守った世界
ノーランガルス北帝国の最北端に位置するルーリッド村。そこから2キロル程離れた森の中に、1軒の丸太小屋が建っている。
ぽっかりと木々の開けたそこには、小さいながらもいくつかの畑が耕されており、その一角で眼帯を着けた1人の少女が野菜を収穫していた。
「ちゃんと育ってくれて良かった……なんとかなるものね」
木で編んだ籠に収穫した野菜を詰め込み、立ち上がる。今日の夕飯は少し豪華になりそうだ。
「姉さまーっ!」
柔らかい芝の地面を駆ける足音と共に、アリスの名を呼ぶ声が。見れば、修道服に身を包んだ少女が手を振りながらやって来ていた。
「セルカ……いらっしゃい。今日はどうしたの?」
胸に飛び込んできた、自分よりも頭一つ分小柄な体をそっと抱き締める。キリトに存在を聞かされてから一目会いたいと思っていた、自分の──この体に本来宿っていた少女の、妹。
「これ、搾りたてのミルクと今朝焼いたリンゴとチーズのパイ。人数分あるから、良かったらお昼に食べて」
「前にも言ったけれど、気を遣わなくていいのに……」
「姉さまの料理の腕はよく知ってるもの。ずうっとミツキに任せきりじゃ大変でしょ?」
う…、と痛い所を突かれたように口篭る。整合騎士としてカセドラルで生活していた頃は当然料理をする機会など無く、ここに来て初めて料理に失敗した時は「初めての事だから失敗したのだ」「経験を積めば上手くなる」と半ば己に言い聞かせていたものだが……この半年で、アリスはシンプルに料理が下手という事実を自覚していた。セルカ曰く、それはアリス・ツーベルクも同様だったらしい。
彼女のような料理上手な誰かに傍で逐次教えてもらえれば違うのかもしれないが……今のアリス達が置かれた立場を考えると、そこまで世話になるのは気が引けた。
結局、料理に関しては一緒にこの家で生活する少年に任せきりになってしまっている。そんな彼も特別料理が上手いわけではないものの、少なくともアリスのそれと比べれば雲泥の差だ。
「それとね、今日はいい天気だから、東の丘まで散歩に行きたいなって──キリトとミツキも一緒に、どう?」
「……そうね。折角久しぶりの天気なんだし、ずっと家の中にいるのは勿体無いわね」
セルカを伴い、家に戻る。キッチンに収穫した野菜とセルカからの差し入れを置いてから、アリスは居間へ向かった。パチパチと炎を揺らめかせる暖炉の前には、無言で佇む2人の少年達が……
「──ミツキ、セルカと一緒に少し出かけましょう。今日は少し風があるから、暖かくしてね。支度が終わったら、キリトの方を手伝って」
そう呼びかけるも、返事はない。ただ、少年の片割れ──無言で立っていた紺髪の少年が、ゆったりとした足取りで寝室へ向かう。寂しそうな目をしながらアリスもそこに続き、手早く自分の身支度を済ませてから、冬用の外套とマフラーを持って居間へ戻る。
「……キリト、これを着せるから、少し立ち上がれる?」
そう言って、椅子に掛けたもう1人──黒髪の少年の背中に手を伸ばし、立ち上がるよう促す。数秒の沈黙を挟んで、キリトはぎこちない動きでゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう。すぐに済ませるから、ちょっとだけ頑張って」
左腕を袖に通し、羽織らせた外套を軽く整えてから手早くボタンを留めていく。キリトが少しフラつき始めた所で、背後からごろごろ…と車輪付きの椅子を押してミツキがやって来た。
「ありがとうミツキ。それじゃあキリト、ゆっくり腰を下ろして──」
さっきまで座っていた椅子の代わりに車椅子を後ろに付け、ミツキが押さえるそれにアリスの介助でキリトを座らせる。最後に毛皮のブーツを履かせた両足をステップに乗せ、キリト側の準備は一通り完了した。
「手伝ってくれてありがとう──って、ミツキ……それじゃ寒いでしょう?」
キリトの介助を手伝ってくれたミツキだったが、当の彼自身はお世辞にも準備万端、とは言い難い状態だった。キリトやアリスと同じく外套を羽織ってこそいるものの、前は全開。襟元も乱れており、適当に袖を通しただけなのがありありと見て取れた。
「手伝ってくれるのはありがたいけれど、あなた自身の事もちゃんとしなきゃ、ね?」
言いながら、アリスが身なりを整えてやる。ボタンは自分で留められるかという質問には、行動による肯定が返ってきた。
キリトの首にマフラーを巻き、さぁこれで準備完了、と家を出ようとした所で、不意にキリトの頭がある方向へ向く。
「あー……、あー」
殆ど呻きに近い掠れた声を漏らしながら左手を伸ばす先には、壁に掛けられた4本の剣が。
「……ごめんなさい、忘れてたわ」
一度車椅子を旋回させようとしたアリスだが、それより先にミツキが剣の元へ向かい、艶のある黒い長剣《夜空の剣》と、その横にあった純白の剣《青薔薇の剣》を手に取る──光の無い目を、心なしか更に沈ませて、ミツキは2本の剣をアリスに差し出した。
「……ありがとう」
半年前もこれらの剣を持った事があった。あの時は神器にも匹敵する重さということに内心で驚いていたものだが、今手の中に感じる重さはその時よりも軽い──あれからアリスの権限レベルが多少上がったのもあるだろうが、鞘の内にある刀身が折れたままである事が最大の要因だろう──持ち主だった亜麻色の髪の少年を思い出しながら一瞬だけ瞑目したアリスは、2本の剣をキリトの腕の中に差し入れた。
「……落とさないように、しっかり持ってね」
今度こそ全ての準備が完了したアリスはキリトを乗せた車椅子を押し、暫く振りに外出するのだった。
サク、サク……と、すっかり赤く色付いた落ち葉を踏みながら、セルカの先導で木立を進む。枝の間から木漏れ日が差し込んでいるが、木々を縫って吹き込む風に少しばかり肌寒さを覚えた。
「……キリトもミツキも、寒くない?」
「もう、姉さまったら心配し過ぎ。これ以上着込んだら逆に暑くて汗かいちゃうわよ」
そんな他愛ないやり取りを交わしていると、やがて木々が開けて小高い丘へ出た。上からは大きな湖が一望できる──湖の向こうに広がる湿地帯、さらに向こうに広がる広大な森林、かつては飛竜に乗って何度も見下ろし飛び越えた《果ての山脈》すらも、この景色を彩る別のもののように思えた。
「綺麗……カセドラルで見たどんな絵よりも、ずっと──これが、あなた達が守った世界よ……キリト、ミツキ」
この穏やかな景色を目にしても尚、少年達は一切の言葉を零さない……果たして彼らの目にこの景色は映っているのかさえ、アリスには判然としなかった。
彼らとて美しい光景を目にすれば感動を覚え、様々な感想を零した筈だというのに、何故このような虚ろそのものと言える状態になってしまったのか。はっきりとした理由は分からないが、きっかけが半年前の「あの瞬間」だったであろう事は、間違いない──
最高司祭アドミニストレータとの戦いが繰り広げられた、セントラル・カセドラル最上階。
目覚めたアリスが耳にしたのは、正体不明の水晶板に向かい、何やら切迫した様子の彼らの声だった。
何か……遠隔通信のような事でもしているのだろうか。水晶板からは、明らかに彼らのものではない誰かの声が聞こえてくる。しかし、SAOでの記憶を不完全ながら取り戻した事で、ある程度
「ミ、ツキ……一体、何が──」
乾ききった喉で声を絞り出したのも束の間、突如としてミツキがキリトを突き飛ばす。次の瞬間、上から降り注いだ謎の光が2人を貫いた。
「ミツキッ!キリト──!」
声もなく倒れた2人の元へ、殆ど這うように駆け寄る。何度名前を呼びかけても意識は戻らない。
丁度朝日が差し込んできた事で、アリスは回復を始めた空間神聖力を用い2人の治療を開始する。切り落とされたキリトの右腕と、恐らく完全に折れてしまっているミツキの左脚を完治させるには流石に神聖力が足りず、一先ず前者は傷口を塞ぎ、後者はズボン越しにも分かる程の腫れを引かせるに留め、アリスも自分の傷を治療した。
その後、時間をかけて少しずつ治療を進めていったアリスだが、キリトとミツキは一向に目覚めない。こうして肉体が残っている以上、天命が尽きた訳ではないのは間違いない。受けた傷の深刻さ、或いはその蓄積によって、傷が治っても暫く意識を失ったままでいることは珍しくないが、目を伏せて眠る彼らの顔はどこか抜け殻のようにも見え、得体の知れない不安感を煽ってくる。
先程彼らが何か呼びかけていた水晶板──かつてSAOで目にした《システムコンソール》を彷彿とさせる──を調べてみても、うんともすんとも言わなかった。
詳しい状況も分からず、一体どうすればと途方に暮れるアリスの元へやってきたのは、ベルクーリとイーディスの2人だった。
互いの無事を喜ぶのもそこそこに、アリスはアドミニストレータとの戦いの顛末を報告する。
来るダークテリトリーとの戦いに向け、彼女が人界の民達を剣骨の人形に変化させる恐ろしい計画を画策していた事を知った時は──流石に整合騎士達の真の出自に関しては明かす気になれなかった──驚きを隠せずにいた2人だが、委細を聞いたベルクーリは「よく頑張ったな」とアリスを労い、迅速に行動を開始した。
アリスを除き、現在カセドラルに残っている計10名の整合騎士達を50階《霊光の大回廊》に集めたベルクーリは、イーディスと共に現在自分達が置かれている状況を説明した──
最高司祭アドミニストレータが、僅か3人の修剣士達に敗れ、死した事。
その理由が、人界の民の半数を犠牲にする恐ろしい計画を阻止する為だった事。
元老院の正体と、その統括者であったチュデルキンが死んだ事で、元老院は現在、実質的に機能停止状態にある事。
ベルクーリとイーディスの話を黙って聞いていた騎士達は皆一様に激しい動揺を見せる。最も若い騎士であるエルドリエに至っては「その修剣士達を捕らえて尋問すべき」と申し出たが、ベルクーリはそれを即座に却下した。
「──最高司祭猊下がいなくなった事をダークテリトリーの連中に知られれば、すぐにでも侵攻が始まったっておかしくねぇ。俺達整合騎士団だって、先の修剣士や予てのダークテリトリーとの戦いで戦力が半減している状態だ。一方、向こうにゃゴブリンや
「……では、我らはどうすれば?」
副長のファナティオの質問に、ベルクーリは即答する。
「まずは、半壊した整合騎士団を立て直す。それと並行して、ハリボテ同然だった人界四帝国近衛軍の再編と再訓練もしなきゃならん。ダークテリトリー軍の総数は現在の人界軍を軽く上回る、いくら俺達が出張っても、数で押されちゃ支えきれねぇからな。──色々言いたい事のある奴もいるだろうが、俺達の役目は変わらねぇ。民を守る為、俺に力を貸してくれ」
「──私からも、お願い」
ベルクーリとイーディス、2人の騎士からの頼みを受けた整合騎士達はこれを聞き入れ、長期間に渡る大仕事へと取り掛かり始めた。
幸いにも喫緊の問題であった軍の再編と再訓練は程なくして目処がつき、デュソルバートの指導の下、日夜兵士達は訓練に励んでいる。当然、アリスも愛竜《
ベルクーリの主導で新生した《人界守備軍》はゆっくりだが着実に態勢を立て直しつつある。しかし、その事に安堵してばかりではいられなかった──あの場ではベルクーリの意向を汲んで引き下がってくれた騎士達の一部を始め、詳しい事情を知らない修道士達の中から、反逆者であるキリトとミツキを処刑すべきではないか、という声が上がり始めたからだ。
ここにいては2人が危ない。彼らとてすぐ強硬な手段に出はしないだろうが、時間が経てば経つ程に不平不満は膨れ上がり、やがて手が付けられなくなってしまう事を、今のアリスは知っている。さりとて今のキリトらは自分で動くこともできない。一体どうすればと悩んでいた所で、相談に乗ってくれたのがイーディスだった。彼女もまたキリト達への周囲の風向きを察知し、何か対処すべきではないかと考えていたようだ。
まず、守備軍の運営で忙殺されているベルクーリとファナティオには頼れない。デュソルバートはともかく、エルドリエはキリト達を生かしておく事に懐疑的な考えを持つ者の1人だ。アリスとイーディスだけで彼らの身柄を保障できるかどうか……
彼らを守りたいという思いと、整合騎士としての役目で板挟みになるアリスに、イーディスは1つ提案をした。
「──アリス。央都を出なさい」
「……は?」
「彼らを連れて、ここを出るのよ。カセドラルの中はもう安全じゃないわ。あなたや私が守ってあげるのも限界がある。こうなったらもう、セントリアから離れたどこかに身を隠すしかないと思うの──どこか、行くあてに心当たりはある?」
ただ央都を出るだけなら簡単だが、その後も生活していかなければならない以上、出来れば村や町の近く──もっと言えばあまり規模の大きくない村──が好ましい。しかしその条件下で、正体不明の3人を快く受け入れてくれる余裕のある場所など存在するのか。
「そうだ、ルーリッド──ユージオの生まれ故郷の村なら、もしかしたら。辺境地域であれば他の騎士達に嗅ぎつけられる危険性も低いかと」
決行は今日の深夜に決め、出発に備えて荷造りを進める。着替え、数日分の携帯食料、野営セット、その他諸々を荷袋に詰めていく最中、それを手伝っていたイーディスが素朴な疑問を口にした。
「……よく考えたら、意識の無い人間2人の連れ出し方も問題よね。発着場までは私が手伝えばいいにしても、飛竜の鞍に乗せようと思ったら、1人は自力で落ちないよう掴まってないといけないし……だからって、罪人を連行する時みたいに吊るしてく訳にもいかないしねぇ」
せめてどっちか片方だけでも目を覚ましてくれればいいんだけど……と、イーディスが手近な距離にいたミツキの頬を指でつつく。片腕を失っているキリトに対し、ミツキの方は少なくとも見かけ上五体満足だ。彼が目覚めてくれれば、アリスもキリトを支えるのに集中して飛竜を飛ばせるのだが……
「うーん……いっそ私も一緒についてった方が──って、ちょっとアリス……!」
「イーディス殿……?」
「起きたのよ!ミツキが!」
そう聞くやいなや、飛びつくような勢いでミツキが寝ているベッドに駆け寄る。これまで何度呼びかけても反応の無かったミツキが、確かに瞳を開けていた。
「ミツキ……私が、分かりますか……?」
まだぼんやりとしているミツキに恐る恐る問いかける。アリスはアドミニストレータとの戦いの顛末をこの目ではっきり見届けたわけではない。SAOでの記憶だって、目覚めた時には戻っていたもので、その際アドミニストレータとの間にどんなやり取りがあったのかも定かではないのだ。
戻ったはずのミツキの記憶にまたも異変が生じてしまっているという可能性を早く振り払いたい気持ちを抑え、アリスは返事を待つ。しかし……
「…………」
いくら待てども、彼が返事をする様子はない。それどころか、開かれた翡翠色の瞳は、ぼーっと天井──何もない虚空を見つめるだけで、声をかけたアリスは愚か、至近距離にいるイーディスにさえ一瞬たりとも視線が向く事はなかった。
「ミツキ……私のことは、覚えてるの?……何か言って、お願いだから……っ」
すると、小さく開いた口の隙間から「ァ……」という吐息混じりの声が発せられる。安堵したのも束の間、アリスはミツキの視線が尚も一切動いていないことに気付いた。違和感と共に、どこからともなく降って湧いた「嫌な予感」が脳裏を過る。
「……ミツキ、
少し震えた声の要求に、ミツキは緩慢な動きで上体を起こす。そこで動きがピタリと止まった。アリスの中で、疑念への確信が深まる。
「……ベッドから、下りて」
ミツキはまたもゆったりとした動きで掛かっていたシーツを退かし、ベッドから立ち上がる。そこで動きを止めた。疑念が、着実に確信へと変わっていく。
「っ……私の、名前を呼んで」
「……ァ…り、ス…」
ぎこちなく、絞り出したような声で発された三文字。疑念が完全に確信へ変わったアリスはくしゃりと歪めた顔を俯け、キツく唇を噛み締める。横にいるイーディスも、ミツキがただならぬ状態であることは理解できたようで、気遣わしげにアリスの背に手をやる。
「……アリス、ちょっとごめんね──ミツキ、片足で立ってみて」
イーディスの要求に、ミツキは無言で右足を床から離した。
「……そう。──ありがとう、
言われた通り、ミツキは足を下ろしてベッドに腰を下ろした。
「……起きたまではいいけど、良くない状態ね、事と次第では殆ど最悪に近い」
「ミツキ……そん、な……っ」
「しっかりしなさいアリス!彼らを守るんでしょ?そのあなたがそんな顔してちゃダメ。──幸い、言った事にはちゃんと従ってくれるみたいだし、問題だった点が解消されたと考えましょう」
アリスを叱咤したイーディスの言う通り、望んだ形とはかけ離れてこそいるものの、必要最低限の条件は満たされた。今はとにかく、彼らをカセドラルから連れ出すことを最優先に考えなければ。
今にも泣き崩れたい気持ちを理性で押さえ込み、アリスは荷造りを終わらせた。
果たして、同日の深夜──アリスはイーディスの手引きで、30階にある飛竜発着場まで2人を連れて行った。
「……ミツキ、どうしたの?早く乗って」
何度促しても、ミツキは動こうとしない。まるでカセドラルを出る事を拒否しているかのように、アリスには感じられた。一旦キリトをイーディスに支えてもらい、アリスは飛竜から降りる。
「……ミツキ、このままここにいたら、いつあなたやキリトの身に危険が及ぶかも知れないの。だからここから逃げましょう?」
理由を言い聞かせても、ミツキの足は微動だにしない。無理やり腕を引こうとすると抗う素振りを見せる程だ。
危険だと知りながら何故残ろうとするのか……脱走を決意して以降はずっとアリスやイーディスが傍にいた以上、誰かにそうするよう言われた訳ではないのは確かだ。すると必然的に、これはミツキの意思ということになる訳だが……よりにもよって何故、今ここで?
ミツキの人間性と照らし合わせて考えた結果、アリスは1つの推論に達した。
「ミツキ……あなたまさか、
答えは無い。表情も動かない。だがアリスには、ミツキが肯定の意を表しているように感じられた。彼は、ダークテリトリーの侵攻が控えている中でアドミニストレータを討ち、整合騎士団を始めとする人界軍に混乱を招いた責任を取るつもりでいるのだ。
具体的にどうやってかまでは分からない。だが少なくとも、今の状態のミツキをカセドラルに置いていては──処刑派の誰かに「責任を取って死ね」と言われでもしたが最後、本当に自分の命を絶ってしまいかねない。それだけは何としてでも避けなければならなかった。
「っ……ミツキお願い、一緒に来て。あなたを失いたくないの──全部私のせいにしていいから……全部、私が背負うから──だから、お願いよ……ッ」
アリスの涙ながらの懇願を前にしてもミツキは眉一つ動かさない──代わりに、まるで根を張ったように動かなかった足が、ようやく1歩、前へ進んだ。
ハッと顔を上げたアリスの横を通り過ぎ、動かず待っていた
安堵と感謝、そして悔悟の念が綯交ぜになりながら、アリスも再び鞍に跨り、
「……それじゃあアリス、元気でね。一応言っておくけど、この事は騎士長や副長、他の騎士達にも絶対言わないから安心して」
「はい……イーディス殿も、どうかご自愛を」
発着場のゲートが開き、仄かに差し込んだ月明かりがアリスの顔を照らし出す。その碧眼には、イーディスを始め他の騎士達に対する罪悪感が見て取れた。
「もう、そんな顔しないの。あとはお姉ちゃんに任せて、早く行きなさい。その子達のこと、よろしくね──いってらっしゃい」
「……助けて下さり、ありがとうございました──いってきます」
短い挨拶を最後に、アリスは2人の少年と愛竜と共に、6年の時を過ごした央都セントリアから飛び立っていった。
その後──無事ルーリッドへたどり着いたアリス達がどうなったのかは、村から離れた場所に居を構えた事から自ずと察する事が出来るだろう。
アリスは実父である──かつてのアリスにとっての、ではあるが──村長のガスフト・ツーベルクに、今の自分は幼い頃の記憶を全て失っている事を正直に明かし、尚且つここしか行くあてが無い事を伝えた。
ガスフトはアリスの目をジッと見つめながら、暫し思案する──引き結んだ口の中で、小さく歯の軋む音が聞こえた気がした。
ガスフトは「罪人を村に置くことは出来ない」とアリスの願いを断り、やはり、といった様子で道を引き返すアリス達をこっそり呼び止めたセルカが、かつてユージオが就いていた《天職》の先代であるガリッタ老人の元へ案内してくれた。快く協力を申し出てくれたガリッタの教えで、アリスは不慣れながらも森の中にあの小屋を建てることに成功したのだ。
安全な寝床を確保したアリスは、キリトとミツキに対し大規模な治癒術を施した。飛竜の天命を瞬時に全快させられる程に膨大な神聖力を注ぎ込めば、キリトの失われた腕も、ミツキの意識も正常に戻るはずだと、そう信じていたのだが……結果は見ての通りだ。ミツキは未だ虚ろのまま、キリトに至っては目覚めこそしたものの、意識は愚か腕すらも取り戻す事は出来なかった。
ただ、1つだけ──アリスの治癒術の成果なのか分からないが──僅かに好転したこともある。以来ミツキは、身の回りの事を自発的に手伝ってくれるようになったのだ。キリトの世話に始まり、アリスが苦手とする料理までしてくれた時は大いに驚き、目を剥いたものだ。
しかしそれでも、彼の瞳は何も映していない、何の言葉もかけてはくれない。かの浮遊城で何度も目にした、プログラムに従って動くNPCのよう──アリスにとって最も嫌悪すべきものだが、「人形」という表現がよく当てはまった。
その上で自分自身を顧みない点だけは悪い意味で変わっておらず、アリスが初めて料理に挑戦した際、取り落とした包丁の刃を鷲掴みにしてキャッチした時は心臓が止まるかと思った。
それから現在に至るまでの半年間、アリスはミツキやセルカの助けを借りながら、キリトの面倒を見続けている。
「──姉さま?」
セルカの声で、物思いに耽ていた意識を引き戻す。
「……何でもないわ。そろそろ戻りましょうか」
4人で来た道を引き返していく──先程とは逆で後ろを歩くセルカに、アリスは声を投げた。
「……セルカ、どうかしたの?」
全部お見通しとでも言わんばかりのアリスの言葉に、セルカは遠慮がちに答える。
「……あのね。バルボッサのおじさんが、また開墾地の木の始末を頼みたい、って……」
「なんだそんな事。あなたが気に病む事なんかないんだから、遠慮せず言ってくれていいのに」
「だって……勝手過ぎるわ、あの人達!いつもは姉さま達を腫れもの扱いするくせに、困った時だけ助けてもらおうだなんて」
「大丈夫よ。村の外れに住まわせてもらって、必要なものを売ってくれてるだけで十分ありがたいんだから」
セルカは「修道女として給金が出るようになったら自分がアリス達のことをずっと養う」とまで言ってくれたが、それでは彼女が自分の未来を生きていくことができない。アリスは、セルカが近くにいてくれるだけで充分幸せだ、と自分より一回り小さな体を優しく抱きしめた。
今でこそアリスの事を「姉さま」と慕ってくれているが、当初はセルカも思う所があったに違いない。幼少の記憶を全て失い、変わり果てて戻ってきた実の姉と同じ姿、同じ名前の誰か──彼女やガスフトを始めツーベルク家の皆には、アリス・シンセシス・サーティを罵り、糾弾する権利がある。セルカに至っては、兄のように慕っていたユージオをも喪っているのだ。
ユージオの死を知った時に一度だけ見せた彼女の涙を思えば、一切口を聞かず顔を合わせないどころか、石を投げられたって文句は言えない立場であるアリスを、そして初対面でありながら「キリトとユージオの友達である」という理由だけでミツキのことも受け入れ、常に笑顔で接してくれているセルカの思いやりと心の強さに、1人の人間として感服する他無い。
「場所は南の開墾地でいいのよね?私はキリトと一緒にこのまま向かうから、セルカはミツキを家まで送っていってもらっていいかしら?私が戻るまで、中でくつろいでて構わないから」
ミツキにキリトを任せ、セルカに送迎の補助を頼みつつアリス単身で開墾地へ向かう事も考えたが、キリトに何か突発的なアクシデントがあった場合、アリスが直接目を光らせていた方が対処しやすい。同時に、今のミツキを出来る限り村民達に触れさせたくないという気持ちもあった。
セルカに連れられて森の方へ戻っていくミツキを見送ったアリスは、キリトに少しだけ寄り道をする旨を伝えてから車椅子を別の方向へ進ませた。
程なくして村の南に広がる広大な麦畑を通り抜けたアリスは、その先で盛んに鳴り響く斧の音の中、周囲へあれこれと指示を送る小太りな男へ声をかけた。
「──こんにちは。バルボッサさん」
ルーリッド最大の農場主であるナイグル・バルボッサは、この喧騒の中でもよく通るアリスの声に振り向くと、にんまりとした笑みを浮かべて近づいてくる。その雰囲気はどこかチュデルキンを彷彿とさせた。
「おお、おお、アリスや。よく来てくれたのぅ!」
「……何かご用と聞きましたので」
「うむ。ほれ、見えるじゃろう──昨日の朝から、あの忌々しい
白金樫といえば、央都でも訓練用の木剣の材料として重用される優秀な木材だ。粗製の鉄剣程度なら容易く叩き折る高い優先度を持つ樹が、ざっと20メル程の高さまでそびえ立っている。幹の幅は目算で1メル半程、確かにこれは手に余るか。
整合騎士として極めて高いオブジェクト操作権限を持つアリスは、以前、通りがかりに道を塞ぐ落石を退かしてみせた事がある。その話が広まり、時折こういった頑丈な木の伐採という力仕事に非公式ながら駆り出されていた──尤も、セルカが「安請け合いしすぎると際限がなくなる」と提言したことで、今では1つの農家につき月一度のみ、と取り決めを設けている。
バルボッサからの以来は今月既にこなしており、本来であれば断っても文句を言われる筋合いはないのだが……公理協会の庇護を抜け、《天職》も持たない今のアリスにとって、こういった仕事は貴重な稼ぎ口だ。今回だけ、という条件をしっかり念押しした上で、アリスは依頼を受諾した。
《ステイシアの窓》で樹の天命が全快状態から殆ど減っていないことを確認したアリスは、踵を返してキリトの元へ歩み寄る。
「……ごめんなさいキリト。少しだけ、あなたの剣を貸してくれる?」
キリトは答えないながらも2本の剣を抱く腕に小さく力を込める。屈んで目線を合わせたアリスがもう一度お願いすると、キリトは腕の力を緩めた。
黒い長剣を受け取ったアリスは、キリトに礼を言ってから問題の白金樫に向かう。しっかりと地面を踏みしめ、腰だめに構えた剣の柄に手を掛ける。こうして剣を握るのは久しぶりだが、カセドラルでみっちり鍛えられた剣技は未だ体に染み付いている。
周囲から飛んでくるくだらない野次は捨て置き、アリスが睨むのは先んじて男達が刻みつけていた斧の切れ込みただ一点──
「ッ──!!」
無声の気合と共に、漆黒の刃を横一線に振り抜く。剣圧が辺りの落ち葉を舞い散らせるが、それだけ。件の樹には何も変化がない。さては外したか。──周囲で見物する男達には、そのように見えていた。
「──そっちに倒れますよ」
残心を解いたアリスの言葉が合図になったようなタイミングで、白金樫がメキメキと音を立てて傾いていく。開墾作業を妨げていた巨樹は、情けない声を上げて逃げ出した男達のいた場所にドスン、と倒れた。
土埃を払いながら、アリスは地面に残った切り株を見やる──斬撃方向である右側の端の部分だけ、微かにささくれ立っていた。
「(……半年で随分と鈍りましたね)」
以前の自分ならこうはならなかっただろう、と剣を収めながら自嘲するアリスの元へ、簡単の声を上げながらバルボッサがやって来る。
「素晴らしい!まさに神業じゃ!どうじゃろう。礼金を倍にするから、月に一度と言わず週一度、いや1日一度手伝うというのは──」
「──いえ、今頂いている金額で十分ですので」
申し出をすげなく断られたバルボッサに、アリスは手を差し出し、今の仕事の代金を要求する。100シア硬貨を1枚受け取ったアリスが、形ばかりに「ありがとうございます」と礼を言ってその場を立ち去ろうとしたその時──ガタッ!という異音が耳に届いた。
まさかと思い振り向けば、キリトが車椅子から転げ落ちているではないか。
「キリト──ッ!?」
慌てて駆け寄ったアリスは、キリトが小さく呻きながら手を伸ばそうとしている事に気づく。その手の先には──キリトが大事に抱えていたはずの《青薔薇の剣》に群がる、数人の若い男達がいた。口々に感想を言いながら数人がかりで剣を支え、あまつさえ抜こうとする彼らの行為に一気に頭が熱くなったのも束の間──アリスは鋭く叫んでいた。
「───
一見的外れに聞こえるアリスの声。その一瞬後に、若者達の背後でズザザザッ!という音と共に凄まじい土煙が舞った。驚いた彼らが振り向くと、眼前数センという距離で静止する掌が目に入る──アリスの制止が一瞬でも遅れていれば、剣を抜こうとしていた男は良くて大怪我、最悪命に関わっていたかもしれない……伸ばされた手の主であるミツキの目に宿った殺気が、そんな未来を克明に物語っていた。
「な、なんだよお前……ッ!?」
若者達が狼狽えている隙に、アリスは20メル程の距離を一気に駆け抜け、彼らの手から剣を取り上げる。
「この剣は
「勝手に、って……俺達はちゃんと『貸してくれ』って言ったぜ!」
「そしたらアイツが、気前よく貸してくれたんだよな──『あー、あー』ってさ」
声音に僅かながら嘲弄の色が滲んだのを、アリスは聞き逃さなかった。激しく叱責を飛ばしたい気持ちをどうにか飲み込み、努めて冷静に口を開く。
「……とにかく、二度とキリトに近づかないように──後ろの
「チッ……わーッたよ、揃いも揃って怖ぇ顔しやがって」
「野郎のお守りは大変だなァ──
「っ──!」
その名前を聞いた瞬間、アリスは鋭く息を呑んだ。視線の先にいる少年が、ボソボソと言葉を紡ぎ出す──
「ぃ……さ、ィ──ご……め、ない──ごメ、ンな…さい──ゴめん、なサい……ご、めんなさィ──」
その謝罪は果たして誰に向けたものか、ミツキは今しがたの殺気が嘘のように虚ろな
「ミツキ……ッ!」
若者達を押しのけ、アリスはすぐさまミツキを抱き締めた。そのままがくりと膝をついたミツキは、アリスの腕の中で絶え間なく謝り続ける。
「大丈夫ッ……大丈夫だからッ……落ち着いて……!」
ここで自分が慌ててはいけないと、アリスはミツキと一緒に、自分自身の心も懸命に落ち着かせる。
遂に恐れていた事が起きてしまった──以前にも一度だけ、ミツキは同じ状態に陥ったことがあったのだ。その一度というのが、この村に来て間もなくセルカがユージオについて尋ねた瞬間だった。あの時も、ミツキはこうして立つことすらままならず懺悔を繰り返していた。
ミツキはきっと、ユージオが命を落とした事に責任を感じている──セルカにはそう伝えたものの、本当の所は分からない。ユージオが自らの体を剣に転じさせるまでの時間を稼いだ所で、アリスは無様にも意識を失っていたのだから。
アリスには何も分からないのだ。アドミニストレータとの戦いの結末も、心優しき青薔薇の剣士の最期も、勇敢に戦った2人の剣士達の心が今どこにあるのかも。
出来るのは、彼らが壊れてしまわないよう、こうして繋ぎ留める事だけ……一騎当千と謳われた整合騎士も、一度剣を手放せばこうも無力なのかと、アリスは己の非力さを痛感していた。
そこへ、セルカが大慌てで走って来る──何故ミツキがここにと思っていたが、セルカが言うには、森を引き返す道中、ミツキは突然凄まじいスピードで走っていってしまったらしい。キリトの身に何かあった事を察知したのだろうか。そうであるなら尚の事、アリスは自分の不甲斐なさを恥じるばかりだった。
徐々に落ち着きを見せてきたミツキをセルカに任せ、アリスは転げ落ちたままのキリトを急いで車椅子に座り直させる。
2本の剣をもう一度しっかり抱えさせてから、キリトに配慮した最大限の早足でミツキの元へ戻った。
「セルカ、ミツキは大丈夫そう?」
「ええ、もう落ち着いたみたい──ごめんなさい姉さま、私が付いてたのに……」
「セルカの責任じゃないわ、謝らないで──もう仕事は終わったし、早い所戻りましょう」
セルカの支えで立ち上がったミツキを連れて、アリス達はその場を後にする……去り際に通り過ぎていった村民達の視線が、アリスの中のとある記憶を呼び起こした。
「(同じ目だ……
浮遊城アインクラッド第1層ボス戦で、彼らは仲間達を守って戦った。誰よりも最前線で、誰よりも必死に。だがいざ戦いが終わった後、彼らに向けられたのは激しい糾弾の声だった。
実際に戦って、実際に苦しんで、実際に傷ついたのは彼らだというのに。
キリトに至っては僅か数日とはいえ、村で共に過ごし、ユージオと共に悪魔の樹を切り倒したというのに。
何故、頑張った人間がそんな目で見られなくてはならないのか。
この世界は──こんな民達が安穏と貪るだけの平和は、彼らが代償を払ってまで守る価値があったのだろうか。
分からない──整合騎士の使命という「正しさ」に寄り掛かって剣を振るってきたアリスには。
胸中で答えの出ない自問自答を繰り返しながら、アリスは家路につくのだった。
キリトと違い、一応五体満足で動けはするミツキ。
しかし外部からの命令がないと何もできないラジコン状態に。
何より、全くと言っていい程喋らない…唯一自発的に口にした言葉がアレ。
彼がどんな状態にあるのか、教えて比嘉せんせー