人界の中心にある央都セントリア。その更に中心地にそびえ立つ白亜の塔、セントラル・カセドラル──その50階~80階までを繋ぐ
「──でねでね!その時のアリスがもう可愛いったらなくて~!」
俺の両手を縛る無骨な手錠と、そこから伸びる鎖を握る整合騎士──俺は今まさに連行されている最中なのだが、その付き添い人である彼女、イーディス・シンセシス・テンは、おおよそそうとは感じさせない話ばかりをずっと続けていた。
「──普段すっごい真面目に仕事してる分、ふとした時の一面が尚更可愛いっていうか~!」
その内容というのが、アリス、アリス、アリス──あの整合騎士アリス・シンセシス・サーティの可愛さを語りまくるというもので、道中数える程度にすれ違った教会勤めの者からは揃って怪訝な目を向けられていたのを覚えている。
「会ったばかりの頃なんか、私が『可愛い』って言うだけで顔を真っ赤にして照れてたんだから!もう慣れちゃったのか最近はあんまり見れてないんだけどね~」
要は自分の後輩が如何に可愛いかを延々聞かされているわけで、普通なら早々に辟易とし始める所だろうが……生憎聞いているのは俺だ、アリスの事ならやろうと思えば俺も延々語れるし、何より──
「(──良かった……少なくとも、こうしてちゃんと彼女を見てくれている仲間がいたんだな)」
イーディスの話を聞いていて、やはり俺達を学院に迎えに来た際に見せた冷たい態度は職務上のもので、仕事の時以外にはちゃんと年相応の女の子らしい一面を見せる事もあるのだということが分かった──少なくとも辛く苦しい時間を過ごしていた訳ではなかったようだ、と、俺は独り安堵の笑みを浮かべる。
「──へぇ……そういう
「ん……?」
顔を上げると、イーディスが少し意外そうな様子でこちらを見ていた。
「殺人を犯した大罪人っていうから、もっと血も涙もないダークテリトリーのゴブリンみたいな人なのかなー、なんて思ってたんだけど……その割には結構礼儀正しいし、大人しいし、そんな優しい表情も出来るんだ、って意外に思ったの」
「……どうだかな。案外、あんたを油断させて武器を奪い取ろうとしてるのかもしれないぞ」
「ぷっ……あははははッ!あなた面白いこと言うわね!──どうぞ、やれるものならやってみなさい?もしあなたが抵抗するようなら天命を7割まで奪っていいって言われてるから──最低でも、どっちか片方の腕とサヨナラする事になるけど」
小さく振り返ったイーディスのマントから、腰に吊られた剣の柄が覗く。左手には俺の手錠の鎖を握っている都合、彼女が空いた右手で左腰の剣を抜いて俺を斬りつけるには、抜刀→振り下ろす、と最低2アクションが必要となる。それだけの猶予があれば多少の勝機はありそうだが……正直、整合騎士の実力はまだ未知数だ。
学院でアリスがユージオの頬を叩き、また俺の首をへし折ろうと詰め寄った際の動きは、殆ど目視出来ない速度だった。もしイーディスもアリスと同等以上の実力を持っているとするなら……彼女の言う通り、抵抗する間もなく一瞬で無力化される可能性が高い。
何より、今しがたの彼女のセリフには微かながらもハッキリと殺気が込められているのを感じた。口調こそ呑気だが、一度剣を抜けば冷酷無比な整合騎士として躊躇無く俺を斬るだろう。
「──騎士様。じき80階《雲上庭園》へ到着致します」
乗り込んだ時に「80階へ向かいます」と言ったきり沈黙を貫いていた彼女──俺とイーディスの他に、唯一この場に居合わせている昇降盤の操作(神聖術による素因解放の風圧で動かしているらしい)を担う少女が、ふと口を開く。
ずっと黙りこくっていたのは、果たして彼女の勤勉さ故か、はたまた下手に口を開けばイーディスの話に付き合わされるから黙っていたのか……風素がふわふわと動き回る中央のガラス管を見つめるその鉄面皮からは、詳しい感情を伺うことは出来ない。
やがて昇降盤の上昇が止まり、80階へ到着。
周囲を囲っていたガラスの壁が開き、昇降盤を降りたイーディスが大きく伸びをした。昇降係の少女に一言礼を言ってから、俺もその後に続く。
「ん~~ッ、やっぱり1人で黙々と上るより、誰かと一緒の方が早く感じていいわねぇ」
「80階か……だいぶ上ったな」
確かカセドラルは100階建てだとイーディスは言っていた。
道中に散々歩いた階段も特別長いわけではなかったが、1階から100階という一見途方も無く思える道程の8割を踏破したのだという実感が──先程の昇降盤で50階から一気に80階まで駆け上がったことを加味しても──イマイチ湧かない。
「歩き詰めで疲れた?悪いけど休憩の時間はあげられないわよ」
「いいや。道中誰かと戦ったりしたわけじゃないしな」
「おお、流石男の子。確か修剣学院の生徒だったんだっけ?ちゃんと鍛錬してるようで感心感心」
そう言いながら、イーディスが次なるフロアの扉を開ける──その先には、驚くべき光景が広がっていた。
「ここがカセドラルの80階《雲上庭園》──私、結構好きなんだぁ、ここ」
俺達が歩いてきた大理石の床は扉一枚を隔てて途切れ、その先には青々とした芝生と、随所に咲き誇る聖花達。小川まで流れている。まるで絵本の1ページをそのまま再現したかのような光景だ。ここが建物の1フロアの中だとはにわかに信じられない。
先に進んでいくイーディスに連れられながら、俺は先程の話の続きに戻る。
「さっきの話の続きだが──そういうアンタこそ、鎧着た上に剣ぶら下げて、疲れないのか?」
「まぁしょーじき言うと……ちょっとねぇ。もうすっかり慣れたけど、今でももうちょっと楽に上り下り出来たらなーって思う事はあるわ──あの昇降盤みたいなのをもっと増やしたりね」
「そういうの、進言出来ないのか?整合騎士って結構偉いんだろ」
「んー……最高司祭様にお願いしようにも、直接お会いできる事って殆ど無いのよねぇ。大抵、あの元老長が間に入ってくるし……あの肉団子、自分は基本上層階から動かないからって何言ってもロクに聞き入れてくれないの。酷いと思わない?──って、あなたに言っても仕方ないか」
「……ま、心中お察しするよ」
人界を守る整合騎士というのも、その実態は中々世知辛いのかもしれない──そんな事を考えていると、
「……ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
「何だ?」
「あなた、どうして人殺しなんかしちゃったの?ここまで話した感じ、そんな事するような人には見えないんだけど」
「……理由を話してどうなる。あんたが最高司祭さんとか……元老院ってとこに異議申し立てでもしてくれるのか?」
「残念ながらそれは無いけど……純粋に気になっただけ。で、どうなの実際?」
俺は少し迷ってから、正直に話すことにした。
「……守らなきゃいけなかったものを守れなかった。その責任を取っただけだ」
「責任っていうのは?」
「法や規則をすり抜けて他者を傷つける連中から、俺は後輩を守れなかった。最悪の結果は免れたけど……最悪じゃないだけで、悪い結果である事に変わりはない──」
──そして、その結果を齎した当人は法や規則による裁きを受けない。であれば、法の代わりに誰かが裁かなければならない。それが例え大罪であるのだとしても、誰かが──
「……そっか。話してくれてありがとね。けど、どんな理由であれあなたが罪を犯したことに変わりはないわ。さっきも言った通り、私は何もしてあげられないし、あなたがここに連れてこられた事を間違いだとも思わない」
「わかってる。俺もその通りだと思うし、無実だなんて言う気は更々無い。けど禁忌目録と、それを敷いた公理教会に問題があるってのも──」
「──それ以上は言わない方がいいわよ。目の前で公理教会を否定するようなことを言われたら、整合騎士として黙ってはいられない」
俺と彼女の間にピリリと張り詰めた空気が流れる。どの道最後には処刑されるのだから、ここで腕の1本を犠牲にしてでも言いたい事を言ってやろうかとも思ったが……
「……分かったよ。この先は審問とやらの時に直接言わせてもらう」
「……ん、なら良しとします。オススメはしないけどね──」
イーディス曰く、最高司祭は、人界を作った神の意思の代行者。そんな彼女の機嫌を損ねれば、死後も地獄で生前の罪に苛まれ続けるのだとか。
どこまでが本当か信じがたい話ではあるが、「神の代行者」というのが少し引っかかる。もしや最高司祭の正体は本当にラースの関係者なのだろうか?そうであるなら話が早いのだが。
そうこう話している内に庭園を抜け、90階にある大浴場を横切り、やがて95階──《暁星の望楼》という、1フロアを丸々使ったテラスへ到着した。
「──さて、私はここまでよ。ここから先は整合騎士でも原則立ち入りを禁じられてる場所だから、ここであなたの身柄を元老長へ引き渡します」
「そうか……ご苦労さん──あんたの話、正直もっと聞きたかったよ」
「え?それってどういう──」
「最後にちょっとした頼み、いいか?──彼女の……アリスのこと、よろしく頼む。彼女の力になってやって欲しい」
「……あなたもしかして、前にもあの子に会った事があるの?どこかで助けられたとか」
「……そうだな。数え切れないくらい救われて、支えられた。恩なんか返しきれないくらいだ」
「どういう事……?あの子が正式に騎士になったのは去年の事で、人界の人達と交流する事なんか殆ど無かったはず。なのに数え切れない、って……あなた一体──」
「ホッ、ホォッ!ホォォォォォォォ──!」
突如、キンキンと耳障りな……鳴き声めいたものが聞こえてくる。発生源である上へ続く階段に目を向けると、パッキリした赤と青で彩られた丸いボールがぽよん、ぽよんと段差を跳ねて転がって来るではないか。
眉をひそめた矢先、ボールから短い手足が生え、一回り小さい、これまた丸々とした頭が出現する。ずんぐりとした人型に変化したそのボールもとい何者かは、随分と低い視点から細く小さい目で俺を、次いでイーディスを睨み上げてきた。
「10号!一体なぁにを呑気にくっちゃべってやがるんですよゥ!?罪人を連れてきたならとっとと連絡するのがお前の仕事でしょうがァ!命令を忘れたとは言わせませんよゥ!?」
金切り声で喚くこの男に、イーディスはうんざりした様子で肩を竦める。
「聞いてないわよそんな命令──『ミツキって罪人を最高司祭猊下の元へお連れするから、95階まで連れてこい』──そういう命令だった筈よ。この通り、ちゃんと連れてきたんだから、別に話していようが関係無いじゃない。待ってなかったそっちの落ち度でしょ」
「黙らっしゃァい!お前には猊下に仕える整合騎士としての自覚ってモンが──!」
「はいはい分かったわよ──それより、早くその子を連れてかなくていいわけ?こんな所で喚いてる場合じゃないんじゃないの」
「チッ──言われるまでもねェんですよゥ!ほら、とっとと持ち場に戻りなさい!」
イーディスの言葉を鑑みるに、この男が話に聞く元老院──その責任者である元老長というやつなのだろう。ぴょんと飛び上がった元老長はイーディスの手から鎖をひったくると、シッシと彼女を追い払う。
辟易した様子で盛大にため息をつきながら、イーディスは来た道を引き返していった。
「……おい、必要以上にキツく当たり過ぎだと思うぞ。彼女はちゃんと仕事をしたんだ。労いの言葉くらい──」
「うるせぇんですよゥ、ガキ。お前みたいな青臭いガキを、最高司祭猊下が直々に呼び出すなんて普通じゃねェんですよゥ……!正直、アタシとしちゃここでお前をぶち殺してやったっていいんですがねェ……手荒な真似はするなという猊下のご命令に泣いて感謝するんですねェ」
忌々しげに俺を睨んだ元老長は、声高に「システムコール」の式句を唱えると、聞いたことのない術式の詠唱へ繋げていく。やがて詠唱が終わると、俺の視界に靄がかかり、聴覚はまるで水の中にいるかのようにぼやけ始めた。
目と耳を完全に奪われた俺は、最終的に意識までもを闇に沈められるのだった。
一方、時は遡り──
「──と、ここまでの話は理解できたか?」
「正直、全部正確に飲み込めたわけじゃないけど……この世界がこんな歪な法に支配されているのは、最高司祭が原因だってことは分かったよ」
セントラル・カセドラルから切り離された大図書館──外部からのアクセスが原則不可能とされるこの場所で、テーブルを挟んでキリトと向かい合う小柄な少女《カーディナル》は、小さく頷く。
「うむ、一先ずはそれだけ理解できていれば良い」
牢獄から脱走したキリトをユージオを助けてくれたカーディナルは、待ち構えていた整合騎士との戦いで傷ついた2人を治療したあと、アンダーワールドの歴史が全て収められているという書庫をユージオが物色する間、キリトに様々な事を話してくれた。
公理教会最高司祭、アドミニストレータの正体及び出生、そして目的。
禁忌目録及び整合騎士団の成り立ち。
上級貴族達の腐敗の原因。
このアンダーワールドの行く末。
明かされた情報があまりに多く、キリト1人ではパンクしそうになる。こういう時にミツキがいてくれれば、情報を分かりやすく整理してくれるのだが……
「……なぁ、カーディナル。もう一度確認だけど、アドミニストレータは今、フラクトライトの記憶容量が危うくなりつつあって、だから別の人間のフラクトライトに自分のそれを上書き複製しようとして、それがある意味で失敗した結果あんたが生まれた。って事でいいんだよな?」
「そう話したな」
「で、それより前にアドミニストレータのフラクトライトはカーディナル・システムと融合していた──その状態で複製されたわけだから、あんたもシステムの閲覧なんかは出来るんだろ?」
「然り」
淡々と答えるカーディナルに、キリトは緊張の面持ちで1つ質問をする。
「……1つ、調べて欲しい事がある。整合騎士アリス・シンセシス・サーティについて」
「あの黄金の騎士か……先に断っておくが、わしが詳細に把握出来るのはカセドラル内部及び央都周辺の事象のみじゃ。先のユージオの言葉を聞くに、大方整合騎士アリスはあやつの知己という事なのじゃろうが、辺境の村に住んでいた娘と同一人物なのかは判断出来ぬぞ」
「そうか……けど、それだけじゃないんだ」
キリトの言葉に、カーディナルは小首を傾げる。
「信じてもらえるかは分からないけど、ありのままを言うぞ──俺とミツキは、外の世界からこのアンダーワールドに来るずっと前に、アリスと会って、話をしたことがある。ユージオが探しているアリス・ツーベルクじゃなく……多分《シンセサイズの秘儀》を受けた後の、整合騎士としての彼女と──まぁ当の本人は俺達の事なんか知らない様子だったけど」
「ふむ……妙じゃな。この世界は、お主の生まれた『外側』とは時の流れが違うのであろう?お主の言う『ずっと前』というのが、外側に於ける時間での事ならば、その時点ではアリスという名の整合騎士は愚か、そもそもこのアンダーワールド自体が存在していない筈じゃが」
「ああ。俺もミツキもそこが疑問だった。だからてっきり、アリスも俺達と同じように外側からこの世界にやってきた人間だと考えてたんだ──最高司祭と同等のシステム権限を持つあんたなら、アリスが一体どんな存在なのか、分かるんじゃないのか?」
「……少し待て、やるだけやってみるとしよう」
カーディナルは目を閉じ、暫し瞑目する──直接システムと繋がっている彼女であれば、データの閲覧程度なら神聖術のように詠唱は必要ないのかもしれない──やがて目を開いたカーディナルは、どこか怪訝そうな色を湛えた瞳でキリトを見る。
「……整合騎士アリス・シンセシス・サーティは、間違いなくこの世界の人間──お主らの言うところの《人工フラクトライト》じゃな。ユニットIDまでは把握できなんだが、ライトキューブと紐づいている事は確かじゃ」
「じゃあ……俺達がSAOで会ったアリスは一体……?」
呻くように呟いたキリトの言葉を、カーディナルは聞き逃さなかった。
「キリトよ、おぬし今何と言った?」
「えっ?あ、いや……俺達がアリスに初めて会ったのは、SAO──《ソードアート・オンライン》っていう仮想空間の中だったんだ。ミツキから聞いた話じゃ、当時のアリスはSAO以前の記憶が無かったそうだけど……そうとは思えないくらい、剣の腕は凄まじかった」
「《ソードアート・オンライン》……確か、カーディナル・システムのデータベースにそのような名が──」
立ち上がったカーディナルはシステムウィンドウを開き、タブからタブへと深く潜っていく。横でその様子を見ていたキリトは、やがてカーディナルが指し示したデータファイルに目を剥いた。
「これって……!?」
「お主からその名を聞いて思い出した──この200年間、わしもまたカーディナル・システムのデータベースからこの世界の理を読み解かんとしていた時じゃ。1つだけ、奇妙なデータファイルを見つけた。破損が酷く、わしの権限を以てしても、まともに閲覧出来たのはごく一部のログのみじゃったがな──どことも知れぬ天空に浮かぶ、このカセドラルをも超える程に巨大な鋼鉄の城……名は確か──」
「浮遊城……アイン、クラッド……」
掠れた声で漏れ出たその名前は、キリトにとっても因縁深いものだった。
自分と仮想世界を深く、固く繋ぎ留め、今現在に至るまでの全ての始まりである《ソードアート・オンライン》──その舞台であり、キリトやミツキ、アスナを始め1万人ものプレイヤーを閉じ込めた巨大な牢獄であると同時に、1人の天才が胸に抱き続けた夢の具現。
「キリトよ、お主が騎士アリスと会ったというのは、そのアインクラッドで相違ないのじゃな?」
「ああ、間違いない……そこでアリスはミツキと出会って、俺や仲間達と一緒に戦った」
「……なる程な。確証こそ無いが、少し読めてきたぞ」
「読めてきた、って……どういうことだ?」
「アドミニストレータめはこの上なく用心深い女であるという事はもう話したな?そも、カーディナル・システムとの融合を果たした経緯からして、システムの全てを強引に読み解こうとした結果じゃ──即ち、あやつもまた、わし同様にデータベースの閲覧を行っていたという事に他ならん。そして、わしはその事を把握しておった」
「そりゃつまり……もう一方の人格がなんかしてるなー、的な?」
「まぁそういう事じゃ。直接的に干渉こそできぬが、カーディナル・システムに残った足跡を辿る事で、あやつが何をしていたのか程度は読み解けるからな」
「それで……アドミニストレータは何をしようとしてたんだ?」
「何、簡単じゃよ──あやつはデータベースの片隅に放置されていた《ソードアート・オンライン》のデータログを復元し、解析しようと試みたのじゃ。その先に何かを目論んでいた、という訳ではないじゃろうがな」
「……けど、カーディナルが読み解けたのはほんの一部だけで、破損データは修復できなかったんだよな?アドミニストレータの権限があんたと同じなら……」
「うむ。解析も復元も出来ず、大した情報は得られなかったじゃろう──しかし、独りこの図書館に篭るわしと違い、アドミニストレータには優秀な配下がおる。中でもとりわけ術式行使権限の高い者に補助をさせたならどうじゃ?」
「CPUのコアを増やすようなもんか……確かにそれなら、1人よりも多くの情報を処理できるだろうけど──結局、それでアドミニストレータはSAOのログを解析できたのか?」
キリトの問いに、カーディナルは首を横に振った。
「いいや。最初こそ順調に思われたが、途中で補助を務めていた者が意識を失い、解析は頓挫した。以降、このデータに手が付けられた様子はない」
「カーディナル・システムの情報量に耐え切れなかった、とかそんな所か」
「まぁそれも少なからずあるじゃろうが……わしは別に理由があると睨んでおる」
「別の理由?」
「うむ──整合騎士の引き抜かれた記憶の穴には《
「じゃあ、アドミニストレータが補助要員に選んだのは整合騎士ってことか?剣だけじゃなくて、神聖術まで使いこなすのかよ……」
「中でもとりわけ、な。そしてその補助要員というのが、整合騎士アリス・シンセシス・サーティじゃった……」
「お、おい待ってくれよ。だとしても、それで何でアリスがSAOにいる事になるんだ?ログはあくまでも過去の記録だ、まさか過去の改変なんて、そんな真似出来るわけが──!」
「その意見にはわしも概ね同意じゃがな。しかし0と1で形作られるこの世界に於いても、『絶対』は存在せぬ、理を超越した現象が起きることもある──その力を、お主はもう知っておるはずじゃが?」
「心意の、力……」
頷いたカーディナルは言葉を続ける。
「それが偶然か、何らかの意図があっての事かは分からぬが──解析の最中に心意の力が作用し、騎士アリスの魂が断片的に過去の記録に焼き付いた──それが、わしの仮説じゃ」
キリトは口元に手を当て暫し考える。
今しがたカーディナルが語った仮説は、おおよそキリトの理解の埒外にあるものだ。カーディナル・システムは確かに画期的なシステムだが、流石に過去の改変など出来るはずがない。
その、筈なのだが……これまでの戦いの中で、キリトはシステムの範疇を超えた不思議な現象を何度か体験している。それらは全て、カーディナル・システムの管理する仮想世界に於ける事象だった。もっと言うなら、このアンダーワールドだって──イメージの力だけで事象を塗り替える、等というオカルト現象がまかり通っているのだから、今更かもしれない。
そも、ラースがSTLを用いてフラクトライトを観測するに至った経緯だって、遡れば《量子脳力学》というトンデモ理論に基づくもの──そう、フラクトライトは量子的存在なのだ。つまり、その原理や摂理は量子力学で語ることが可能であり……そこで研究されている現象の1つが、まさしくタイムスリップではなかったか。
しかしそれならそれで、別の疑問も生まれる。
「(《ザ・シード》パッケージを使えば、仮想世界の構築そのものは簡単に出来る。だが心意の力……イメージによる事象の上書きなんて大掛かりな処理を、シュリンク版のカーディナル・システムで行えるのか……?データベースにSAOのログが残っていた事といい、もしかしてこの世界は──)」
このアンダーワールドは、キリト達が2年の時を過ごしたSAOサーバーに使用されていたフルスペック版のカーディナル・システムによって運営されている──そしてアドミニストレータ及びカーディナルは、そのシステムと融合した存在。
即ち、あの世界に於いてどこまでも公平に、どこまでも無慈悲に世界のバランスを保っていた「あの」カーディナル・システムそのものという事だ。
過去と未来、時期こそ違えど全く同じカーディナル・システム。
未来から過去のデータへ焼き付けられた、アリスのフラクトライトの断片。
それを行ったのが仮にアドミニストレータの意思だとするなら、カーディナル・システムそのものである彼女によって「過去、SAOにアリスが存在した」という記録に書き換えられたということだ。具体的なロジックはこの際抜きにして、それが過去、実際にSAOを維持するべく稼働していたカーディナル・システムに影響を及ぼしたのだとしたなら……?
キリトの脳裏に、かの世界の創造主の言葉が蘇る。
──正式サービスが始まった日、私はシステムに原因不明の微細なバグが生じている事に気がついた。
あの世界に存在していたユニークスキルの1つ、今やミツキの代名詞の1つとも言える《双槍》スキルが誕生するきっかけになったそのバグというのは、数年後の未来からアリスの存在を強引にねじ込んだ事に起因するものなのではないのか?
つまり、あの整合騎士アリス・シンセシス・サーティはユージオの探していた幼馴染のアリス・ツーベルクであると同時に、ミツキがずっと探していた《姫騎士》アリスでもあるという事──
「……カーディナル」
「何じゃ?」
「整合騎士を元の人格に戻すには、モジュールを取り除いて、奪われた記憶の欠片を戻してやればいいって言ってたよな?」
「然り」
「その場合……騎士として活動していた時の記憶は──」
「……消えて無くなるじゃろうな。シンセサイズされたばかりの人間は、謂わば生まれたての赤子のようなもの。かつての記憶を抜き取った以上、性格から何まで一から再構築される──欲に堕した怠惰な貴族が、命を尊び花を愛でる高潔な騎士になる事もあろう──逆もまた然り、モジュールを取り除き、記憶の欠片を戻した暁には、整合騎士として育まれた人格に基づく記憶、感情、それら全てが元来持っていた
淡々と答えるカーディナル。その回答の大部分を、まともに聞き取れていたかは怪しい。
消えて、無くなる──あの世界で2年を共に戦った仲間が、大事な友達の大切な人が、消える。
ユージオの幼馴染と、ミツキの最愛の相手。どちらかを選び、どちらかを切り捨てるこの残酷な二者択一に、キリトは答えが出せない……出せるわけがなかった。
──お前はちゃんとユージオに協力してやれよ。そういう約束でここまで来たんだろ。
彼は……ミツキは、こうなる事を予期していたのだろうか。
飛竜に吊るされ運ばれていたあの時。彼は一体何を思って、キリトにああ言ったのか。
例え指1本たりとも、この選択をキリトの手に委ねさせない為ではないのか?
だがキリトは知ってしまった、思い至ってしまった。こうなった以上、唯々諾々としてはいられない。
足掻け、考えろ──この世界で出来た友と、かの世界で出来た友、2人の大切な人を両方救う手立てを。
胸に決意を秘めるキリトだが、まるでそれを見透かしたかのように、カーディナルが口を開く。
「キリトよ、お主が素直に聞き入れる性分ではない事を承知の上で、1つ忠告じゃ──この世界に神はおらん。神にも等しき権限を持つアドミニストレータ、その写し身であるわしでさえも、出自を辿ればお主と同じ人間じゃ。無論、創造主たる《ラース》の技術者もな」
「……何が言いたいんだ」
「……『全てを救おう』などと、人の身に余る大望ということよ。人が人である以上、選択は避けられぬ。選んだ
その言葉が、何よりも鋭く、肉厚な刃となってキリトの胸を抉る……それでも──
「それでもっ……仕方ないからって、諦めていい理由にはならない──俺は最後まで諦めないぞ。足掻いて、考え続ける。2人のアリスも、このアンダーワールドも、そこに生きる人々も──あんたの事だって、全員助かる方法を探す」
「……そうか。お主がそう決めたのならば止めはすまい。じゃが、努々忘れるでないぞ──時間は……世界は、お主を待ってはくれぬ。時が来れば、お主がどんなに拒もうとも選択を強いてくるぞ。そして──刻限を迎えて尚も選択を拒むなら、相応の代償を払う事になる。それすらも問題の先延ばしにしかならんのじゃ」
「……ああ。わかってるさ」
カーディナルの言葉を胸に留めつつ、それでいて目を逸らしながら……キリトは本格的にこれからのことを相談すべく、彼女と共にユージオの元へ向かうのだった。
セントラル・カセドラル最上階《神界の間》。
「ふふ……こうしてあなたと会えるのをずっと待っていたわ。さぁミツキ──私と、お話をしましょう」
次回、当事者からの解。