広島校の寮の作りは出雲日ノ杜とほとんど同じだった。灰が降り出してから急ごしらえで作ったためだろう。平原の部屋は階段を上がってすぐのところにあった。かなり条件のいい位置の部屋が、他校からの応援といういわばよそ者に割り当てられている理由に心当たりはあったけど、そのことについてわたしはなるべく考えないようにした。
「そうそう、ウチらの仲間に、菜々花に似た子がいるんだよ」
「似てるって、見た目がですか?」
「それがさあ、似てるのは髪型くらいなんだよねえ」
「はあ……。じゃあ何が似てるんですか?」
「うーん……わかんない。忘れて、ごめん」
わたしが尋ねると、モモさんは困ったような顔をして言葉を濁した。
平原の部屋の前では話し声が廊下にまで漏れ出していて、ノックをするまでもなく部屋の中に平原がいるのがわかった。入るよ、と言ってモモさんがノックと同時に扉を開けた。
部屋の中も日ノ杜出雲と同じように二人一組の部屋割りで、両サイドに同じタイプの机とベッドが壁に沿って並んでいた。ベランダに続く窓が一つとエアコンが一つ、クローゼットは一人にひとつ、それが私たちに割り当てられた家具だ。平原は床に直接座っていて、ローテーブルに立てたタブレットでビデオ通話をしていた。テーブルの上には参考書とノートとペンなどの勉強道具が散らばっていて、勉強はまったくはかどっていない様子だ。
「あっ、菜々花ちゃんだ! いらっしゃーい」
平原が顔を上げて笑った。勉強を中断する理由がやって来たというような清々しい表情だ。
「モモさんもありがとうー。菜々花ちゃんのこと、すぐにわかったでしょ」
「任せてよ、一撃でわかっちゃった」
モモさんがあまりにも当然のことのように言うので、つい噴き出してしまった。あの絵でわかるわけがないでしょうが。タブレットを覗き込むと、黒いロングヘアの女の子と目が合って、お互いにぺこりと会釈した。たぶん同い年くらいの女の子で、表情筋が死んでいるような顔からは平原とは対照的に物静かそうな印象を受ける。
リュックを床に置くと、どすんと重い音を立てた。
「菜々花ちゃんのカバンすごく重そう。中になにが入ってるの?」
「あっ、こら陽桜莉。またそうやって逃げようとして」
タブレットの向こうから平原を咎める声が響いた。平原は聞こえないふりを決め込んで、見ていいかな、というような顔でわたしのリュックを指でつまんだ。
「食べ物よ。あとはアルバム」
「食べ物! なんで!?」
平原が顔を輝かせた。口元から今にもよだれを垂らしそうだ。
「なんでかは聞かないでよ。ただの余り物」
「食べたい!」
「食べたいって……。せめて中身を確認してからにしなさいよ」
「食べ物ってなに?」
「わたしがつくったやつ。おにぎりと煮物」
「食べたい!」
「別にいいけど、お昼食べてないの?」
「食べたよ!」
平原はほとんどカタコトで反応していて、餌を前にした獣のようだ。
「行き場のないお弁当だし、食べてくれるなら別にいいけど……」
タブレットにちらりと目をやると、画面の中の少女はいつの間にか離席していて部屋の壁だけが映し出されていた。怒っちゃったのかな――と思っていると、ジュースとお菓子の小袋を手にして戻ってきた。
「ちょっと、あんたたち。課題してるんじゃなかったの?」
「もう疲れちゃったよぉ」と平原が即答する。
「私は別に……。そういえばお菓子あったなと思って」
「さっすが瑠夏ちゃん。話がわかるぅ」
「これなんだろ。抹茶の味がする」
「わたしはねぇ、菜々花ちゃんのお弁当食べるの。いいでしょー、えへへ」
二人の会話はなんだか微妙に噛み合っていないような気もするけど、わたしみたいな闖入者を全然気にかけていないようでちょっと安心した。たぶんこの人たちはいつもこんな感じなのだろう。
「あ、よかったらモモさんもどうぞ」
わたしはローテーブルにタッパーを並べながらモモさんにも声をかけた。
「サンキュー。小腹すいてたからちょうどよかったよ」
それからローテーブルに三人――瑠夏と呼ばれた画面の子も合わせると四人で――並んでおにぎりを食べた。平原がどこかから取り出した割り箸で煮物をつまんで、モモさんがいつの間にか淹れてくれていたお茶を飲んでいる間、わたしはずっと不思議な心地がしていた。ここに居てもいいよ、って放っておかれてるのに、なんだか居心地がいい。
「ねえねえ菜々花ちゃん。アルバム見せて?」
「アルバム……うーん」
わたしは割り箸をくわえたまま口ごもってしまった。見せたいか見せたくないかで言えば見せたくはないんだけど、持ち帰ってもきっと一人で見る気にはなれない。かといって、きららと一緒に見るのもなんだかなあって思う。きららに写真のことを聞かれても、たぶんうまく喋れない。だから平原くらいの距離感の友達がちょうどいいのかもしれなかった。今を逃したらもう見る機会はないような気がするし、それなら試しに見せてみてもいいんじゃないか。
「ま、いいわよ。はい」
わたしはアルバムを床に置いた。平原が表紙に手をかけた瞬間、心臓がどきどきと脈を打ち始めた。菜々花ちゃんかわいい、かわいい人って子供の頃からかわいいんだね。平原が褒めるたび、胃のあたりが重くなって、背中を冷たい汗がつたった。まあね。わたしは体の不調を気取られないよう無表情で言った。あー、おめかししてる。平原が言った。アルバムの中では着飾ったわたしが笑っていた。もちろん、わたしが選んだ服であるはずもない。動悸のせいで息を深く吸えなくなってしまう。無理に息を吸おうとすると吐き気がした。喉の奥からさっき食べた鮭おにぎりの消化中の匂いが上がってきた。ページをめくる平原の手がスローに見えた。次に現れたのはわたしが最高におめかししている発表会の写真だ。菜々花ちゃんすっごいかわいい。平原が叫んだ。瞳の中にハートの虹彩が浮かんでいた。わたしがかわいいなんて、いまさらでしょ。そう言いながらわたしは生ゴミのような匂いのする胃液を飲み下した。視界がぼんやりとしていて、どこにも焦点が合わせられなかった。わたしはぎゅっと目を閉じて、それから写真に集中した。
写真の中のわたしはドレスに身を包んでいた。あの頃のわたしはお姫様のようなドレスだと思っていたけど、写真の中のわたしは薄っぺらで安物のドレスに包まれて、撮影者に向けて笑顔を作っていた。もっと綺麗なドレスと思っていたけど、全然そんなことなかった。幼児服の量販店で購入したことが丸出しのみすぼらしい衣装だ。それでもわたしは大切に思われていたのだと、ねばつく唾を飲み込んだ。次に現れたのはわたしの小学校入学式の日の写真だ。わたしは肌色の透けた薄いTシャツに毛玉の立ったジャージを履いていて、後ろに見える同級生たちは小綺麗な格好をしている。他の子に比べると見劣りしていて――人生に一度しかないせっかくの晴れの日なのにこんなに薄汚くてみっともない――わたしは写真の中のわたしに、恥ずかしさよりも他人の子をみているような感覚を持った。写真の中でやっぱりわたしは笑っていて、平原はかわいいと言ってくれたけれど、わたしにだけはよそ行きの笑顔だとわかった。さらにページをめくると、わたしは裾の短いラメ入りのTシャツにミニスカートを纏っていて、歳に不相応なギャルメイクをして髪を二つに結い上げていて、媚びるような笑顔をカメラに向けていた。わたしはこんな格好は好きじゃなかった――そう自覚したのはこのときだったような気がする。
きっとこれは父親の好みだ。変なギャルみたいな格好だ。父親との関係が悪化したのも、ちょうどこのあたりの時期からだったように思う。
この後のページからは、ぱっと見でわかるくらいに卑屈に笑った顔の写真ばかりだった。それでも平原はかわいいと言って褒めてくれたけれど、モモさんは何も言わずに微妙な顔で笑っていた。それがかえって恥ずかしさを助長した。
わたしは、父親にとって都合のいいお人形だった。
いやってほど、今まで目を逸らしてきた事実が突きつけられた気分だ。
きっと、わたしは愛されていなかった。
アルバムの中に、一枚だけ異質な写真があった。
わたしは髪を下ろしていて、つまんないような、ふてくされているような顔をカメラに向けていた――というより、わたしがそんな顔をしたのをカメラが見逃さなかったというような構図の写真だった。その写真を見て平原は「瑠夏ちゃんに似てるね」と言った。
タブレットの向こう側できょとんとした顔をしている瑠夏さんとわたしは、どう見ても似ていないように思えた。
「そんなに似てるかなあ?」
「似てるよ! ねえねえこれ持って」
平原が言うとおり、わたしはタブレットを手に持った。
「それをこうして顔に当てて……」
言われるがままに、平原の方に画面を向ける形でタブレットを顔に当てる。
「瑠夏ちゃん、顔をカメラにおっきく映してみて」
「なに、なんなの?」
そうタブレットから声が聞こえた。
「いいね、いいねえ!」平原が嬉しそうにカメラを向けた。「じゃあ撮りまーす。笑って笑って。はいチーズ!」
そう言って、平原が嬉しそうに撮りたての写真を見せつけてくる。体がわたしで顔が瑠夏さん。顔に当てたタブレットの両サイドからわたしの髪が飛び出している。
「ツインテール瑠夏ちゃん!」
「最悪。っていうか、わたしまだ初対面なんですけど?」
ため息。わたしはタブレットを持っている方の手でこめかみをかいた。
「あっ!」平原がすかさずカメラをわたしに向けた。
「えへへー。ほら」
そして平原の得意げな笑顔。写真にはタブレットに顔半分だけ映した瑠夏さんと、そこから顔を半分出したわたしが写っていた。わたしの顔の右半分が瑠夏さんだ。
「全然似てないじゃない。目の形も頬の輪郭も違うし、表情も全然違う」
「そうかな。似てると思うけどなあ――あ、そうだ、紹介がまだだったんだっけ。えっとね……」
「もう知ってる。瑠夏さんでしょ」
「えっと、あなたは菜々花さんよね、アイドルの」
「うん。まだアイドル志望だけどね」
わたしたちはタブレット越しに挨拶した。わたしとこの人が似ているとは思えなかったけど、それはお互い様だろう。手に掲げたタブレットに、座っている平原の顔がちょうど隠れていて、平原の体に瑠夏さんの体が乗っているようにも見える。平原の体に瑠夏さんの顔の違和感はどう見ても合成としか思えなくて、それに比べるとわたしと瑠夏さんは似ているのかもしれない。
「ねえ、わたしと似てる子って瑠夏さんのことですか?」
わたしはタブレットをテーブルに戻してモモさんに聞いてみた。
「いや。別のやつ」
「他にも似てる子がいるってことね……」
はあ、とため息をつくとモモさんが慌てた様子で、
「いや、別にどこにでもいそうって意味じゃないからね! 菜々花はちゃんとかなりかわいいから! そこは自信持ってくれよな!」
「あはは……」
モモさんが目に見えるほどうろたえた様子でフォローしてくれた。もし漫画だったら大量の汗が頬の辺りから迸っているだろう。
不思議な気分だった。さっきまで全く知らなかった人たちに囲まれて――平原のことだって会うのがこれで三度目だし、その人となりについてほとんど知らないのだ――まだそんなに言葉も交わしていないのに、この空間にいるとなんだか落ち着く。不安や後ろめたさのベールがいつの間にか払われている。ここにいても悩み事は消えてなくなったりはしないけど、落ち込むのがバカらしくなってくる。
「あのさ――」
口が勝手に動いていた。わたしは何を言うつもりだろうか。
「あのさ――」
試しに言ってみよう。試しに。
床に直に座った平原が、椅子に逆さに腰掛けて背もたれに肘をついたモモさんが、タブレットの中でストローを咥えた瑠夏さんが、なんでもないような顔をしてわたしが喋り出すのを待ってくれていた。
「今日、わたし、親に捨てられたっぽいんだよね」
「そうなの」
「うん。さっき実家でわたしとお金のどっちを取るか選ばせたらお金を取られて、また頼むって言われた。これ、捨てられたってことだよね」
「お金って?」
「毎月仕送りしてたんだけど、わたしって親と折り合い悪くてさ。でも仕送りって一応繋がりじゃない? だから繋がりとお金のどっちが大事なのかなと思って百万持って行ったんだけど、結果はこのザマよ。情けない話ね」
「じゃあさっきのお弁当って」
「そう。あいつ、食べずにどっか行った」
「どこに?」
「さあね。パチンコか競馬じゃない。それか借金を返しにとか……はあ、言ってて嫌になる」
まったくあのクソ親は、と大袈裟にため息をつくと、吐いた言葉とは裏腹に心が少しだけ軽くなった。なんとなく持ち帰ったアルバムでこんな顛末を迎えるなんて、世の中なにが起こるかわからない。平原とモモさんは百万円のインパクトに驚いていて、唐揚げなら百個分、いやいやもっとだろ、と身近なもので換算していた。タブレットの中の瑠夏さんはスマホでなにか調べ物をしていて、突然はっとしたように顔を上げた。
「ねえ。私も今からそっちに行く」
「え?」
「だからちょっと待ってて」
「今からって……今から? ここに?」
「そう」
「今どこにいるの?」
「……東京」
「急にどうしたの」
「行きたいから」
「行きたいからって……まさかと思うけど、わたしのため?」
わたしが尋ねると、瑠夏さんは無言になった。この場合の沈黙は肯定だ。
「ちょっとちょっと、いいわよそんな! 時間もお金もかかるし、ふらっと出かけられる距離じゃないんだから」
「もう決めたから」
「……もうすぐ帰るんだから、わざわざ来なくてもいいよ」
「嘘。どこかに帰るつもりがあるなら、あなたはきっとそこに行ってないでしょう。とにかく行くから待ってて」
瑠夏さんはそう言うや否や通話を切った。黒画面になったアプリの中の四角い枠にわたしの顔が映り込んだ。そこに見えるわたしは今にも泣きそうな顔を浮かべていた。自分では平気な顔を作っていたつもりだったけど、もしかしてずっとこんな顔をしていたのだろうか。
「瑠夏ちゃん今から来てくれるんだって。楽しみ!」
平原が相変わらず能天気に言った。でもきっとそうじゃない。平原はきっとわたしの感情を反射してしまわないように笑っているんだ。
「来るわけないじゃない。遠いし、お金かかるし、時間もかかるんだから」
約束なんか破られる。期待するだけ無駄。
「あいつは来るよ」
モモさんが言った。
「うん。そしたら一緒に晩ごはん食べようね」
平原が続いた。まるで当たり前のことのように、確信に満ちた口ぶりだ。その言い方に釣られてわたしも信じてしまいそうになる。胸がざわめく。もし来なかったら、そのときは――。
「菜々花は難しく考え過ぎなんだよ。今日は疲れたんだろ。瑠夏が来るまで昼寝でもしてなよ」
モモさんがベッドの上に大きなクッションを置いてくれたので、言われるままにそこに座った。眠れるわけない――そう思いながらクッションに頭を沈み込ませると、少し毛羽立ったカバーに平原かモモさんの匂いが移っていた。平原がブランケットを掛けてくれた。それからわたしは目を閉じた。
窓から差し込んだ西日がまぶしかった。太陽に向かってかざした手が幼く、目線は低かった。がたんごとんと床全体が揺れていた。お前が一番かわいいよ。上から声が聞こえた。見上げると逆光の中で父親がせせら笑っているのがわかった。少し離れたところにきちんと制服を着込んだ小学生たちがいた。あいつらよりお前の方がかわいいよ。父親が彼らに聞こえるように言った。彼らはみんな俯いて怯えていた。座席に着いている乗客がわたしから目を逸らした。窓にわたしの姿が映り込んだ。わたしは輪ゴムで髪を両サイドに留めていて、襟元がよれよれになったTシャツを着ていた。わたしは晒し者にされていた。父親はみすぼらしい姿のわたしを笑っていたんだ。不意に車体が大きく揺れて、わたしは思わず父親にしがみついていた。チッ。舌打ちの後、父親は面倒くさそうにわたしの手を払った。
足の裏にささくれ立った畳の感触があった。わたしは兄のお下がりの机に向かっていた。背後からどしんどしんとガサツな足音が響く。うるさいんだけど。わたしは嫌味っぽく言った。黙ってお勉強してろ。兄はそう言ってわたしの頭を拳で殴った。わたしは手元の辞書を投げつけて応戦した。いてえなこの野郎。兄はわたしをいきなり蹴飛ばした。うるせえっつってんだろクソ兄貴。わたしは床に転ばされたまま怒鳴り返した。兄がわたしの足を蹴った。わたしも倒れたまま兄を蹴り返した。兄は怒り狂った顔をしていたし、私は悔しくて涙ぐんでいた。背後からどしんどしんと父親の足音が響いた。ガンッ! わたしは急に頭を殴られて、意識が一瞬吹き飛んだ。鼻の奥がツンとして、耳が聞こえなくなった。ぼんやりとする視界の中で兄が父親から殴られていた。
締め切った教室は肌寒くて、わたしはコートを着込んでいた。スカートの中にはジャージを履いた。わたしの机の周りには男女数人のクラスメイトがいた。クリスマスに過ごす人できた? 少女が言った。いない。わたしも。俺も。恋人欲しいよね。別に。俺は欲しい。じゃあ安住でいいじゃん、あんたら付き合っちゃえば。少女が言う。はあ、冗談でしょ。安住は喋らなければかわいいのになあ。うるさい。悪くないと思うけど。少女が言った。俺、いざとなったら安住のことを守ってやれるぜ。はあそうですか。私の肩には昨夜、父親に殴られたところがアザになっていた。あんたに何が守れるのよ。そうわたしは毒づいた。
足の裏にささくれ立った畳の感触があった。わたしは兄のお下がりの机に向かっていた。背後からどしんどしんとガサツな足音が響く。うるさいんだけど。振り返ってわたしは嫌味っぽく言った。そこには風呂から上がったばかりの父親が全裸で立っていた。股間で浅黒いナマコのような陰部が揺れていた。知るか。父親がそう言ってタバコに火をつけた。うるせえからなんなんだよ、え? 父親がのしのしと歩いて来る。そしてタバコを指でつまんでわたしの顔に近づけた。てめえの目ん玉焼いてやろうか、え? 顔を背けようとしたわたしの髪を父親が掴んで引っ張った。顔を固定されて目の前にタバコの赤い火が迫る。眼球に熱を感じ、我慢できずに目をつぶった。ごめんなさい。わかればいいんだよ。父親はそう言いながら平手でわたしを殴った。耳の奥がキーンと鳴った。黙ってれば顔だけはいい女なのにな。父親が吐き捨てるように言った。立ち去る父親の尻の下でナマコが滑稽に揺れていた。
リーダーさんに謝ってください。春日がそう叫んだ。耳の奥がキーンと鳴っていて、水の中にいるようだった。春日は憎しみに満ちた目でわたしを見ていた。わたしは春日に殴られていた。うるさいわね。わたしはほとんど反射的に春日の顔を殴り返した。誰が悪いかなんて関係ない。わたしはただ我慢がならなかったんだ。それなのに、わたしはその場から逃げ出していた。春日を叩いた手のひらがじんじんと痺れていて、倦んだ熱を持っていた。
握った拳が熱を持っていた。目の前に立つ異灰はかん高い悲鳴を上げた。異灰の体には大きな穴が開いていた。わたしが殴って開けた穴だ。この異灰はもう助からない。手を見るとべったりと血が付いていた。頭の中で異灰の断末魔が残響する。異灰の体に開いた穴から樹里の顔が生えてきた。いまのナナ、とっても輝いてるよ。わたしの手から浅黒いナマコが生えてきた。二本、三本。ナマコは手から腕、肩へと増殖していって、やがてわたしの全身にびっしりと生えそろった。あまりのおぞましさに、わたしは膝をついた。ナマコは体の至る所に生えている。おそるおそるスカートをめくると、何もないはずのそこには一本のナマコが勃起していた。
暗闇の中で、体を揺すられる感覚があった。
「菜々花ちゃん。起きて」
声は水の中にいるみたいに反響して聞こえる。体が重くてまるで自由がきかない。
――もういいや、ほっといてよ。
なにもかもがどうでもよかった。これが夢だとなんとなくわかっていたけど、目を閉じてこのまま眠っていたかった。
「菜々花ちゃん。朝だよー。ほら起きて起きて」
手が引っ張られる感覚があった。わたしを呼ぶ声は笑っていて、暗闇の中に日が差したみたいだった。
部屋の中はカーテンが引かれていて、時計は午後十時を指していた。湿度が高くて、なんとなくひんやりしている。平原がわたしの目の前で手をひらひらと揺らしていて、その後ろでモモさんがジャケットを羽織っていた。
「菜々花ちゃん、お寝坊さんかな?」
「もう起きた。起きたから!」
わたしは意識が戻ったか確かめるような平原の手を掴んで押しやった。
「瑠夏たち、もうすぐ駅に着くってさ。迎えに行ってやろうよ」
モモさんがジャケットのジッパーを首まで上げながら言った。平原もコートを着込んでいて出かける準備万端のようだった。
立ち上がると、寝起きの体に冷気がしみて思わず肩をすくめてしまう。
「菜々花ちゃん、上着持って来てないんだね」
「アタシのコート貸してあげるよ」
モモさんがクローゼットからモッズコートを取り出してわたしに投げてよこした。モモさんのモッズコートは大きめで、羽織ると体のラインが膝の上まですっぽりと隠れた。ハイネックだからジッパーを首まで上げるとかなりあったかい。
「ありがとうございます」
「いいって、気にするなよ。さ、行こうぜ」
外に出ると夜気が露出した顔や足を刺した。空は真っ黒い雲で覆われていて月はまったく見えなかった。雨が今にも降り出してきそうな気配があった。平原が数歩先で振り返ってわたしを呼んだ。
寮の敷地は照明のおかげで明るかったけれど、敷地を一歩出ると、街灯が道路の脇で点々と足元を照らすだけになった。街灯の列ははるか遠くまで続いていて、先の方では街の明かりが大気に反射してぼんやりと空を明るくしていた。この辺りは民家もまばらで、遠景には山の稜線も見えるはずだけど、黒い雲と完全に同化していてなにも見えなかった。わたしは何度も後ろを振り返った。夜道を歩くときの癖だった。夜道を一人で歩いているとき、背後から足音が聞こえるとつい身構えてしまう――女の子ならだいたいそうだろう。でも今夜はモモさんがいた。顔を前に向けると、わたしのことを見つめている平原と目があった。
「夜はこの道こわいよね。わたしも一人で歩くといっつも怖いんだ。でも街灯がまっすぐ続いてるから、絶対にいつかは辿り着けるって思って歩くの。ここに誰かがいてくれたらいいのになあって、友達のことを考えてるとね、あっという間に着いちゃうんだ。怖いのも忘れちゃう。今日は菜々花ちゃんがいるから全然怖くないし楽しいよ」
「一人で歩くなんて当たり前でしょ。それに道はただの道よ」
「そうかなあ」
わたしたちの足音が、道を外れた夜の暗闇の中に吸い込まれるように消えていった。すぐ後ろでモモさんの足音と、隣で平原の足音がして、足音はとことことことこと途切れることなく次々生まれていく。