帰還
東京都北区赤羽の住宅街──2年ぶりに足を踏み入れた現実世界の我が家は、違和感と懐かしさが混在した奇妙な感覚を俺に齎した。
玄関から見える廊下と、上の階へ続く階段は記憶にあるまま。リビングにあるソファやテレビの配置は少し変わっている。
階段を上がり、これまた2年ぶりに入った俺の部屋は、長い間主が不在だったとは思えない程綺麗に掃除されていた。モノトーン調のベッドも、壁に面したデスクも、その上下に鎮座するモニターとPCも、記憶にあるあの頃のままだ。
「ふふん。どーよ、綺麗なままでしょ。私がコツコツ掃除しといたのよ。スイがいつ帰ってきてもいいようにね」
俺の後ろで得意げに胸を張るのは、
「お陰で掃除も上手くなっちゃってさぁ──2年分の報酬はツケといたから、まとめ払いでヨロシク」
「そーかい。ほんじゃ、さぞ自分の部屋も綺麗に──してるわけないよな。カナさんだもんな」
斜向かいにある叔母の部屋を開けてみれば、もう年末シーズンだというのに服やら資料やらでとっ散らかった汚部屋が飛び込んできた。片付けの苦手なこの性分は是非とも変わっていて欲しかったものだ……
「あー…こ、これでいいのよ私は……散らかってるように見えて、私にしか理解できない機能性ってやつが──」
「2年分のツケとやらをこの部屋の大掃除で帳消しにしてやってもいいんだぞこっちは」
「うぅ……分かったわよゥ──病み上がりのアンタに掃除なんかさせて、姉さんに半殺しにされたくないし」
一先ずまともな足の踏み場を作る事を第1目標として叔母に掃除クエストを受注させた俺が自分の部屋に戻ると、デスクの足元に見慣れないパッケージが2つ程並んでいるのが目に入った。
「カナさん、この箱は──?」
「んー?──ああ、それ。アンタが寝てる間にPC業界にも色々あってねー。驚くなかれ、長らく私達と共に歩んできたHDDは愚か、SSDまでお役御免になったのよ。今じゃMRAMっていう磁気性の不揮発型メモリが主流になって、ことデータの読み込みに関しちゃそりゃすんごいヌルサクになったんだから」
職業柄流石というべきか、その辺の情報を察知する能力は高い叔母の説明を受け、俺は目を輝かせていた。しかし頭を振ってその輝きを振り払うと、自室に戻っていった叔母を追いかける。
「──や、そんな軽く言ってるけど……出たのざっと1年前だろ?安い買い物じゃなかった筈だけど」
俺がSAOにログインした当時はそういった新製品の話は聞いていなかった。つまり年が明けてから──2023~2024年の間にそのMRAMが流通したという事になる。CPUやGPUを始め、半導体を使ったパーツはちゃんと動くものならジャンク品でも中々のお値段がするもので、書込み回数無限のストレージともなれば絶対にお高い代物であったはずなのだ。
「……アンタの誕生日、2回祝い損ねちゃったからね。去年──もう一昨年か、その分よ。お金は姉さん持ち、チョイスは私のがいいの選べるでしょ、って事でソレにしたの。後で姉さんにもお礼言っときなさい」
「……分かった。ありがとう」
自分の部屋に戻り、携帯端末のメッセージアプリで母親宛に無事家に到着した旨と誕生日プレゼントへのお礼を送信する。少しして『去年の分、何か希望があれば言いなさい。考えます』と返信が来た。
大手広告代理店に務める都合、忙しいのは相変わらずのようだが、俺が目を覚ました時には仕事中にも関わらず無理矢理時間を作って病室に駆けつけてきてくれた。父と離婚して以降、女手1つで俺を育ててくれた母には感謝しかない。幸か不幸か、そこへ叔母が転がり込み、比較的時間に融通が利くということで家に汚部屋が1つ生成される代わりに当時小学生だった俺の面倒を見てくれていた。その点叔母にも感謝しかない──部屋の片付けにはもう少し気を使って欲しいものだが。
そんな事を考えながら、PCのサイドパネルを外してパーツを入れ替え、データの移動も済ませる。もう1つのパッケージにはワイヤレスのヘッドホンが入っており、そう言えば2年前に使っていたヘッドホンは寿命を感じて新しいのを注文していたのを思い出した。改めて母と叔母へ心の中で感謝しながら、開封した新品のヘッドホンを壁のフックに引っ掛ける。
極めて囁かな部屋の模様替えを終えた俺は、病院から持ち帰ったバッグからあるものを引っ張り出した。所々塗装が剥げ落ち、当時はピカピカだった表面も年季が入りくすんでいるヘルメット型のヘッドギア──俺をあの世界に2年間繋ぎ止めていたナーヴギアだ。
夢の世界への交通手段が一転、命を奪う悪魔の機械と化したナーヴギアは、事件終息後、政府の意向によってその全てが回収・廃棄される事となっていた所を、俺は最近出来たある伝手を使って回避。こうして家に持ち帰った。
最終的に4000人近い人々の命を奪ったものである事は確かだが、それはあくまで「そういう使われ方をした」というだけの話だ。このヘッドギアに詰め込まれていた仮想世界の夢まで否定する気には中々なれず、ゲームハードのコレクションがてら保管しておくことにしたのだ。
それに──もしかしたら、またコレを被る必要も出てくるかもしれない。
出来る事ならそうならないよう祈りつつ、使い込まれたヘッドギアをデスク脇の棚の空いてるスペースにそっと収めた。
それから早2ヶ月──手早く着替えを済ませた俺は、携帯端末をポケットに突っ込んで叔母の部屋を覗き込む。
「──カナさん。俺出かけてくるから、今度こそ掃除サボるなよ」
「へぇ~い……気をつけて行っといでー」
本当に大丈夫だろうな……と思いつつ、俺は家を出た。
最寄り駅の北赤羽から目的地である所沢へは電車で50分弱といったところだが、行きはリハビリも兼ねて途中駅の池袋まで歩くことにした。普通に歩いていると1時間近くはかかってしまうので、少し早歩きで昼下がりの環八通りを進んでいく。横断歩道を渡り中山道を南下。山手通りを経由して首都高5号線をなぞる様に進み、途中で劇場通りに出れば池袋駅は目と鼻の先だ。
SAOにログインする以前はよく雑貨などを買いに利用していた池袋の街を懐かしむように歩いていると、池袋西口公園に出る。過去の記憶では大きな噴水のある只の広場だった筈だが、この2年の間に改装工事が行われ、野外劇場として生まれ変わった西口公園を突っ切っていると……
「──あの、ホント止めてください。友達待ってるので、迷惑です!」
「──遠慮しないでって言ってるじゃん。俺、いいカフェ知ってるんだ。きっと気に入るからさ!その友達も一緒に行こうよ」
言い争う男女の声。
こんな白昼から痴話喧嘩か…と声の方を見てみると、男の方は「如何にも」な感じのチャラい服装。対する女の方は、パーカーを着た黒髪のショートボブの少女──少女?
チラリと見てすぐ外そうとした視線を引き戻す。女の方は、見たところかなり若い──大きく見積もっても俺と同い年くらいだろう。対する男の方は間違いなく成人済みであり、少女の方の言葉遣いからしてカップルが喧嘩している訳ではないのだという事が伺えた。
辺りを見回してみると、通りがかった何人かは少女に付き纏う男に気付いていながらも素通りしていく──触らぬ神に祟りなしの精神を徹底していた。こうして見てしまった手前無視する訳にもいかず、俺は嘆息しつつ2人の元へ足を向ける。
「だから、行かないって言ってるじゃないですか!」
「そう言わずにさぁ!ほら、俺奢るから──!」
強引に少女の手を取ろうとしたナンパ男の腕を、横から掴む。
「──あ?何お前」
「彼女は俺の連れだけど、何か用か?」
「はぁ?お前がァ……?」
訝しむような目を向けてくるナンパ男。彼からは見えないよう、黒髪の少女に向かってパチリと片目を閉じ、話を合わせるよう合図を送る。
「──も、もう、遅い!どれだけ待ったと思ってるの!?」
「いやごめん。乗ってた電車が遅延しちゃってさ…──で、話は戻るけど。彼女に何か用か?事と次第じゃすぐそこの交番まで来て貰う事になるぞ」
「……別に──チッ、男連れなら先言えっての」
ナンパ男は舌打ちを残してそそくさと立ち去っていく。俺は少女の手を取り──流石に手を握るのは躊躇われたので手首辺りをそっと掴んで──交番付近まで連れて行く。チラリと後ろを見てあの男が後をつけて来ていないのを確認すると、彼女の手を解放した。
「……話、合わせてくれてありがとう」
「そんな!お礼言うのはこっちです!助けてくれてありがとうございました」
ペコリと頭を下げた少女。そこからはお互いに何を言ったものかと短い沈黙が流れる。
「あー…っとじゃあ俺、行くから。また絡まれないよう、気をつけて」
「は、はい!あの、本当にありがとうございました!」
足早に駅へ向かう俺は、先程掴んだ彼女の腕の感触を思い出す。
最近リハビリの一環としてジムで運動をしているから分かる事だが──年頃の女性にこんな表現をするのは大変失礼と分かっているものの──彼女の腕は性別の割に逞しい感じがした。生まれつきか、或いはスポーツか何かで日常的に体を鍛えているのか。どちらにせよ、わざわざ助けに入る必要はなかったのかもしれない。
何はともあれ、無事池袋駅に到着した俺は、西武池袋線に揺られて目的地である所沢へと向かうのだった。
埼玉県所沢市にある総合病院──そこには、全1万人いたSAOプレイヤーの一部が搬送されていた。その中に「彼女」の名が記されている。
目覚めた俺の病室を最初に訪れたのは、《総務省SAO事件対策本部》所属を名乗る菊岡誠二郎という黒縁メガネの役人だった。対策本部とは言ってもあの2年間で出来た事は決して多くはなく、各地の医療施設でSAOに囚われたプレイヤー達を受け入れる体制を整えた事と、断片的なプレイヤーデータのモニタリングだけだったと言うが、実際あの世界にいた身としては俺達の現実の体を搬送してくれただけでも十分ありがたいし、賞賛に値すると思う。
菊岡は対策チームのメンバーとして、クリアされたSAO内部での情報提供を求めた。俺がその条件として、真っ先に脳裏に浮かんだ3人のプレイヤーの生死と居場所を確認した時には何やら眉間を抑えていたが、確認した名前の1つであるプレイヤーネーム《Kirito》が俺と同じく現実世界に帰還を果たしている事はすぐに分かった──丁度俺の前にキリトの元を訪れていたのだとか──しかし、残る2人に関しては望んでいた答えは返ってこなかった。
病院のエントランスロビーで手続きを済ませ、受け取った通行パスを上着の腰ポケットにクリップで留める。エレベーターで一気に最上階まで駆け上がり、人通りの少ない廊下を静かに歩く。このフロアは長期入院の患者が多いらしく、休日にも関わらずスタッフも含めてすれ違う人間は少ない。廊下をひたすら進んでいき、やがて突き当たりの病室の前で足を止めた。
ドア脇のネームプレートには──《結城明日奈 様》という名前が記されていた。
カードキーにもなっているパスを使ってドアを開くと、ベッドと洗面台を仕切るように引かれたカーテンが目に入る──窓から薄らと射す陽光が、カーテンの向こうにぼんやりと人影を映し出しており、どうやら先客がいたようだ。
足を進めると、大きな介護ベッドに寝かされた彼女の──
「……やっぱり、お前も来てたんだな」
「っ……ミツ、キ──?」
「……そういやリアルの名前、知らなかったっけか」
「い、いや。知ってる。お前の無事を確かめた時に聞いたよ──久しぶりだな、翠月」
「お前も、思ったよりは元気そうで良かった。和人」
あの鋼鉄の城の最前線を共に戦った頼もしい戦友《黒の剣士》キリト──本名桐ヶ谷和人。もしかしたらと思っていたが、案の定、彼もアスナのお見舞いに来ていた。俺と同じく、退院して以降度々ここを訪れていたらしいのだが、この2ヶ月で1度も鉢合わせなかったのはある意味奇跡というべきか。
俺とキリトは再会を喜ぶのもそこそこに、お互いの知る情報を交換した──といっても、お互い似たり寄ったりな内容ではあったが。
まずはあの世界での自分の最期──75層の戦いで、俺がグラファイトを倒すと同時に彼も相討ちという形でヒースクリフを撃破した事。その後茅場と言葉を交わし、夕焼けの中、アスナと2人でアインクラッドの終焉を見届けた事。
あの時、間違いなくHPが全損したはずの俺達が何故生還できたのか──あの世界ではHPが全損してから実際に脳が破壊されるまでにはいくらかの猶予時間があり、ラスボスである奴らと全く同時に死んだ事で、ギリギリゲームクリアの判定に滑り込んだのではないか、とキリトは推測した。
ただ、キリトはヒースクリフを倒すより先にHPが全損に至ったらしく、死に際の一撃で奴を道連れにしたと言う。それでキリトが生還出来たのなら、多少時間の前後こそあれ死亡したアスナだって生きて帰れていてもおかしくはない。にも関わらず、彼女はこうして今も眠り続けている──彼女だけではない、SAOがクリアされた事で解放されるはずだった全プレイヤーの内、300人が未だに目覚めていないのだ。
世間ではこの状況を、未だに行方を眩ませたままの茅場晶彦の陰謀とする声が大きいが、最後に彼と言葉を交わした俺にはそうは思えない。それはキリトも同様だった。
「──それで、その……そっちはどうだ?」
気を遣ってか微妙に言葉を濁したキリトに、俺は答える。
「……いや、まだ何も」
デスゲーム開始初期から、俺達と共に最後まで戦い抜いたかけがえのない仲間の1人であり、俺の大事な人──《姫騎士》アリス。彼女の行方だけは、ゲームクリアから2ヶ月が経った今でも不明のままだった。どこの病院にいるのか、無事なのかすらも分かっていない。
「そっか……早く、見つかるといいな」
「ああ……そしたら毎日病院に通いつめてやるさ」
不意に、ポケットの携帯端末が小さく震える。断りを入れてから画面を確認すると、通話の着信だった。相手は──菊岡誠二郎。
「──悪い、少し外す」
一旦病室を出た俺は、廊下の隅に移動して小声で電話に出た。
「今病院なんで、手短に済ませてください」
『それは失礼した──因みにどこの病院か聞いても?』
「所沢の──アスナが入院してる病院に。見舞いに来てます」
『そうか、なら丁度良かった。今仕事で近くに来ていてね。少し会えるだろうか、直接話したい事がある』
「話……?」
『頼まれていた件の事だ』
「……分かりました。病院の裏手で待ってます」
通話を切った俺はキリトに一言言ってから、待ち合わせ場所で菊岡の到着を待った。
「──やぁミツキ君。待たせてすまないね」
程なくして姿を現した菊岡は、人が良さが却って胡散臭い笑みを浮かべる。そこからやれ「道が渋滞してた」だの「道中で美味しそうな店を見つけた」だのと雑談を始めようとするものだから、俺はわざとらしく咳払いをして「とっとと本題に入れ」と急かす。
「……こうして君を呼び出したのは他でもない。頼まれていた件──アリスというプレイヤーについてだ」
「……見つかった、んですか?」
一転して神妙な面持ちになった菊岡は、僅かに逡巡する様子を見せてから口を開いた。
「まずは結論から言おう──プレイヤーネーム《Alice》という名でSAOにログインしていた人物は、日本中のどこを探しても見つからなかった。SAOプレイヤーが搬送された全ての病院に掛け合ってみた結果だ」
「っ…──」
息を詰まらせた俺が何か言うより先に、菊岡は持っていたカバンからタブレット端末を差し出す。
「総務省には、あのゲームにログインしていた全てのプレイヤーのプレイヤーネームと本名を照合したデータがある。その中に、君の言う《Alice》という名前は確かに存在しているんだが……どういう訳か、その《Alice》というプレイヤーだけは個人情報が分からない。辿り着けないんだ──そもそも存在しないと考えた方がしっくりくる」
仮想世界内での名前と現実世界の実名を結びつける方法は、ログインに使用しているナーヴギアに登録されたアカウント情報を参照している。フルダイブにはナーヴギアを被る事が必須な以上、この2つの紐づけは避けられない筈だ。
「加えて、極めて不可解な点が1つ。SAOが正式サービスを開始したあの日──正確には2~3日経った頃だったかな。ギリギリでログインを免れた購入者から、証拠品としてSAOの未使用ROMを1本回収しているんだ。あの時点でこの世に存在していたSAOのゲームカードは、初回ロット分の10000本のみ。その内1本が使われなかったという事は、即ちあの世界に囚われていたプレイヤーは想定から1人減った9999人という事になる筈だ。しかし見ての通り、そこに表示されているプレイヤーデータはきっちり10000人分ある。本来存在しない筈の10000人目と、現実世界の情報と結びつかないプレイヤーデータ……偶然とは思えない」
「ッ……何が、言いたい……」
「これらの情報から総合的に判断して、そのアリスというプレイヤーは、ログインを断念する者が出ることを見越していた茅場氏がプレイヤーの頭数を合わせる為に用意したAI──つまり、システムに用意されたハリボテのプレイヤーなんじゃないかと──」
気づけば、俺は握り締めた拳で菊岡の顔を思い切り殴っていた。まだ2年前程の筋肉は戻っていないが、それでも不意打ちで繰り出された拳は大の大人に蹈鞴を踏ませる程度の効果はあったらしく、菊岡は小さく呻き声を漏らす。
「そんなッ……そんな訳があるかッ!!彼女は、彼女は人間だッ!俺達と同じ人間で……この世界に……ッ!」
「ッ……君の心中は察する。だが現に、君は彼女のリアルの情報を一切知らない。彼女自身も、ゲーム開始以前の記憶が無いと言っていた。これは他でもない君の証言だ」
「それ、は……でも……ッ」
「……一応言っておくと、これは客観的に見た結論だ。推測も交えて僕の見解を述べさせてもらうなら、仮にそのアリスというプレイヤーが実在したとして、一切の個人情報を残さずダイブ出来るとは思えない。そんな真似が出来るとしたら、システムを掌握するゲームマスターくらいのものだろう──つまり、もし君の言う通り彼女が命ある人間なのだとしても、その正体は茅場氏に協力していた重罪人、という事になる。もし発見されれば、共犯ないし重要参考人として拘留は避けられないだろう」
追い打ちの様に突きつけられた気休めにもならない仮説が、ひび割れていた心を跡形もなく打ち砕いた。
俺は1歩、また1歩と足を踏み出し、菊岡の横を通り過ぎていく。
「……酷な事を言うようだが、過去の幻を追いかけるのは止めた方がいい。君にはまだ未来がある」
その言葉に足を止めた俺は、
「……そんなもん……たった今無くなったよ」
果たして菊岡に届いていたかは分からない。掠れた声でそう言い残し、おぼつかない足取りでその場を後にした。
──見慣れない道を、ひたすら歩く。行き先なんか無い。目的も、意味も、何も無い。それしか出来ないから、歩く。歩き続ける。すれ違う通行人と何度か肩がぶつかったような気もするが、そんな事気にも留まらなかった。
アリスが、存在しない──否定するには余りにも論理的過ぎて、笑い飛ばすには余りにも現実的過ぎて、受け入れるには余りにも重く、刺々しい。
認めたくない。絶対に認めたくない。認めるわけには行かないのに、菊岡から聞かされた話は心を塞いだ指の隙間をいとも簡単にすり抜けて潜り込んでくる。
何よりも嫌悪感が湧いたのは、「そうなのかもしれない」と一瞬でも思ってしまった自分自身だ。俺は彼女の存在を誰よりも強く信じなくてはいけないのに。あの世界で彼女に「君は人間だ」と囁いたその言葉が少しでも揺らぎを見せた事に、怒りを通り越して吐き気すら覚えた。
不意に、ポツリと肩に何かが落ちる。続けてポツ、ポツ…と小さな衝撃を感じたかと思えば、冷たい雨水が辺りの道を斑点模様で埋め尽くした。突然の雨も気に止めず、とにかく歩く。雨のせいだろうか、視界が少しボヤけてきた気がする。
──どうして俺が……
──彼女に会いたい、声を聞きたい、抱き締めたい、笑いかけて欲しい、謝らせて欲しい──
どうすればいい?どうすれば彼女の元へ行ける?──彼女はいない、あの城と一緒に消えてしまった──いや、いる。絶対に生きている。あの男が馬鹿な嘘をついただけだ──じゃあ何故見つからない?何故俺に会いに来てくれない?何故連絡すら取ろうとしてくれない?
──…もう、どうでもいい。彼女のところへいけるなら、何だっていい。
機械的に足を踏み出した俺を、車のヘッドライトが照らし出した──同時に、喧しいクラクションの音が響き渡る。
「──危ないッ!!」
気づけば、濡れた道へ尻餅をついていた。傍らには、荒い息をついて俺の腕を掴む黒髪の少女の姿が。
「──何やってるんですかッ!!危うく轢かれるところだったんですよッ!?」
「君は……」
俯けていた顔を上げて思い出す。昼間、池袋で会ったあの少女だ。道路へ出て轢かれかけた俺を助けてくれたらしい。
「……ありがとう。もう、大丈夫だから。じゃあ──」
立ち上がり、歩き出そうとした俺の手を彼女は掴む。
「嘘。大丈夫な人の目じゃないです。こんな雨の中で傘も差さずに死にかけるような人が大丈夫なわけ無い!」
彼女は差していた折り畳み傘を俺の頭上に傾ける。
「……お家、どこですか?送ります」
……そういえば、ここはどこだろう。何も考えず歩いていたから、そもそも今自分がどこにいるのか分からない。辺りを見回していると、諸々察したらしい少女が埼玉県の川越だと教えてくれた。
「川越……大分遠くまで来たな」
川越駅から北赤羽となると、電車でも50~60分はかかる。
「……とにかくそのままじゃ風邪引いちゃいますし、良かったらウチ来てください。そんな遠くないので」
「いや、でも……」
「でもじゃないです!ほら、立ってください──」
意外と強い力で引っ張り上げられ、立ち上がる。雨に打たれてずぶ濡れの身体が今になって寒く感じてきた。
「えっと……お名前、聞いてもいいですか?」
「……三島、翠月」
「三島さん、ですね。私は直葉です──桐ヶ谷 直葉」
俺は直葉と名乗った少女に連れられ、彼女の家──後に知る事だが「彼」の家でもある──桐ヶ谷邸に向かう。
その脳裏では、
──大丈夫な筈がないでしょうッ!!
そう言って俺を怒ってくれた彼女の──アリスの声が蘇っていた。
フェアリィ・ダンス編、開幕です。
せめてアリスは生きているという確証さえあれば頑張れたミツキですが……文字通りどん底からのスタートとなりました。
そんでもってキリトはキリトで、あの後ミツキと入れ替わりで入ってきた須郷と接触してます。
で、まぁ一応菊岡さんの事を擁護しとくとですねェ…一言で言えば「認識の違い」です。
菊岡さん視点のアリスは「仮想世界の作り物」程度の認識でしかなく、ミツキの姿は極論「ゲームのキャラにガチ恋してる最近の若者」に見えてるわけです。仮に生きてたとしても、そうなると茅場の共犯者としての線が濃くなる為、シンプルに犯罪者とミツキを関わらせるべきではないと大人として判断するわけで。
実際アリスに会った事もない、あの世界に閉じ込められた当事者ですらなく、悪く言えば傍観者でしかなかった菊岡さんの立場としては、変に希望を持たせるより前に進ませてあげるべきだという一応の善意であんな事を言ったんですね。
でもミツキを始めキリトにとっても、あの世界で経験した事は全部現実で、出会った人は例外なく本物だったんです。