御茶ノ水にある総合病院。時計の音すら聞こえない沈黙の中、シノンは只々一心に祈り続けていた。組んだ手の中には、銀色の円盤状のペンダント──かつてミツキの命を救ってくれた電極パッチがあり、またあの時のような奇跡が起きてくれる事を必死に祈り続ける。
「(お願い……お願い……ッ)」
時は少し遡り、エギルの店からの帰り道。あの場にいた警備員から聞いた話だ──
シノンがトイレに避難した後、ミツキは手筈通りに警備員を呼んで件の男を捕らえようとしたのだが、あと少しという所で接近に気づかれてしまった。男がシノンの居るトイレへ押し入ろうとした所を止めようと真っ先に飛び出したミツキは、その際に男が隠し持っていた注射器で薬品を注入され、意識不明となってしまった。
……恐らく男の正体は、未だ捕まっていなかった《死銃事件》の共犯者の1人。ミツキに対し個人的な怨恨を持っていたという《デリンジャー》こと砂木沼隆斗だろう。用いられた凶器が刃物の類ではなく注射器だったことが、この推測を裏付けている。
つまり、奴の狙いは最初からミツキだった。仲間が危険に晒されれば、ミツキはきっと助けに入るだろうと──シノンは彼を釣る為の餌としてまんまと利用されてしまったのだ。
代わりに自分がやられていれば──とまで言うつもりはないが、自分を助ける為に誰かが傷つくというのはやはり慣れるものではない。ましてや去年の冬の時とは違い、ミツキの体にはしっかりと薬品が注射されてしまった……今度こそ、助からないかもしれないのだ。
すぐに救急車が手配され、同乗したシノン共々御茶ノ水の病院へ運び込まれたミツキは、現在緊急の救命措置を受けている最中。それを待つ間、シノンはミツキの家族へ連絡を試みたものの、自分の携帯に登録されているのはミツキ個人の連絡先だけで、自宅及び彼の家族直通の連絡手段を持ち合わせていない事に気付く。
そこで、キリトならば、と連絡を取ったシノンは、どういうわけか応答したアスナの言葉で、更なる驚愕に見舞われた。
──逃亡中だった《ジョニー・ブラック》にキリトが襲撃され、例の薬品を注射された。
思わず繋がったままの携帯を取り落としそうになった。
首謀者である新川兄弟の逮捕を受け、《死銃事件》は解決したものとばかり思っていた。一応、まだ共犯者2人が捕まっていないことは気に留めていたつもりではあったが……やはり、心のどこかで安心しきっていたのだろう。そんな気の緩みが、この結果を招いたのではないか……
際限なく湧き上がる後悔に苛まれながら、シノンはミツキの家族への連絡先を知らないか聞いてみる。アスナは以前キリトと共に彼の母親と会って話をしたそうなのだが、流石に連絡先までは知らないという。こうなれば仕方なし、と、ユイの力を借りてミツキの携帯のロックを解除、悪いと思いつつ母親の連絡先を探し出し、通話をかけた。
事情を聞いた彼の家族が病院に駆けつけるまで、およそ1時間弱。まず最初に、血相を変えて彼の母親である紗和が。そこから少し遅れて、伯母の佳苗が到着した。
手短に自己紹介を済ませ、緊張と動揺で支離滅裂になりそうながらも懸命に事の経緯を話したシノンは、2人に向かって深々と頭を下げた。
「……彼が……息子さんが巻き込まれたのは、私の所為でもあるんです。私がもっとちゃんとしていれば、こんな事には……っ──申し訳、ありま──」
「──どうか謝らないで。朝田さん」
紗和はシノンの肩にそっと手を置いて頭を上げさせる。
「あの子はあなたを助けようとして、事実あなたはこうして助かった。あなたがそれを後悔してしまったら、あの子の行いを否定する事になってしまうわ」
「……そーそ。別にスイだって、詩乃ちゃんに責任感じて欲しくて助けたわけじゃないだろうし。きっと助かるわよ」
「……はい」
シノンを落ち着かせ、廊下のベンチに座らせる。またも沈痛な時間が訪れるかに思われたが……
「このままスイが戻ってくるまで無言ってのも気まずいし、女子トークでもしちゃう?」
「じ、女子トーク、ですか……?」
「いやさー?しょーじき気になってたのよぉ、去年、スイが急に部屋に花なんか飾るようになっちゃってさぁ。確か金木犀だっけ?すっごいいい香りだったし、悪い事はなかったんだけど……ありゃズバリ女ね。女っ気どころか友達も少ないあの子が急に色気付くなんてそれくらいしか考えつかないもの。絶っっっ対女ができたのよ」
「は、はぁ……」
「ちょっと佳苗。初対面の女の子にする話じゃないわよ」
「えー、でも姉さんだって内心気になってんでしょー?──ねね、ぶっちゃけさぁ……詩乃ちゃんってスイと付き合ってんの?」
「へ……ッ!?や、そのッ私は……!」
「ありゃ、違う感じ?」
狼狽するシノンを見て楽しげにしている佳苗は、いよいよ本格的に紗和に窘められる。
「その辺にしておきなさい──ごめんなさいね朝田さん。この子、仕事柄そういう話結構好きで……」
「ちょっと、人をゴシップ記者みたいに言わないでよ。恋バナは淑女の嗜みでしょうが!」
「自分の部屋の片付けもロクに出来ない人を淑女とは言わないのよ」
「あ、あの、ここ病院ですから……!」
2人の仲裁に入るシノン。緊張感に欠ける事この上ない会話だが、彼女達なりに場を和ませようとしてくれた気遣いは伝わった。息子がこんな事件に遭って不安で仕方ないだろうに、初対面のシノンにこうして寄り添ってくれている。こういう所がミツキに遺伝したのだろうか。
「……で、実際どうなのさ?」
「そ、その……私と彼は、そういう関係じゃ──彼にはもう、心に決めた相手がいますから」
この様子だと、ミツキはアリスのことを家族にも話していなかったのだろう。であれば、彼女達がシノンをそういう関係だと誤解するのも頷ける。
……正直な所、「そうなれたなら」と考えた事はある。もし、彼がシノンを選んでくれたのなら、自分に出来る全てで彼を支えていこうという気もある。だが第3回BoBの最中、彼からはっきりと「君を一生守り続けることは出来ない」と半ば勢いとはいえ告白とも取れるシノンの言葉に対する返答を聞いているし、例え強引に彼を振り向かせたとしても、きっと彼を傷つけ、苦しませてしまう。
ではスッパリ諦めたのか、と聞かれれば素直にイエスと言えない辺り、自分も大概諦めが悪いなと思うが……どうせなら、彼の心を掴んで離さないアリスに正々堂々宣戦布告をしてやりたい。相手の意識外から狙い撃つスナイパーらしからぬ拘りだが、そこは譲れなかった。
「──そっかそっかぁ……いやぁ、まさかあのスイがいつの間にかこんな可愛い子を侍らせるプレイボーイになってたとはねぇ……しかも初恋は金髪美女て」
「目を覚ましたら、じっくり話を聞かせてもらわなきゃね──」
紗和がそう言った所で、手術室のランプが消灯。中から医師が現れる。
運び込まれてすぐ心停止に陥ったミツキだったが、医師達の尽力もあってどうにか死地を脱する事に成功。打ち込まれた薬物も体内で分解され、自発呼吸も再開したとの事だが……
「──ただ……心停止が5分強にも及んだ為、低酸素状態による脳への後遺症が残る可能性が考えられます。思考能力か運動能力、或いはその両方……最悪、このまま目を覚まさないという事も」
「そんな……」
医師としても、MRIで詳しく検査をしなくては確たる事は言えないと言う事で、より高度な設備の整った施設へ移すべきとの進言を受けた紗和と佳苗は、手続きの為に医師に同行。シノンは治療室の窓から、物々しい機械に囲まれたベッドで眠るミツキの姿をジッと見守っていた。
そこへふと、コツコツと足音が……
「──失礼、三島翠月君のご家族の方でしょうか?」
「えっ……?」
声をかけてきたのは、髪を短く刈り込んだ中年の男性。スーツ姿に生真面目な表情を浮かべる彼が何者なのかを尋ねると、ミツキの容態について紗和達に大至急話があるとの事で、シノンは訝しみながらも彼を紗和達の元へ案内した。
「──このような時に、突然すみません。私、中西と申します。この度は三島翠月君の容態に関し、急ぎご家族のお耳に入れたい事があり参りました」
「は、はあ……」
中西と名乗った男性は持っていたカバンからタブレットを取り出し、カバーをスタンド状に組み立てて設置する。起動させたタブレットに短い操作を加えると、画面をこちら側へ差し向けた。
『──聞こえていますか?私は総務省通信ネットワーク内仮想空間管理課の菊岡誠二郎と申します。翠月君のご家族に於かれましては、初対面にも関わらず画面越しのやり取りとなる非礼をお許し頂きたい。何分、急を要する事なので』
「き、菊岡さん……?」
画面に映し出された眼鏡の男は、シノンも顔見知りである菊岡だった。本人はここではない別の病院にいるらしく、恐らくそちらにはキリトが搬送されているのだろう。
『おや、シノン君もそこにいたのか。今回の件に関して、君にもいずれちゃんと話をさせてもらうつもりだが、今はこちらの用件を優先させてもらうよ──早速本題に入りましょう。まず、現在和人君と翠月君の置かれた状況は、薬品による長時間の心停止及び、それに伴う脳への損傷。という事で間違いありませんね?』
菊岡及び中西の目線に、医師達は首肯を返す。それに対し菊岡もまた頷くと、至って真剣な目でとある提案をしてきた。
『私の伝手に、世界で唯一の設備が整った施設があるんです。そこであれば、彼ら2人の治療が見込めます──』
翌々日──アスナとリーファ、シノンの3人は、深夜のALOで密談の最中だった。内容はもちろん、キリトとミツキの事だ。
「アスナ、菊岡さんとの連絡は?」
「ううん。何度かけても電話は圏外だし、メールも返信無し。総務省に問い合わせても、昨日から出張中だって……」
「そう……流石にタイミングが噛み合い過ぎてるし、あの人が何か知ってるのは間違いないでしょうけど……」
「仮想課に直接乗り込んだところで、門前払いされるのがオチですよね……」
3人が穏やかならざる話をしているのには、もちろん訳がある。
昨日、キリトとミツキは菊岡の手引きで、各々搬送された病院から埼玉県所沢市にある防衛医大病院に救急車で移送された。しかしいざアスナ達が面会に赴くと、『特殊な機器で治療している為、回復するまでは面会謝絶』と告げられたのだ。肉親でさえも、顔を見ることは愚か映像で様子を確認することすら出来ないという。
紗和や翠達が大人しく引き下がる中、流石にいくらなんでもおかしいと、3人は独自に調査を開始。家族という事で学校を休む口実を作り易かった直葉が1日かけてユイと共にあちこち走り回った結果、極めて奇妙な点が見つかった。
まず、キリトとミツキを乗せた救急車は元いた病院から出発してこそいるものの、移送先である防衛医大には到着していないという事──これはユイが防犯カメラをハックして確認している──にも関わらず、先方のデータベース上には間違いなく桐ヶ谷和人と三島翠月の入院記録が存在している……即ち、これは意図的な偽装工作であり、犯人は最初から2人をどこかへ拉致するのが目的だったと見るべきだ。
そしてその首謀者として真っ先に候補に挙がったのが、他ならぬ菊岡だった。
「仮に、菊岡さんが2人を拉致したとして……目的は何なんでしょう?政府の人が身代金目的でこんな事するとも思えませんし」
「これまでの事を鑑みれば、また仮想空間に関連する何かをさせようとしてる、って考えるのが自然だけど……今の2人をフルダイブさせたとして、まともに動けるのかすら怪しいわ。いくらアミュスフィアでも、脳の機能を補助することは原理的に不可能だろうし」
視覚や聴覚に障害を持つ人々にとって、フルダイブ技術はまさに神の福音。とはユウキの主治医である倉橋医師の言葉だが、それはあくまでも情報を受信・出力する為の目や耳といった器官に異常が発生している場合に限られる。大元の脳そのものに異常が見られる場合、仮想空間にダイブしようと何ら変化は見られないはずだ。
「……待って。アミュスフィアじゃ無理でも、それ以外ならどう?ほら、脳のより奥深く──魂に干渉出来る機械を使えば……」
アスナの言わんとすることを理解したシノンは、ハッとする。
「そっか、《ソウル・トランスレーター》……!じゃあ、《ラース》がこの件に噛んでるって事?」
「《ラース》って……お兄ちゃんとミツキさんが最近バイトしてた会社ですよね?」
直葉も触り程度には例のバイトのことを聞いていたようだが、詳しくは聞かされていないという。しかし、キリトの話から《ラース》の所在地が六本木である、という情報をもたらしてくれた。
「順当に考えれば、2人は六本木にいるかもしれない、って事になるけど……流石に安直過ぎかしら。だって、STL技術の詳細どころかバイトの目的すら明かさないくらい情報管理を徹底してるくせに会社の所在地は明らかにしてるって、ちょっと妙じゃない?」
「うーん……それすらも隠れ蓑、って線も確かに有り得なくはないかもだけど……それ以上は考えるとキリがないね。菊岡さんがあの会社を紹介したって事は、つまり政府と何らかのパイプを持ってる企業って事も考えられるし……やっぱり、これしかないかな──ユイちゃん」
「──はい、ママ!」
アスナの呼びかけに応じ、小さな妖精の姿を取ったユイがどこからともなく姿を現す。
キリトに繋がるかもしれないか細い糸としてアスナに残された最後の希望──ネットワーク越しにアスナの携帯に送られるキリトの心拍モニターの発信地点を辿れば、居場所を割り出せるのではないかとユイに解析を頼んでいたのだ。
今現在モニタリング機能は停止しており、信号はどこかの地点で途絶えてしまっている筈だが、この際情報は少しでも多いに越したことはない、とユイは現時点での解析結果を東京都内のマップと共にホロウィンドウに表示する。
まず、キリトが最初に搬送された世田谷総合病院。ここから救急車に乗ってキリトは移動した。
以降、確認されたキリトの胸のセンサーの信号は僅か3つ。
病院を出てから最初に信号が発信されたのは、目黒区青葉台3丁目。時間から計算し、救急車の移動経路がプロットされる。
次に、港区白金台1丁目。再び予測移動経路が書き足される。
そして最後の発信元は──ラースがあるとされる六本木ではなく、江東区新木場4丁目だった。これを最後に信号は途絶えている。
「新木場……!?ユイちゃん、そこには何があるの?」
「ここにある施設は……東京ヘリポートです」
「ヘリポートって……じゃあ、あいつらはヘリでどこかへ連れて行かれたってこと!?」
「でも……今の時代に無線ネットワークから完全に切り離された場所なんて見つける方が難しいわ。それが何かの研究施設なら尚更。だから、必ずどこかのタイミングで一瞬でも接続されてるはずなんだけど……」
「……残念ながら、パパのセンサーが回線に接続された形跡は1つも見つかりません」
アスナの言う通り、日本国内でネットワークの網を掻い潜ることは非常に困難だ。その上で一度も信号を拾えていないということは、余程厳重に管理されたクローズドネットを有する施設か、或いは……
「最悪……海外、って可能性もあるわけね」
キリトとミツキが海の向こうへ拉致られた。という最悪のシナリオを思い描く3人だが、その線は即座にユイによって否定される。
「現代に於いて、東京から一度も補給を行わずに外国へ到達出来る程の航続距離を持つヘリは軍用機を除き存在しません。勿論、断定は出来ませんが……それでも、私はパパとミツキさんは日本国内のどこかにいる筈だと推測します」
「となると……やっぱり相当な僻地──どこかの山奥とかだったりするんでしょうか?」
「けどあいつら、『STLは仮想世界の未来を左右する』みたいなこと言ってたわよね。ただでさえ人の魂を読み解く、なんて大それた代物を研究してるんだから、その為の施設も相応の規模になるはずじゃないかしら?それを隠し通せるとは思えないけど……」
議論は多少前進したが、やはり結論を出すには程遠い。ラースという謎めいた企業の実態を掴もうにも、唯一の足掛かりとなり得る菊岡が首謀者候補という始末だ。
何か……他に何か手がかりになるものは無いか──アスナは目を伏せ、数日前にダイシー・カフェで2人と話した時の記憶を思い出す。
──じゃあその、フラクトライトを読み解くための機械がSTLって事だよね?
──機密保持の為なんだろうが、内部での記憶は外に持ち出せないんだ。
──諸々の周辺機器を合わせればこの店の半分を占めそうな大規模マシンだ。間違いなく一般家庭に置けるような代物じゃない。
──アレはアミュスフィアの後継機というより、ナーヴギアの発展系と言った方がしっくり来る。立ち位置的には
「メディキュボイド……」
ふと溢れたその名前が、アスナの中にある1つの記憶を刺激した。
「そうだ……確か、メディキュボイドの初期設計は外部からの無償提供だったってキリト君が言ってた。STLの基本骨子がメディキュボイドと同じなら──」
「──マシンを作る上で、ラースもその人から技術提供を受けてる可能性が高いってわけね。名前は分かってるの?」
「確か、名前は──神代凛子」
ユイがネットワーク上から「神代凛子」に関する情報を検索し、表示してくれる。
「ヒットした中で最も該当性の高いのは、この人です──神代凛子博士。現在はカリフォルニアの大学で研究職に就いています。大学のデータベースにある経歴を見ると、かつては日本の東都工業大学 電気・電子工学科 重村研究室に所属していたようです」
「重村、って……オーグマーの開発者よね?」
「うん。そして団長──茅場晶彦もそこに所属していた。キリト君とミツキ君は前に1度、神代博士と会って話したことがあるって」
「なら、少なくとも1回は連絡を取ってるはずですよね?その履歴が見つかれば……!」
「ユイちゃん、去年の春頃のキリト君のメール履歴を調べてもらえる?」
「分かりました──!」
まだほんの指先が掛かった程度、しかし手掛かりは見つかった。後は彼女の良心に期待する他ないが……茅場晶彦の発明を理療用として発展させた彼女ならば、きっと応じてくれるはずだと自分に言い聞かせ、アスナはユイが見つけ出したアドレス宛にキーボードを叩くのだった。
案の定~