──俺に何か話があるのだろう。今は機嫌がいい。聞いてやる」
「寛大な御心、痛み入ります。
大寺院がその時代の最先端技術を用いて作った酒を僧坊酒と呼ぶ。庶民の酒は濁酒という別の製法で作られたものを指すことが多い。つまり、この祭場において濁酒ではない清酒が振る舞われたことは、大寺院の息がかかっていることを示した。
その男──宿儺は早い段階でその事実に気づいていた。ただの異形に振る舞う食事ではないこと。自身の復活を知る存在とはすなわち、自身と数百年前に関わった呪術師の連中だということを。
この時代の仏教勢力は神仏習合に伴って戒律を緩めており、肉も酒も摂ることを許されている。しかし、宿儺が目を留めた点は他にあった。
「──つまらん」
「……左様でございますか」
一通りその給仕が語り終わったところで、宿儺はバッサリ切り捨てた。美食を味わうことは好んでも、鎮められる側に立つことはそう好んでいなかったようだ。
給仕は白い髪を短く切りそろえ、中性的な顔立ちをしていた。透き通った声色を低めて、感情を抑えてなんとか返事を発した。
宿儺が表情を白けさせた訳は、勢力のバランス取りに興がわかないためでもある。実に細々とした勢力調整にうんざりしていることも確かだったが、ではそんな彼の興味の対象とは──
「調理はお前が担ったのだろう。見事なまでの技巧と食へのこだわりが窺える。術師としての技量も申し分ないとみた。何故傍に来たのだ。俺の力量を知っていて給仕を望んだのか」
宿儺は魚の骨やら全て食べ尽くしてしまうが、それでも下拵えや味付けの妙は理解できた。この時代における並々ならぬ研鑽が見えたのだ。さらに給仕にまで出張っている。
宿儺は術師としての義務や大義など気にしない。そのため、興味のそそられるままにこの調理人から聞き出そうとしていた。
「お願い申し上げます。私を……私を、お傍に置いていただけませんか」
どこかで聞いたような言葉。盗み見ていた小型の式神を斬り刻みながら、宿儺は一つ嘆息をついた。
宿儺復活を知った経緯や京の現状については次話に補足します。