006
念のため確認しておきたいのだが。
そもそもわたしは、勝負事が嫌いなのである。
他人と争うのは虚しい行為だ――勝敗の如何を問わず、その身には疲労やストレスが溜まる。陳腐な平和主義を謳うわけではないが、平穏という概念の対極にある闘争状態を、わたしは厭うのである。
だからこそ。
この吉良吉影の平穏を乱す者とだけは――戦わざるを得ないのだ。
「何が『戦わざるを得ない』ですかっ。わたしの平穏を乱したのは吉良さんじゃないですかっ」
わたしの両手で羽交い締めにされた八九寺真宵が、ぎゃーぎゃーと喚く――閑静な住宅街の真ん中で騒がれては非常に目立つので、正直静かにしてもらいたかった。
『追走劇』とは言ったものの。
大人の本気の走りに、小学生が敵うはずもない――逃亡犯と成り果てた少女は、公園からわずか数十メートルの地点であえなく拘束された。そのまま、なるべく人目につかないところへ連れ込み、今こうして確保しているというわけである。
「誰か助けてくださーいっ! デヴィッド・ボウイ似の金髪サラリーマンに誘拐……もがが」
「大人しくするんだ。ここで悪目立ちするのは、お互いにとって良いことじゃあない……お母さんに心配をかけたくはないだろう」
大声で助けを求める八九寺真宵の口を塞ぎ、注意深く周囲を確認する――仮にこんな姿を目撃されれば、もはや弁解の余地はないだろう。
会社員、出張先で女子小学生を誘拐未遂――何の洒落にもならない。
「まったく、ハッチーちゃん……何も逃げなくったっていいじゃあないか。それなりに信頼関係を築けたと思っていたんだが」
「もがもがもがもがもがもが」
「ふむ、何と言っているのか分からないな」
「ぷはっ。……何言っているんですか。最初からずっと、あなたのことを信用した覚えなんてありませんっ。それと、変な仇名で呼ぶのはやめてくださいっ。わたしには八九寺真宵という、両親から貰った立派な名前があるんですから」
「これは失礼、噛んでしまったよ」
「違います、わざとです……」
八九寺真宵はそう呟くと、抵抗するのを諦めたかのように身体の力を抜いた――ひとまずこれで、話はできるようになった。
「それにしても、なぜああまでしてわたしを拒絶するんだ――案内役を買って出ただけだろう。きみが抱える家庭の事情もわたしの知るところとなったのだし……今や秘密を隠し通そうと躍起になる理由はないはずだ。そんなにわたしのことが怖いのかい?」
「ええ、怖いですね。あれほど拒絶しても、なおわたしに付きまとってくるあなたのことが――まったく、何があなたをそれほどまでに駆り立てているのですか」
きみの手があまりにも美しいので、切り取ってコレクションにしたいと思ったんだ。
わたしの『キラークイーン』が無効化された理由を探ってから、然るべき方法できみを始末しようと考えたんだ。
当然、そんなことを話せるわけもなく――わたしは、適当に理由をでっち上げることにした。
「誤解しないでくれ。別に変質者を気取っているわけじゃあない……迷子の人間を見ると導いてあげたくなるのさ。わたしは、迷いの無い人間だからな」
「迷いの無い人間、ですか」
「そうとも。この吉良吉影は今まで、人生の岐路に立たされたことがない。細やかな『気配り』と大胆な『行動力』で、常に最善の道を選び取ってきた……それもこれも、自らの願望に正直でい続けた結果なのだよ」
「はあ」
「だから、己の願望――目指す場所さえはっきりしていれば、あとはひたすら突き進むだけさ。きみが道に迷っているというのなら、このわたしが正しい道を指し示すことができるかもしれない」
『人』の『道』と書いて『人道』、それを助けるとすれば『人道的援助』になるからな――などと、上手くもない言葉遊びをして。
わたしは、長ったらしい言い訳を終えた。
「……というわけで、きみの疑問に対する返答は以上だ。分かってくれたかな」
我ながら、論点のすり替えもいいところだった。現実の道路と概念上の『道』に、一体何の関係があるというのだ?
八九寺真宵もいまいち納得しきれていないのか、何かを考えるようにして押し黙った――小生意気な彼女のことだから、すぐに詭弁だ何だと反論してくるものとばかり思っていたのだが。
「わたしの、本当の願望は……」
「ん? 何か言ったかい?」
「わたしは、本当にお母さんの家に帰りたいのでしょうか……」
007
「……んん?」
今までの会話の前提を否定するかのような発言に、わたしは困惑を隠せなかった――何を言っているのだ、この娘は。
お母さんに会わないといけないんです――と。
そう強く断定したのは、他ならぬ彼女自身ではなかったのか。
「いえ、時々思うことがあるんです。お母さんに会うことを、心のどこかでわたしは恐れているんじゃないか、って――だってそうでしょう。『ただいま』が言いたくても、向こうが必ずしも『おかえり』と返してくれるとは限らないんですから」
あんな最悪な状態で、家族がばらばらになって。
嬉しかったことも楽しかったことも、時の流れとともに風化して――劣化して。
「……今さらわたしが押しかけたところで、拒絶されるのが関の山なんじゃないかと――そんな想像をしてしまうのですよ。かといって立ち止まるのも嫌だから、ただただ惰性で歩き続けているんです」
わたしは八九寺真宵の表情を見つめた。
少女は、いつも通りの無愛想な顔つきをしていた――だが、その瞳の奥には、微かに揺らぐ感情が垣間見えたような気がした。
「結局のところ、わたしは逃げているだけなのかもしれません……迷子でい続けることを誰よりも望んでいるのは、実はわたしなんじゃないかと。同じ道を何度もぐるぐると、蝸牛の殻みたいに――そうやって延々と歩き続けていれば、少なくとも現状維持はできますからね」
現状維持。
不幸に甘んじることなく、かといって高望みもせずに。
吉良さんと同じく、わたしも迷子を通じて『平穏な生活』を保とうとしているのかもしれません――八九寺真宵は、そう言って自虐的な笑みを浮かべた。
「…………」
わたしは何も言えなかった――否、かけるべき言葉を持たなかった。
彼女の思想を否定するということは。
そっくりそのまま、わたし自身の半生をも否定することになるのだから。
「でもやっぱり、わたしと吉良さんは相容れないと思います。あなたは正しい道を示してくれるとおっしゃいましたけれど、それはきっと無理です。どうやってもわたしは目的地に辿り着けない、そういうことになっているのですから」
「『そういうことになっている』――まるで運命論だな。きみの家庭の事情は察するに余りあるし、馬鹿にするつもりはないのだが……そうは言っても、所詮はただの迷子だろう?」
「ええ、ただの迷子で合っていますよ。だからこそ、どうすることもできないんです。あなたのような『迷いの無い人間』には、特に」
わたしの発言を引用しながら、八九寺真宵は述べる。
その口調はあたかも、『迷いの無い人間に、迷える者の気持ちなど分からない』という諦念の意を表明しているようでもあった。
「こう見えてもわたし、人見知りなんですよ。他人の助けを借りるくらいなら、大抵のことは自分の力で何とかしますし……道に迷い続けるのは、わたしだけでいいですから」
「……赤の他人のわたしに、出る幕は無いというわけか。それでも、もしわたしが――『きみを助けたい』と言ったら?」
「あなたも頑固な方ですねえ。わたしと一緒にいたら、道に迷い続けるというのに……ところで、先ほどから年配の女性がこちらを不審げに覗いているのですが、大丈夫ですか?」
「……なんだって?」
唐突にわたしの背後を指差した八九寺真宵――その動きにつられて、反射的に視線をそちらに向けてしまう。
「……女なんてどこにもいないじゃあないか。きみ、一体何のつもりで……ッ!?」
しまった、とわたしが心の中で思った時には、既に彼女の行動は終わっていたのだろう。
八九寺真宵は脱兎の如く駆け出し、あっと言う間にわたしの視界から消え去ってしまったのだ。
「クソッ! この吉良吉影が……あんな子供騙しに引っかかってしまうとは……」
一度ならず、二度までも――このわたしから逃走を試みるとは。
随分と舐められたものである。
「このわたしをコケにしたことを、後悔するんだな――早いとことっ捕まえて、秘密をもっと聞き出してやる」
大人を出し抜くその精神性はむしろ見上げたものであるが、同じ手が二度も通用するはずもない。八九寺真宵が逃げたと思しき方向を見据え、さながら獲物を捕まえる狩人のごとく、わたしは駆け出した。
「……! 見つけたッ!!」
予想は当たっていたようだ。住宅街を突き抜ける一本道。その向こうに、巨大なリュックを激しく揺らしながらひた走る少女の姿が見える。
目指す場所さえはっきりしていれば、あとはひたすら突き進むだけ――八九寺相手にうそぶいたときのわたしの台詞だが、まさかすぐに実行に移すことになるとは思わなかった。
目指す場所――八九寺真宵に向かって。
『平穏な生活』を取り戻すために――走って、走って、走り続ける。
「…………」
さて、読者諸君よ。
くどいようだが、本来わたしは争いを好まない性質なのだ。自らの平穏を犠牲にしてまで勝ち負けにこだわるなど、愚かしいにも程があるとさえ思っている。
したがって。
小学生女子と本気の追いかけっこをしているにもかかわらず、一向に捕まえられなくとも――全くもって悔しくないのである。
いや、本当に。
「は……速いッ……! なんだあの小娘……なぜ追いつけないッ!?」
さながらアキレスと亀のパラドックスのようだったが、しかしこれは現実である。
わたしと彼女の距離は先ほどから少しも縮まないどころか、離されつつあるようにすら感じられた――短距離走であれば一等賞間違いなしの、無駄な動きを極力排除した見事な走りっぷりである。
まるで先ほどの逃走失敗は、油断したがゆえのちょっとしたミスに過ぎないとでも言うかのようだった……人間、本気を出せばあれほどのスピードが出せるというわけか。
いや、むしろ本気度で言えば、わたしのほうが高いはずなのだ――ここでまんまと逃げられては、目的は何一つ達成できない。何より、八九寺真宵はわたしのことを『知りすぎてしまった』。彼女がどんな人間であれ、わたしの眠りを妨げる障害となるのはほぼ確実だ。
何が何でも。
あの八九寺真宵だけは、始末しなくてはならない。
「ハアッ……ハアッ……」
だが残念なことに、そうやって心ばかりが先走りし――わたしの身体は全く追いついていないようだった。
運動不足が災いしたのか、普段の何十倍も心臓が激しく鼓動し、足が重く感じる。これでも学生時代は鍛えていたのだが、社会人になってからは体力の衰えを実感する毎日である。最後に全力疾走したのは、一体いつのことだったか。
これだから、勝負事は嫌いなのだ。
「…………」
その時ふと、自分の後方を確認するかのように、八九寺真宵が無言で振り返った――必死の形相で猛追するわたしの様子を目に留めて、彼女は何を思ったのだろうか。
その表情はどこか、呆れ果てているようでもあったし。
一方でなぜか――わたしに助けを求めているようにも見えた。
「…………!」
何かを訴えかけるかのような少女の視線に居心地が悪くなり、つい目をそらすと――わたしの視界に様々な情報が瞬時に飛び込んできた。
住宅街を舞台にした小学生とサラリーマンの異様な追走劇は、いつの間にか交差点に差し掛かっていた――横断歩道に突っ込む勢いでひた走る八九寺真宵は、後方から迫るわたしの存在に気を取られ、目の前の信号の変化に気付いていない。
歩行者信号は既に赤だった。
停止の色。
そしてそこに、一台の大型トラックが猛スピードで突っ込んでくる――
008
「危ないッ!」
咄嵯にそう叫んだわたしの脳裏に、雑多な単語が泡のように浮かび上がる。
ブレーキ。急停止。衝突。流血。交通事故。救急車。
そして――死。
「くっ……『キラークイーン』!!」
後から冷静になって考えてみれば、この時八九寺真宵を助けようと、躍起になる必要は無かったかもしれない。
目下最優先の課題は、むしろ彼女を闇に葬り去ることのはずだった――あのまま見捨ててさえいれば、わたしは一切自分の手を汚すことなく、八九寺真宵を始末できていたかもしれない。そしておそらく、それこそが『平穏な生活』への最短の道のりだったのだろう。
だが。
眼前に迫りくる巨大な鉄の塊に呆然とする八九寺真宵の姿を――否、正確には彼女の『手』を見てしまったがために、わたしは冷静さを失ってしまったのだ。
八九寺真宵があのまま車に轢かれ、周囲の注目を集めてしまったなら。
彼女の死体が衆目に晒されれば、『手』を回収できなくなる――そんな焦燥とも切迫ともつかない危機感が、わたしの思考を瞬時に支配したからだ。
かくして。
自分の足では間に合わないと判断したわたしは、腕にした時計に『細工』を施すやいなや、トラックの前輪部分に向かって力の限り投げた――お気に入りのブランド品だったが、そんなことに構っている暇はない。
タイミングを見計らって『スイッチ』を押すと、轟音とともにトラックのタイヤが勢いよく吹き飛ぶ。大型車両はそのままバランスを失い、あわや大惨事となる寸前で道路脇へと逸れた。
「きゃっ……!」
短い悲鳴を上げる八九寺真宵に何とか追いついたわたしは彼女の手を掴み、その勢いで道路の向こう側まで駆け抜けた。
紆余曲折あったが――ようやく、捕獲成功である。
「危なかった……きみ、大丈夫かい?」
「え、ええ……ご迷惑をお掛けして、すみませんでした」
「無事で何よりだが……もう二度と、あんなスピードで道路に飛び出すんじゃあないぞ。次やったら命の保証はできかねないからな」
「――はい、今度からは気をつけます。本当にすみません」
そう言って、八九寺真宵はぺこりと頭を下げた。
案外素直な一面もあるものである。
「さて」
気持ちを切り替えて、わたしは周囲を見渡した。
例のトラックは、少し離れたところに停車している。たった今運転手と思しき男が、車内から慌てて飛び出してきた――ひとまず、命に別状はないようだ。
視線を移すと、先ほどの爆発音を聞きつけたのか、既に野次馬が大勢集まってきているのが見えた。我々のことを指差して、何やらひそひそ言い合っている者たちもいる。
「やれやれ……なんてことだ。平穏を愛するこの吉良吉影が、人前でこれほど目立った行動をとってしまうとは……」
それはわたしの、嘘偽りない感想だった――ほんの数十分前に出会ったばかりの八九寺真宵を、まさか身を挺して守ることになるとは誰が予想しただろうか。『手』のことがあるにしても、赤の他人も同然の少女の無事にホッとするなどとは、今までのわたしであれば考えられない事態だ。
己にとって正しい『道』を歩み続けてきた、この吉良吉影は――生まれて初めて『道』に迷ってしまったのである。
「……あの、吉良さん。もうわたしの手を離していただけませんか」
「ん? いや待て……もしこの手を離したら、きみはどうするつもりなんだ?」
「逃げるに決まってるじゃないですか」
「…………」
無言のまま、握った手に力をこめる。
ミシミシミシ――と、骨が悲鳴を上げる音が聞こえたような気がした。
「痛い痛い痛い痛い! 酷いですっ! うら若き乙女の手を何だと思っているんですかっ!」
「握力計じゃあないのか?」
「なんですかその勘違いはっ! 覚悟の準備をしておいてくださいっ! 近いうちに訴……むぐぐ」
「何回黙らせれば気が済むんだ、きみは――いや、真面目な話、これだけ人の目がある中で逃げ出すわけにもいかないだろう。これから、あの運転手と話をつけなきゃあいけないんだからな」
歩行者側の信号無視によって事故を起こしかけた挙句、原因不明のタイヤ破損――今回の件で一番被害を被ったのは、間違いなく彼の方なのだ。その説明と謝罪を上手いことこなさなければ、『平穏な生活』を取り戻すことはできない。
『道』に迷ったのなら、少しでも軌道修正を試みなければならないのだ。
「正直、気は進まないが……きみを追いかけ回したのはこのわたしだからな、一緒に謝ってやるよ。さあ行くぞ」
「ま……待ってください。そんなことをしたら、あなたが変な目で……」
「ここで無責任に逃げ出すほうが、よっぽど変な目で見られるだろう――ちょっと失礼。先ほどはお騒がせしました」
八九寺真宵の制止を振り切り、わたしは運転手に声をかける。
三十代くらいの、体格の良い男だった――わたしの顔を見るなり、彼は訝しげに目を細めた。
「あんた、誰だ?」
「通りすがりの者です。彼女に用があったのですが突然逃げられ、追いかけているうちについ車道に飛び出してしまい……ご迷惑をおかけしました。ほら、きみも謝るんだ」
そう言って八九寺真宵にも謝罪を促したが、彼女は「あの、えっと」などと口にするばかりで、運転手に頭を下げる様子はない。
その目にはなぜか、焦りにも似た感情が浮かんでいた。
「……なあ、何言ってんだ?」
「ほら、さっさと謝らないからこう言われているじゃあないか。この状況で変なプライドはよしてくれないか」
「違う、あんただ。あんたに言ってんだよ、お兄さん」
「……えっ?」
何を言われているのか分からない。今のわたしの言動に、おかしな部分などあっただろうか。
「大丈夫かあんた? まさか頭でも打ったのか」
「いや、そんなことはありませんが……どういう意味でしょうか」
「なんて言えばいいのかな……いや、俺の方がおかしいのか……?」
男はしばらく、頭を悩ませていたようだったが――やがて、意を決したように口を開いた。
「あんたの言う『彼女』って、どこにいるの? 俺にはさっぱり見えないけど」
次回、『まよいキラークイーン』最終回です。
寝る前に暖かいミルクと20分ほどのストレッチで体を解してからご覧ください。