そんなわけで、今回のお話は「81日目」からスタートです。
其ノ壹
081
ディオという自分の名を頭に思い浮かべたとき、わたしはいつも『安心』する――ああ、これでわたしを縛るものは何もないのだ、このディオこそが世界の頂点なのだ……と。あらゆる恐怖を克服し、体の奥底から力が湧いてくるような、そんな気がするのだ。
思い返せば百年前。
飲んだくれのどうしようもない父親から受け継いだブランドーの姓は、若きディオ少年を『クズの息子』として貶める、不愉快なものでしかなかった。『ディオ・ブランドー』――思い出しただけでもぞっとする。聖書に悪口雑言を書き連ねるかのような、許されざる冒涜だ。
聖書といえば。
神の法を尊ぶ聖職者にして、わたしの最も信頼のおける友人――エンリコ・プッチは、以前こんなことを話していた。
「ディオ。きみも知っているとは思うが……かの有名な『モーセの十戒』にはこんな文言がある。『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない』とね。これは『人間の都合で神を呼んではならない』ということを意味している……ぼくが何を言わんとしているか、きみには分かるかい?」
そのとき、わたしは次のように答えた。
「……このわたしなら、次の注釈を付け加えるだろうな。『ただし、神が自らの名をみだりに唱える場合については、この限りではない』――と」
プッチはわたしの返答を聞くやいなや、愉快そうに目を細めた。そして唇からわずかに笑い声を漏らしつつ、「やはりきみは面白い男だ」と口にしたのだった。
そう、奇しくも――イタリア語で『dio』とは、『神』のことを意味する。
かの偉大なる存在は、人間という卑しい存在を超越したところにある。いわば世界の『支配者』――あらゆるものの頂点に立つ存在なのだ。
だからこそ。
世界を背負う者として、全ての人間どもにその名を轟かせるために。
人間を超越した者としての自覚を常に持ち、『安心』を得るために。
わたしは――この
そこでこのディオは考える。
わたしと同じく人間をやめ、神そのものと化した『蛇』の少女――
自らを『撫子』と称していたのは――むしろ自分の世界に閉じこもるためではなかったのか、と。
082
このディオと、千石撫子にまつわる物語――それについて語るには、『西暦一九八九年、エジプトのカイロにて、二人の男が対峙していた』というところから話を始める必要がある。
二人の男――当然、そのうちの一人はこのわたし。百年の時を生きた吸血鬼にして、スタンド『
そして、もう一人は……言うまでもない。我が永遠のライバル、ジョナサン・ジョースターの末裔にして、スタンド『スタープラチナ』を操る男――その名も、
「ここは満員だ……逃げることは……できねーぜ……」
カイロの地下より、静かな怒りをこめて。
空条承太郎は――驚くなかれ、マンホールの下から姿を現したのだった。
「あきらめるんだな……ディオ」
そもそもわたしと承太郎は直前までお互い地上に立っていたのだが、それがいつの間にか承太郎だけがマンホールの下に移動してこのディオを待ち伏せしていたという謎の状況であり、そうだとすれば奴は下水道の中を驚異的なスピードで移動したか、あるいは空間を瞬間移動でもしたか、もしくは(あまり考えたくないのだが)わたしと同じ『時を止める能力』を使ったかという三つの可能性が考えられ、しかしいずれにせよ承太郎がなぜ地上を直接移動せず下水道から回り込むといったそれこそ回りくどい方法を取ったのかという説明を行うのは難しく、全体的に色々と無理があるのだが、この状況でそんなところに突っ込みを入れるのは野暮だと思うので、ここではとりあえずジョースターの血統ならではのサプライズ演出だと理解しておくことにしよう。
「何を、頭の中でごちゃごちゃ考えてやがる……イカレてるのか? ……この状況で」
「フン! 承太郎……所詮、貴様にはこのディオが今何を考え、次にどんな行動を起こすかなど――分かりはしないのだ」
「なになに……『ここではとりあえずジョースターの血統ならではのサプライズ演出だと理解しておくことにしよう』……だと? おれたちのこと何だと思ってやがる」
「なッ! 貴様……なぜそれをッ!?」
「数行上に書いてあるじゃあねーか……てめーも読んでみたらどうだ」
「くっ……勝手に第四の壁を破りおってッ! 『
わたしは時を止めて攻撃を試みる――が、わずかに遅かった。
最初に、左頬に『スタープラチナ』の拳がめり込む感覚。
次に、オラオラオラオラオラ――と、承太郎の渾身の
最後に――ラグビーボールの如く吹っ飛ばされ、そのままカイロの街並みを飛翔する感覚。
ついでに、「ブァガッ」などという情けない悲鳴が聞こえたような気もしたが……それはこのわたしの喉から発せられたものではないと思いたい。
街路を一直線に貫く弾丸と化したわたしは、頭の中でずっとあることを考えていた。
今のわたしは、傍から見ればまさしく最悪の状況。百歳年下の人間の若造にコケにされ、情けない姿を晒し、このままいけば地面か障害物に叩きつけられる。世界の支配者にあるまじき、実に無様な醜態だ。
だが――『あの場所』へ、行きさえすれば。
そうすれば、このディオは再び頂点に返り咲くことができる。そうとも――『安心』を手に入れるのだ。そしてゆくゆくは我が『知』と『力』の前に、全ての人間をひれ伏させてみせる。
そのためには、一刻も早く『あの場所』へ行かなくては……『あの場所』?
『あの場所』とは……具体的に、どこだっただろうか……?
駄目だ、頭が上手く働かない……とはいえ、先ほど承太郎に頭蓋骨を砕かれ、挙句の果てに全身を殴打されたのだ。無理もあるまい。
きっと、一時的な記憶障害に過ぎないのだろうが――そうだとしても動揺を隠せない。
あれだけの執念を燃やして。
マンホールから下水道を伝って移動しようと画策するほどに――そうまでして、このディオは一体どこへ向かおうとしていたのか。
そして、その場所さえ思い出せないとは……
……いや。
いや、いや、いや。
このわたしには、どんな犠牲を払ってでも向かわんとする場所が――あるではないか。
常々『世界の支配者』と謳っているためか、よく他人からは誤解されるのだが……真の幸福は人の頂点に立つだけでは得られないということを、このディオは知っている。
真の勝利者とは、『天国』を見た者のことだ。
そして、この場合――『天国』とは『未来』のことを指す。
『未来』が分かれば、襲い来る恐怖や不安に対して『覚悟』ができる。
『覚悟』は『安心』に転じ――やがてその者は『幸せ』になれる。
そう。
きっとわたしは、『天国』へ行こうとしていたのだ。
あの忌々しい空条承太郎――ジョースターの血統ですら辿り着くことのなかった、麗しく満ち足りた場所へ。
「かかったな! 承太郎ッ! これが我が『逃走経路』だ……」
全身から噴き出る血液をも意に介さず、わたしは空中で両手を広げ、高らかに叫ぶ。
ちらりと、我が宿敵を見やると――奴は『理解不能』とでも言いたげな様子で、このわたしが吹っ飛ばされていく方向を見つめていた。
そうだ、承太郎。
貴様は――このディオとの知恵比べに負けたのだ。
大人しくそこで、このわたしが『天国の時』を迎える瞬間を眺めているがいい。
そして――次の瞬間。
わたしの進行方向に、突如として『黒い壁』が出現した。
漆黒というか、暗黒というか……いや、そんな些末なニュアンスの違いなどどうでもいい。
重要なのは――その『壁』が他の空間とは明らかに異なる、何か異質なものだということである。
これが『
わたしは『安心』する反面、これは本当に『天国』へ繋がっているのだろうか、むしろ『地獄の門』なのではないかという『不安』も抱き――相反する感情とともに、闇に飲まれていった。
視界の端に映る承太郎の、呆然とした表情が――やけに印象に残っている。
083
ここまでの記述を改めて読んでみて――自分が恥ずかしいやら情けないやらで、危うく持っていたペンを取り落としそうになった。
あの空条承太郎にコテンパンにしてやられたこと――それはもちろんだが、何より許しがたいのは、『あの場所』がどこを指していたのか、てんで勘違いしていたことである。
今でこそ分かる。
『あの場所』とは……ジョセフ・ジョースターが倒れていた地点に決まっているではないか。
奴の血を吸い、我が肉体をパワーアップさせるための――補給ポイントだ。
あのとき、もしもわたしが『あの場所』をしっかり認識し、ジョセフのもとへ辿り着けていたなら……話は全く違うものになっていたことだろう。
『天国』――それは、我が究極にして最終的な目的地。
一方、あのときのわたしにとって、ジョセフの居場所とは――『天国』へ向かうための『過程』でしかなかった。
それを、いくら意識が混濁していたとはいえ、『あの場所』を『天国』と勘違いするなどとは……気が早いにも程があるというものだ。
『過程や方法なぞどうでもよい』とはいうものの――いくらなんでも限度があるだろう。
まあ、今さらそんなことを嘆いたところでどうしようもない――歴史に『if』はないのだ。
だから、気を取り直して話を進めることにしよう。
『天国への扉』――否、謎の『黒い壁』を抜けると雪国であった。
暗褐色の空からは、しんしんと雪が降り注いでいる――それだけで、既にここがエジプトではないということが分かる。具体的にどこかと問われても困るが、少なくともカイロではない。
だが、性懲りもなくここが『天国』だと思い込んでいたわたしは、早速混乱することとなった――はて、『天国』に雪が降るなどという逸話があっただろうか、と。
物理法則はいついかなるときでも仕事熱心だ。
『壁』を抜けた先でも、わたしの体は相変わらず宙を舞い続けていた。はたしてどこに着地するのかという段になって――ふと、周囲を見渡す。
まず見えたのは、日本の祭祀施設、神社の象徴である『鳥居』。加えて、そこから遥か下まで続く長い石段。
どうやらこのディオは、その石段に向かって落下していくようだった。
……いや、何を呑気に『落下していくようだった』などと構えているのだ。
今となればそんな指摘もできるが、折悪しくもこのときのわたしは、ここが『天国』だという実感が(全くの見当違いなのだが)いまいち湧かないまま放り出されたためか、何も手出しできず――実に素直に状況を受け入れたのだった。
不寛容な出来事に対して寛容になったところで、その先に待つのは不寛容でしかない。
そのまま、わたしの体は勢いよく石段に直撃し、跳ね上がる――それだけでは終わらず、その後も弾んでは落ち、落ちては弾みを繰り返して、転がり下がること約十回。
永遠にも思われた痛みの連鎖は、体が軌道を外れて近くの茂みに落下したことにより、なんとか終わりを迎えたのだった。
「う……ぐ……」
人間を超越した吸血鬼の肉体とて、ここまで連続して痛めつけられればそう
ここに至って、ようやくわたしは。
本当に、ようやく――ここが『天国』などではないということを思い知らされたのだった。
「…………ン?」
そのとき。
茂みの向こうから、何者かがわたしに近付いてきていることに気が付いた。
その何者かは、わたしの傍らで足を止め、こちらの様子を伺っているようであった――脳にダメージを受けたためか視界がぼやけており、生憎その容貌は把握できない。
「大丈夫? なんか物凄い音がしたから……」
その声色から、若い女のものだということが分かる――どうやら、先ほどの派手な『着地』の音を聞いて駆け付けてきたらしい。
それに、女がたった今発した言語は――確か、承太郎や
先ほどの『鳥居』といい……つまりここは日本ということか。
なぜエジプトから遠く離れた極東の島国に、このディオが送り込まれたのか――それについては追々考えることにして。
若い女……ちょうどいい。まさしくエネルギーの補給を考えていたところだ。
「女。このディオの『食料』にしてやろう」
わたしは痛みを堪えながら、女を手で強引に引き寄せ――文字通り『吸血』しようと試みた。
「うひゃっ! ちょっ、ちょっと、いきなりどうしたの!?」
突然のことに困惑し、じたばたと手足を振り回す女。
しかし、その程度の抵抗で獲物を逃すわたしではない――鬱陶しかったので髪を引っ掴み、直接そこから血液を吸収することにした。
ズキュン、ズキュン、ズキュン――と。
女を『食い物』にしたことは、当然一度や二度ではない。それこそ朝食のパンの如く――あまりに日常茶飯事で、今まで食った人数も覚えていない。
だが、食事の『喜び』――やはりそれは、生物に備わる原始的な欲求なのだ。
何かを食らうとき、満たされるのは食欲だけではない。他の存在を己の血肉とし、優位に立ったという事実――自覚しているか否かにかかわらず、それは十分に支配欲を満たしうる。
所詮この世は弱肉強食、強ければ生き弱ければ死ぬ――誰が言ったか知らないが、至言である。
ズキュン、ズキュン、ガブリ。
ズキュン、ガブリ、ガブリ――いや、待て。
食事をしているだけなのに。
腕を噛まれたような痛みを感じるというのは、一体どういうことだ。
「ちょっとやめてよー。 撫子の髪が――『神』が、傷んじゃうじゃない」
女のとぼけた声が耳に入る――この状況にまるでそぐわない、緊迫感の欠片もない声。
一方、わたしはといえば。
「こ……こんな! バカなッ! 頭痛がする、は……吐き気もだ……くっ……ぐう」
強烈なデジャヴ。
それとともに――突然の目眩や体温低下、呼吸困難といった悲惨な症状に見舞われていた。
どう考えても、栄養摂取中の生物に似つかわしくない反応である――何をしたのだ、この女。
薄れゆく意識の中、なんとかして『病因』を探ろうと、わたしは必死に目を凝らす。
きっと、あの『白髪』。女の髪に、何かしらの細工が――否。
よく見るとそれは、髪の毛ではなかった。
ギリシャ神話のメドゥーサを思わせる――
あろうことかわたしは、その『白蛇』どもを鷲掴みにし――報復とばかりに、無数の牙を突き立てられていたのだった。
「フハ……フハハハハ……」
もはや笑うしかない。
まさかずっと、栄養どころか――蛇毒を体内に取り入れていたとは。
食あたりもいいところだ。
「お兄さん、元気いいなぁ。何かいいことでもあったの?」
相変わらず、的外れな言葉を投げかける女――だかそれすらも滑稽に思える。
ああ、あったとも。
承太郎といい、あの『黒い壁』といい、そしてこの女といい――このディオの予想をここまで裏切ってくれるとは。
本当に――悪夢としては、なかなか面白かった。かなり大爆笑だ。
メドゥーサの姿を見た者は、恐怖のあまり石のように硬直してしまうと聞く。
だとすれば――このディオが最後まで石へと姿を変えなかったというのは、恐怖を克服した何よりの証拠なのだと、わたしは『安心』しながら意識を手放していったのだった。
『なでこザ・ワールド』、完。
『完』とキッパリ言ったばかりだったのに……スマンありゃウソだった。
ディオ様には申し訳ないですが、物語はさらに『先』に進めなくてはなりません。