──身体を覆う真っ黒なフード付きケープを翻し、闇夜に包まれた森の中を走る。地面を強く踏みしめるのではなく、足音を殺して前へ滑るように。
ふと、耳元を過ぎ去る風の音に混じって誰かの叫び声が聞こえ、足を止めずに跳躍すると、手近な木の主枝を掴んでクルリとその上に跳び乗った。
大分前に趣味と好奇心から取った《
マップを介せず目視できているという事は距離にして50メートル以内の地点だ。忍者よろしく木から木へと飛び移って、プレイヤーである事を示す4つのカーソルの元へ向かった。
跳躍を繰り返すこと数回──木々に遮られて月光が疎らに差し込む森の奥地に、4人のプレイヤー達を発見する。カーソルがグリーンの1人は大木に追い詰められ、その周囲を3人のオレンジが囲んでいた。
──ハズレ。
オレンジ達の顔を確認し、心の中でそう呟く。もし誰か1人でも仮面なり着けていれば出て行ったが、奴らは全員顔を晒していた。もうここに用はない、と去ろうとした背中に、
「──いいからとっととその抱えてるもん寄越せってンだよ!てめぇ1人ぶっ殺す程度訳ねぇんだからな、アァん!?」
「いっ、嫌だッ!お願いだ、これだけは……仲間の為に必要なんだッ!」
「ったくダリぃな……こっちゃてめぇの仲間がどうなろうが知ったこっちゃねぇんだよ──ッ!」
ドスッ!というような音と共に、悲痛な叫びが木霊する。チラリと振り返ってみれば、襲われているグリーンの脚に無骨な両手剣が突き立てられていた。
「おら、死にたくねぇだろ?だったらそいつを寄越──」
突如、闇の中に真紅の閃光が走り、オレンジのリーダー格らしい両手剣使いの男の手から得物が弾かれる。何事かと驚く間もなく、飛び出してきた何者かによって男は顔面を鷲掴みにされ、そのまま引き摺られるように押し倒された。
「なっ、何だてめぇ!?」
「俺らが誰か分かってんのか!?」
「──
「てめぇ…舐めた口利いてタダで済むと──ガッ!?」
「文句は情報屋に言え。その受け売りだ」
喉元を踏みつけられ声を出せなくなったリーダー格を助けようと仲間2人が武器を振るう。色取り取りのライトエフェクトを纏った刃が食い込むが、視界に表示されるHPバーは殆ど動かない。少し減ったかと思えば《
彼らの攻撃を他所に、地面に突き立っていた槍──先程両手剣を弾くのに投擲したものだ──を引き抜く。それを見た仲間の2人は逃げ出そうとしたが、横薙ぎに振るわれた槍で足を払われ、派手に転倒してしまった。
「抵抗するな──死にたくないだろ」
槍を突きつけられた《悪魔の剣》の3人は、観念したようにぐったりと倒れ込んだ。
「………くそっ」
アインクラッド第35層主街区《ミーシェ》──最前線が75層となった現在でも中層ゾーンのプレイヤー達が多く集まるこの街の宿屋で、
あの惨劇があってから5日。俺は攻略を放り出し、こうして中層~下層でずっと
メニューを開き、アイテムストレージへ移動する。すっかり寂しくなったストレージには各種ポーション等回復アイテムに並んで《回廊結晶》という名前があった。その横には個数を示す数字が記載されている。
「(あと、1つ……)」
あの日──俺は家にあったアイテムチェストから値の付きそうなものをピックアップし、全てショップで売却。本来なら全て回復アイテムや情報屋への代金に充てるはずだったそれで、方々のショップから《回廊結晶》をあるだけかき集めた。
元より、NPCショップでは販売されていない各種結晶アイテムの中でもとりわけ稀少且つ高価なだけあり、集まったのは僅か5つ──5つも、と言うべきか──オレンジに出くわし、ストレージに結晶があるのなら必ずそれで牢獄へ送るというルールを俺は自らに課していた。
我ながら往生際が悪いと思う。俺はもうあそこには戻れない──戻る資格は無いというのに。俺の中には今も「奴」への殺意が燻っている。それを煽るかのような耳障りな嗤い声も、今でこそ少しの落ち着きを見せているが、未だに耳を澄ませば聞こえてくる状態だ。
なのに……俺は未練がましくも、入手した5つの《回廊結晶》に《黒鉄宮》の牢獄を記録させた。もし──もし、これを全て使い切るまでに「奴」を見つける事が出来たなら──そんな事を考えてしまうのだ。
あの日──街に帰った俺は、とにかく自分を抑える事に必死だった。街にいるプレイヤー達の、NPC達の他愛ない笑い声が、あの不快な嗤い声に変換されて頭の中に響くのだ。転移してきた瞬間からずっと気が狂いそうだった。何も見ないように、何も聞かないように、嫌な雑音を全て払い除けて家に逃げ込む事しか出来なかった。
閉じたドアの前で蹲り、ひたすら耳を塞いでいた時──耳は塞いでいたにも関わらず、よく聴き馴染んだ声が聞こえた気がした。そのお陰か少しだけ戻った冷静さが、俺にこんな行動をとらせたのかもしれない。
だがそれも残すところあと1つだけ。次で見つからなければ、もう……
確実に監獄へ飛ばせる《回廊結晶》を用いずに
それ程重要なアイテムを、温存しようと思えば出来た。多少相手を痛めつけて金やアイテムを強請るような小物は無視し、殺人に至りそうになった時だけ使用すればいい。元々そのつもりだった。だったのだが……俺は自分で思っていた以上に、非情になりきれなかった。目の前で死にそうな誰かが助けを求める度に、あの時の光景が蘇る。それを振り切ったら──救える命を見捨てたら……
──今更何を言ってる?
そうだ。
──元々1人だった。行きずりの他人と利害の一致で少し一緒にいただけだ。それが元に戻るだけ。何を気にする必要がある?
そうだ…そう、だけど……
──怖いか、彼女に見捨てられるのが。何故救わなかった、お前は外道だ畜生だと罵られて突き放されるのが怖いんだろう?
ッ……ああ、怖いさ。
俺がどれだけ周囲から孤立していても、どれだけ周囲を避けようとしても、彼女はずっと俺を見ていてくれた。俺を気にかけてくれていた。俺はずっと、彼女の存在に支えられていた。そんな彼女から直接糾弾の言葉を向けられるのが怖くて、何も言わずにフレンド登録を解除した。
──なら…もう、やめるか?
…それは出来ない。
──…どうして?
俺が果たさなきゃいけない責任だから。
──何の責任だ?
奴は言った。「俺のせいだ」と。目的は知らない。でも奴が俺を狙う度に、無関係の誰かが殺される。
それだけじゃない、俺は──1人で勝手にこの件を終わらせようとしていたんだ。討伐戦の後、生き残った中に奴がいない事を確認した。本当なら、ちゃんと《黒鉄宮》の石碑を確認するべきだったのに……あの時の俺は5人殺した事実を受け入れるだけで精一杯で……奴を死んだものとして目を背けた。もし奴の名前に線が刻まれていなかったら、奴がまだ生きていたら……俺はまた、誰かを殺す事になるかもしれない。それが怖くて逃げた。もう、誰も殺したくなかった。
実際奴は生きていて、また俺を狙って、また俺は殺して、また俺以外の人が死んで、また奴は生き残った。
……全部俺のせいだ。だから、もう誰も巻き込まないように、俺1人でやらなきゃダメなんだ。俺が、全部終わらせなきゃダメなんだ。
……それっきり、俺に問いかけてきた俺の声は止んだ。
翌日。新しい情報屋から買った情報に、俺は小さく息を呑んだ。
──35層に、元ラフコフのレッドプレイヤーが潜伏している。
「確かなんだろうな」
情報を売ったいかにも怪しげな風体の情報屋は、フヒヒ、と不気味に笑う。
「私はただ情報を売る。それを信じるも信じないもそちら次第さ──個人的な所感だけど、それなりに確度は高いと睨んでるよ」
「……追加の情報料は払わないぞ」
「フヒヒ。噂の《ヴィジランテ》に会えたんだ、それでチャラにしてやるさ」
「……何だと?」
馴染みのない名前につい聞き返してしまう。
「なんだ知らなかったのか。アンタ、この辺じゃすっかり英雄だよ」
「……人違いだろ」
フードを目深に下げ、足早にその場を後にする。
「(英雄?冗談だろ──)」
こんなただの臆病者が英雄であるものか──いや、「1人殺せば殺人者、100人殺せば英雄」なんて言葉もあったか。額面通りに受け取れば、このゲームが始まって1ヶ月の間に2000人死んだ事といい、確かに俺は英雄なのかもしれない。
自嘲気味に笑った俺は、情報にあった元ラフコフメンバーがいるとされる場所へ向かった。
35層北部の森林地帯《迷いの森》──いくつもの碁盤状に分割された広大なエリアのどこか一箇所に1分以上留まっていると、エリア同士の空間連結がランダムに組み替えられてあっという間に迷ってしまうという困った場所で、件のプレイヤーは目撃されたらしい。
予てより疑問ではあったが、いざ現場に来てみると、本当にあの情報は合っているのかと疑念が深まる。今でこそまだ夕日が差しているが、夜になれば極端に視界が悪くなり、原生植物の発する明かりを頼りに進まなければならない。
ここで怪しい人物を目撃した。というだけならまだしも、「元ラフコフのレッド」とまで断定出来る程の判断材料──例えばラフコフメンバーが必ず身体のどこかに刻んでいた、悪趣味な笑顔付きの棺桶マークを見た、等──が手に入るとは思えないのだ。
「(あの情報屋が嘘を吐いたか、或いは嘘の情報を売りつけた奴がいる、か……)」
単純に「怪しい奴を見た」からどんどん尾ひれが付いて最終的に情報屋の手に渡っただけの可能性も否定出来ないが、一先ずオレンジが潜伏しているという前提の上で、罠の可能性も考えた方が良さそうだ。
ショートカットメニューから《
森を探索すること数時間──道中に屯していた大猿《ドランク・エイプ》の群れを迂回して進んだ先に──2人のプレイヤーの影を見つけた。どちらもグリーンだが、人相が伺えない。
「(情報にあった奴なのか……?)」
カーソルこそグリーンだが、あの事件が起きてから5日が経過している。その間一切の犯罪行為を行っていなければ、時間経過でグリーンに戻っていてもおかしくはない。
せめて声だけでも聞こえればと、木陰に身を隠しながら慎重に距離を詰めていく。大体10メートル程まで近付いた辺りで、俺の聴覚が2人の声を拾い始めた。
「早く──るんだ!さもない──殺──る!」
「何を言って──、できるわけが──!」
聞こえたのは、男と女の声。男の方は「奴」の声とは似ても似つかない。
ただの一般プレイヤーのようだが……所々聞き取れた言葉を見るに、お世辞にも穏やかとは言えない会話をしているようだ。もう少し様子を伺って、必要ならば動こうと耳を欹てた俺の視界に──突如、オレンジカーソルが浮かび上がった。
「ッ──いいから早く逃げるんだッ!」
そんな男の叫び声と共に、黒ずくめのオレンジプレイヤーが俺とは別の木の陰から飛び出してくる。武器を紛失でもしたのか、女を守ろうと両手を大きく広げてオレンジの前に立ちはだかる男──その更に前へ、俺は身を踊らせた。
初速の出易い石突き側を前に突き出し、相手が得物を握っている右側下段から斬り上げるように槍を振るう。尖った石突きの先端が浅く引っ掻いたらしく、右腕から小さくダメージエフェクトを散らせたオレンジプレイヤーは数歩跳んで距離をとった。
「(身のこなしからしてただの
これまで捕まえてきた盗賊くずれ達とは違う。金やアイテム狙いなら大体不安感を煽って脅しから入るが、コイツは問答無用で斬りかかった──明確に、相手の命を奪う為の動きだ。
警戒しつつ、背後へ意識を向ける──
「──すぐこのエリアを出て、結晶で街に戻れ。いいな」
「あんたは……!?」
「いいな?」
「わ、分かった……」
《転移結晶》を握り締めた2人は、すぐ後ろのゲートから別のエリアへ移動する。これで彼らがどこへ転移するのか奴には分からない。追おうとしても、奴の体は必ず俺の槍の間合いに入るから確実に迎撃できる。
「──さて、どうする?こっちとしては大人しく牢獄に行ってくれれば助かるんだが」
返答はない。代わりに──キシシッ、というような笑い声だけが返ってきた。途端にザワめき立つ頭の中を押さえつけた俺に向かって、名も知らぬ
──事はすぐに済んだ。こっちはつい最近まで最前線にいたのだ、レベル差は歴然だったこともあって当然といえば当然だが。
ストレージから取り出した《回廊結晶》を掲げようとした俺の手が、不意に止まった。
目の前には両手足の関節から先を切り落とされ、行動不能状態で転がされたレッドがいる。部位欠損によるHP上限の減少に加え、愛槍の固有能力で付与された低レベルのダメージ毒でHPは今も徐々に減少を続けており、このまま放置しておけば──程なくして死ぬだろう。
結晶で監獄に飛ばせば《圏内》に入った事でこれらのダメージは瞬時に回復し、ゲームがクリアされるまで外に出ることはできない。それは同時に、俺の退路を完全に絶つ事を意味する。
──使え!そのつもりで用意したんだ、覚悟を決めろ。
──止せ!それを使ったら終わりだ。奴を見つけるまでアインクラッド中の犯罪者を殺して回るつもりか!
相反する2つの声が俺を焚き付け、制止する。
結晶を握る手に力が込もり、次第に息が荒くなっていく。俺は…俺は……ッ!
「ッ──
食いしばった歯の隙間から絞り出したような俺の声に反応し、巨大な結晶が砕け散る。目の前の空間が歪み、出口に設定した《黒鉄宮》の牢獄への直通ゲートが開いた。やり場のない思いをぶつける様にレッドの身体をゲートへ蹴り込んだ俺は、役目を終えたゲートが閉じていくと同時に、体から急速に力が抜けていくのを感じた。遂には立っていられなくなり、背後の巨木に背を預けてズルズルと座り込む。
「(……もう、後戻りは出来ない)」
震える手でアイテムストレージを開いてみるが、1番下にあった《回廊結晶》の文字列は跡形もなく消えていた。アイテムを消費したのだから至って当然の事だ。しかし今の俺にとっては歩いてきた道が崩れ去り、眼前に果てしない茨の道が広がった事を意味する。
「ごめん──俺……ッ……約束、守れなくなっちゃったよ……ッ」
これから俺は何人ものプレイヤーを殺す。大量の命をこの手で奪い、アインクラッド最大最悪の虐殺者に身を堕とす。全身血塗れになった俺に、もう彼女に会う資格は無い。彼女の隣にいる資格も無い。
それでも、彼女なら──この期に及んでも身勝手な希望を見せてくる自分の頬を思いっきり殴りつける。しかし何度殴ってもHPが少しずつ減っていくだけで、この希望を押し殺せる程の痛みは訪れなかった。
甘えるな。そんな甘えが許されていいものか。俺は償わなければならない、責任を果たさなければならない。アインクラッドにいる全ての罪人を殺す──それくらいの覚悟を決めてみせろ。
……いっそのこと、一度だけ顔を見せてトドメを刺してもらおう。「お前は最低の殺人鬼だ」「二度と姿を見せるな」──そんな言葉を貰えば、谷底に落ちても尚俺を引き止める未練という名の鎖も断ち切れる筈だ。
そうだ。そうすれば、きっと……
「ッ……あぁ、クソッ──」
どうして──何故。何度自分に言い聞かせても、何度自分を叱咤しても、この気持ちは消えてくれないのだろう。
……嫌だ。そんな事言われたくない。彼女の口からそんな言葉を聞きたくない。彼女と離れたくない……ッ!
──彼女に……アリスに会いたい。
「……たすけて、くれ──アリス……ッ」
不意に視界が歪む。あれからずっと眠らず休まず動き続けたツケが回ってきたか。
まずい、早く転移しない、と──。
ぼんやりと意識が遠のく中、誰かがこちらへ走ってきたような気がした──。
目を覚ますと、見覚えのない景色が飛び込んできた。それがどこか室内の天井である事を理解するのに数秒の時間を要し──俺は飛び起きた。
「……どこだ、ここは?」
少し前まで寝床にしていた《ダナク》の家ではない。35層にもこんな内装の宿は無かったはずだ。となると……誰かの家?
周囲を見回すと──答えはすぐに分かった。俺が寝かされているベッドに突っ伏すようにして、美しい金髪の少女が静かに寝息を立てていた。
察するにここはアリスの家──偶然か否か、《迷いの森》で倒れた俺を発見してここまで連れてきたという事なのだろう。金属系の防具をほぼ身につけていない俺のアバターは比較的軽量とはいえ、SAO内で人1人を運ぶのは簡単ではないはずだが、他に誰か協力者でもいたのだろうか。
……とにかく、ここを出なければ。彼女を起こさないよう慎重にベッドを抜け出た俺は室内を見回す。装備していたはずの槍が見当たらない。起動音で彼女を起こさないかヒヤヒヤしながらメニューを開くと、装備フィギュアにはセットされたままだった。別の部屋に保管されているということか。寝室を出るべく、そっとドアを開けた。
「………」
まだ眠ったままのアリスの後ろ姿を見やる。フレンド登録を解除した以上、彼女が俺をピンポイントで探す方法は無かった筈だ。にも関わらず、こうして俺を見つけてくれた──嬉しくないと言えば嘘になるが、それ以上に申し訳なさの方が勝った。そんな彼女の努力を、俺はこれから踏み躙るのだから。
幸い槍は隠されていたという事もなく、リビング兼ダイニングらしい部屋の壁に立て掛けてあったのを発見した。早い所退散しようと踵を返し、玄関に向かう。
ドアノブに掛かった手が妙に重い。ここを開けたら本当にもう戻れないぞ、と──どうやら最後の抵抗をしてるようだった。動こうとしない右手を宥めるようにもう片方の手を重ねると、それでようやく、ドアノブが回った。
静かにドアを押し開ける。そう長い時間は経っていないらしく、ふと、外からのふわりとした夜風が頬を撫で──同時に、後ろから手を掴まれた。
「……どこへ、行くつもりですか」
「……悪い、起こしたか」
「どこへ行くのかと聞いているのです」
──辛い
「……ちょっと、狩りに行くだけだ」
「なら、私も行きます」
──痛い
「いや、結構ゲテモノ系だし。ア──…君には、多分合わない」
「構いません。お前の傍にいられれば、それで」
──行きたくない
「心配ないって。少し寝て調子も戻ったし──それに、狩場独占する事になるだろうから、俺と一緒にいたら君まで好き勝手言われるぞ」
「お前1人でも同じことでしょう」
──気づいて
「俺はもう慣れっこだからいいんだよ。俺は大丈夫だから」
──たすけて
俺の腕を取るアリスの手に、ギュッと力が入る。
「──ないでしょう……ッ」
「……アリス……?」
「ッ──大丈夫な筈がないでしょうッ!!」
強い力で引き戻された俺は、今度は肩を掴まれて壁に押し付けられる。すぐ横でカチャン、と小さな音を立て扉が閉まった。
「いいですか!慣れたというのは、ただ我慢出来るようになったというだけです!断じて痛みを感じなくなる訳ではないッ!あれだけ謂れのない謗りを受けて、一方的に罵られて……ッ──そんな仕打ちを2年も受け続けるお前の心が、平気でいられる訳がないでしょうッ!!」
悲痛な声で訴える彼女の目から、ボロボロと涙が零れ落ちる。
「お前はッ──あなたは物言わぬ人形じゃない。心を持った人間です……っ……傷を負えば痛みを感じるし、痛みを感じれば涙を流す、人間なんです……ッ!痛いなら痛いと言いなさい……ッ!辛いなら辛いと言いなさい……っ!もうこれ以上、あなたの心が傷ついていくのを、見たくないッ……!」
彼女の口から紡がれる言葉の1つ1つが、俺の中にじんわりと染み入る。まるで氷をゆっくり溶かすように。その熱はとても抗い難く……今まで必死に胸の奥へ押しやっていたものが、一気に溢れ出した。
「っ……ああ。辛い…痛いよ。あの時からずっと、ずっと──ッ」
第1層のボスを倒したあの日──俺は《ビーター》の烙印を自らに刻みつけた。それがこうも辛い道になるとは思っていなかったが、最低限、決して楽な道ではないという覚悟は決めていたつもりだ。
実際、上手く折り合いはつけられていた筈だ。他のプレイヤー達からの心象は悪くなれど、攻略の戦力という形で皆に貢献してきた。必要なら他の誰かに手を差し伸べても来たつもりだ。その度大小様々な悪態をつかれる事も少なくなかったが、それも皆の助けになれたという事実で帳消しに出来ていた。上手くやれていたのだ──あの時までは。
──死んじまえ、クソビーター。
この世界に来て、初めて面と向かって死を望まれた。これを境に、俺は考えてしまったのだ。俺達が救えなかったプレイヤー達は、こんなふうに俺達の事を恨みながら死んでいったのではないか。デスゲーム開始時点で2000人分の屍を踏み台にして生き残った《ビーター》の無様で滑稽な死を望んでいるのではないかと。
ならせめてこのゲームをクリアして死のうと。そのつもりで戦ってきた。だけど──
──「彼女達」への償いの機会が訪れたラフコフ討伐戦で、我を忘れて5人殺した。にも関わらず、仇は取れなかった。挙句の果てには我が身可愛さに償いを終わらせようとした。
そんなどうしようもない俺に、アリスは寄り添ってくれた。彼女の笑顔が好きで、それを守る為に戦おうと──死んで償う以外の戦う理由が出来た。
しかし──「奴」が再び姿を現した時、みすみす1人を死なせた。その後2人殺して、助けようとした最後の1人は、また助けられなかった。守る為に殺したのではない。守れなかったから殺した──殺しても、守れなかった。
全ては俺の弱さが原因だ。俺がもっと強ければ……こうはならなかった。
「──…嗤い声が、ずっと頭から離れないんだ。誰かの笑い声を聞くだけで、頭の中が奴の声で埋め尽くされて……気付けば武器に手が伸びてる」
このままアリスと一緒にいたら、俺はきっと彼女にも槍を向けてしまう。俺の中に渦巻くドス黒い感情で、あの笑顔を穢す事だけは絶対に──死んでも嫌だった。
「俺はもう、誰かと一緒には居られない。君の隣には…っ……居られな──っ」
言葉が終わるのを待たず、アリスは俺の頭を胸に抱えてしっかりと抱き締めた。
「──目を閉じて、何も考えなくていい。私の鼓動を感じる事だけに集中して」
いつもの凛とした声とは違う。似ているが、慈しむような声。
青いドレス越しに、トクン…トクン…という心臓の鼓動が伝わってくる。仮想世界の作り物の心臓なのに──その鼓動は、とても優しくて、暖かかった。
「……私のミツキを苦しめていた嗤い声は、まだ聞こえる?」
暫くの間アリスの胸に抱かれていた俺は、そう言われて耳を澄ましてみる──どんなに頭の中から追い出そうとしても消えなかったあの不快な嗤い声は、ぱったりと聞こえなくなっていた。
その事を伝えると、アリスは「よかった」と俺の頭を解放し、今度は両手で俺の顔を包み込む。
「ミツキ、私はあなたの味方よ。例え世界中があなたの死を望んでも、私はあなたに生を望む。どんな時も傍にいる。あなたの背中を守る。何があってもあなたを独りにしない。あなたから見れば、まだまだ頼りないかもしれないけれど──私に、あなたを愛することを許してくれる?」
「ッ……俺で、いいのか……?」
「あなたがいいの」
「俺はッ……君の隣にいても、いいのか……?」
「私はそうしたい。そうして欲しいの」
「君は、馬鹿だな……ッ」
「そういうミツキこそ。こんなになるまでずっと1人で苦しい気持ちを抱え込んで──大馬鹿だわ」
「ッ──…好きだ、アリス……ずっと、一緒にいたい」
「……ええ。私もよ、ミツキ。あなたが好き──愛してる」
気づけば俺は、アリスの背中に手を回して子供のように泣きじゃくっていた。後になって思えば、随分情けない姿を見せてしまったと恥ずかしく思うが──そんな俺が泣き止むまで、アリスはずっと俺を抱きしめてくれていた。
「──落ち着いた?」
「……悪い、みっともないとこ見せた」
一頻り泣いた俺は、ベッドの上にアリスと並んで腰を下ろしていた。
「私達は、お互いを全然知らなかった。気持ちを隠して、それが相手の為になると思っていたから──でも、そうじゃない事にようやく気付いた。だから……お話をしましょう?今までずっと溜め込んできた分、沢山──沢山、話しましょう」
それから俺達は、お互いに対して抱いていた気持ちを全て打ち明け合った。時折アリスが恥ずかしそうに顔を赤らめたり、頬を膨らませたりしたが、その様子すらとても愛おしくて──俺は、久し振りに心の底から笑えたように思える。
──どれくらい話しただろうか。気付けば夜中になっており、日付が変わった事を告げる鐘の音が聞こえた。
「──ミツキ、今日が何の日か分かる?」
「えっと……何か、あったっけか?」
日付が変わって10月29日──言われてみれば、何かあったような……そんな気がしないでもない。
「全く……自分の誕生日くらい、ちゃんと覚えておきなさい」
「誕生日……そうか、もうそんな時期か」
「去年は、丁度ボス戦と重なってちゃんとお祝い出来なかったものね──まぁ、どこかの誰かが直前まで誕生日を教えてくれなかったのもあるけれど?」
「そ、そんな言いふらすようなもんでもないだろ、誕生日くらい……」
「いけません。あなたが世界に生まれ落ちた日なんだから、ちゃんと祝わせて」
そう言って、アリスはコツン、と額を合わせてくる。
「誕生日おめでとう、ミツキ──生まれてきてくれて、私と出会ってくれて、ありがとう」
間近に迫った彼女の微笑み。そこへ吸い寄せられるように──俺は、彼女と唇を重ねていた。
触れていたのはほんの一瞬で、驚いた彼女はびくんと体を震わせて小さく後ずさった。
「な……なッ……!?」
「……ごめん。嫌だったか」
「そっ、そういう、訳では……ただ、その……このような不意打ちではなく、もっとちゃんと……っ」
照れ隠しのつもりか、いつもの凛々しい口調に戻ったアリスは、顔を真っ赤にしてごにょごにょと口篭る。
俺はチラチラと上目遣いでこちらを見てくるアリスの肩を優しく引き寄せ──先程よりしっかりと、唇を重ねた。
触れている箇所を通じて、彼女の熱が伝わってくる。俺の熱も伝わっているのだろうか。名残惜しさを感じながら口を離す。
「……こんなものでは、足りません──もっと」
窓から差し込む月明かり──形作られた2つの影が、1つに重なった。
ようやく2人の想いが通じ合いました。
キリトもミツキも同じように自分のせいで誰かが死んでいます。
キリトの場合は黒猫団リーダーのケイタに死に際の恨み節を吐かれながらも、サチのメッセージに救われて前に進む事が出来ましたが、ミツキにはそういった救いが無かった。もしサチが何も遺していなかったら、キリトもこんなふうになっていたのかもしれませんね。ミトとはまた別の意味で「もう1人のキリト」になるんでしょうか。