クィネラにとって、「愛」とは虚飾の代名詞だった。
そもそも彼女が生まれた経緯からして、領主同士の政略結婚──双方に利益の一致を見たが故。その利益の1つが形を成した存在こそがクィネラという少女だったのだ。
彼女は生まれてこの方、愛情というものを実感した経験が無かった。10歳の頃に神聖術の修練をするよう父親から言いつけられ、言われた通りに書斎で1人黙々とシステム・コマンドの解析に勤しんでいた彼女は外界との繋がりに乏しく、自分以外の他者という存在の筆頭格である両親の間にはおおよそ愛情と呼べるものが存在していなかったからである。
夫婦の間には愛がある、ということは知識としては知っていた。ただ、初めて目の当たりにした「愛」の形が、一般的なものとは大きく異なっていた──言葉にすればたったそれだけの事が、アンダーワールドを長きに渡り支配する絶対の管理者を生み出したのだ。
相手の有する莫大な富を手に入れる為に
相手に自分を守らせる為に
相手を手中に収めたいが為に
相手の肢体を独占し、快楽を貪りたいが為に
やがて相手を従属させる為に
もっと市井の人間と触れ合う機会があったなら、より美しい愛を目にする機会もあったかもしれない。しかしそうはならなかった。クィネラが目にしてきた「愛」はその全てが自分本位の欲望に塗れていた。「愛とはそういうものなのだ」と理解するのに、大した時間は必要なかった。
いつからか、クィネラは自分の中に渦巻く欲望──「支配」こそが自分の愛なのだと、それを何よりも強く求める自分は、この世の誰よりも強い愛を持っているのだと確信していた。
やがて時が進み、クィネラがアドミニストレータとなってからも、彼女の
誰も彼もが「肢体を貪りたい」「自分の所有物にしたい」「隷属させ、誰かに見せつけたい」そんな醜い欲望を「愛」などという言葉で包み、さも綺麗なものであるかのように見せている。そんな連中程、いざ結ばれた途端互いを顧みなくなるのだから全く笑わせてくれる。
所詮、互いが互いを想い合う無償の愛など、子供に語って聞かせる物語の中でしか成立しない幻想なのだ。
──その認識が揺らぎを見せたのは、彼女にとっても予想外の出来事だった。
データベースに残されていた破損データの解析を行っていた最中に起きた事故。当時はまだ整合騎士見習いだったアリスの中に発生した謎の記憶。
それを摘出し、内容を確認したアドミニストレータは、1人の少年のことを知ったのだ。
少年は事ある毎にアリスの為、或いは他の誰かの為に奔走する。そしてその度に心に傷を負っていく。その傷は、痛みは、誰にも理解されない。理解されてはならない。理解している者がいても、その痛みを取り除くことは出来ない──それでも、少年は傷だらけの心を隠して気丈に振る舞う。
彼がどうしてそこまで他人の為に傷ついているのか、アドミニストレータには理解できなかった。
何の報酬もない、誰からも感謝されることはない、それどころか恨み節を吐かれるだけだというのに。一体何故?
死んでいった者達はその大多数が自らの油断や驕り、或いは欲をかいたせいで命を落とした。中には第三者の悪意に由来するものもあったが、それこそ死の責任は当事者ないし大元の原因となった者が負うものだ。
だというのに、一体何故、この少年は感じる必要のない責任を感じているのだろう?敵対者を排除したことに心を痛めているのだろう?
思考の末、アドミニストレータは1つの推論を導き出した。
あぁ──彼はきっと、「本物」なのだ。
アドミニストレータがこれまで腐るほど目にしてきた見た目だけの愛ではない、自分の身と心を削ってでも他者の幸せを願える──父から天職を授かる以前の幼い時分に絵本で読んだ「純粋な愛」。彼はそれを持っている。そしてその「純粋な愛」は、たった1人の少女に向けられていたのだ。
数百年に渡り、このアンダーワールドを支配してきた。人界に生きる全てのヒューマンユニットからの崇敬を集めて尚、アドミニストレータが満ち足りる事はなかった。
この瞬間、アドミニストレータは予てから計画していた「向こう側」への侵行を一層強く胸に誓った。
外の世界へ向かった暁には、あの少年を探し出すのだ。彼こそが、自分を満たす最後の1ピース──アドミニストレータは、300年以上に渡る長い生の中で最も強い渇望を感じていた。
それからというものの、アドミニストレータは考え続けた。
本当の愛とはどちらかが一方的に与えるだけではダメだ。互いが互いに愛を与え合うのが重要になる。彼に自分へ愛を注ぐことを望むのなら、自分もまた彼に愛を注ぐ必要があるのだが、どのような愛であれば1番喜んでくれるだろうか。
あの世界で彼に最も愛を注いでいたアリスの言動をなぞるだけではどこまで行っても二番煎じにしかならない。彼女を超える程の愛で彼を包み込むのなら……手っ取り早いのは、アリスでは与えられなかったものを与える事だ。
単なる口約束ではない、永久に続く安心感。直接肌を重ねることで齎される、溺れるような快楽。思いついたもの全てを与えたいが……やはり、最たるものは「救済」だろう。
彼の心から傷跡が消えることはない。刻まれた痛みも、無くなる事はない。
だが自分なら可能だ。痛ましい過去を消し去ることが。
あの夜、ようやく思いを告げただけで終わってしまったアリスとは違う。自分なら本当の意味で、行動という形を以て彼を苦しみから救うことが出来る。
彼の中から、彼を傷つけた全ての記憶を消してあげよう。
彼の中から、彼が弱音を吐露出来ない理由──何も出来ない無力な関係者を消してあげよう。
そして……生まれた空白の中に、自分の愛を溢れんばかりに注ぐのだ。彼の中が、自分1人で満たされればいい。そうすればきっと、彼は自分1人だけにその愛を与えてくれる。
──そこまで考えて、アドミニストレータはハッとした。
いけない……「そうすればきっと与えてくれる」等と考えていては。それではチュデルキンと同じではないか。真の愛とは見返りを求めるものではない。ただひたすらに相手の幸福のみを望むものなのだから。
外敵が付け入る隙になり得るいくつかの情動回路を封鎖した状態で尚、胸の中を駆け巡る強い感情を感じながら、アドミニストレータはフラクトライト編集のシミュレーションを繰り返した。
そして──遂にその時が訪れた。
彼だ──数年前、アリスの記憶越しに見た時からアドミニストレータの心を捕らえて離さない、あの少年の名だ。
すぐに彼をカセドラル最上階まで連れてくるよう命じた。チュデルキンは何やら不満そうな様子だったが、そんなもの気にもならなかった。
彼と話をした。相変わらず気にかけるのは他人の事ばかり。人界一の美貌と自負している自分を見ても、照れるような素振りすら見せない──反面、警戒心が入っているようだが──それが逆に安心した。彼は変わっていない、誰にも救われていない。
この世界を維持しないといけない以上、彼の望みを端から全て叶えてあげる事は流石に出来ないが、出来る限り彼の要望は通してあげたい。
──さぁ、私にあなたを救わせて。私の愛をあげるから、あなたの愛を私にちょうだい。
その為の言葉を口にさせたアドミニストレータだったが、ここで1つ、誤算があった。
本来なら全て残らず取り除くはずだった「他者」の記憶。その中で、1人の少女に関する記憶だけが、異常に強く結びついていたのだ──固着状態と言ってもいい。
これを無理に引き剥がしてしまうと、彼本人の精神性が損なわれる等影響を及ぼす危険性がある。時間をかければどうにかなるものでもないようだった。
こうなっては仕方ない、と少し方針を変更。その少女の記憶は残し、他の人間に関する記憶を全て摘出する。彼の事を知ってからずっと、ずっとシミュレートしてきたこの作業は、他のフラクトライトを編集する時よりもずっとスムーズに、短時間で終わった。
そして最後に、シンセサイズの証であるモジュールを挿入する。
必要ないかとも考えた。しかし、記憶を編集したとは言え彼は彼だ。少女の記憶だって残っている。目を覚ましたら、自分に目もくれずにまた誰かの為に奔走を始めるかもしれない。そうならないように──ずっと自分だけを見てくれるように、プリズムにそっと口づけてから、アドミニストレータは少年にモジュールを埋め込んだ。
シンセサイズが完了した少年と、情を交わした。本来ならありえない事だが、シンセサイズ直後で意識が混濁している短い時間だけ、自分を彼女だと認識するよう手を加えたのだ。本人からすれば朧げな夢の中の事、真実を知らなければ罪悪感も残るまい。
ベッドの上で、自分ではない少女の名を呼びながら力無く縋り付く少年を、アドミニストレータ──クィネラはあやすように撫でる。
誰かと本当に肌を重ねたのはこれが初めてだった。ただ快楽だけを求めるそれとはまるで違う、多幸感に満ちた快楽……その中に、多少の虚しさもあったのは事実だ。だが今はこれでいい。事が済んだ暁には、全て問題なくなる。
行く行くは長らく共に在ったこの身体とも別れる事になるのだ。ならばせめて、クィネラとしての自分にも最後に思い出が欲しかった。
本格的に覚醒した彼に、新たな武器を与えた。管理者権限を用いて最上階から武器庫へ直通の扉を開き、中から好きな物を取っていいと言い付ける。
程なくして戻ってきた彼の手にあったのは、全長およそ2メル弱の長槍──穂先のすぐ下に布が巻きつけられた、所謂旗槍だった。どうせなら服も着替えるよう勧め、着ていた学院の制服と同じ色合いの騎士服に身を包んだ姿を見て、なんだか彼が自分に染まっていくような感覚を覚えたクィネラは鎧も与えようとしたが、不要だと断られてしまった。
選んだ武器について詳しく教えた所で、下の階に続く昇降盤が作動する。それに乗って来たのは、ボロボロになった道化服に身を包むチュデルキンだった。
反逆者がどうだの、罪人がどうだの、金切り声でまくし立てるチュデルキンの順序もなにもあったものじゃない滅茶苦茶な報告を冷めた目で聞いていると、やがて彼の視線が少年に止まった。
チュデルキンはその少年を追っ手にぶつける事を提案した。整合騎士達へ横柄な物言いをしてきた彼は知らないのだ。クィネラがこの少年を傀儡にする為にシンセサイズした訳ではない事を。呆れたように「自分でなんとかしろ」と言い渡そうとしたクィネラだったが、それより先に少年が立ち上がった。
少年は槍を掴むと、ゆっくりチュデルキンへ近づいていく。
他の騎士達と同じように彼が自分に従うと思っているチュデルキンは、いつも通りの横柄な物言いで戦いに出るよう命令する──その丸々と肥え太った顔面に、槍の石突きがめり込んだ。
くぐもった声を上げて、小男が転がっていく。それを追いかける少年に、クィネラは2つ程言い含めた。
チュデルキンをあまりいじめないこと。
追っ手とやらは出来る限り殺さないでおくこと。
チュデルキンの言う追っ手──反逆者と罪人というのは、恐らく少年と一緒に連行されてきた2人の少年の片割れと、整合騎士の誰かという事だろう。であれば、殺さず生かしておいた方がいい。
指示を了解したか定かではないが、少年は99階へ転がり落ちたチュデルキンを追いかけていった。
彼が求めるものはただ1つ──アリスだけ。
だから彼には、彼女を取り戻す為に戦うよう言ってある。
邪魔するものは全て力で排除すればいい、と。
そうしてアリスを取り戻した暁には──
記憶容量が限界に達しつつあるこの体から、アリス・シンセシス・サーティに自らのフラクトライトを複製転写し、新たな最高司祭として君臨するのだ。以前は失態を犯してしまったが、今度は確実に完遂する。
少年との記憶。
少年への愛。
そして最後に、少年が求める姿。
この3つが全て揃った時、クィネラは求めていたものを手にすることができるのだ。
少年は既に少女の事しか覚えておらず、また少女から摘出した記憶も
何者にも害されない永遠の楽園の中で、たった1人の人間と共に真実の愛を甘受する。
この魂が愛を求めているのだ。それが手に入るのなら、クィネラとしての自分を捨てる程度、瑣末な問題だ。
アドミニストレータが初対面にも関わらずミツキに優しかったのはこういうことでした。
個人的な解釈ですが、アドミニストレータも何かきっかけさえあればカーディナル同様に支配以外の愛の形というものを知る事が出来たんじゃないかと思うのです。情動回路の封鎖も完全じゃないですからね、怒りとか苛立ちは感じてましたし。
本作ではそのきっかけがアリスの記憶越しに見たミツキだったと。
端的に言えば「乙女ゲーの男性キャラにガチ恋し、ヒロインに憑依転生して原作以上に相手を幸せにする」みたいな正しく二次創作じみた事を考えたわけですね。その為ならそれまでの自分を捨てて一生ヒロインとして生きるのも厭わず。