森の家に戻り、セルカからもらった昼食を食べて、夜になるまでの時間は異様に早く感じられた。
収穫した野菜を使ってミツキが作ってくれた夕食のシチューを、アリスがキリトに少しずつ食べさせる──自発的な行動が殆ど出来ないキリトだが、料理を乗せたスプーンを口元に持っていけば、極めて遅々としたペースではあるが食べてくれる──その間にミツキが機械的に食事を済ませ、介助をアリスと交代。冷めない内にアリスも自分の分を食べ始めた。
「──それにしても、ミツキがこんなに料理上手だったなんて意外だわ。SAOの頃はいつもお店で食べてたし、お互い料理スキルだって取ってなかったものね。教えてくれればよかったのに」
「…………」
「SAOにいる内にあなたから色々教わっていれば、私だってもう少しマシに料理できるようになってたかも──って、SAOでの料理は現実とは勝手が違うから、そう上手くは行かないかしら」
「…………」
無言の食卓に、アリスの言葉だけが虚しく消えていく。答えてくれるのは暖炉で跳ねる火の粉くらいのものだ。
アリスはここに来てからの半年間、食事の時には必ずこうして会話をするようにしていた。もしかしたら、ふとした時に返事をしてくれるのではないか──抱いた期待の裏側に、彼らがいながら何も話さず、淡々と食事を済ませる事に虚しさを禁じ得なかったから。
彼は間違いなく目の前にいるのに、身体に触れる事だって出来るのに、心にだけは触れられない。どこにあるのかさえ、分からない。心と心で深く繋がったあの時の感覚を頼りに、ぼんやりと意思疎通を取るのが関の山。
いつかきっと元に戻るはず──希望を持って信じ続ける事が、決して楽ではないのだという事をアリスは改めて痛感していた。
同時に、ミツキはまさにそんな時を過ごしてきたのであろう事も。
SAOがクリアされ、アインクラッドが消滅する間際──自分はミツキと同じ場所には戻れない──そんな漠然とした予感が脳裏を過ぎったのだ。あの城を離れたが最後、自分達は何か大きな壁に隔てられ互いを探すことすら困難になってしまう、と。
アンダーワールドに帰還したアリスは、アドミニストレータに記憶を抜き取られ、今までのうのうと生きてきたわけだが……その間、ミツキがどんな思いで時を過ごしてきたのか。それはシンセサイズされていた時の言動を見れば推し量れる。
──お前アレだろ。『諦めない』って言うだけ言い続けて、ありもしない希望を無責任にチラつかせた挙句、結局何も出来ずに終わる……そういう
──諦められるわけないだろ……ッ!
自惚れた想像をすれば、SAOから生還した彼はすぐさまアリスを探した筈だ。しかしいくら探せど見つからない、見つかるはずがない。2人を隔てていた壁は、その存在を認識することすら困難なものだった。
以前本人にも言った事だが……諦めてしまえば楽だった筈だ。忘れてしまえば楽だった筈だ。だが彼はそうしなかった……そうすることを、拒んできたのだろう。
誠に不謹慎ながらずっと自分を想ってくれていた事を嬉しいと感じる一方、それを遥かに超える罪悪感が今でもアリスの胸中に根を張っていた。そしてふとした時に囁いてくるのだ──これが彼の感じていた恐怖、彼の感じていた苦しみだ。それを強いてきたのだから、同じ苦しみを味わうのは当然の罰だ──と。
果たしてそれが正しいことなのかはともかく、アリスにはその苦しみも耐え抜いてみせる──耐え抜かなければという覚悟はある。先の見えない暗闇の中だろうと、決して希望は捨ててはならない。
単に折れて諦めるという選択肢が端から存在しないのはもちろんだが、あの時……戦いの後にアリスが目覚める直前、「ミツキをよろしくね」という言葉を、自分ではない自分から託されたのだ。その暖かさは、目を覚ましたアリスの瞳に涙を滲ませていた。その言葉に、彼女の想いに報いる為にも、アリスは諦めてはならない。諦めたくない。
しかし──
「……っ」
アリスはいつしか食事の手を止め、スプーンをへし折らんばかりに強く握っていたことに気がついた。例え折れてもまた削り出せばいいとは言え、この生活状況で物をおざなりに扱うのはよろしくない、と、溜息と共に手の力を吐き出す。
チラと視線を動かせば、キリトも最後の一口を咀嚼している所で、空になった食器を置いたミツキはジッとアリスを見つめていた。もしや心配をかけてしまったかと、アリスは少し強引に笑みを形作る。
「ごめんなさい。少し、考え事をしてたの」
完全に冷めてしまう前にそそくさとシチューの残りを食べ終えたアリスが食後の洗い物をしていると、外からクルル…と低い唸り声が聞こえた──家の傍に生えた樹のうろから
「(雨縁の兄竜、《
着陸した飛竜から降り立ったのは、アリスもよく知る白銀の鎧に身を包んだ騎士だった。
「……よくここが分かりましたね。何用ですか──エルドリエ・シンセシス・サーティワン」
「……お久しゅうございます。我が師、アリス様」
恭しく礼をしたエルドリエを、一先ず家に上げた。キリト達に何か危害を加えようとしたならすぐさま対応できるよう、壁の剣に手が届く位置へ立っていたアリスだが、幸いエルドリエは彼らに一瞥をくれただけで、神器である《霜鱗鞭》はおろか、腰の剣にも手を伸ばすことはしなかった。
「──それで、一体どうやってここを突き止めたのです?央都から探査用の術式も届かぬ距離、ましてや私1人を探す為に各地へ飛竜を飛ばす程の余裕は、今の騎士団には無いはずです」
アリスとテーブルを挟んで座ったエルドリエは、出された紅茶を一口啜ってから答える。
「私とアリス様の魂の絆を辿って……と言いたい所ですが、残念ながら全くの偶然です──最近、山脈を警護している騎士達から、北方でゴブリンだのオークだのが何やらこそこそ動いているという情報が入りまして。北、南、西の洞窟は騎士長の指示で全て崩落させていますが、そこを掘り返すつもりなのではと、私が確認しに来たのです」
「洞窟を……実際、闇の軍勢の動きは確認できたのですか?」
アリスの質問に、エルドリエは首を横に振った。
「丸1日かけて各地の洞窟の周囲を飛び回りましたが、オークはおろかゴブリン1匹いませんでしたよ。大方、夜行性の獣か何かを見間違えたのでしょう」
「……洞窟の内部は?」
「ダークテリトリー側からも覗きましたが、天井までしっかり岩で埋まっていました。あれを掘り返そうとすれば、相当な規模の部隊と時間が必要なはずです。動きがあればすぐに分かるでしょう」
最後に北の洞窟を確認して問題ないと判断したエルドリエが央都へ戻ろうとした所、滝刳が妙に騒ぎ、任せるままに飛ばせてみたところ、こうしてアリスの元へたどり着いた──というのが、エルドリエがここに来た経緯のようだ。
「……アリス様。今この時、再び相見える機会を得たからには、これを申し述べないわけにはいきませぬ──アリス様、騎士団へお戻りください!我々は今、1000の援軍よりもあなた様1人の剣を必要としています!」
エルドリエの視線を真っ向から受け止めたアリスは、小さく息を吐きながら答えた。
「……できません」
「何故です!?……彼らのせいですか?多くの騎士と元老長、そして最高司祭様までもを手にかけた彼らが、アリス様のお心を惑わせているのですかッ?ならば……その迷いの源を私が絶って──」
「──やめなさいッ!」
席を立とうとしたエルドリエを、アリスの鋭い一声が制する。
「彼らもまた、迷い、苦しみながら、己の信じるものの為に戦ったのです──でなければ、人界最強たる我ら整合騎士が騎士長閣下に至るまで敗れ去るはずがない──キリトと直接刃を交じえた其方なら、そこに込められた想いが並々ならぬものであると分かっているはずです」
アリスの言葉を受け、エルドリエもひとつ深呼吸して気持ちを落ち着かせる。しかし彼を納得させるには不足だった。
「確かに、最高司祭様の恐るべき計画は私としても受け入れがたいものです……事実、彼らがいなければ、その計画を防ぐことも叶わなかったでしょう。そしてそんな彼らを導いたのが、かつてアドミニストレータ様と並び立ったもう1人の最高司祭カーディナル様であるという話が真実なら、私とて今更彼らの罪を問うつもりはございません。しかし──そうであるなら尚の事!」
エルドリエは言葉を荒げつつも、努めて冷静にアリスへ訴える。
「何故、彼らは今、剣を取って戦おうとしないのです……!? 何故、あのような情けない姿を晒すばかりか、アリス様を斯様な辺境の地に縛り付けているのですか!? 民を守る為にアドミニストレータ様を殺したというのなら、彼らには寄る辺を失い混迷する後の世に対する責任があるはずでしょう!人界が危機に晒されている今、誰よりも早く東の大門に馳せ参じるべきではないのですかッ……!?」
責任──その2文字が、アリスの胸に突き刺さる。同時に理解した。
ミツキはきっと、エルドリエの言う通りにしようとしていたのだ。言われるがまま首を差し出すのではなく、危機に瀕する人界の為に剣を取って戦おうと──キリトが動けないからこそ、自分が逃げるわけには行かない。だから自分だけはここに残る──と。
そしてその気持ちを、アリスは強引に捻じ曲げた。責任から逃れた咎に対する糾弾は全て自分が受け止めると言って。キリト共々彼をここへ連れ出した。その上で尚、ミツキは助け、守ろうとしているのだ──キリトを、アリスを。
「……ごめんなさい、エルドリエ」
「何故、アリス様が謝るのです」
「彼らが私を縛っているのではなく、私が彼らを縛り付けているからです──其方が感じる憤り、その矛先を向けるべき正しい相手は、私なのです」
「……お言葉の真意を、お聞かせくださいますか」
「……私はもう、以前のように剣を振れません。其方や騎士長閣下から賞賛され、お墨付きを頂いた剣力は失せ、今や見る影もなくなってしまいました」
「そのような事は──!」
「何より──今の私は、戦う意義を見出せないのです。彼らを再び戦わせる意義も。……このような騎士にあるまじき発言を聞いて尚、其方は私が1000の援軍にも優る戦力になると思いますか?」
アリスは言葉を続ける──否定するなら実際に立ち会ってみればいい、今の自分では3合と続かず負けるだろう、と。
自嘲気味に零されたその言葉を聞いたエルドリエは、篭手に包まれた手を強く握り締め、緩める。
「……分かりました。であれば、もう何も言いますまい」
明らかな諦念を漂わせながら、白銀の騎士は踵を返す。
「では……これにてお別れです、師よ。ご教授頂いた剣と術の要訣、このエルドリエ、生涯忘れませぬ」
「……どうか元気で。無事を祈っています」
どうにか言葉を紡ぎだしたアリスは、立ち去るエルドリエの背中から目を逸らす──かつてはまだまだ未熟だと思っていた弟子の背中が、大きく、眩しく、騎士の誇りに満ちて見えたから。
主を乗せた
「ごめんなさい、疲れたわよね。そろそろ寝ましょうか──」
ミツキがキリトをベッドに寝かせている間に、アリスは手早く寝巻きに着替える。万が一にも転げ落ちてしまわないよう壁際にキリト、次いでアリスが体を横たえると、
「──ほら、ミツキもいらっしゃい」
毛布の端を持ち上げ、ミツキを迎え入れた。のそのそと最後の1人を乗せた3人用の大きなベッドの中央で、アリスは左右の少年達が冷えてしまわないよう、肩までしっかり毛布をかけてやる。
「2人とも、おやすみなさい」
それだけ言い残して目を閉じる……しかし、いくら待てどもアリスは寝付けなかった。
様々な感情と考えが頭の中をぐるぐると叫び回っている。目を閉じると余計に、それらが鮮明に浮かび上がってきた。堪らず、アリスは右にいるミツキの方へ身体を傾ける。規則正しい寝息を立てる彼の胸にそっと手を置くが、それだけでは足りず、胸元へ頬を摺り寄せた。
トクン、トクン、とミツキの心臓の鼓動を感じる……SAOで何度も感じた彼の鼓動はどんな時もアリスを穏やかな眠りへ誘ってくれたものだが、それを以てしても眠気は訪れない──まるで、アリス自身がそうすることを拒んでいるかのようにすら思えた。
いっそお茶でも飲んで、眠くなるまで起きていようか──そう思って身体を起こそうとした時……不意に、頭にふわりとした感触が。ハッとなって顔を上げれば、ミツキは目を閉じて眠ったまま。しかしその手は、ゆっくり優しく、撫でるように、胸元のアリスの頭へと置かれていた。
同じだ、あの時と──
どうしようもない不安に駆られた夜、ミツキは眠るアリスの頭を撫でてくれた。あの時と同じ筆舌に尽くしがたい安心感が、アリスの胸を満たしていく──飲み込んでいた
「ミツキ……私……っ、どうしたらいいの……?あの時のあなたは……どうやって、自分を奮い立たせたの……?」
嗚咽を必死に噛み殺しながら、アリスの意識は涙と共に、少しずつ、少しずつ、沈んでいった。
──不意に、ガクンッ!とアリスの頭がベッドに落ちる。
ようやく寝入りかけていたアリスは否応なしに覚醒し、一体何事かと横を見れば、ミツキが慌ただしい様子で居間へ駆けていくではないか。壁に掛けられた4本の剣──その中から灰色の剣を掴み上げたミツキは、脇目も振らずに小屋を飛び出していった。
「ミツキ──ッ!?」
慌てて後を追おうとするアリスだったが、今度は反対側で掠れたうめき声が聞こえてくる。
「キリトまで……っ」
キリトは、まるで恐ろしいものでも見たかのように目を見開き、何かを伝えようと必死に喘ぐ。先のミツキといい、何かが起きている……それを裏付けるように、窓の外で
アリスもまたドアを開けて外の様子を伺う。家の周辺は変わらず静かなものだったが、吹き込む夜風が、焦げ臭い匂いを運んできた。
見れば、西側の空が薄らと明るくなっている。夜明けではない。あれは──炎によって照らされているのだ。
いち早く気づいたミツキが剣を持って出て行ったことから、山火事ではない。恐らくは──
「ダークテリトリーの襲撃……セルカ──ッ!」
アリスは家に駆け戻るなり、棚に仕舞ってあった鎧を引っ張り出す。すっかり身体に染み付いた手つきで素早く鎧を装着し、壁から金色の長剣を掴み上げ剣帯に吊り下げる。
鎧の上から更に外套を羽織ったアリスは、寝室で声を上げるキリトのもとへ向かう。
「……大丈夫。私が行ってくるわ。ミツキも、村の人達も、すぐに助けて戻ってくるから。留守番をお願いね」
「あ……あー」
キリトをもう一度ベッドに寝かせたアリスは、脱兎の勢いで家を飛び出す。外では、まるでアリスの行動を予期していたかのように雨縁が離陸の準備をしており、アリスはその背に飛び乗った。
アリスの指示を待たずして雨縁は両翼を羽ばたかせ、目標のルーリッド村まで一直線に飛翔した。
程なくして村の上空へ到達したアリスは、状況を伺う──出来れば途中でミツキを見つけたかったが、流石にこの暗がりでは森の中まで見通せなかった──村を南北に貫く大通りの北……《果ての山脈》側では盛んに火の手が上がっており、その中を小柄なゴブリン達が進んでいる。東西へも小さな火が散見されるが、南側は侵入を許しておらず無事なようだ。
この分であれば村民も避難できる──そう考えた矢先、アリスは村の中央にある噴水広場に大きな群衆が出来ているのを目撃し、反射的に舌打ちをしていた。
「──雨縁、呼ぶまでここで待機!」
飛竜に指示を出したアリスは、実に数十メルにも及ぶ上空に身を踊らせた。目標は、中央の広場で何やら指示を飛ばす2人の男の近く──!
ドゴォォォン…!と雷鳴もかくやな轟音と共に着地したアリスは、足から脳天までを貫くビリビリした衝撃にも構わず立ち上がり、2人の男──村長であるガスフトと大地主バルボッサの元へ歩いていく。
「ここにいては防ぎきれません。今すぐ南の通りから全住人を避難させてください!」
「ばッ、馬鹿を言うな!やしk──村を捨てて逃げろじゃとォ!?」
「ゴブリン達の後ろにはオークの集団が控えています、即席の防衛線など容易く破壊されてしまう!住人の数を考えれば、全員が安全に避難するには今すぐ動かねば間に合わない。家財惜しさに民を皆殺しにするつもりですか!」
悔しげに歯噛みするバルボッサ。そこへ、ガスフトもまた口を開く。
「『広場に円陣を組んで守りを固めろ』──それが、衛士長ジンクの指示だ。この状況では、村長である私とて彼の指示に従わねばならん……それが、帝国の定めた法なのだ」
今度はアリスが歯噛みする番だった。人界に生きる人々は、生まれて間もなく禁忌目録を始めとする法を叩き込まれる。如何なる理由があろうとそれに逆らってはならないと教えられて育つのだ。かつて何一つ疑いを抱いてなかったその理の厄介さを、アリスはここに来て痛感する。
《衛士》という天職は、村や町において武に秀でた者の証でもある──アリス達からすれば所詮レベル1住人の中にいるレベル2住人程度の微々たる差だが──経験豊富な者であれば的確な指示が出せるだろうが、セルカから聞いた限り、現在ルーリッドの衛士長を務めるジンクという若者は、親から役職を引き継いで間もない新人だ。ただでさえ個々の戦闘能力で劣っているというのに、あの数相手に防衛戦を試みるようでは、お世辞にも冷静な判断が出来ているとは言えない。ガスフトの表情からも、アリスと同じ認識であることが伺えた。
どうしたものかと思案していると、敵が迫る北側から数人の男達がやって来た。
「キサマら、何をノコノコと逃げ帰って来ておる!?」
バルボッサの怒号で迎えられた男達は、耳を押さえながら答える。
「そ、それが……!」
「は、灰色の剣を持ったガキが急に出てきて……!そんで、一緒に戦ってる衛士とか、村の連中を手当たり次第後ろに突き飛ばしやがったんだよ!」
「灰色の剣──ミツキ……!?彼は今何を!?」
「前に出てた連中を押し退けて、1人であいつらと戦ってる……腕はあるみたいだけど、あの数じゃ……」
「ッ……」
すぐにでもミツキの元へ走りたい気持ちをグッと堪える。彼もまた村の人々を守る為に戦っているのだ。ならば今アリスがすべきは、少しでも早く住人達を避難させて、少しでも早く応援に向かう事。
「……もう一度言います。今すぐ、住人全員を連れて、南の森へ避難してください」
「むぅ、しかし……」
ガスフトも頭の中ではアリスの言う通りにすべきと分かってはいるのだろう。しかし掟は遵守しなければという呪いが、その実行を阻んでいる。
無理に規則を破らせては、最悪ガスフトの右眼までもがアリスのように弾け飛んでしまう。となると正規の方法──あくまでも掟に沿う形で認識を改めさせなければならない。命令を出した張本人を引っ張ってきて撤回させるのが確実だが、ジンクが2つ返事で応じてくれるとも考えにくい。そんな事をしている間にゴブリン達が迫ってくる。ミツキ1人で抑え込めるのも時間の問題だ。
実を言えば、あるにはある──最も手っ取り早い且つ確実な方法が1つだけ。
しかしその手段を取る資格が今の自分にあるのか──この平穏な日々を手放してまで、その方法を取る価値があるのか──と、そんな考えがアリスに二の足を踏ませていた。
歯噛みするアリスの耳に、今やすっかり聴き馴染んだ声が聞こえた。
「──姉さまの言う通りにしましょう。父様」
群衆を掻き分けて顔を出したセルカは、肉親といえど村の長であるガスフトに堂々と意見する。
「父様だって覚えてるでしょう?姉さまはこういう時、一度だって間違った事はないわ!──それに、ここで戦っても村が守れない事くらい、私にだって分かるもの。このままじゃ家や畑どころか、皆殺されちゃう!」
セルカの訴えは周囲の人々にも伝わったらしく、少しずつ、彼女の意見に賛同する者も増え始める。しかしその中の1人であったガスフトを乱暴に押し退け、バルボッサがズカズカと前に出てきた。
「何も知らん子供がッ、出しゃばるでないッ!村を守るんじゃッ!!」
村を守る、と言ってはいるが、頭ごなしに怒鳴り散らすバルボッサが真に守ろうとしているのは、ルーリッドに於ける自らの権威の象徴とも言える大量の小麦と長年かけて溜め込んだ金貨だけ……そんな考えが透けて見える。
セルカの言葉に傾きつつあった住人達を引き戻そうとする意図があってか定かではないが、バルボッサはアリスに肥え太った指を突きつけ喚きたてた。
「そうか、分かったぞ!──村に闇の国の怪物共を招き入れたのはお前じゃな、アリス!?昔、果ての山脈を超えた時に闇の力に穢されたのじゃ!──皆、こいつの言うことを聞いてはならん!この娘は魔女じゃ、恐ろしい魔女じゃァ!!」
当のアリスは、途中からバルボッサの言葉をまともに耳に入れるのをやめていた。代わりに頭の中を駆け巡ったのは、村の人間達への失望の念と……沸々と湧き上がる怒りだった。
あの男の妄言を論破するのは簡単だ。「そのつもりなら半年も経たずこの村は滅んでる」と言えばいい。だがどんなに筋道を立てて諭した所で、こういう手合いは自分が信じたいようにしか信じない。自分の望む言葉しか聞き入れない──あの時の、あの連中と同じように。
──俺…俺知ってる!こいつら元ベータテスターだ!だからボスの攻撃パターンとか、美味いクエとか、狩場とか、全部知ってるんだ!知ってて隠してるんだ!!
──ディアベルさんが死んだのも、他の2千人が死んだのも、全部元ベータテスターのせいだ!
「セルカにも近づいてはならん!魔女の妹もきっと──いや、一家全員が闇の力に侵されとるに違いないッ!そんな奴に村長を任せておくわけには行かん!これよりガスフト・ツーベルクに代わり、ワシが村長を務める!」
「(……どうして)」
……何故。何で。
なんで、なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで──
「ジンクに伝えろ!例の小僧とやらは闇の手先じゃ、ゴブリン諸共殺してしまえとな!それが終わったら、村はずれの森に行ってあの黒髪の小僧も捕えるんじゃ!──最初からおかしいと思っておったんじゃ、きっと奴こそが諸悪の根源に違いないぞ!」
何も知らないくせに……
何もしないくせに……っ
何もできないくせに……ッ!
なんで、出来る事を懸命にやった人間を、こうも貶められる。
なんで、散々助けられた恩が無かったかのように手のひらを返せる。
なんで、今まさに命懸けで戦っている人間に対して軽々しく「死ね」と言えるのだ…ッ
なんでッ……!
「(──なんで、あなたはそれでも戦えたの……?)」
あの時も、今も……「だったらもう勝手にすればいい。お前達がどうなろうと知った事か」と考えてしまう。そんな心の声に答えるかのように、アリスの中にある記憶のピースが光を帯びた。
──別に誰かに褒められたいから戦ったわけじゃないのは、アリスもわかってるだろ。そりゃあ、正直あいつらには腹が立つ所もあるが……やっぱりそれは事実だ。俺達なりの償いなんだよ。
──俺も、君を死なせないように、君にカッコ悪い姿は見せられない……そんな事を考えると、頑張ろうって気持ちになれた。
──俺は、君に笑っていてほしいんだ。全部の悲しみを消してやれる程、俺は強くないけどさ……そういう思いをした分、その何倍も、何十倍も楽しい思いをして、幸せになって欲しい。だから今まで戦ってこれたんだ……きっと、これからも戦える。
「(──ええ、私も同じよ。私だって、あなたに幸せになって欲しい。あなたに笑っていて欲しい。辛い思いをさせた分、その何百倍、何千倍もあなたを愛してあげたい)」
その為の方法は、きっと1つだけ──全くもって困った相棒だ、と、アリスの口元が極々小さな笑みを形作り、すぐに引き締められる。
「──騎士の名に於いて、衛士長ジンクの命令は破棄します。広場に集う村人は全員、武器を持つ者を先頭にして南の森へ退避してください」
「き、騎士じゃと……?そんな天職、この村にはないぞ!大体、ちょっと剣が使えるくらいで騎士を名乗るなんぞ、央都の騎士様に知れたら──」
尚も口を挟んでくるバルボッサに、アリスは言葉ではなく、行動を以て答えた。
「私の名はアリス──セントリア市域統括、公理教会整合騎士、第3位──アリス・シンセシス・サーティ!!」
羽織っていた外套を引き剥がし、内に隠されていた黄金の鎧が露わになる。金張りの鞘に収められた愛剣を石畳の地面に音高く突き立てれば、広場の全員の視線が真っ直ぐアリスへ集められた。
「せっ……せせ、整合騎士……ッ!?」
罪人であるアリスが整合騎士を名乗った事を、嘘偽りだと言う者はいない。身に纏う鎧は普通では手に入りようもない上質な金属で出来た物だとひと目で分かる。何より、胸元に刻まれた公理教会の紋章が、アリスに疑いの目を向ける事を許さなかった。
「姉、さま……」
「セルカ……今まで黙ってて、ごめんなさい。これが、私に与えられた本当の罰──本当の責務なの」
「っ……ううん。私、信じてたわ……姉さまは、罪人なんかじゃないって──すごく綺麗……!」
涙を滲ませて笑う妹に続き、アリスの元へ進み出る者がいた──村長であるガスフトだ。彼はアリスの前に跪き、小さく頭を垂れる。
「ご命令、確かに承知した。整合騎士殿──全員、聞いたな?武器を持つ者は先頭に立ち、村の皆を南門へ誘導!村を出たら、開拓地の森に逃げ込むのだ!」
ガスフトの指示に、最早バルボッサさえも異を唱える事はしない──内心では炎に巻かれる家財を惜しんでいるようだが──村人達は迅速に整列し、負傷者達も連れて村の南へ退避していく。そこに続こうとしたガスフトの背中を、アリスは呼び止めた。
「お父様。皆を……セルカと、お母様を頼みます」
「……騎士殿も、御身を大事に」
整合騎士としての身分を明らかにするという事は、家族との決別も同然──ガスフトがアリスを再び「娘」と呼ぶ機会が永遠に失われたに等しい。そこに一抹の未練も残らないと言えば嘘になる。だがその未練も、寂しさも、全ては代償なのだ。人界に生きる民を──大事な人達を守る事の出来る、強大な力の代償。
「姉さま……無理しないでね。ミツキと一緒に無事でいて、絶対よ?」
「……ええ、大丈夫よセルカ。村の人達も、ミツキもキリトも、私が守ってみせるから」
南門へ走っていく家族を見送ったアリスは、火の手が上がる北へ足を向ける。
広場に続く階段から見下ろす大通りでは、どうやら退かずに残っていたらしい3人の衛士達が剣を構えており、バリケードを挟んだ向こう側では、たった1人の少年が夥しい数のゴブリンの死体を積み上げていた。
「──ミツキ、下がりなさいッ!」
この狭い場所でよく持ち堪えたと言うべきだろう。しかしあの数相手だ、徐々に後退しつつあったミツキへ、階段の上から声を投げる。同時にこちらを振り向いた衛士の男達にもとっとと避難するよう言いつけたアリスは、大きく息を吸い込むと──
「──
空に向かって愛竜の名を呼ぶ。すると猛々しい咆哮による返事と共に、青白い閃光が奔った。飛竜の放つ熱線が、中央広場から村の北にかけてを一直線に焼き払う。体内に溜め込んだ熱素を一斉解放した灼熱の光によって、通りを闊歩していたゴブリン達は一掃された。
だが全滅させられたわけではない。山脈へ続く麦畑の中、後続の部隊が未だ長蛇の列を引いているのを眺めたアリスは、バリケードをひょいと飛び越え、言いつけ通り後退していたミツキの肩に手を置く。
「遅くなってごめんなさい……ありがとう、皆を守る為に戦ってくれて。お陰で避難を始める時間は稼げたわ──あとは、私に任せて」
先程避難していった男達──本来村を守るべき彼らから戦う力を、考える力を奪ったのは、最高司祭アドミニストレータが長きに渡り支配した歪な世界だ。そして奪ったそれらは、31人の整合騎士達へと注ぎ込まれた……アリスが振るう剣は、本来彼らが振るう剣だったはずなのだ。
そこに本人の意思が介在してないとはいえ、取り上げられた力を我が物顔で振るってきた以上、アリスにも責任がある。公理教会の真実を全て知った者として、この力は正しき事の為に使わなくてはならない。そしてその正しさは、アリス自身の意思と尺度で定めなくてはならない。
「ミツキ、私はお父様やお母様、セルカ……そしてあなたが笑って暮らせる世界の為に戦う。その為に、あなたとキリト、ユージオが守ろうとした
アリスの胸には、かつてミツキと交わした約束が蘇っていた──先行きのはっきりしない、死と隣り合わせの中を手探りで歩いていたあの戦いの中にあって尚、アリスの進む道を示してくれた瞬き──情けなくも見失っていた希望の星を、再び見つけることが出来た。
「(そうよ、こんな所で立ち止まってはいられない──私はまだ、あなたの名前をちゃんと呼んでいないのだから)」
不意に、眼帯に覆われた右眼が疼く。一瞬だけズキンと痛みが走ったが、すぐに暖かい感覚に溶けていった。同時に、長らく着けていた眼帯が天命の限界を迎え、無数の小さな光となって霧散する──半年の時を経て開かれたそこは最早空洞ではなく、深い蒼の瞳が強い意志を湛えて侵略者達を睥睨した。
ミツキと入れ替わりで前に出たアリスは、《金木犀の剣》を音高く抜き放つ。
「我、人界の騎士アリス!私がここにいる限り、お前達の求める血と殺戮は決して得られない!今すぐ洞窟へ引き返し、お前達の国へ帰るがいいッ!」
喧騒の中にあって凛と響く声に、ゴブリンやオーク達の視線が集中する。しかし大部分は所詮人間の小娘の戯言だと、意に介さず足を踏み出す──次の瞬間、黄金の旋風がその足を吹き飛ばしていた。
「吹き荒れろ──花たちッ!!」
その一言で、ゴブリン達の頭上を金色の風が吹き抜ける。アリスの神器である《金木犀の剣》の武装完全支配術は、その花弁の1つ1つが銘剣と言っていい超高優先度を誇る。鋭い手裏剣状となった花弁達は《永劫不朽》の名を冠する金色の雨となって容赦なくゴブリンやオーク達に降り注ぎ、随所で数多の血煙が上がった。
倒れ伏す骸の中には部隊を率いていたらしい一際大柄なオークのものもあり、それを目にした後続の敵は挙って足を止めていた。
そんな奴らを威圧するように、アリスは石畳を強く踏み鳴らす。
「これは、人界と闇の国を隔てる壁──例え洞窟を掘り返し忍び込もうと、我ら騎士が存在する限り、この地を鮮血で穢させはしない!──このまま闇の国へ逃げ帰るのならそれで良し。しかしその足を1歩でも前に踏み出したなら、即座に血の海に沈むと知りなさいッ!!」
かつてベルクーリから聞いた事がある──人界に《禁忌目録》が存在するように、ダークテリトリーには《力の掟》という原則が存在している。内容は至極単純、力こそが全て、強い者には従わねばならない、弱肉強食そのものだ。
大将を含む主力部隊が既に落ちている以上、残った下っ端ゴブリン達で敵う相手ではない。奴らが踵を返して我先に撤退を始めるのに、然したる時間はかからなかった。
こうして、ダークテリトリーによる秘密裏な侵攻は最小限の被害で撃退されたのだった。
村の襲撃から早1週間──村人総出で天職を一時停止するというガスフトの判断が功を奏し、ルーリッドの復興は迅速に進んでいる。
後にアリスが北の洞窟を調べた所、洞窟内部には長期間の夜営の痕跡が見つかり、どうやら連中は時間をかけて少しずつ、洞窟を掘り返していたようだ。部隊を中に送った後、周到にも再び入口を塞いであったせいで、エルドリエが外から見ても気付けなかったのだろう。
洞窟の中央から湧き出る小川の水をせき止め、完全に水没させた後凍らせるという方法を以て洞窟を再封印した。洞窟内の気温なら氷が溶けることもないだろうし、アリス程の術師の氷を溶かすには同等レベルの術師による熱素術が必要。そしてダークテリトリーで術式を使えるのは暗黒術師のみなので、もうゴブリンやオークといった斥候部隊に忍び込まれることもない筈だ。
この村での最後の仕事を終わらせたアリスは、襲撃で焼け野原となった麦畑に待機させた雨縁の元へ戻る。体の随所に荷袋を括りつけた飛竜の背には既にキリトが跨っており、落ちてしまわないよう支えるミツキの事を、セルカが見てくれていた。
「あ──姉さま。準備、終わったわよ」
「ありがとうセルカ。最後まで面倒をかけてごめんなさい」
「そんな、面倒だなんて──あのね姉さま。その……本当は父さまも見送りに来たがってたと思うの。今朝からずっと、心此処にあらずって感じだったし……本心では、姉さまが帰ってきたことを喜んでた筈よ。その事は、信じてあげて」
アリス達が村を出る事は事前にガスフトへ通達してある。しかし見送りに来てくれる者はセルカ以外にいなかった。
「大丈夫、わかってるわ」
そう言って、アリスはセルカの体を抱きしめる。
「いつか……役目を全部終えたら、私はただのアリスとして帰ってくる。昔の記憶は、きっと無いままだろうけど……必ず、またあなた達の元に帰るわ。その時は……また、私のことを姉と呼んでくれる?」
「そんなの、当たり前じゃない──記憶が無くたって、姉さまはちゃんと姉さまだって、私には分かるもの──帰ってくる時は、2人も連れてきてね。ミツキの事、父さまと母さまにもちゃんと紹介してあげなきゃ」
「も、もう…──そうね、セルカにもミツキの素敵な所をたくさん教えてあげるわ」
名残惜しさを感じながら抱擁を解いたセルカは、鞍上のキリトと、傍らに立つミツキにも声をかける。
「キリト、早く元気になるといいね。風邪ひいちゃわないように気をつけてね──ミツキも、姉さま達をよろしくね。次会った時は、私の知らない姉さまのお話、たくさん聞かせてね」
「……それじゃあ、もう行くわね」
「うん……」
アリスに続き、最後にミツキが雨縁の鞍に跨ると、雨縁はゆっくりと立ち上がった。
「姉さま、必ず帰ってきてね。約束よ」
「ええ、約束するわ──元気でね、セルカ。ガリッタさんにもよろしくね」
手綱を鳴らし、雨縁が助走を始める。銀色の双翼を羽ばたかせ、飛竜は快晴の空へ飛翔した。
アリスは自分達を見送って手を振るセルカを見やり、先の約束を改めて胸に誓って、今の自分の行くべき場所──《東の大門》へと舵を切るのだった。
次回はリアルサイド、教えて比嘉センセーでお送りいたします。