銀行窓口から離れて自動ドアの前に立つと、従順なドアマンの見送りのような雅やかさで滑らかにスライドした。雲には天使の梯子が架かっていて、ぽっかりと空いた雲間から真っ青な空が覗いていた。天気は限りなく曇り寄りの晴れだったけど気にならなかった。気分は快晴だ。ビルの間を抜けて吹き付ける風さえ心地いい。
いま、わたしのリュックの中には下ろしたばかりの現金百万円が(現金百万円が!)入っている。手続きの前にいくつかの質問が投げかけられたけれど、別に詐欺や犯罪に使うわけでもないし、隠すような理由なんてない。お金はもちろん新札帯付きだ。長い間わたしを苦しめた呪いとも今日でお別れだと思うと、ストラップを握る手にも力がこもる。
出雲から広島までは電車よりもバスを使ったほうが早い。高速バスならおよそ四時間で四千円だけど、急行を使うと岡山経由で一万円ほど跳ね上がる。鈍行ならほぼ直線の代わりに七時間ほどかかってしまう。
駅前の停留所で待っていると、ほどなくバスがやってきた。どこかから響いてくるチャイムの音や駅ビルの中でかかっているクラシックのBGMにバスのアナウンスが乗って、まるで天使の笛と鐘の音の協演のようにわたしの新たな門出を祝福する。
バスに乗り込んで、チケットに従い窓際の席に座った。そしてリュックを膝の上に乗せて両腕で大事に抱える。なにせ今のわたしのリュックは人の命と同じくらいの重みがあるのだ。
イヤホンで耳を塞いで背もたれに頭を預けると、自分でも知らぬ間に高揚していたようで、手の平が少し汗ばんでいるし、どくどくと脈打つ音が耳の奥で響いている。わたしは深呼吸して音楽を再生した。
イヤホンから流れてくる音楽は主にここ一年で買ったものばかりだ。わたしの音楽の趣味は灰病にかかる前と後とでくっきり分かれていて、最近では樹里や文芸部のメンバーの影響によるところが大きい。文芸部の中でも星谷と生駒とは趣味が合う。星谷は流行りのアーティストの中からアルバムに収録されているような曲をお勧めしてくれて、ほとんど外れがない。星谷はわたしのバディのきららともよく話しているけど、内容はアニメや特撮に関することばかりだ。アニソンはアップテンポでメリハリが強いから踊りと合わせるのにちょうどいいけど、普段聴きたい曲の感じとはちょっと違う。きららも音楽を勧めてくれるけれど、そこはごめんね。きららは顔には出さないけれど、わたしの好きな曲とはそんなに合ってないと感じているだろうし、でもバディはちょっと違うくらいの方がパズルのピースのようにフィットする――はず。だからこれでいいんだ。生駒は知識が幅広くて、わたしの好みの傾向から合う曲やアーティストをズバリと当ててくる。生駒の教えてくれる音楽は今までわたしが全く知らないものばかりで、ひとつ教わるたびにわたしの中の新しい扉が開かれていく感じだ。美岐はKPOPに詳しくて、街中でふと流れてくるとその曲にのことを教えてくれたりもする……んだけど、どこかぎこちないというか、前もって用意してあったコメントを思い出しながら喋っている気配がある。美岐のスマホにたまに映っている曲のタイトルはアニソンやアイドルのそれだし、星谷ときららの趣味談義を横目でチラチラ見ているし、プレイリストを見せてくれる時もみんなと違ってなぜかワンテンポ遅い。きっと他人に見せる用のプレイリストをセットしているからだろう。美岐はキャラクターグッズが好きでそこはわたしと趣味が合うところなんだけど、美岐にとっては好きを超えて生き様のようになっているらしく、語るときの口ぶりはどこか熱に浮かされているようだ。なのだから、本当はきっとアニソンやアイドルの曲が好きなんだろうし、あえて触れないでおいてある。樹里の好みはハード目のロックだったけど、思い入れが強いのはやっぱり一緒にダンスを練習した曲だ。この曲は大切だし、やっぱり特別。街中で不意に流れてくると樹里のことを思い出して胸が潰れそうになる。でも、最近では樹里との楽しい思い出もたくさん蘇ってきていて、もう一度喋りたいなあって後悔にも似た感傷が湧くようになった。
灰病にかかる前によく聴いていた曲は、今はもうほとんど聴かなくなってしまった。嫌いになったというより、あの頃を思い出したくないだけだ。あの頃は好き嫌いではなく流行り物ばかりを聴いていた。目的は音楽鑑賞ではなく耳を塞ぐためだ。つまり、少し贅沢な耳栓でしかなかった。音楽はほとんど友達とカラオケで歌うためのものだったけど、家では父親の怒鳴り声から逃げるための耳栓に変わった。父親はたいてい母や兄と喧嘩をしていて、もちろんわたしにも矛先が向く。前に比べてわたしは変わったと思うけど、あの頃の曲を耳にすると未だに身がこわばる思いがして、そんなとき自分の無力さを思い知る。音楽がただの逃避ではなく、踊るためだったり寛ぐためのものになったし、今はもうあの頃のわたしのままではないと信じたい。
――ちゃんと前を見て歩きなさい。
うとうととしていると、子供を咎めるお父さんの静かな声が聞こえてきた。ぼんやりとした頭で通路に目をやると、十歳くらいの女の子が父親に手を引かれて歩いてくるのが見えた。女の子は手を掴まれているので転びはしないが、足元が揺れているので必死に父親に歩みを合わせているようだ。女の子は不安そうな顔をしていた。隣を通り過ぎるときバスが大きく傾いて、女の子が慌ててわたしの隣の席の手すりに手を置いた。父親が振り返る。女の子が怯えたような目を父親に向ける。
父親の顔は――父親はどんな表情をしているのだろうか?
既視感があった。
そういえばわたしにも似たような記憶がある。
このままじゃ〝また〟怒られちゃう――そう思ってわたしが顔を上げると、父親は高い位置からわたしを見下ろすようにしていて、なのに瞳は何も映してないように紗がかかっていた。わたしは怒られなかったことに安堵して、ごめんなさい、と言った。父親がぐいっとわたしの手を引いたので、わたしは手すりから手を離した。父親が手に持っている瓶ジュースをわたしに差し出したので、それを受け取って口をつけた。飲み口は父親の唾液でぬるっとしていて、中に入っていたのは香料と着色料のきつい炭酸飲料だった。うまいか、そう父親に尋ねられた。わたしは慌てて返事をしようとしたせいで大きなゲップをしてしまった。父親がまるで臭いものを嗅いだように顔をしかめたので、わたしは申し訳ない気持ちで、おいしい、と言った。その答えに父親は満足したようで、大きな手のひらでぽんぽんとわたしの頭に手を置いた。
ゴトンゴトンという走行音がして周りを見ると、壁に並んだ座席の上で吊り革が揺れていて、いたるところにカラフルな広告が貼ってあった。そういえばわたしは電車に乗っていたんだ。車内には小学校の制服を着た女の子が何人か乗車していて、座席の前に立って駅に着くのを行儀よく待っていた。いいか菜々花。父親が言った。この車内でお前が一番かわいいんだぞ。そう父親が言った。わたしはお姫さまみたいなフリル付きのドレスを着ていて、こんな大勢の前で褒められて嬉しいような、なんだか気恥ずかしいような思いがしていた。でも、悪い気はしなかった。よく似合ってると言われたので、そうかもしれないと、わたしにはドレスが似合うんだと思った。
電車が一度大きく傾いて、わたしは父親の手にしがみついた。父親はまるで根を生やした大木みたいにどっしりとしていて、とても頼もしかった。窓の外の景色はすごい速さで流れていって、電車のレールはどこまでもまっすぐ続いていた。空の雲から天使の梯子はいつの間にか外されていた。わたしはなんだか眠くなってしまい、目を閉じて父親の手に身を委ねた。
広島に着いて駅前の停留所に降りると、ほとんど変化のない駅前の様子に、懐かしさよりも先に苦い記憶が蘇ってきた。父親にこっぴどく殴られてじくじくとした目の痛みと、傷痕を隠そうとして着けた眼帯のせいで事情を知る知人には文字通り腫れ物扱いを受け、知らない人間の地雷女と嘲り笑う声が頭の中で残響する。見慣れたはずの駅の風景に安心感はなく、周りに見覚えのある顔がないか無意識に目を走らせてしまう。今はまだわたしの過去を知る人とは会いたくない。わたしは乗客待ちのタクシーに隠れるように乗り込んで行き先を告げた。
それからスーパーで食材を買って実家に向かった。歩きながら向かう道のりに違和感があった。違和感の正体は道が狭いことだった。通り慣れているはずの道なのになんだか狭くて、窮屈で仕方がない。碌な思い出がないから視野狭窄になってるのかなとも思ったけれど、実家のアパートの前に立って違和感は確信に変わった。実家のアパートはわたしが思っていたものよりもずっと小さくて、他人の家のようによそよそしく感じてならなかったからだ。外装は汚れていてところどころ剥げているし、壁も薄いからパンチしたら簡単に穴が開いてしまうだろう。合鍵の置き場所だけは変わっていなかったけれど、久しぶりに見る我が家の鍵はどこかオモチャのような安っぽさで、扉などは防犯としては何の役にも立たないくらいに薄い。いまのわたしなら強く引っ張れば蝶番ごと外せてしまえそうだ。実際こんな安普請な扉はただの目隠しでしかないのだろう。こんなこと、あの頃はわからなかった。わたしの実家は、わたしが思うよりずっとみすぼらしい。こんなことを思ってしまうのは、わたしの心が離れたからだろうか、それともイローデッドになった影響だろうか?
家の中はカーテンが開いてないので薄暗く、床には出していないゴミ袋や酒瓶が転がっていて、有機的なゴミの匂いと壁一面に染みついた父親の体臭が鼻をついた。男やもめとはこんな状態を指すのだろう――母は灰病禍になる前には実家に戻っていたし、兄はとっくに家を出ている。わたしはまずカーテンを開けて部屋に光を入れ、換気扇を回して空気を入れ換えることから始めた。部屋に散らばっているゴミを種類ごとに分別して袋にまとめ、洗濯物はランドリーボックスに一旦まとめて放り込む。それから食事の支度だ。炊飯器に洗った米をセットして、続いて煮物の準備だ。料理は子供の頃からしていた――せざるを得ない環境だった――から、それなりに心得はあるのだ。鶏肉と根菜を一口大に刻んで、水を張った鍋に入れて火にかける。鮭の切り身をグリルに入れて、焼き上がったものをお皿に乗せてラップをかけたら準備完了。
子供部屋の前の床にはホコリが吹き溜まっていて、ほとんど開かずの間の様相を呈している。扉についた大小たくさんの傷はそのままだ。扉に触れると、心臓がぎゅっと締め付けられた。お腹が重くなって、息がうまく吸えなくなってしまう。記憶の蓋が勝手に開いて、底から嫌なものがどうしようもなく溢れてくる。時刻はたぶん深夜。寝ていたわたしは父親と母親の激しい怒鳴り声に驚いて目を覚ました。壁に物が投げつけられる甲高い音に続いて、床を叩くような低い音が響く。そこに兄の怒鳴り声が加わって、揉み合う音の中に母親の悲痛な泣き声が混ざる。わたしは手が震えてしまっていて、恐怖に耐えるために歯を食いしばったけど、なんの役にも立たなかった。恐怖に震えるだけの自分のあまりの惨めさから目を逸らすために、イヤホンを耳に詰め込んで適当な曲を流した。家族の争い声はイヤホンをたやすく貫通してきたし、物を叩く低い音は身体の芯に響いてきた。軽やかでキャッチーな流行り曲はわたしの助けになるどころか、聞くたび嫌なことを思い出すスイッチになった。けれども、こんな夜に音楽なしではいられなかった。
わたしは大きく息を吸い込んで、意を決して扉を開いた。室内には使わなくなった椅子やカゴや歪んだカラーボックスが雑多に並んでいて、古新聞の束が適当に積んだままになっている。古新聞はベッドの上にも置いてあって、わたしはそれらを床にどかして腰を下ろし、呼吸を整えた。気を紛らすためにクローゼットを開けると、中はわたしが出ていった日のまま手付かずで置かれていた。大切な荷物はほとんど日ノ杜の寮に運んであるから、この家に残っているものはわざと置いていったものだ。着なくなった服や使わなくなったハンドクリームや捨て損なった人形の類に混ざって、わたしの成長アルバムが立てかけてあった。わたしは導かれるようにアルバムを手に取って、でも開く勇気がなくてベッドの上に置いたまま横になった。薄汚れた天井は四隅に蜘蛛の巣が張っていて、ライトのカバーの底に小さな虫の死骸がおびただしく透けていた。
扉が開く音がして、玄関からなにかを呟くような父親の低い声が聞こえた。父親の声はすべてが怒声に聞こえる。わたしは姿見から掛けっぱなしのカバーを外して自分の姿をもう一度確かめた。鏡にはニットのオフショルにミニスカートを合わせたお出かけ用のコーディネートを身につけて、こわばった顔をしたわたしが映っている。ドレスではないけれど、それなりに見栄えのする格好なはずだ。それに、何よりわたしに似合っている。オーディションで人前に立つわたし、メイド喫茶でお客さんに微笑みかけるわたし、ステージの上でオーディエンスに笑顔を向けるわたし、七色に演じ分けているわたしを想像して暗示をかける。大丈夫、大丈夫、大丈夫。両手で頬をほぐして自分に魔法をかける。それから「よし」と声を出し、お腹に力を入れて子供部屋から出た。
「おかえり、お父さん」
そう声をかけると、咥えタバコのまま冷蔵庫を漁っていた父親は、ちらりとわたしを一瞥しただけで、すぐに取り出した缶ビールに口をつけた。部屋の端と端に離れているのに、パチンコ屋の匂いがここまで漂ってきていた。
「なんだ、お前か」
ほとんど喋りながら、ぐえぇ、と大型の鳥のようなゲップを吐き出して、続けざまにタバコを咥えて胸いっぱい吸い込んだ。
「うん、久しぶり」
「今月の仕送りがまだだぞ、なにやってんだ。金がないならいい仕事紹介してやろうか」
「仕事ってどんな?」
「女にしかできない仕事に決まってるだろ。お前、そういうの得意だもんな」
どうせ夜の仕事かいやらしい仕事に決まっている。見た目も態度も頭の中身もあの頃のまま変わっていないのだろうか。中学の頃、わたしは本当に売られそうになったことがある。数万円の借金のカタにわたしを一晩貸し出すというようなことを、父親は酒を飲みながらお金を借りている人に言い出した。相手の人は「それじゃあ多すぎるよ」と笑いながら冗談として流してくれていたけれど、わたしにはそれが冗談でもなんでもないことがすぐにわかった。翌日、父親はわたしが売れなかったんだから責任はわたしにあると、心底不愉快そうに舌打ちまじりで言った。当然反論したけれど、わたしが言葉を言い終わる前に父親は激昂してわたしを拳で殴った。一度ではない、二度、三度と殴った。わたしは痛みと恐怖とで床にうずくまって許しを求めたけれど、父親は足の裏で転がすようにわたしを蹴り付けた。それから顔やお腹を踏んで、口汚い言葉でわたしを罵った。わたしは財布とスマホを奪われて、わたしの財布からクレジットカードだけ投げてよこして、わたしに金を下ろしてくるよう言った。わたしは打撲の痛みと恐怖で震えていてうまく歩くことができなかったけど、その様が父親には芝居がかって見えたらしく、怒った父親に背中を蹴られてわたしは顔から転んでしまった。それからコンビニのATMに行って、下ろしたお金を父親に渡した。お金を受け取りながら父親はわたしの顔を平手でぺしぺしと叩いて、軽蔑するような笑みを浮かべながら「お前には素直さが足りないんだよ。かわいくねえ女だな」と言った。そのときの惨めな気持ちを忘れられない。痛みと恐怖のほかに怒りがわたしの体を震わせていた。
「まあ、仕事はしてるから今はいいや」
わたしは胸に溜め込んだ息を吐き出して怒りをコントロールした。
「それならなんで金を入れないんだ」
「うん、それなんだけどさ。ご飯でも食べながら話さない?」
わたしは父親をできるだけ刺激しないように言ったつもりだった。けれど父親は、
「てめえ、誰にもの言ってんだよ。やるべきこともできてねえくせに一丁前に指図か? 偉くなったつもりか? 馬鹿にするんじゃねえぞこの野郎」
会話の主導権をわたしに握られることを嫌ってか恫喝するように言った。
「せっかく作ったのに。いらないの?」
「金が先だろうが、金がよ」
「うん。わかった」
わたしは食卓に着いてリュックを膝の上に乗せた。父親は立って壁にもたれたままだ。父親が缶にねじ込んだタバコの吸いさしが小さく音を立てた。
「今日はね、お父さんに選んでもらいに来たんだ」
「あん?」
父親が不快そうな声をあげる。不快半分、威圧半分の声だ。わたしはなるべく動じないように、リュックからお金の入った封筒を取り出してテーブルの上に置いた。
「ここに百万円ある。もしこれを持っていくなら仕送りは今日で終わり。わたしはもう帰って来ない。もし仕送りを続けて欲しいならこのお金は持って帰る」
わたしが真剣であることが伝わって欲しくて、父親の目をまっすぐ見つめた。父親と目は合ったけれど、瞳には怒ったような紗が掛かっていて、たぶん何も伝わっていない。父親は何も言わずに封筒に手をかけて中身を改めると、封筒を自分のポケットにねじ込んだ。
「わかりゃいいんだよ。じゃあな」
父親はそう言ってわたしに背を向けた。それから玄関で一度振り返って「汚したもんちゃんと片付けて帰れよ」と言って一度外に出て行き、すぐに戻ってきて「またよろしくな、菜々花」と歯を見せて笑った。
父親が立ち去ってからしばらく、わたしは無力感と脱力感に包まれていた。これで本当に終わってしまったけれど、まだなんの実感も湧いて来ない。人がタバコを吸うのはきっとこんな気分のときだろう――わたしは両腕を支えに立ち上がってキッチンに向かった。炊飯器の中にほぐした焼き鮭を混ぜて、おにぎりをいくつか握ってラップに包む。煮物はタッパーに入れて蓋をした。それらをリュックの底になるように置いた。それから洗い物をして、片付けを終わらせた。
もしかしたら父親は改心していて、一緒にご飯を食べながら会話して、お金は持って帰れと諭されて――そんな未来をほんの少しだけ信じていた。けれど自分を馬鹿みたいだとは思わない。ただ理解し合えないことを再確認しただけだ。
わたしは帰る前に子供部屋に行った。最後にアルバムを見ておこうと思ったからだ。
アルバムには生まれたばかりの頃から小学校に入るくらいまでの写真がみっしりと並べられていた。最初から愛されていなかったわけではない――なんて自分を慰めるような言葉が脳裏を過ぎる。そのくらい、アルバムの中のわたしはありふれた女の子のように見えた。
アルバムを眺めていると一枚の写真に目が止まった。その写真の中のわたしはドレスを着込んでいて、幼稚園で劇かなにかの出し物があった日の一枚だと思い出した。この写真はたしか他の子のお父さんが撮ってくれたもので、わたしの家族の手によるものではない。そのせいか、わたしはよそ行きののっぺりとした顔をしている。わたしは両親が来るのを待っていたけど、いつまで待っても姿は見えなかった。この日、結局父親は来なかった。絶対見にいくと固く約束を交わしたはずだったが、簡単に反故にされてしまった。このときのわたしは父親がやって来ると信じていて、他の子の親が来るたび、劇の時間が迫って来るたび、わたしの不安はどんどん募っていったことを思い出した。約束を破られて、なのに信じて一人で待っている間の時間は、最初こそ希望もあるが、約束の時刻を過ぎた瞬間から懲罰めいた時間に変わる。いつまで待っても現れない人にすがるような思いを抱く。そして結局裏切られる。裏切っておいて、悪びれることもなく当たり前のように、ごめんごめん、と人目を気にした口先ばかりの謝罪を述べる。忘れていたわけでも、急用ができたわけでもない。父親の体からはパチンコの匂いがしていたし、喋るとビールを飲んだ後の酸っぱい匂いが鼻をついた。父親は面倒だから約束を反故にしたのだ。こんなことは一度や二度ではない。そもそも約束を守ったことなどない。自分から約束を取り付けておいて反故にするということを繰り返されたせいで、わたしは父親を信用しなくなった。それどころか約束の二文字が発せられるだけで、それが誰の口から出た言葉であっても、嫌な記憶が刺激されて不快な気持ちになった。
アルバムは見ているだけで不快になる。わたしはアルバムを閉じて、ズキズキと痛むこめかみを指で押さえた。
――これからどうしようかな。
父親はわたしに最後まで関心を示さなかった。わかってはいたことだったが、これがすべてだ。すべて終わってしまったんだ。肩から荷が降りたような、胸に空洞が空いたような、高熱が引いたときのように足元はふわふわとしていて、重苦しい虚無感が全身にまとわりついていた。
高速バスの予約サイトを表示したまま、わたしはなんとなく決めかねていて、ベッドに座ったまま動く気になれなかった。このまま日ノ杜に帰ってメンバーに会うことを思うと、余計にためらってしまう。ここで何が起きたのか、メンバーに打ち明けることなんて今は到底できそうもない。
そんなとき、平原の顔が浮かんだ。
たしか平原も母親に捨てられたと言っていた。それに、まだ広島にいるはずだ。
『いま暇?』
平原にフリスペからメッセージを送ると、既読の通知とほぼ同時に電話が鳴った。
『やっほー、菜々花ちゃん! ヒマだよー!』
スピーカーから飛び出すような平原の大声に驚いてスマホを落としそうになってしまう。平原の声は受話器から耳を離しても響き渡り、壁に当たって跳ね返って、部屋の中にこだました。
「ちょっと! すごい声!」
『なに? 菜々花ちゃんの声ちっちゃくて聞こえないよ!』
平原の声の後ろに何かの曲と、他にさわさわと誰かの笑い声がしていた。
「あんた誰かといるんじゃないの? ヒマじゃないなら無理しなくてもいいわよ」
『ううん、ひとりじゃないけどヒマだから大丈夫だよー! どうしたの?』
「ああ、うん……」
メッセージでやり取りするつもりだったから、咄嗟に言葉が思いつかない。どうしようと思っていると、
『菜々花ちゃん、なにかあったの? 今から行こうか?』
「行こうかって……。わたしが今どこにいるか知ってるの?」
『出雲でしょ?』
「違う。実は広島にいるの」
『えっそうなの! なあんだ、それならそう言ってくれればいいのにー。広島のどこらへんにいるの?』
「ああ……それなんだけど……」
平原は詮索しないし、言えばすぐに来てくれそうな雰囲気があるから、困ったような気持ちと嬉しさが湧いた。同時に頼もしくもある。
「実はここにいたくないっていうか……」
何を言ってもボロが出てしまいそうだ。今すぐここを出て行きたいのに、何も聞かずに連れて行って欲しいのに、都合のいい嘘が何ひとつ出てこない。
わたしが言いあぐねていると、
『菜々花ちゃん。△×△駅まで来れる?』
「あ、うん。わかる」
『じゃあそこまでおいでよ。待ってるね!』
「え、ちょっと待って、そこでどうする――」
そこでどうするつもりなの、といい終わる前に通話を切られてしまった。平原のことだからたぶんもう走り出している。電話を掛け直してもいいけれど、平原が気づかない可能性もあるし、繋がったとしてもわたしから何か言うことがあるだろうか。
とにかく、目的地が決まったことで心に少しだけ力が戻ってきた。ベッドから立ち上がって部屋を出る前、後ろ髪を引かれる思いでベッドの上に置いたままのアルバムを振り返った。アルバムの中に持っていくべき思い出なんかなにもないけれど、ここに残しておくべきものでもないように思えて、わたしはリュックの中にアルバムを詰めた。
駅前には柱の影になるようにして、膝を抱えて座り込んでいる女の子がいた。女の子はスマホの画面をただ眺めている。きっと行き場がないんだろう。彼女はもうひとりのわたしだ。空を見ると黒い雲が広く覆い始めていた。冷たい風も吹いてきて、もうすぐ雨が降りそうな気配があった。わたしはどうしても彼女を無視することができなくて、別の柱に寄りかかってスマホを手に、待ち合わせの振りをした。そんなふうにしてしばらく様子を見ていると、彼女は立ち上がって、やって来た人に向かって片手を挙げた。
――よかった。
わたしもスマホをポケットにしまって、駅のホームに向かった。
平原の指定した△×△駅は電車を乗り換えていくつかの駅を通過した先にある。乗り慣れた電車のはずなのに、全然ホームグラウンドという気がしなかった。余所行きに着飾ったわたしの格好が窓に映り込んでいて、それが全然自分の姿だと思えなくて、体を隠すようにリュックを前で抱えた。
駅に着いてスマホを確認すると平原からメッセージが届いていた。なんだかよくわからない似顔絵の下に「モモさん」と書かれた写真が添付されている。似顔絵によると「モモさん」は黄色いロングヘアに吊り上がった目をしているらしい。まあいいやと思いながら改札を出て平原の姿を探していると、ロータリーの一角に怖そうな女の人がバイクに跨っていて、思いっきり目があった。慌てて下を向いたけど、どう考えてもわたしを見ている――というか睨んでいる?
その女の人は真っ直ぐわたしの方へ向かってきて、手に持っている紙とわたしの顔を見比べて、紙を見ながら怪訝そうに首を傾げた。
「な、なんですか?」
「ああ、ごめん。つかぬことを聞くんだけどさ、アンタが菜々花って子?」
「そうですけど……?」
「やっぱりそうだよね! ものすごい美少女って聞いてたからさ。意外とわかるもんだね」
「あの、なんでわたしの名前を? っていうか、わたしに何か用ですか?」
わたしは無名とはいえいちおうアイドル活動をしているから、こんなふうに呼び止められることはそんなに珍しくない。わたしのファンだと言ってくれる人もたまにいるし、ライブに来てくれる人の顔も割と覚えている。けれど、女の人のファンはまだいないし、こんな怖そうな人がいれば絶対忘れないはずだ。
「あれ、もしかして陽桜莉から聞いてない? アンタのこと迎えに来たんだけど」
「えっ、平原の友達なんですか」
「信じられない? でも似顔絵のこれ、きっとアンタでしょ?」
そう言ってその人は手に持った紙をわたしに見せてくれた。その紙には子供の落書きみたいな顔が書いてあった。黒いロングヘアをサイドで二つに結っていて、下に「ななかちゃん」とメモしてある。
絵のタッチといい筆跡といい、フリスペに送られてきた似顔絵とそっくりだ。
間違いなく平原の手によるものだ。
わたしはこの女の人をもう一度、頭のてっぺんからつま先までしっかりと見たけれど、絶対にヤンキーの類の人だと思う。平原のあの感じで、こんな怖そうな知り合いがいるのは意外だ。
「これで信じてくれたでしょ。っつうか見つかって良かったあ。人違いだったらどうしようかと思ったよ」
「それにしても、よくこの絵でわたしだってわかりましたね」
「まあね。髪を二つに結ってる超美少女なんてアンタしかいないよ」
「超美少女だなんて、お上手ですね。そうやってみんなに言ってるの知ってるんだから」
「あはは、バレたか。実はアンタで三人目」
そう言って、この人は少年みたいな顔で笑った。
駅前には女の子はおろか、人影さえまばらなのだ。わたしに気を遣って冗談を言ってくれたのだろう。そのおかげで肩から力が抜けていった。
「あの、いちおう確認なんですけど、モモさんですよね?」
わたしはフリスペを開いて、平原の書いた似顔絵を見せた。
「だっはっは! なんだよ、これがアタシ? こんなんじゃわかるわけないっつうの!」
モモさんは聞いてる方が気持ちいいくらい大きな声で笑った。似顔絵はまるで似ていなかったけど、金髪で強面の女の人もこのロータリーには他にいないし、似顔絵の役割は果たせているのかもしれない。
「どうしたの、そんなに見て。さては似顔絵とアタシが意外と似てるなって思ってるんでしょ?」
「いやっ……そんな、別にそういうわけじゃ……」
急に尋ねられてしどろもどろになってしまう。そんなわたしを見て、モモさんはまた少年みたいな顔で笑った。普通のときはちょっと怖い感じなのに、笑うと急にフレンドリーになって、なんだか距離が近づいたような気にさせられる。
「アンタはこの絵と似ても似つかないよ。なにせ超美少女だし」
「ちょっとやめてくださいよ。あんまり言われると変な気持ちになってきちゃうし……」
「お、照れるんだ。照れてる顔もかわいいなんて、アンタやるねえ!」
「や、やるねえ!?」
「ま、いいや。はいこれ」
そう言ってモモさんがわたしにヘルメットを差し出した。ヘルメットを渡すモモさんの手にがっちりとした拳ダコができていて、やっぱり怖い人なのかもしれないと思い直した。
バイクに二人乗りで五分ほど街中を走ると、すぐに広島校の女子寮が見えてきた。モモさんは当たり前のように寮内に乗り付けて、バイク置き場に停車した。
「あの、もしかしてモモさんも、その――」
イローデッドなんですか――なんて直接的な言葉にすることをためらってしまう。わたしは言いかけた言葉を途中で飲み込んだ。
イローデッドであることや異灰殲滅部隊のことなど、あまり大っぴらに言えることではない。いちおう禁止されていることもあるけど、何より全員が運命を受け入れているわけではないし、センシティブな話題だ。
「ああそっか。アタシは陽桜莉の付き添いで来た関東組。だから菜々花たちとは系統が違うんだよ。オッケー?」
「菜々花……。オッケーです」
モモさんはヘルメットに片手を突っ込んで、くるくると回しながら言った。
モモさんからは見た目も態度も年上の女の人――それも気さくな――という印象を受ける。モモさんはわたしの前を、フライトジャケットにジーンズ、ブーツという出で立ちで、背筋を伸ばしてスタスタと歩いている。おしゃれというよりも機能的なスタイルは、ここまでで受けたモモさんの印象と合っていた。
その後ろでスカートをひらひらと揺らして小娘然と歩いているわたしは他の人にどう見えているだろうか。
可愛い女の子に見えているだろうか。
なのに、歩くたびスカートの裾が腿に当たるのが癇に障った。
きっと自分のためのオシャレではないからだ。
つまりわたしは媚びていたんだ。
媚びていた?
誰に?
モモさんはきっと誰にも媚びていない。